以前、本欄で触れたことがある。
またいま、くどいようで恐縮・・・。
バスの車内での女性の化粧、あれのことだ。
はっきり言って、この頃、一部女性の間で定着(?)しつつあるようにさえ見受ける。
見ていて、決していいものではない。
日頃、バスを利用する機会が多いので・・・。
車内で、いろいろな光景を目にする。
なかでも、最たるものは、禁止されている携帯メールと、女性の化粧だ。
女性の化粧は、年齢を問わず、毎日のようにお目にかかる。
手鏡や化粧品を取り出し、人前でも平気で堂々とおめかしが始まる。
いやでも目に入るこの光景に、いつもうんざりしている。
もう、どうにかしてほしい。
公に、車中で禁止されている行為ではない。
当の本人は、何らいけないことをしているわけではない。
他人に迷惑をかけるでもない。
だから、人から批難される筋合いはない。
そんな感じだろうか。
だから、困るのだ。
先日のことだ。
バスの車内に、案の定いつも化粧している常連(!)の若い女性がいた。
そのすぐそばで、二人連れの中年女性がそれを見て交わしている会話が聞こえてきた。
「ねえ、見て!私たちには出来ないわね」
「最近の若い子は平気なのね」
「大胆というか・・・」
「でも、もう今はね、あんなこと当たり前になってるのよ」
「あなたは、気にならないの?」
「別に、気にもしないわ、気にしてどうするの」
そう言ってから、連れの女性に向かって、
「私たちの頃は、とやかくいろいろ言われたわ。人前で化粧なんてするなとか、女の身だしなみがどうだと
かね」
「・・・でしょう?」
「今は、時代が違うのよ。この忙しい時代に、家で化粧する時間もないっていうこともあるのよ」
「だからって・・・、いやだなぁ、あたし」
「何を言ってるの。ちょっとの時間、バスのなかで化粧するくらいどうってことないわ」
「・・・でも、ほめられたマナーじゃないわね。よくないわ」
すると、もうひとりの女性はムッとした顔つきで、口を尖らせ、強い口調でこう言った。
「それは、主観の違いね。わかってないわね。時代は変わったのよ!」
「・・・」
「マナー、マナーと言うけど、マナーも時代とともに変わっていくのよ」
「そうかしら?私は、そうは思わないけどな」
「今は自由な世の中なのよ。最近何かとマナー、マナーってうるさすぎるのよ。変わっていくの!変わって
ね!」
「・・・!」
いやはや、時代とともに変り行く・・・、ですか。(?!)
そんな風だと、そのうち乗り物の中で、あちらでもこちらでも女性たちが平然と化粧をするようになるかも。
そうなったら、それこそ、壮観(!?)だろうな、なんて・・・。
いやぁ、誰が、そんな姿をよしとするのか。
大和撫子といわれた日本女性は、平安の昔、いやもっと古(いにしえ)の時代から、美しい身だしなみを、身上としていたのではないのですか。
ちなみに、マナーとは、国語辞典によれば、態度、礼儀作法、風習の総称だそうで・・・。
こんなわかりきったこと、言うまでもない。
娘を持つ、世の日本の母親たちは、どう思うだろうか。
話題の「事業仕分け」に対して、学会の反発が波紋を投げかけている。
ノーベル賞受賞者までが、こぞって異を唱えている。
学者たちの反発が、連鎖反応を起こしている。
科学技術の進歩を阻害する。
国家の土台を揺るがしかねない。
国家の存亡にかかわる。
学術文化の喪失である。
事業仕分けは、科学技術立国と逆方向だ。
・・・などと、ざっとこんな具合だ。
すさまじい意見表明が、学会や会見などで相次いでいる。
ノーベル賞受賞者らの、意見に賛同するネット署名は1万2000件を超えたそうだ。
恐るべきかな・・・、である。
予算を削られると、研究を予定通り継続できなくなるし、専門的な内容や意義が、一般によく理解されないという思惑がある。
世界一になるには、二位では駄目だというではないか。
科学の必要性は、誰しもが認めるところだ。
仕分け側は、科学を否定しているわけではない。
予算の使い方や、組織のあり方など、学術、科学の分野にわかりにくい側面が有ることも確かだ。
ノーベル賞受賞者らの下には、多くの学究、助教、大学院生ら若手の、日夜たゆまぬ研究、研鑽があってこそ、素晴らしい論文が発表され、世界が認める成果を上げていることも事実だ。
