オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

相棒

2008-12-20 | Weblog
相棒のヒロさんと出会ったのは16~7年前になる。
故人となった、共通の知人の紹介による。
当時、僕はN社から出向しグループ会社の広告代理店の営業職についていた。

その日、銀座・泰明小学校の隣にある中華店で昼食を共にした。ヒロさんは、スーツ姿で固い表情をしていた。大した話や具体的な事が出るわけでなく、雑談をし、また会いましょうと別れた。(ランチはご馳走になった)

ヒロさんは、それまで既に、僕が在職する会社の製作部とは何度か一緒に仕事をしていた。そんな、こともあってか、その後何度か訪ねてくれたが、具体的な仕事に発展することは無かった。一度、築地のすし屋だか居酒屋か見分けのつかない小さな店で酒を飲んだ。ヒロさんは、コップ酒を5~6杯開けケロリとしていた。(このときも、ご馳走になった)

それから暫くして僕はN社に戻り、日比谷に勤務することとなった。意に沿わぬ転勤だった。心の整理が中々つかず、悶々とした日々を過ごした。
会社を辞めたいと切に思ったが、広告の仕事で食っていく自信が無かった。

グループの広告会社への出向は、自らが希望して行った。会社人として生きるのでなく、職業人としてこれからの人生を拓くために。それだけに、本社に戻ることによる喪失感は大きかった。
25歳の時に大きな挫折を味わって以来、そのときの何倍かのショックだった。自分の人生を、生き方を定めなくてはならない年齢での挫折に、なす術がなかった。

鬱々とした日々の中、ヒロさんは日比谷の会社を訪ねてくれた。

ヒロさんは、朴訥な話した方をする。間を置いた話をする。その間のあいだに、幾百・幾千の意味が込められている。その間、その間が僕の心を和ました。

少しづつ、仕事のことが話題になっていった。自分のやるべきことが、やりたいことが明らかになっていった。

毎日のように会う仲になった。僕は何時も聴く方だった、聞かせて貰った。僕が、口を開くのは、与太話や、混ぜ返し。

何時しか、一緒に仕事を重ねるようになった。ビデオ製作や情報誌発行、写真展の企画や冊子の製作等。仕事や酒場での姿を通じてヒロさんを少し分かってきたような気がした。

或る時、多摩の山あいにある「知的障害者施設」へ撮影に行った。演出家としてのヒロさんは、入所者と対等に生真面目に向き合う。撮影の合間、疲れていたヒロさんが施設の一間で少し横になってまどろんだ。

入所者の青年(20才前か)がその姿をみて「心配しなくていいんだよ、何か会ったら僕が教えてあげるから」と、心配そうにヒロさんに云った。どなん人達とも通じ合おうとする、分かり合いたいするヒロさんだから、青年は本当に心配をしたのだろう。

また或る夏の盛り、遠州灘で海亀の保護をしている団体の取材に訪れた。延々と続く砂浜、炎天の下で、その団体は孵化した亀の放流イベントの準備をしていた。
取材の僕たちも、団体のメンバーと共に海岸のごみ拾いを手伝う。

真夏の太陽に照り付けられ、暑い・熱い。30分ほどで、会場近辺のごみ拾いをお終いに
した。
ただ一人、ヒロさんはゴミを拾いつづける、砂浜に埋まったビニールや空き缶を掘り出し、何時までも、何処までも拾いつづける。

それは、ヒロさんの仕事にも共通する姿。追いつづける、煮詰める、探しに探す、考える・考えつづける、推敲を重ねる・重ねる。こだわる、こだわりつづけ、妥協を許さない。

そんな、ヒロさんを見ている、見てきたから、安心して仕事を委ねた。一緒に仕事をしたかった。器用とは思わない、シャープさは感じさせない、そこがまたヒロの好いところ。

そして、何時の頃からか、僕の相棒、僕が相棒と思ってきた。(この項は、また書く)
コメント
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