徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「真幸くあらば」―憎悪さえも愛の必死へ―

2010-01-10 07:15:00 | 映画

カンヌ映画祭グランプリを受賞した、「殯(もがり)の森」で主演を務めた尾野真千子が、この作品でヒロインを務めている
詩人・御徒町凧監が、小嵐九八郎の原作を得て手がけた、初映画作品だ。
タイトルの「真幸くあらば」は、万葉集巻第二の有間皇子のあの歌から引用されたものだ。

南木野淳(久保田将至)は、遊ぶ金欲しさに空き巣に入った家で、居合わせたカップルを衝動的に殺害してしまい、一審で死刑を宣告される。
だが、彼は検察と争うことなく、弁護士(佐野史郎)の提出した控訴を自ら取り下げ、そのまま死刑が確定する。

その彼に、クリスチャンの女性が突如面会に訪れる。
川原薫(尾野真千子)と名乗るその女性は、淳が殺した男性の婚約者だった。
彼が忍び込んで、殺人を犯したのは、その男性と別の女性との逢引の現場だったのだ。

婚約者を殺した憎むべき男であるとともに、婚約者の不実を暴き、それを裁いた男に、薫は強く惹かれていく。
そして、幼い頃から愛を知らずに育った淳も、薫によって生きる喜びを知り、ひとを愛する喜びに目覚めてゆく。

厳正な監視がつく面会室で、アクリルの板越しでしか会うことのできない二人・・・。
互いを求め合うようになった二人は、薫の差し入れる聖書に小さな文字で書き込みをし、それが二人の思いを伝え合う秘密の手紙のようになっていくのだった。

「磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む」
この歌は、謀反の咎で捕えられ、刑死を間近に控えた有間皇子が、祈りのように詠んだ歌とされる。
その哀切な調子と淡々としたリズムに、音楽のように織りなされた映像詩が、「死刑」という刻限を迎えようとするなかで、指一本触れることさえ許されぬ、絶望的な状況下での純愛を描いている。
これを、「脳内純愛」と呼ぶ人(学者)もいる。

奇跡のような究極の状況設定だが、死刑囚とヒロインの、極端に台詞の少ない、陰翳に富んだ演技は、まことに静謐である。
もっと、奥行きのある、精神的な苦悩と葛藤が描かれてもよかったのではないかという気がする。
いや、しかし、淡々、粛々と演じていることで、これはよいのかも知れない。
そんな風にも思えてくる。
女優の尾野真千子は、「演技」をしないでも、惻惻と心の襞を表現できる人らしく、デビュー時から一皮むけた成長を感じさせる。

映画の最終場面、満月の夜、月光に照らし出されるヒロインの裸身は、それ自身が渇望する愛の恍惚の塑像であり、一編の映像詩となる。
まだまだ期待できる新人監督、御徒町凧作品「真幸くあらば」は、互いに決して触れ得ない禁じられた愛を描いた、上質な小品といえそうだ。


年末年始テレビ狂騒曲(局)―愚かさもほどほどに―

2010-01-08 07:30:00 | 寸評

年末から年始にかけて、テレビ各局恒例の特番合戦が繰り広げられた。
この年末年始週というのは、12月28日から1月3日までだ。
全日、ゴールデン、プライムと、視聴率3冠を獲得したのは日テレだった。
同時に行われた年間視聴率では、フジの3冠V6だったそうだ。
ただし、これはあくまでも視聴率という化け物の話なのだ。
だから、まあそんなことはどうでもよろしい。

各局の番組は、旧態依然のバラエティ、いまや当たり前になったクイズ番組、各種再放送のオンパレードと、どうも相変わらずの視聴者不在で、作る方も見る方も民度おして知るべしだ。
こういうのを、電波の無駄遣いと言わずして何というのだろう。

お笑い番組は、若手芸人の使い回しみたいで、内容も首をかしげるようなひどいものも多かった。
テレビに映れば総芸能人で、彼らが視聴率争いを演じるのか。
晴れ姿の女子アナ、紋付きはかまの司会者・・・、どのチャンネルも似たりよったりだ。
ありきたりで、どこにも新味はない。

そんな番組ばかりが多い中で、箱根駅伝は見応えがあった。
毎年、そう思って見ている。
一年の始まりにふさわしい番組だ。
特に、往路最終区間の箱根の山登りは、下手なドラマ以上に迫力があった。
生きている、すがすがしいリアルタイムのドラマとして・・・。

それと、始まった頃は12時間ドラマだったが、今年は7時間ドラマになってしまった大型時代劇だ。
娯楽作品としても、これが結構楽しめる。
時代劇の少ない今のテレビで、貴重な番組と思える。
正月にもふさわしい。

しかし、テレビ各局が、視聴率争いにどんなに血眼になっても、いい番組は出来ない。
映画、バラエティなど、これでもかこれでもかとやっきになって放送し、すさまじいバトルである。
それでもなお、そうして登場した番組に、大人がジックリと楽しめる番組は皆無に等しい。
したがって、どうしてもテレビをという向きには、朝から晩まで、悪ガキ向けのドタバタ騒ぎに嫌でも付き合わせられることになる。
テレビ局は、気がついているのだろうか。

これが、いまのテレビの惨状(?!)だ。
作る側と見る側と・・・、まあどっちもどっちか。(苦笑)
凡百のつまらぬ番組でも、作れば視聴者はいるものだ。
だから、いつも同じことが繰り返される。
番組を制作するテレビ局の、不埒な情熱と怠惰が一緒くたになって・・・。
どうでもいいなどと、暢気なことを言ってはいられない。
解っていて、甘んじて見ている人間が賢いのか、それとも愚かなのか。
・・・何と、今年は早くも、一般家庭向けに、3Dテレビが登場するというではありませんか。


映画「黄金花―秘すれば花、死すれば蝶―」

2010-01-06 11:00:00 | 映画

常識と常套へ絶えず挑戦を続ける、木村威夫監督が91歳にして、大胆、奔放な映像舞台を作り上げた。
人は、誰もが夢を見たい。
人生の虚々、実々の果てに・・・。
人は、見果てぬ夢というか。

老人ホーム「浴陽荘」には、植物学者の牧草太郎博士(原田芳雄)をはじめ、物理学者、役者、自称映画女優、バーのママ、板前、質屋などなど、多くの孤独な老人たちが身を寄せている。
老人たちは、いつも死への恐れに打ち震えながら、彼らそれぞれが作り上げた物語の中で、嘘とも本当ともつかぬ、奇妙で不思議な(?!)日々を送っていた。

牧博士は、人生の大半を植物学の研究に費やし、遊びも、酒も、女も、俗世間のすべてを顧みずに生きてきた。
そうして迎えた80歳の誕生日、職員の青年と森に出かける。
その折り、青年の些細な嘘によって、小さな泉にたどりつき、光り輝く妖しい花・黄金花を見てしまった。

その日を境に、植物学に没頭するために、あえて封印したはずの青年時代の記憶の断片が、大きな波となって押し寄せてくるのだった。
留学生であった、若き恋人への切ない思いと永遠の別れ、戦後の混乱、学問への熱情と挫折、混沌と夢幻の中で易者老人の死に立会い、その夜、牧老人は誘われるように時の川を遡り、あの輝く時代へと旅に出る・・・。

人生100年の高齢化社会といわれる時代、元気があれば何だって出来る。
91歳の現役で、いまなお新たなる挑戦には頭が下がる。
人間誰しもが、確実に関わる老いの問題は切実だ。

作品は、実験的な色彩が強く、前後の繋がり、時間的無視といった、見事なまでにわがまま勝手な映画である。
在来の映画文法を、少しどころか無茶苦茶に壊して、どうにかフォルム主体の作品になった。
時空を超えた、魂のファンタジーと思わないと観ていられない。
木村威夫監督作品黄金花―秘すれば花、死すれば蝶は、それにしてもずいぶんと実力派の役者を揃えたものだ。
松坂慶子、三條美紀、松原千恵子、絵沢萌子、川津祐介、あがた森魚、長門裕之といった、個性派ぞろいだ。

生と死、明と暗、絶望と希望、静寂と喧騒、若さと老いを、混沌の上にもさらに混沌を重ね、ここまでの作品に仕立てた意欲は大いにかっても、そこまで。
晴れやかで、可笑しく、面白いものを目指したわりには、わがまま放題の作品だ。
やれやれと思いつつ、あまりにもひとりよがりの老監督のこの作品を観終わって、大きなため息が出た。

木村威夫監督は、こう言っている。
 「私はドラマツルギーをやろとしているんじゃない。フォルムをやろうとしているんだ。はっきり言って、ストーリー
 なんかどうでもいいんだ」と。
彼の書いたシナリオは、いたるところで「?」であったそうだ。
出演を快諾した俳優やスタッフは、シナリオを一読して、さまざまな「?」を打ち返したというではないか。
つまり、それほどの不可思議な要素を多様に含みながら、この監督の脳内に沸き立つイマジネーションを、映画の製作という現実に乗せざるを得なかったのだ。

「人間が描かれているわけではない。
この人間はどうなったのか。
この人間は、今までどうやって、何してきて、これからどうするのか。
それは、違うドラマがやればいい。
あたしは、そういうの、一切やりたくないの!」
木村監督は、撮影後のインタビューでこのようにも語っている。

映画作りは、そもそも定型なんてないのだ(?)ということだ。
当然、興行成績なんか度外視で、自身の一種の記念碑、メモワールとして残したかった。
そんな意図が十分だから、観る側にすれば、何だか嫌味にも思えてくる。
幸い(?・・・なんて、こんな言い方をすると、木村監督崇拝者の怒りをかうかもしれないが)、この映画、今回お代を払って観たわけではない。
映画を芸術ととらえて研究する人には、何か示唆を得るものが、かろうじてあるかも知れない。
・・・90歳を超えるおじいさんが、咲かなかった花を、何としても咲かせようとして作った曼陀羅か。


新しい年の初めに―頑張れ、日本!―

2010-01-03 09:15:00 | 雑感

新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

今年はどんな年になるだろうか。
民主党政権、本格突入だ。
通常国会は、早くも今月18日から開かれる。
当然、政局は年明けから波乱含みである。
政治の世界は、一寸先は闇だから、何が起きるかわからない。

予算案は、年度内に成立するのだろうか。
景気対策の二次補正予算とやらをまず通して、本予算の審議は2月上旬からだろうか。
民主党の小沢幹事長秘書の判決、鳩山偽装献金問題も追求される。

7月参院選では、単独過半数を取れなかったら、鳩山総理は、首相失格の烙印を押される。
もともと、リリーフで民主代表となった鳩山総理の任期は今年の9月までだ。
普通に考えれば、そのあとは無投票で再選の構図だ。
でも、小沢幹事長や小沢チルドレンが代表選を要求すれば、波乱を呼ぶ。
何たって、数を押さえている小沢幹事長の意向で、総理の座も危うい。

それに、沖縄普天間の問題が大きく立ちはだかっている。
県外、国外の移設に、鳩山総理はこだわっているが、候補地が見つからなかったら、追い詰められるばかりだ。
基地問題を先送りしてきた、鳩山政権の責任問題だって生じる。
一体何をやっているんだとばかりに、世論の怒りは頂点に達する。
そうなったら、即辞任しかない。

鳩山総理がまさかの退陣となったら、次の首相は誰がなるのか。
選挙に勝てる、首相でなければならない。
数名の閣僚や、小沢幹事長の名も候補に挙がっている。
代表選となったら、小沢幹事長の圧勝か。
しかし解散、総選挙をやらないで、首相の首をすげ替えれば、政権たらい回しで、政権交代前の内閣と同じだ。
民主党は、しっかりと解散、総選挙で、国民の信を問うべきだ。
え~っと、自民党っていう党は、まだあるんでしたっけ?
あっ、あるんです。そうだ、まだあるんですよね。まだ・・・。
ごめんなさい。妙なこと言っしまって・・・。

ただし、いまの自民党は脳死状態も同然だ。
自民党は、いまなお与党ボケだし、さすがに役人や大企業も離れはじめている。
大いなる危機感があることは、言うまでもない。

通常国会が召集されると、与野党激突の構図だ。
野党は、鳩山総理の偽装献金問題を徹底的に追及する構えだ。
さらに、普天間問題では、首相のブレを徹底的に攻めてくるだろう。
その間にも、連立野党の内輪もめ必死で、相当ギクシャクしてくる。
政局は、参院選に向かって、ますます混迷の度を深めていく。

多くの政界関係者は、夏の参院選で、民主党の単独過半数の確保を予想している。
そう簡単にいくだろうか。
いまの自民党のテイタラクを見ていると、民主圧勝、自民大敗を予想するのが自然だ。
07年の参院選で圧勝したくらいの雪崩現象が必要だが、そんな現象が果たして起きるだろうか。
それは、政権交代を実現させたいという思いが、世論に強くあったからで、あのときの勝利などは勝たせすぎたとの反動もある。
そう見ると、自民党が勝利する要素は皆無だが、民主党の単独過半数というのも難しいのではないか。

絶望的と言っていいのは、万年野党化しつつある(?)自民党と公明党だ。
自民、公明の支持者には申しわけないが、自民党はもはや消滅への道をたどるしかないのではなかろうか。

民主党政権支持率が、急落している。
鳩山総理のリーダーシップのなさ、政策に期待が持てないなど、国民の間に不安が高まりつつある。
有言実行を、強く望みたい。
ただ、政権交代で政治の風景は変わった。
しかし変わったといっても、根っこから変わったわけではない。
ここが問題だ。
完璧なる「チェンジ」は、そう簡単にはいかない。
「コンクリートから人へ」というが、これは総論であって、多くの国民は賛成なのに、各論となると反対なのだからややこしい。
地方分権で主権確立などと騒いでも、結局は国からの交付金に群がろうとするのが、地方自治の姿だ。

驚くべきは、マスコミが変わっていないことだ。
政権交代という新しい時代が来ても、新しい報道のありかたが確立されていない。
55年体制のままの感覚で、いまの政治状況を語るのは、どう考えてもおかしい。
それなのに、新聞もテレビも、そこから脱け出せないでいる。
やっていることは、自民党政権下での報道のままだからだ。
長年の‘洗脳’とは、かくも怖ろしいものなのだ。

米軍基地の問題で、辺野古以外をと言えば、「日米同盟の危機」と叫び、国民があんなに快哉を叫んだはずの事業仕分けは、「たった1時間の議論で何がわかるか」と難くせをつける。
この際、思い切った国債の発行こそ急務だと言えば、「国が破綻する」と喚きちらし、事務次官の記者会見中止にいたっては、「取材の自由が失われる」と拒絶反応を示す有様だ。

すべてが、自民党時代の癒着横行のまま、醜悪な現実だ。
要するに、何か新しいことをやろうとすれば、マスコミがケチをつける。
国民が希望、期待する「変化」を潰しているようなものだ。
こうなってくると、読者、視聴者、つまり国民が賢くなるしか、明るい未来なんてないということだ。

今年、国民の暮らしはどうなるか。
本当によくなるのだろうか。
政権交代から4ヶ月たらずである。
民主政権の本格突入は、まだほんの序章にすぎない。