学者も、上から目線ではなく、国民と対話する双方向のコミュニケーションは大切な課題だろう。
そうでないと、どちらも‘一方通行’になり、相互の理解は難しい。
お金の使い方にも、不透明な部分が多い。
国民、納税者の共感を得られるよう、もっと努力する試みが必要だ。
ただ、科学技術だから予算を減らすなでは、納得が出来ない。
学会側にも、この機会に、どう考え、どう行動すべきか、国や政党ともよく話し合うべきだし、仕分け側を科学者側が誤解している面がないか、といったような議論、シンポジウムが今後も盛んに交わされる必要がありそうだ。
いずれにしても、一般市民を交えて、もっとコミュニケーションが必要だ。
ノーベル賞受賞者の異論まで飛び出して、何かと取りざたされているが、巷からは、ノーベル賞がそんなに偉いのかといった声も聞かれる。
もちろん、ノーベル賞には一にも二にも大いなる敬意を表するが、受賞者でなくても偉い人はいる。
受賞者だけが偉いのではない。
余談だが、ノーベル賞といえば、このところの世界的な金融危機のあおりを受けて、賞金が引き下げられることになるらしい。
何でも、今年は約15億円の費用がかかるらしいが、市場低迷の影響で、投資にまわしている資産がどんどん目減り(5分の4まで)して、穴埋めもままならないというのだ。
ノーベル賞の賞金は、時代とともに増えてきており、もはや引き下げは避けられなくなってきたのだ。
もし、穴埋めができなくなったらどうなるのか。
えっ、そんな余計な心配は、無用?!
へぇ。
古いテレビが映らなくなったら、どうしますか・・・?
多分、いやおそらく、ほとんどの人は、きっと新しい地デジに切り換えることだろう。
ところが、そうはしないという人がいる。いるんです。
長年使ってきた、古びたブラウン管テレビが壊れてしまい、いよいよ映らなくなってしまった。
ところが、この機会(?)に、もうテレビなんか要らないという人がいるのだ。
その分、ラジオで十分だと言うのだ。
ラジオは結構楽しいし、生活に役立つ情報や話が一杯だというではないか。
これは、確かに事実だ。
だから、地デジなんかも要らない、思い切ってテレビよさようならだというのだ。
本当かと思ったら、どうやら本当らしい。
さらに、ある新聞の投稿記事欄では、同じような意見を述べている、中年夫婦の記事が掲載されているではないか。
「テレビ?そんなもの、なければないでいいよ。何も不自由はしないよ」
う~む、そうか、この話にも一理あると思った。
大分前のことだが、民間から皇室へ嫁入りした、どことなく気品のある(?)あの方の家には、テレビがなかったそうだ。
確か、学習院大学の教授をしていた、その方のお父君の嘘偽りのない、言葉である。
「ウチには、テレビはありません」と、あのとき記者に答えていた。
へえ~っと思い、意外な気がしたものだが、まてよそれもあるかなと・・・。
それは、もしかすると、テレビはあってもほとんど見ていないということを、そのように極端に表現したのかも知れないけれど・・・。
もしそうだとすれば、裏を返せば、見るべき番組もないということにつながるのではないか。
テレビはあっても、無きが如しと・・・。
う~む、いやぁ、本当にあの方の家には、テレビはやっぱりなかったのではないか。
んで、まぁ、そんなことは、どうでもよろし!
どうも、最近のテレビは、ネタ切れというか、息切れというか、良質な番組が少なくなったような気がする。
おそらくそう感じている人は、多いのではないか。
ごくたまに、本当にたまに、いいドラマにお目にかかることはあっても、魅力ある大人のドラマはぐっと少ないし、歌やバラエティ番組にもあきてしまったという声をよく聞く。
事件もの、どうでもいいタレントの結婚、離婚、スキャンダル騒ぎを各局競作で、どこの局もいっしょだ。
そうでなければ、古いドラマの再放送かおなじみの旅番組で、まずくてもああ美味しい、すばらしいの、ひたすらよいしょよいしょで、これにはもう辟易、お手上げだ。
お笑い番組にしても、決して全部が全部とは言わないが、まるでプロとは思えぬ学芸会がヤタラと多く(?)、限りある電波の無駄使いに見えてならない。
それに便乗するスポンサーも・・・。
ワイドショーは、これはと思ったドキュメンタリーさえもが、局のヤラセだったりで、危ない危ない!
一体、どうなってるのと言いたい。
ニュースだけなら、ラジオでも結構役に立つ。
(あのね、もっとも、このニュースってやつが、大したくせものなんで、何がって、とにかく政府、官僚寄りで、公正中立の報道かどうかは、大いに問題があるっていうわけなんだ。大新聞だって、おんなじだよね。だから、なおのこと始末におえないのだ。)
そう、昔は、テレビなんてなかった。ラジオしかなかった。
いまのラジオは、心を癒してくれる番組もあるし、おやっと思うような情報もあったりで、この際ラジオを見直す、いい機会なのかもしれない。
「うちでは、テレビってほとんど見ないわよ」と言う人が、実際にいるのだ。
人の世は進化すると、確かに、いろいろと限りなく便利になる。
いま、そんな時代の豊かさを良しとしない人たちも、ちらほらと・・・。
だからといって、別に不思議でもなんでもない。
礼儀やしつけを重んじる家庭では、食事をしながらテレビを見ることは、行儀が悪いとしてうるさく禁じているところもある。
同じように、新聞を読みながら、食事をするお父さんもいる。
忙しい時代とはいえ、本当はあまり感心できることではない。
幼い子供への影響も・・・。
食事って、家族で話し合いながら時を過ごす、貴重なコミュニケーションの時間のはずだからだ。
といって、たった一人での食事というのも・・・。
相手のいない食事では、テレビに頼らなければならないか。
いや、いや・・・。
分かる気はする。
しかし、毎日地デジ、地デジで、いい加減もううんざりですね。
何ですか、鳩山総理の家はまだ地デジではないと、ご自分で言っていました。
ひょっとして、総務大臣から、何か言われていませんか。
大手の家電売り場をのぞいてみると、地デジの売り場がたいそうにぎわっているようだ。
第一、販売員が張り切ってる!
いまが、売り時とばかりに・・・?!
この際古いテレビを地デジに買い換える人、買い換えをしない決断をする人、この世は様々、人もいろいろ、人生もいろいろだ。
デフレの世の中にあって、家電販売店だけは、笑いが止まらない・・・?!
でも、よく考えよう。
いや、考えたって仕方がないか。もう、決まっていることなのだから。
決めたのは、国家だ!
世の中の流れには逆らえない?!
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
いや、関係ないか。
ない。ない。
マンションの共用部分に入って、チラシなどの広告を投函したりすると、罰則が待っているというわけだ。
しかも、逮捕され、拘束されて23日間も‘幽閉’の身となった上でのことである。
オートロックのないマンションに玄関から入って、ドアポストに共産党のチラシを入れて回っているところを、住民が見咎め、通報したのだった。
確かに、「広告などの投函は禁止」との張り紙はあった。
この種の行為が、だからといって即住居侵入罪になるという社会通念を、誰もが持ち合わせているだろうか。
一審は無罪だったが、二審は逆転有罪となったから、被告にされた62歳の住職は最高裁に上告したのだ。
憲法にも、表現の自由がうたわれている。
でも、その手段が他人の権利を不当に害してはならないとして、最高裁は違憲とはならないと断じた。
警察や検察は、当然のことをしたまでだというのだろうか。
・・・政治色があろうとなかろうと、表現の自由は保障されてしかるべきものだ。
宅配ピザや、不動産をはじめ商用のチラシは、毎日のように放り込まれているではないか。
あれはよくて、これはいけないのかということになる。
・・・ビラを配るだけで、逮捕され、刑事罰を受けるとは・・・。
逮捕、拘束などしなくても、話し合いなどで解決の道はなかったのだろうか。
ビラを配る人は、住民や管理人の承諾をいちいち得なければ、いつも逮捕の対象になりかねない。
基本的人権にもかかわる問題で、看過できない。
「他人の家に無断で侵入する」ことは、もちろん許されることではないだろう。
しかし、家々のポストにチラシを投入すること自体(ポスティング)が、日常的に行われている昨今、情報の発信、受諾の自由な権利と照らし合わせて、最高裁の判決は、明確な憲法判断を示したとは思えず、釈然としないし、合点がいかない。
どうも、息苦しい社会になってきた。
新政権の浮沈をかけて、行政刷新会議の「事業仕分け」が注目を浴びている。
政治家、民間人たち仕分け人は、連日、各省庁の‘聖域’に勇ましく踏み込み、「廃止」「見直し」の連発である。
頼もしくもあり、世論の関心だって、いやがうえにも高まるというものだ。
だが、役所側は「あまりにも荒っぽい」「まるで公開処刑だ」と、反発している。
制度上の問題もいろいろとあろうが、一般有識者や国民の評判はすこぶるよい。
こんなことが、自民党政権下で何故出来なかったのか。
不思議でならない。
これを見て、自民党の参院幹事長は何と言ったか。
「皆勝手に言いたいことを言っている。こらおもろいわな。新鮮に映る。非常にヒットしている」
どうだ。こう言って褒めちぎったのだ。
おまけにたいそう残念がって、「なんで自民党のときにせなんだか」と言ってぼやいていたそうな・・・。
現在、第一段階の仕分けが終わって、第二段階に入ろうとしている。
無駄とか不要不急の予算は、結構出てくるものだ。
それを何とか切り込むのが、新政権の義務であり、国民の期待感もそこにある。
鳩山総理は、「聖域なき見直し」を盛んに主張しているが・・・。
確かに、1時間程度の審議で、事業をバッサリ切ってしまうことや、法的権限を持たない民間仕分け人への疑問がないわけではない。
仕分け結果に対する巻き返しも、当然出てくるだろう。
現に、早速ホームページなどで、つるし上げにさらされた官僚たちの不満をぶちまけている!
しかし、なんと言ったって、歳出カットや埋蔵金の活用で、総額1兆円規模の財源確保にいたったのだ。
この事業仕分けは、国民の予算や事業に対する関心をひきつけた。
もろもろの危うさはあるにしても、予算編成の過程を公開する事業仕分けが、これだけ関心を呼べば成功だ。
賞賛の声もあがっている。
広く公開された場で、誰もが自由に見られるのだ。
画期的なことではないか。
自民党は悔しがっている。
何だかんだ言いながら、切り捨てる民主党を見て、実に羨ましくて仕方がないのではないか。
たとえ、削減理由がきちんと説明されていないとか、やり方がただのパフォーマンスだと言われようが、民主党はやるべきことをやればいい。
こういうときの、自民幹部のぼやきは何だかネチネチしていて、いただけない。
困った問題もある。
事業仕分け人に、‘反抗的な’大臣だっていないわけではないからだ。
仕分けの現場を見て、怒りにふるえた大臣がいる。
そんなことだと、自民党時代と一緒になってしまわないか。
行政刷新会議(自民党時代は財務省)が予算を削ろうとして、各省庁、大臣(同=役人、族議員)が抵抗する構図になる。
たとえばこうだ。
関西に伊丹、関空、神戸と三つの空港があって、客を奪い合っている。
行政刷新会議は、三空港のあり方を見直すまでは、関空への補給金の凍結を打ち出したが、こんな当然の決定にも国交相は否定的だ。
仕分け人に反抗的なのだ。
そんなことで、今後どうなっちゃうの?
大臣と刷新会議(仕分け人)は、同じチームでなければならないのに、いつのまにか対立してしまっている。
そうなると、仕分け作業は変てこなものに見えてくる。
くれぐれも、いつのまにか自民党政権と同じ構図にならないように願いたいものだ。
忘れないでもらいたい。
俎上に上がった予算は、すべて私たちの血税なのだ。
「二次喫煙」までは、耳慣れた言葉ですが、「三次喫煙」となるとどうでしょうか。
喫煙者の紫煙を、直接吸い込まなくても、「受動喫煙のキケン」があるということです。
それが、忘れてはいけない「三次喫煙」ですよね。
たとえば、前の日に、誰かがタバコを吸った部屋に入ると、カーペットやカーテン、その他調度品類の表面にくっついている、タバコの発ガン性物質を吸い込むことになって、とても有害だということなんですが・・・。
どの位の人に、この認識があるでしょうか。
その部屋の空気を吸うことで、健康被害を及ぼすキケンが大いにあるというわけです。
とくに、乳幼児のいる家庭では、要注意です。
「受動喫煙」というのは、車のウィンドウをちょっと開けて、タバコの煙を逃したり、子どもを外に連れ出し、その間に家の中にいて吸うという「配慮」をしてもなおダメということで、要するに、喫煙の習慣そのものをおやめなさいということのようです。
タバコの煙には、猛毒物質(ブタン、鉛、砒素、シアン化水素、それにポロニウムとかいう放射性物質まで)が結構あって、それを聞いただけでも怖い話です。
このことは、ハーバード大学医学部のグループが発表しています。
「三次喫煙」(残留受動喫煙)については、日本のメディアもほとんど取り上げていないのが実情です。
「三次喫煙」に要注意、侮ることなかれです。
会社の帰りにパチンコをやって、そのまま帰ってきたサラリーマンのスーツには、嫌な臭いと、有害物質がいっぱいしみこんでいることになります。
喫茶店や居酒屋だって同じでしょう。
もちろん、会社の喫煙室だって・・・。
それを、家庭に毎日持ち込んだりしているのでは・・・?
自分は喫煙しないから大丈夫だなどと、安心してはいられません。
家に帰るや、出迎えに飛び出してきた、可愛い坊ややお嬢ちゃんを玄関先で抱き上げる、マイホームパパちゃまがいますけれど、そうしたスキンシップは禁物(!)ですねえ。
ところで、タバコの税金を大幅に上げてはどうか、そんな議論が始まっています。
健康問題を考えて(!?)のことだそうです。
タバコは、肺ガンばかりでなく、さまざまな病気を引き起こすといわれています。
喫煙する本人はもちろん、周囲の人の健康、とりわけ子どもへの影響が心配ですね。
鳩山総理も、環境や人間の身体の面から、「増税ありうべしかなと思う」と言いました。
日本人の喫煙率は非常に高く、喫煙天国とまでいわれています。
タバコの値段が安いということにも、一因があるようです。
20本入りのタバコ1箱で、英国で約850円、フランスで550円といいますから、それと比べれば、日本の300円はいかにも安い。
300円のうち、174円余りが税金だそうでして・・・。
喫煙率を下げるためには、価格を上げることだという意見があります。
この論理が、まかり通っているようです。
人々が健康になることを考えると、タバコの消費が減っても、タバコによる病気の治療費などがおさえられることになり、はるかに得られるものは大きいとされるのです。
喫煙者の8割は、現に禁煙を望んでいるそうです。
価格を、600円から段階的に上げる案も検討されているらしい。
本当の効果を考えたら、もっと高くてもという意見だってあるのです。
その昔、日本では種子島銃を伝えたポルトガル人らによって、タバコは広められたといわれています。
慶長年間には、全国各地でタバコの栽培が行われ、喫煙の風習が広まって今日に至ったといわれます。
それがよかったのか、悪かったのか。
日本たばこ産業(JT)の大株主は、いわずと知れた日本政府です。
いっそ、株を売却してしまったら、その財源が国民の生活を少しは潤し、国民の健康対策の一助になる(?!)なんてことには、ならないのでありましょうか。
どう転んでも、タバコには、褒められるような、よい話はないようで・・・。
たかがタバコ、されどタバコ・・・。
枯葉を風が舞い散らし、北国からは相次いで雪の便りである。
今朝の冷え込みは、厳しかった・・・。
そんな中、鳩山政権の誕生で、日本の政治が大きく変わろうとしている。
国会は、先週の与野党の代表質問に続いて、今週からは衆院予算委員会が幕を開けた。
議場をざっと見ただけでも、本会議も予算委員会も、前政権時代とは風景ががらっと変わった。
国会が新鮮で、熱気があり、真剣さがある。
下手なドラマより、生きている政治が数段面白い。
明治維新以来の大変革が始まったばかりだ。
自民党は、これまでデタラメ腐敗政治で日本をメチャメチャにしておきながら、いまだに総括も反省もしていない。
自民党は、自分たちのしてきたことは棚に上げ、鳩山総理の政治資金問題など、不毛な(?)疑惑追及に時間を割こうとしていた。
代表質問では、自民党の谷垣総裁が、民主党政権の矛盾を突く一幕もあったが、鳩山総理の返す言葉ですべてが吹っ飛んだ。
「あなた方に言われたくない」・・・
民主党は、自民政権のこれまでの悪政から噴出した、ツケの処理に追われているのだ。気の毒なくらいだ。
鳩山総理のこの答弁は少し気になったが、予算委員会の席上で、案の定自民党の加藤紘一氏が、「総理のいう言葉ではない」と苦言を呈した。
鳩山総理は、「つい反射的に出た言葉で不信感を与えたことを遺憾に思う」と、素直に頭を下げた。
いまや野党自民党にとって、質問力を練磨することは必須の課題となった。
国民期待(?)の「行政刷新会議」はどうしたのか。
来年度予算案に切り込む「事業仕分け人」の人選でつまずき、スタート直後から会議は空転した。
当初32人体制が、小沢幹事長の一声で、議員7人の小所帯に縮められた。
これで何が出来るかというわけで、多数の民間人を起用することになった。
かくして、仕分け人の仕分けは出来たらしい。
そもそも、1ヶ月やそこらで事業仕分けを終えようという発想は、とても無理だそうだ。
1年間毎日休まず予算書類と格闘しても、役人の隠したムダをすべて洗い出すのは困難だ。
仕分け作業を着実に進めながら、同時に予算編成の作業をやるのが現実的だと、専門家は言っている。
新人議員を「事業仕分け人」から除外したことは、理解できぬことではない。
でも、ただ選挙だけやればよいというのでは、議員の質の向上は望めない。
国会議員になったのだから、政治家として、政策作りにだって携われるシステムが必要だし、こんなことで、育つべき新人がヤル気をなくさなければよいのだが・・・。
