オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

四十年前の・・・

2016-11-28 | Weblog

11/28(月) 先週金曜日の午後は池袋サンシャインで開催が始まった「ニッポン全国物産展」を覗き、知り合いの能勢酒造・桜川サイダーさんの店に寄り注文。それから出店の全国の産品を見て廻った。これといった物や、欲しいと思う品は少なかった。が、利尻昆布と徳島・板野郡の漬物だけを買った。

利尻昆布は出汁昆布の王様だ。師走、TUGAWAさん宅を訪問した際に「鮎飯」を作ると大言壮語したので、その時に備えて出汁を採るために買った。鰹節は、先般ニンベンで贖ったものがある。漬物の方は、板野郡上板町に先輩のOBOSHIさんが居られるので敬意を表した次第だ。

池袋から錦糸町へと移動。錦糸町のホテルで恒例開催の「関東大高知県人会」なる郷里の会に参加。出身町の関係者、出身高校の関係とかあって、可能な限り出席するようにしてきた。今回は、町長が初夏の選挙で交代し、初めて顔を合せた。町長・副町長に議会の副議長の三人が上京していた。

副議長の方は私の同級生の弟であり、何度も顔を合わせているが、町長・副町長とは初めて会った。とはいいながら、今や人口三千人をきった田舎町のことだ。何処かで繋がりがあるのだ・・・。話をしていると、ホテルは渋谷、挙句に「奈加野」に寄りたいとのことだった。居合せた在京・安田会NISHIOKA会長に予約をしてもらった。

県人会の方は例年どおり、よさこい踊りがあり、県出身のミュージシャンが出演し、福引があって、飲み食いしてお仕舞だ。何しろ参加者が多いので、てんやわんやなのだ。そんなことで、ひと足先に渋谷へと抜け出した。こうしないと、クロークで「わたし待っ~わ !」になるのだ。

「奈加野」の賑わい・大入り状況を久しぶりに目の当たりにした。つい先日の祝日には閑古鳥が鳴き、オヤジは泣いていたのが嘘のような賑わい!。予約を入れて貰ってよかった。待つこと暫し、総勢七名となり、奥の入り座に落ち着くことができた。生ビール・焼酎と飲りながら故郷の再生、活性について余計なことを口走るのであった。

加えて、オヤジが座り込んでああでもない、こうでもないと半惚け話を延々とするのだ。これじゃ時の過ぎ行く速さに夜も更けようと云うものだ。酔っ払ったら、口煩さにかけては負けちゃいねぇが・・・・。

と云う週末の夜であった。風邪の方も良くなったかと思いきや、これが駄目。咳・痰・洟垂れと、治っちゃいない。と云うより、夏場の台風のように、ひと回りして戻ってきやがったか・・・。そんな状態だったが、和風の朝食を作り缶ビールを一つ。

そして昼前に新橋へと出掛けた。新橋「美々卯」にて、三年ぶりに昔の上司・先輩方との懇談会である。事務所の移転を、当初はこの日に予定していた。が、一週間早めたのでゆっくり出席することができたのだ。

「四十年前」、二十代も最後の頃の職場。電気通信が独占・半官半民と云う時代のことだ。そりゃいい時代さ、過去りしものが全てそうであるよりも、更にいい時代であったのは間違いない。但し、これは時代と云う流れの緩やかさのことで、その流れの中でさえも厳しいことや難しいこと、大変なことは当然あったろう。

然し僕らが居たそこは、殊の外流れがゆったりとしていた。と、僕は思うのだが・・・・、世間知らず由へか ?。個人的な見地で云えば、楽をさせて貰っていた、楽をしていたんだな。その分、夜な夜な酒場で武者修行に励めたと云うことだが。

前置きが長くなったが、四十年前の課長を囲んでの会が三年ぶりにあったのだ。一口で課長と云うが、公社時代の本社の課長様だ。今の、各省庁の課長と同じ偉さですよ。三年前の米寿祝い、その数年前の叙勲祝いと、数年に一度の顔合せだが、年々参会者が少なくなるのは致し方ないか。大半が地方に、近郊の皆さんも高齢や病気、はたまた物故者も多くなっている。

土曜日に集まったのは総勢七名と淋しい限り。ながら、「来れる方が、来られればいいんじゃないですか」と、NAGAO元課長さんは喜んで下さった。元課長の近況、そして全員の近況。四十年前の思い出話と尽きない。

当時の課長補佐MORIさんは、リタイしてからネットで株取引を継続している。子息は某メガバンクの常務取締役とかである。そのMORIさんが、「ARIさんと、;北海道に出張したよな」と、昔話を。すかさず『オホーツクカントリークラブっていう、9ホールのゴルフ場でゴルフやりましたネ』とバラスも『あれは土曜日でしたよね』とフォローも忘れない。

当時の北見通信部長がMORIさんのかつての上司だった、そんなこともあって北海道の製紙工場視察後に北見に行った。それも、札幌であった通信部長会議後の、通信部長の車に同乗して延々と北見まで走ったのだ。助手席に座っていたけど、肩が凝ったのを今でも覚えている。

今、思いだしたが、帰りの便は当時あった東亜国内航空だった。その便にフライトしていたスチュアーデス(当時はそう呼んだのよ、CAと呼ばなかった)が、後輩と一緒になったEIKOちゃんだった。羽田到着前に、キャンディを袋一杯にお土産で貰ったのだ。

後日、MORIさんは、「スチュアーデスさんからお土産を貰った、と息子に自慢したんだ」と言っていた。羨ましがったその息子が、東大を出てメガバンクの常務と云うことか・・・・。四十年と云うのはアッと云う間ながら、結構長い年月なんだ。

さりげない中での息子や孫の自慢、大いに結構だ。そういう立派な子供達を育て、孫の成長を見守ってきたと云うことだ。他人の幸せと喜びは、我が喜びだ。豊かに老後を送れるだけの人生を、拓き歩んで来られた方々である。引き換え僕の場合は、ささやかに生きるのみだが。

幹事役のEGAWAさんが、際限もなく酒を頼む。NAGAOさんから大枚の御芳志を頂戴しているので、ドンドン使ちゃおうと云うことか?昼間からそんなに飲ましてどうすんのよ?と言いたいぐらい酒がでた。酔っちまったょ! 三時過ぎに散会となり、SHOUDA補佐(当時)とAOKI先輩の三人でお茶をして暫し休憩。帰宅は五時前であった。この間、ず~っと洟垂れがつづいた・・・。

日曜日、症状は前日と同じ。一日、部屋に垂れ込めることにした。やったことは一つ、夕方になって「出汁」を採って鮎飯を炊いた。TUGAWAさん訪問の練習である。沢山採った出汁は、冷凍にして保管し料理に使うのだ。

 

そして今朝、相変わらずスッキリしない風邪さんながら、弁当を作ることに。味付けロースカツを焼く。もう一つは「アスパラ&人参の豚バラ巻フライ」、そして「焼き鮭」と、シンプルな弁当である。何んの創造性もない、焼いて揚げて詰めて、お仕舞である。

                     

 

今週の後半は、オフィシャルの飲み会がつづく。前半でスッキリとしたいものだが・・・・・。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする