たまにはぼそっと

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白山神社まとめ

2022-06-28 05:40:35 | 白山神社
驚きの連続でした。

一番最初の白山神社が彦坐王を祀っていることは、船岡山と言う名前が、船岡神社から来ていると考えると疑いのないことと思います。

日本海側の海岸の地形が今とだいぶ違うということに驚きでした。

船で移動するには、およそ20kmごとに港があるはずです。その場所の特定が今までできなかったので

越から出雲までの移動が推測出来ていません。

20kmのスケールを書いてみました。

これである程度、港の場所がわかるかもしれません。



サタヒコ達は、日本海側より白山越えをして、美濃の方面に行った可能性は高いです。

彼らの行動力は、すごいです。以前書いた猿田彦その 30 戸隠神社奥社で、それがよくわかります。

彼らにとって、白山越えはたやすいことでしょう。そして、それが出来たとすると彼が若い頃の事と思うのです。

美濃まで行ったかどうかは不明です。

美濃は、垂仁天皇に侵略されているので、母親には会っていないかもしれない。

あれこれ調べていたら、面白いことが書かれているところに出くわしました。

こちら、嘉利マスターが綴る 白山麓・磐座探訪記の、奥美濃・白鳥神社の秘密②と言う所に、「白山中居神社」からのラインがあるとのこと。

早速調べてみました。


一番下の明健神社は時代が後になります。

白山中居神社は、、景行天皇12年の創祀とのこと。316年頃でしょうか。

白鳥神社は、仲哀天皇の時代とのこと。なんだかわけが分からなくなってきた・・・

現在、彦坐王が眠っているのは、春日井にある「白鳥塚古墳」と思います。

その名前の、「白鳥」が、ここから来ていると思うのですけど、決め手が見つかりません。

今後の課題にしておきましょう。

このラインは、レイラインではないのでサタヒコ達の仕事ではないと思いますけど、

その影響を受けた人たちが、ライン上に神社を建てるということを行ったのではないでしょうか。

祭神については、最初は、「彦坐王」で、泰澄の時代には、イザナギで、イザナミも同じ時期に祀られていたかもしれません。

その後、ククリヒメに代わったようです。理由はわからない・・・


泰澄が、白山登拝を決意し、山頂に到達したのが、養老元年(717)。

すでに書きましたけど、春日井市白山町の白山神社の創建は養老2年(718)。

翌年に、急いで春日井に駆け付けたような印象を受けます。

そうすると、白山に行く前にも春日井に来ていたのかもしれませんね。









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