たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

日輪神社

2020-10-11 05:11:39 | 神社
日輪神社 (にちりんじんじゃ)



ここは、パワースポットと言われているらしいですね

場所は以前から知っていたので立ち寄りました。

山の頂上に本殿があるのです。山がピラミッド状になっているのでパワースポットなんだろうか?


階段を登っていきます


まだまだ遠い・・・・

はぁはぁと息を切らして登り詰めるとようやく到着


逆光で画像が見にくいですね. ご容赦~♪




創祀未詳と言うことですけど、このあたりの大和朝廷の神社の中心だったようです。

大国主(大国主=伊勢津彦=狭穂彦 と推測します)が、小滝川ヒスイ峡のある越に行った後

その翡翠を運ぶのに、この神社のすぐ北を流れる小八賀川(こはちががわ)に沿って移動したと考えます

松本から、梓川(あずさがわ)を通りこちらに向かったのでしょう。


話が少し脱線しますけど、途中に「伊勢」と名の付く神社があります。

伊勢二ノ宮神社


ここも立ち寄りましたけど、道が狭く車が駐車できなかったので、場所の確認だけで終わってしまいました。

少し離れたところに車を置いて、歩けばよかったなと反省・・・


縄文時代の翡翠の分布と言う図があります。
「古代翡翠道の謎」森浩一 編尾と言う本からスキャンしました

富山県埋蔵文化財センター「特別企画展ひすい」より抜粋とあります



これをみると、関東、そして東北の方が多いですけど、中部、近畿にも翡翠が運ばれているようですね。

北海道にも行ってますね! これは驚きです。。。


場所は特定できませんけど、この日輪神社近くにも翡翠が発見されているようです。

糸魚川から高山を通り、飛騨川経由で美濃や尾張に行くルートが

すでに縄文時代にはできていたと考えることが出来ると思います。

大国主は、そのルートを利用して翡翠を流通させたのでしょう。

まだその当時は大和朝廷はこちらには来ていないようです。

以前に少し触れましたけど、両面宿祢(りょうめんすくな)のころ、つまり仁徳天皇の時代

にようやく飛騨方面に進出してきたようです。

しかも、その目的はこの翡翠ルートの流通する道を封鎖する目的のためのようです。

この日輪神社は、その目的のため、

すぐ北を流れる小八賀川(こはちががわ)に沿った古道がよく見える

見晴らしの良い山の頂上に建てられたのでしょう。

このような神社は、あちこちに見られます。

なぜ、大和政権は古道を封鎖しようとしたのか?

推測でしかありませんけど、4~7世紀の古墳時代に、仏教とともに中国から日本へ、メッキ技術が伝えられました。

仁徳天皇稜の埋蔵品にある甲冑に、メッキが施されているのが最古といわれています。

このメッキをするのに、水銀を使います。

その水銀は、伊勢や、奈良で採れる辰砂から作るので、それが拡散することを防ごうとしたのではないかと思うのです。

ひょっとすると、それまでは、翡翠と辰砂を交換していたのかもしれません。

両面宿儺の「両面」とはそのことなのでしょうか?

少し妄想が過ぎるかな? せっかくだからもう少し・・・


大和政権が、こうした神社を築くためには、今までの川に沿った古道を通るとそこに住んでいる

住民とトラブルがあったり移動が気づかれてしまったりします。

そのため、独自の道を作らなければなりません。

そうして出来た道が、「東山道飛騨史路」と思われます。

調べてみると、見事に川沿いを避けています。

川を避けることが出来ない場合は、対岸を通っています。

下原八幡神社(岐阜県下呂市金山町中津原)や、

東山道沿いにある阿智神社奥宮( 長野県下伊那郡阿智村智里)も、同じ目的で築かれた神社かと思います。


妄想を終わります。。。
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