日輪神社 (にちりんじんじゃ)
ここは、パワースポットと言われているらしいですね
場所は以前から知っていたので立ち寄りました。
山の頂上に本殿があるのです。山がピラミッド状になっているのでパワースポットなんだろうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/2a/7e0c38968944563c637fcdf7215310b7.jpg)
階段を登っていきます
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/42/ea852df624bd98b78fc415d8b373a5c2.jpg)
まだまだ遠い・・・・
はぁはぁと息を切らして登り詰めるとようやく到着
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/a3/3e8778ce79493dc9d42534d150431e33.jpg)
逆光で画像が見にくいですね. ご容赦~♪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/b6/c9930efed6424f48364823f5c5206e71.jpg)
創祀未詳と言うことですけど、このあたりの大和朝廷の神社の中心だったようです。
大国主(大国主=伊勢津彦=狭穂彦 と推測します)が、小滝川ヒスイ峡のある越に行った後
その翡翠を運ぶのに、この神社のすぐ北を流れる小八賀川(こはちががわ)に沿って移動したと考えます
松本から、梓川(あずさがわ)を通りこちらに向かったのでしょう。
話が少し脱線しますけど、途中に「伊勢」と名の付く神社があります。
伊勢二ノ宮神社
ここも立ち寄りましたけど、道が狭く車が駐車できなかったので、場所の確認だけで終わってしまいました。
少し離れたところに車を置いて、歩けばよかったなと反省・・・
縄文時代の翡翠の分布と言う図があります。
「古代翡翠道の謎」森浩一 編尾と言う本からスキャンしました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/9b/b2e16febff79a86a3314c42eb3a45f26.jpg)
富山県埋蔵文化財センター「特別企画展ひすい」より抜粋とあります
これをみると、関東、そして東北の方が多いですけど、中部、近畿にも翡翠が運ばれているようですね。
北海道にも行ってますね! これは驚きです。。。
場所は特定できませんけど、この日輪神社近くにも翡翠が発見されているようです。
糸魚川から高山を通り、飛騨川経由で美濃や尾張に行くルートが
すでに縄文時代にはできていたと考えることが出来ると思います。
大国主は、そのルートを利用して翡翠を流通させたのでしょう。
まだその当時は大和朝廷はこちらには来ていないようです。
以前に少し触れましたけど、両面宿祢(りょうめんすくな)のころ、つまり仁徳天皇の時代
にようやく飛騨方面に進出してきたようです。
しかも、その目的はこの翡翠ルートの流通する道を封鎖する目的のためのようです。
この日輪神社は、その目的のため、
すぐ北を流れる小八賀川(こはちががわ)に沿った古道がよく見える
見晴らしの良い山の頂上に建てられたのでしょう。
このような神社は、あちこちに見られます。
なぜ、大和政権は古道を封鎖しようとしたのか?
推測でしかありませんけど、4~7世紀の古墳時代に、仏教とともに中国から日本へ、メッキ技術が伝えられました。
仁徳天皇稜の埋蔵品にある甲冑に、メッキが施されているのが最古といわれています。
このメッキをするのに、水銀を使います。
その水銀は、伊勢や、奈良で採れる辰砂から作るので、それが拡散することを防ごうとしたのではないかと思うのです。
ひょっとすると、それまでは、翡翠と辰砂を交換していたのかもしれません。
両面宿儺の「両面」とはそのことなのでしょうか?
少し妄想が過ぎるかな? せっかくだからもう少し・・・
大和政権が、こうした神社を築くためには、今までの川に沿った古道を通るとそこに住んでいる
住民とトラブルがあったり移動が気づかれてしまったりします。
そのため、独自の道を作らなければなりません。
そうして出来た道が、「東山道飛騨史路」と思われます。
調べてみると、見事に川沿いを避けています。
川を避けることが出来ない場合は、対岸を通っています。
下原八幡神社(岐阜県下呂市金山町中津原)や、
東山道沿いにある阿智神社奥宮( 長野県下伊那郡阿智村智里)も、同じ目的で築かれた神社かと思います。
妄想を終わります。。。
ここは、パワースポットと言われているらしいですね
場所は以前から知っていたので立ち寄りました。
山の頂上に本殿があるのです。山がピラミッド状になっているのでパワースポットなんだろうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/2a/7e0c38968944563c637fcdf7215310b7.jpg)
階段を登っていきます
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/42/ea852df624bd98b78fc415d8b373a5c2.jpg)
まだまだ遠い・・・・
はぁはぁと息を切らして登り詰めるとようやく到着
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/a3/3e8778ce79493dc9d42534d150431e33.jpg)
逆光で画像が見にくいですね. ご容赦~♪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/b6/c9930efed6424f48364823f5c5206e71.jpg)
創祀未詳と言うことですけど、このあたりの大和朝廷の神社の中心だったようです。
大国主(大国主=伊勢津彦=狭穂彦 と推測します)が、小滝川ヒスイ峡のある越に行った後
その翡翠を運ぶのに、この神社のすぐ北を流れる小八賀川(こはちががわ)に沿って移動したと考えます
松本から、梓川(あずさがわ)を通りこちらに向かったのでしょう。
話が少し脱線しますけど、途中に「伊勢」と名の付く神社があります。
伊勢二ノ宮神社
ここも立ち寄りましたけど、道が狭く車が駐車できなかったので、場所の確認だけで終わってしまいました。
少し離れたところに車を置いて、歩けばよかったなと反省・・・
縄文時代の翡翠の分布と言う図があります。
「古代翡翠道の謎」森浩一 編尾と言う本からスキャンしました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/9b/b2e16febff79a86a3314c42eb3a45f26.jpg)
富山県埋蔵文化財センター「特別企画展ひすい」より抜粋とあります
これをみると、関東、そして東北の方が多いですけど、中部、近畿にも翡翠が運ばれているようですね。
北海道にも行ってますね! これは驚きです。。。
場所は特定できませんけど、この日輪神社近くにも翡翠が発見されているようです。
糸魚川から高山を通り、飛騨川経由で美濃や尾張に行くルートが
すでに縄文時代にはできていたと考えることが出来ると思います。
大国主は、そのルートを利用して翡翠を流通させたのでしょう。
まだその当時は大和朝廷はこちらには来ていないようです。
以前に少し触れましたけど、両面宿祢(りょうめんすくな)のころ、つまり仁徳天皇の時代
にようやく飛騨方面に進出してきたようです。
しかも、その目的はこの翡翠ルートの流通する道を封鎖する目的のためのようです。
この日輪神社は、その目的のため、
すぐ北を流れる小八賀川(こはちががわ)に沿った古道がよく見える
見晴らしの良い山の頂上に建てられたのでしょう。
このような神社は、あちこちに見られます。
なぜ、大和政権は古道を封鎖しようとしたのか?
推測でしかありませんけど、4~7世紀の古墳時代に、仏教とともに中国から日本へ、メッキ技術が伝えられました。
仁徳天皇稜の埋蔵品にある甲冑に、メッキが施されているのが最古といわれています。
このメッキをするのに、水銀を使います。
その水銀は、伊勢や、奈良で採れる辰砂から作るので、それが拡散することを防ごうとしたのではないかと思うのです。
ひょっとすると、それまでは、翡翠と辰砂を交換していたのかもしれません。
両面宿儺の「両面」とはそのことなのでしょうか?
少し妄想が過ぎるかな? せっかくだからもう少し・・・
大和政権が、こうした神社を築くためには、今までの川に沿った古道を通るとそこに住んでいる
住民とトラブルがあったり移動が気づかれてしまったりします。
そのため、独自の道を作らなければなりません。
そうして出来た道が、「東山道飛騨史路」と思われます。
調べてみると、見事に川沿いを避けています。
川を避けることが出来ない場合は、対岸を通っています。
下原八幡神社(岐阜県下呂市金山町中津原)や、
東山道沿いにある阿智神社奥宮( 長野県下伊那郡阿智村智里)も、同じ目的で築かれた神社かと思います。
妄想を終わります。。。
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