現代の日常から、被爆地長崎に暮らす人々の苦悩を、見つめなおす作品だ。
この地を舞台に、命と向き合う被爆者の苦悩は、どのようなものであったのか。
日向寺太郎監督は、多くの命が奪われた東日本大震災にも想いを馳せ、死についての映画を生についての映画として観せる。
大事故や災害で、家族や友人を失った人々は多い。
そんなことは当たり前のことだが、それを重く貴いものとして、この映画は紡がれる。
長崎在住の芥川賞作家青来有一の原作を得て、三世代にわたる人々の、記憶と現在の思いを丁寧に編み上げた、実に静かな作品である。
「私たちは、生まれる時代、国、場所を選ぶことはできない。
生まれた時、世界はすでにあり、私たちは、今まで生きてきた膨大な人々の末席にいる。
しかし、未来は私たちの現在によって作られる。」
日向寺監督は、この作品にその思いを込めた。
坂の上の団地に住む、大学3年生の門田清水(北乃きい)は、父母と平凡だが幸福な日々を過ごしていた。
ある朝、些細なことで母親と喧嘩をした。
その夜、家に帰ると、母親は心臓発作で死んでいた。
夕方電話を受けたのに、清水は出なかった。
あまりの突然の出来事に、清水はその死を受け入れられない。
一方、高森砂織(稲森いずみ)は、娘の沙耶香を失ってから一年がたとうとしていたが、哀しみからいまだに立ち直れずにいる。
砂織の実家は300年続くカトリックの家庭で、両親とも被爆者だった。
父母は、孫の死を「神の思し召し」と考え、試練を乗り越えようとしてきた。
ある日、砂織の妊娠が発覚する。
また子供を失うのではないかという恐怖と、生みたいという想いで、彼女は苦悩する。
砂織の夫はやり直そうといって彼女を励ますが、砂織は何故沙耶香を失ったのかという想いに、心が支配されていく。
やがて、清水と砂織は、浦上天主堂の近くで導かれるように出会った。
二人は、ともに大切な人を失くしたことを知り、お互いに欠けているものを求めあうように、心を通わせていくのだった・・・。
日向寺太郎監督の作品「爆心 長崎の空」は、母から娘へ、娘から母へ、その想いと生命(いのち)をつなぐ物語だ。
そいて、心身の傷痕を抱えながら生きる、ヒューマンドラマだ。
静かな日常が、ある日突然訪れた、家族の死という事件によって破られる。
沢山の命が失われた長崎爆心地周辺のこの街で、今を生きる人々がめぐり逢い、それぞれの過去を受け入れ、あたらしい一歩を踏み出す再生の日を迎えようとしている。
愛する存在と死別、それは残され者にとってこれほど悲しいものはない。
その悲しみは、癒えることのない深い傷痕となって、残された者の心に宿り、そこから立ち上がろうとする、もうひとつのドラマがある。
タカラガイを拾おうとして車に轢かれかけた砂織を、清水が偶然助けたことから始まった墓場での会話は、砂織は亡き娘の想いを、清水は亡き母への想いを語るところから、二人の間にほのかな共感が生まれる。
ここで交わされる二人の言葉は、二人の対話でありながら、また同時にそれぞれの愛する死者との対比でもある。
この作品の初稿が出来上がったころに、東日本大震災が起きて、長崎をテーマに映画の製作を考えていた日向寺監督は、長崎と福島、原爆と原発との共通項もあったかもしれないが、生死を分けて生き残った人、亡くなった人の分まで生きることの大切さを訴えたかったのではないか。
この作品は原爆を描いていても、それがこの作品のテーマではなく、いま長崎に生きる人々を描くことで、被爆地への記憶をたぐり寄せ、人生の別れから再生へと、人それぞれの想いを人生讃歌へとつなげるドラマに仕上げた。
昨日に続く今日は、また明日へとつながっていく。
まあ、もどかしいほどに静謐な、優しさに満ちた物語ではある・・・。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)