予算のムダは、本当に削ることが出来るのか。
仙石行政刷新相はどうしたのだ。
鳩山総理は、人選の甘さに気づかなかったのか。
百花争鳴・・・、閣僚たちの秋はにぎやかである。
総理、外相、防衛相の三者がギクシャクしている普天間移設問題、JAL問題で迷走を続ける前原国交相・・・、どれもこれも山積する喫緊の難問を抱えて、鳩山政権は毎日が時間との闘いだ。
景気対策も出てこない。
国家戦略室といったって、組織の法制化に必要な法案すらまだ出てこない状況だ。
この混乱状態は怠慢ではないのか。
百年に一度の政権交代を成し遂げて、よもや鳩山内閣は支離滅裂になっているのか。
期待が大きいだけに、不安も隠せない。
共同通信の世論調査では、内閣支持率61.8%と9月中旬の発足当初から10.2ポイント下落した。
それでも、民意は鳩山政権を後押ししている
また、マニフェストの一部修正については、68%が賛成だった。
いずれも、依然高い支持率だ。
鳩山内閣の閣僚は、政権の経験がないのによくやっている。
方針は間違っていないのに、右往左往している。
国民は、民主党に圧倒的多数の票を与え、大改革にゴーサインを出したのだ。
臨時国会は、会期の幅を十分とってマニフェスト関連の法案を審議すべきだろう。
国家戦略局の実現も急ぐべきだ。
法制化を来年の通常国会に持ち越すなどは、もってのほかだ。
そんなことをしていると、国民の理解は得られなくなる。
子供手当てや、ガソリン税の暫定税率も先延ばしする必要はない。
この国会で審議して、成立させられないものか。
そうしないと、世論の支持率は下がり、鳩山政権への期待はしぼんでしまうことになる。
ヤルときはびしびしヤラないと、閉塞感だけが、国中に充満していく・・・。
鳩山政権への期待は大きい。
国会の場で堂々と審議をし、議員は国会で鍛えられなければ、政権担当能力なんて磨かれない。
実践勝負だ。誰だって、最初は初めてだ。
民主党よ、はたして大丈夫なのか。
もたもたしていると、万年野党に逆戻りだ。
現実政治は、ママごとであってはならない。
真剣勝負だ。
いま、政治は拙速ではいけない。もちろん巧遅でもいけない。
それこそ、多くのことが喫緊である。
理想と現実の狭間でもがき続ける日々から、政権交代をまのあたりに実感できるその日まで・・・。
希望的観測だが、少しづつだけれど、変わりつつあるように見える。
予算委員会の審議も、自民政権時代の国会とは様変わりした。
秘書官が、総理や閣僚の背後から助言をしたり、メモや資料を差し入れたりする場面は見られなくなった。
それだけでも、ささやかな一歩だ。
今回の新型ワクチンの対象者は、約5400万人といわれる。
当面2回接種が前提で、医療従事者、妊婦、幼児を優先し、一般社会人、高齢者は来年からで、それとても全員には行き渡らないそうだ。
このことが、ドタバタに紛れて、一部専門家の間でささやかれているような、数千万人規模の‘人体実験’にならなければいいのだが、その懸念もないではない。
新型ワクチンは、インフルエンザの重症化を防ぐ効果も、感染そのものを防ぐ効果も、まだまだそれらを明確に裏付けるデータは存在しないというではないか。
疫学者の間では、「インフルエンザワクチンは効かない」が常識になっているそうだ。
インフルエンザウイルスは変異が早く、ワクチンを接種して身体に抗体が出来ても、感染や発症は防げないとなると・・・。
厚労省の、「ワクチン接種で重症化の割合が下がる」なんて言っている、説明自体あやしいのだ。
1962年に、小学、中学生に集団接種が始まったとき、重度マヒなどの副作用が相次いで報告され、社会問題化した。
群馬県前橋市のある医師会のリポートでも、ワクチンに効果なしとして、94年から予防接種法の対象外だそうだ。
とにかく、疑問だらけだ。
それなのに、何故いまワクチンなのか。
かつて90年代に、「インフルエンザは風邪じゃない」というポスターが保健所に貼られたことがあって、国民の危機感をあおった。
それで、需要が増えた。
‘産官連携’で、‘儲かる’ワクチン接種を止めたくなかったのではないかと、まことしやかにささやかれているのだ。
新型ワクチンをめぐっては、甲論乙駁、きちんとした臨床試験をしないで接種すれば、どんな副作用が出るかわからない。
輸入ワクチンといえども、論外ではない。
これは、半ば見切り発車だ。
薬害エイズや薬害肝炎など、過去の医療事故の構図が、脳裏をよぎる。
新型の国産ワクチンについて、厚労省は、今月、治験者のうちの約半数に、軽度の副作用があったとする結果を公表しているのだ。(!)
