徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

いまどき、謙虚な女優魂―尾野真千子の場合―

2010-01-16 20:00:01 | 雑感

原石は、磨かれてこそ輝く。
玉磨かざれば、光なし・・・。
1月10日のこのブログで、映画「真幸くあらば」の感想文を綴った。
映画の主演は、尾野真千子という女優さんだった。

その彼女について・・・。
先頃の朝日新聞(1月15日)の夕刊で、かなり大きくスペースを取った彼女の記事に接して、ほほう、なるほどなあと思った次第だ。
記者は、私と同じような思いで記事を書いたのではないかと、少し嬉しくなった。
観た作品のヒロインについて、着目した点がよく似ていたからだ。
私は、期待を込めて触れたつもりだったが、その人が新聞やテレビで話題に上るということは実にほほえましいし、好感をもった。
記者さんと着目するところが、あまり違っていなかったということもある・・・。
人は、観るところは観ているということか。

1997年、河瀬直美監督は、「萌の朱雀」で尾野真千子を起用した。
このときは、まだ奈良の山奥の中学生だったそうだ。
学校の下駄箱の掃除をしているところを、監督にスカウトされたのだった。
新聞の記事によると、山奥だったから、映画の世界なんて全く想像もつかなかったそうだ。

田舎育ちの、ダサい女の子が変身してあまり綺麗になったとかで、家族や周囲は驚いたそうで、現代版シンデレラといったところだろうか。
当の彼女は、「監督に言われるままに動いただけ」と、本人はあくまでも謙虚だ。
そこが、またいいところだ。
十数年後には、再び河瀬監督と組んで「殯(もがり)の森」で、あのカンヌ映画祭のグランプリ受賞となった。

自分に振り当てられた役作りに頭を悩ませ、人の気持ちになって理解するのには人一倍苦労するそうだ。
それを、ただあるがままに振舞うということで、リアリティのある演技につながる。
複雑きわまる人間の存在に対する、謙虚さなのだろう。
人間誰でも、この謙虚さが大切だ。
だから、複雑な難しい役をもこなせるということかもしれない。
難役をこなしてこそ、初めて一人前の女優なのだ。

「真幸くあらば」では、自分の婚約者を殺した死刑囚を愛してしまう難しい役どころだ。
これが、あるがままに自然なのだ。
自分では役作りは苦手だといいながら、なかなかのものである。

演技なんて、そうそう計算ずくで出来るものではない。
様々な気持ちや感情を総動員して、自分の中でそれらが交錯し、融合しあったときに自然と生まれてくるものだという。
人間の気持ちは、自分でも解らないものだから、それを表現することの困難さはおして知るべしだ。

これからも、難役に挑戦し続ける尾野真千子の成長が、ますます楽しみな女優だ。
主演作が、川口浩史監督「トロッコ」、一尾直樹監督「心中天使」と続き、3月には芸術祭大賞の主演ドラマ「火の魚」(NHK)が放送予定だ。