たまにはぼそっと

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年魚市潟(あゆちがた)

2012-02-19 06:28:24 | Weblog
年魚市潟(あゆちがた)とは、

愛知県名古屋市熱田区、南区一帯の低地帯のことを言ったそうです

この地図は、かなり昔のもののようです。参考までに。





今では、名古屋市熱田区、南区一帯は陸地で当時ここらあたりが海だったなどとはまったくわかりません

先週行った 白毫寺の説明から引用です

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当寺境内地は、松巨島の北西部に位置し高台地の下は
「年魚市潟」と称せられておりました。
最初の文献にあらわれたのは、日本書紀草薙剣のことを書いた条に、
「剣今在尾張国年魚市郡熱田」とあるのが始めと云われます。

奈良時代に至り持統天皇が三河国へ行幸遊ばされた時
高市連黒人も随行し


       「桜田へたづなき渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴きわたる」


の歌もその時に詠んだと云われ、万葉集第七巻に


       「年魚市潟塩干にけらし知多の浦に朝こぐ舟も沖による見ゆ」

という歌もあります。

鎌倉時代に至り鎌倉海道も整備され桟敷山、仙間山の谷間に湧き出る泉
(あゆち水と称せられ後世愛知の語源と云われる)で、喉をうるおし、
草庵に憩い、旅の疲れを癒やし、風景を賞でたと云われております。

この海道は、東海道が出来るまでの主要道路であり、当寺の北の石垣の
下の道が、その面影を残す処と云われております。

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年魚市潟(あゆちがた)とは、愛知の語源のようです

「あゆち」の語源は「あゆ」は「あい」が変わったもので、

あいの風、この地方では南東の風をいうそうです

あゆちの「ち」は方面を意味し、

つまり海より吹き寄せる風がある地という意味らしいです

知らなかった・・・




桶狭間の合戦のころは、まだ東海道は整備されておらず、その後

慶長6年(1601)江戸と京都を結ぶ東海道が制定され、

桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は、海路7里の渡船と定められたそうです

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