そのなかには、急なアレルギーショックなども確認されているし、今回も、医療従事者2万人について、副作用の発生頻度などについて調べる方針だ。
間違いなく、ワクチンは安全なのか?
もしかりに重大な副作用が出たら、その責任は誰が負うのだろうか。
ワクチンの値段も、1人分6150円だとか・・・。
高いですよねえ。
ワクチンの原価は、注射器などの実費、注射技術料などを入れると、1人分800円位~1000円位だそうで、これに初診料2700円が加えられるらしい。
それも1回の接種で、料金2000円のクリニックから4000円前後の病院まで、バラつきが多いと聞いた。
インフルエンザワクチンには、品質の差などはないと言われているのに、病院によってこうも違うとはどういうことか。
ワクチンの接種には、たとえば子供数人とお年寄りのいる家庭では、おじいさんが家計に気を使って、ワクチンをあきらめる家もある。
国が、ワクチンが、唯一インフルエンザの予防法というのなら、大阪市の市長さんも進言しているように、全国の接種をいっそ無料にすべきではないだろうか。
国民の命を守るというのなら、こんなときにこそ財政出動が必要だ。
人の弱みにつけこんで、ワクチンで大儲けをたくらんでいるのは、一体誰なのか?
それにしても、何やら拙速なワクチン接種の怖さも感じられて、どうしてもこれは、大規模な人体実験のようにも思えてきてしまうのだ。
本当に安全なのか。本当に効くのか。
自分にとって必要かどうか。
よく考えたいものだ。
疫学専門家も、そう言って警鐘を鳴らしている。
個人個人で、まずは新型インフルエンザにかからないように留意して、日ごろから自衛と工夫をすることが一番のようだ。
それでも、インフルエンザにかかってしまうこともあろうから厄介だ。
高いお金を払って、だからワクチン接種を安心だと過信するのは禁物だ。
民主政権に変わって、革命的な‘改革’が進行(?)している。
少なくとも、自民政権のときよりは、まだ若い溌剌とした、新しい大臣たちがよく頑張っている。
よく勉強し、努力し、公約の実現に向かって一生懸命だ。
そういう印象を受ける。
しかし、政権担当能力となるとまだ未知数だし、とても十分だとは思えない。
マニフェストから、後退しているようなことはないか。
「子ども手当て」「高校無償化」など、26日からの臨時国会には、法案の提出が間に合わないといわれている。
こんなことで、来年度からの実施ができるのだろうか。
期待が、裏切られることにはならないだろうか。
少し、心配になってきた。
悪評高い、後期高齢者医療制度の廃止についても、どうやら先延ばしになるらしい。
マニフェストの実現でもたもたせずに、一日でも早く実行あるのみではないか。
どうしたのか。
結果が出て、はじめて国民は納得する。
いまでも、70%の世論の支持があるのだから、頑張れ!と言いたい。
補正予算のカットも、着々と進んでいるようだ。
でもまだ八合目で、もう一押しが必要なところに来ている。
何しろ、自民党の汚い焦土作戦で、埋蔵金はもぬけの殻だし、徐々にわかってくるデタラメ補正予算凍結の見直しは困難というから、鳩山新政権は‘七難八苦’だ。
全く、自民党は、いかにいい加減な政治を行ってきたことか。
無茶苦茶ではないか。
その、膨大な負の遺産を引き継ぐのは大変なことだ。
仙石刷新相や菅戦略相は、海千山千の官僚を相手に、どこまで財源を捻出できるかだ。
脱官僚、政治主導を唱えている民主党が、巧妙な官僚に篭絡されてしまうようなことはないのか。
それが、杞憂であってほしい。
鳩山内閣は、閣僚経験のない大臣が大半だ。
役所に乗り込むまではいいが、初めてのことに戸惑いも多いことだろう。
自民党の大臣でさえ、役所全体を把握しようとすれば、数ヶ月はかかるといわれる。
お役人というのは、実に狡猾だ。
新人大臣をたぶらかそうと思えば、造作もない。
うかうかしていたら、大臣の方が官僚に洗脳されてしまうことになる。
補正予算の削減も、役所寄りにならなければよいのだが・・・。
シロウト大臣が、公約を実現しようとするのは、さまざまな困難が伴うことだろう。
その困難を乗り越えてこそ、大臣だ。
テレビなどに登場している、閣僚をはじめ民主党の若手は、大方真剣な目つきで、優秀さをうかがわせる人が多いようだ。
政治の本質さえ見誤らなければ、あとは知恵をはたらかせて権力を行使するだけだ。
ある意味では、剛腕も必要だ。当然経験も・・・。
でも、初めから経験などありはしない。こればかりは仕方のないことだ。
眼高手低とはいうが、優れた理念があっても、実行力がなければまるでダメだ。
人(官僚)やモノは、どうやったら動くのか。
一番肝要なのはそこだろう。
政権中枢を経験していないと、役人の手のひらで転がされるだけで終わってしまい、したたかな官僚に到底太刀打ち出来ないということになる。
平成維新である。
何てたって、まだ改革は始まったばかりだ。
始まりだから、どうしたって手探りの感は否めない。
これまで長年の野党から、経験したことのない与党になったばかりなのだ。
そりゃあ、いろいろあるって・・・。
本当に日本のことを思うならば、だから、頑張れ!
真面目な努力は、いつかきっと実を結ぶものだ。
初めっから、ベテランなんていやしない。
急ぐことは大事だ。だが拙速では困る。
・・・でもですねぇ、でもですよ、誰だって初めはシロウトなんですよね。
(そんなこと、当たり前ではないか。)
誰だって、初めはね・・・。
五輪招致のために使ったお金は、どうも150億円どころではなさそうだ。
これは氷山の一角で、実際はそんなものではすまないらしい。
いろいろあるけれど、たとえば五輪招致を目的とした、度重なる豪華な海外旅行だが、これがすごい。
イギリス、スイス、シンガポール、ドイツ、中国と、06年6月から今年の4月のIOC視察まで、延べ60人以上で、飛行機はチャーター機かファーストクラス、宿泊は超一流クラスで、一人あたり100万円から460万円というから、推して知るべしである。
あれやこれやで、一事が万事、ドンブリ勘定だから、当初55億円だった招致経費は150億円にまで膨らんだ。
これだけで、驚くのは早い。
臨海副都心にある、31ヘクタールの選手村予定地の造成には、750億円もかかっているし、五輪招致前提で東京の大規模再開発が進んでいる。
こちらは、もう兆単位のプロジェクトだといわれる。
外環道路などを入れると、総事業費は8兆円だそうだ。
五輪が失敗して、いまさら大規模開発もへったくれもない。
いま、使ったお金はどれだけになるか、税金の使い道の細かいチェックが始まっている。
都知事自身、「都民に明らかにすることが、最低限の責任だ」と言っているが、当然のことだ。
一昨年3月、三選を図る都知事選のマニフェスト発表の席で、石原都知事は、「落選したら、その時の責任は取らなければならないでしょうな」と述べていたが、それでは、招致運動の責任の行方は一体どうなるのか。
しかも、一部報道によれば、東京都の自己PRのことごとくがウソだったらしいし、身内だけのネット調査で、世論調査では非常に高い支持率を得たなんて言いふらしていたのだ。
そんなことが、IOCのメンバーにわからないとでも思っていたのだろうか。
招致活動の中心にいたのは、広告代理店やテレビ局のようで、特番やCMをはじめとして、招致盛り上げのために3年間で95億円もの大金を投じ、この金がテレビに流れたというではないか。
このうち3分の2が税金なのだ。
つまり、都知事のパフォーマンス(?)の片棒をかついで、じゃんじゃんCMを垂れ流したテレビ局がまんまと儲けたのだ。
とにかく、招致失敗については、見苦しい言い訳ばかりが目立っている。
都知事は、帰国したその足で、お礼と称して鳩山総理の自宅を訪れ、あたかも総理と自分の‘連帯責任’を演出しているかのように映る。
やっぱり、都議会での民主党の口撃を恐れているのか。
いまもくすぶり続けている鳩山献金問題について、総選挙のとき、「完全に、これはサギではないか」と口汚くののしっておきながら、おのれの損得となると別人のように豹変する。
どうなっているのか。
何だか、さもしいというか、いやらしさまで目についてやりきれない。
無責任が、一番よくないことだ。
「金返せ!!」コールさえ起きている。
すぐ、他人に責任転嫁するのもどうか。
東京五輪招致のこの一件、いたらなかったのであれば、自分の能力不足を認めて、もっと潔くできないものだろうか。
しかるべき、責任の取り方もあるのではないか。