たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

本牟智和気命(ほむちわけのみこと)

2021-01-09 09:37:06 | レイライン
「本牟智和気命(ほむちわけのみこと)とは、

「さほひこ」の妹の「さほひめ」と垂仁天皇との間に出来た子と言われていますけど、

「さほひめ」は架空の人物ですので、「ほむちわけのみこと」も実在しません。



物語の内容を簡単に言うと、口のきけない「ほむちわけのみこと」は、出雲の祟りで、しゃべることが出来ない。
出雲大社に参詣すると口が利けるようになる。

そのようなことが、垂仁天皇の夢占いにでたそうな。

そこで、「曙立王」と、「菟上王」を出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになった

と言う話。

「曙立王」と、「菟上王」とは、彦坐王の長男(たぶん)の「大俣王」(オオマタノキミ)の子供です。二人は兄弟。

彦坐王の孫である、朝廷別王とこの二人の年齢は近いと思われます。

詳しくは、こちらの方の説明が分かりやすいと思います
こちら分からないことがあると、よく拝見させてもらってます。


日本書紀
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二十三年の秋九月の丙寅の朔丁卯に、群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「誉津別王(ほむつわけのみこ)は、是生年(うまれのとし)既に三十(みそとせ)、八掬髯鬚(やつかひげ)むすまでに、猶泣(いさ)つること児(わかご)の如し。

常に言(まことと)はざること、何由ぞ。

因りて有司(つかさつかさにみことおほ)せて議れ」とのたまふ。

冬十月の乙丑の朔壬申に、天皇、大殿の前に立ちたまへり。

誉津別皇子侍り。時に鳴鵠(くくひ)有りて、大虚(おほぞら)を度(とびわた)る。皇子仰ぎて鵠(くくひ)を観(みそなは)して曰はく、「是何物ぞ」とのたまふ。

天皇、則ち皇子の鵠を見て言(あぎと)ふこと得たりと知しめして喜びたまふ。

左右(もとこひと)に詔して曰はく、「誰か能く是の鳥を捕へて献らむ」とのたまふ。

是に、鳥取造(ととりのみやつこ)の祖(おや)天湯河板挙(あめのゆかはたな)奏(まを)して言(まを)さく、「臣(やつこ)必ず捕へて献らむ」とまをす。

即ち天皇、湯河板挙板挙、此には拕儺(たな)と云ふ。に勅して曰はく、「汝(いまし)是の鳥を献らば、必ず敦く賞(たまひもの)せむ」とのたまふ。時に湯河板挙、遠く鵠の飛びし方を望みて、追ひ尋(つ)ぎて出雲に詣(いた)りて、捕獲(とら)へつ。

或(あるひと)の曰く、「但馬国に得つ」といふ。十一月の甲午の朔乙未に、湯河板挙、鵠を献る。誉津別命、是の鵠を弄びて、遂に言語(ものい)ふことを得つ。

是に由りて、敦く湯河板挙に賞す。則ち姓を賜ひて鳥取造と曰ふ。因りて亦鳥取部(ととりべ)・鳥養部(とりかひべ)・誉津部(ほむつべ)を定む。

(垂仁紀二十三年条)

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「ほむつわけのみこ」は、30歳に出雲に行ったことになってます。

この当時、人は一年に2度年齢を数えます。ですから15才でしょう。

年表を作ってみました


年代については、少し誤差はあると思います。大まかな流れと思ってください。

人の名前の下に出ている数字は、推定の年齢です。

赤く色を付けたところが、「ほむつわけのみこ」が、15歳の時、出雲に出かけた年としました。


同時に、伊勢津彦が、伊勢から追い出された年から数えて15年目です。

このころの、彦坐王ファミリー(すでに彦坐王は亡くなっています)である

大国主(=サホヒコ=伊勢津彦)の関係する場所は、かなりの広い範囲になっています。

こんな感じ


付け足すと、出雲から翡翠峡のある糸魚川までの日本海はすべて関係しているでしょう。

関東は、諏訪にいるタケミナカタが開拓している最中だろうし、

四国も大国主や佐田彦(=朝廷別王=猿田彦=スクナヒコナ)が、開拓しているかもしれません。

結果として、大国主の関係する勢力は、垂仁天皇の居る、奈良を囲んでいるように見えます。

奈良を攻められたらひとたまりもない・・・垂仁天皇はこのように思ったかもしれません。

口をきけなくなった「ほむつわけのみこ」と言うのは、垂仁天皇本人のことではないんでしょうか?

おそらく、かなりの危機感があったのでしょう。

そこで、「曙立王」と、「菟上王」を出雲に遣わした。

二人とも、彦坐王ファミリーの一員なので、話はうまくいったと考えます。

どのような話があったのかは分かりません。

でも、その6年後ぐらいに倭姫が伊勢に行っています。


ここまで書いて、あれ?どこかで聞いた話と似てるなと・・・

天岩戸神話に似ていると思いませんか?

手力男命(たぢからをのみこと)=曙立王とすると、思兼神(おもいかねのかみ)は、=菟上王でしょうか。

佐那神社は、天手力男命と曙立王命を主祭神としています。

このあたりの物語は、天岩戸神話を参考にして書かれたのかもしれませんね。


よくわからないのは、垂仁天皇は、なぜ「ヒバスヒメ」(朝廷別王の姉、倭姫の母)を妻にしたのかと言うこと。

日本人離れしていてすごく美人だったのでしょう。中東の人の血が濃い?

猿田彦の容姿も、

背が高く、天狗のように鼻が 高く、唇は明るく輝き、長い口髭をはやし、

眼は八咫鏡の如く爛々と照り輝き、強い力の持ち主であり、眼力の強い大神

とあります。

骨が語る日本人の歴史 (ちくま新書)と言う本には

「大型 古墳 の 被 葬 者 は 一般 に 高 身長 で、 とき に 一 七 〇 センチ 近く にも 及ぶ 被 葬 者 が い た よう だ。 この 時代 に し ては、 まことに 高 身長。」と書かれています。

DNAが、違うかも。


天日別王(倭彦命かもしれません)が、伊勢津彦を伊勢から追い出してそれほど年月が経たないうちに

垂仁天皇はヒバスヒメを妻にしているのです。武力で脅したのでしょうか?

謎です・・・

垂仁天皇は、倭姫を人質として差し出して、和解しようとしたのかもしれませんね。

でも、猿田彦は彼女を手厚く招いています。

伊勢津彦の居た、飯野神山神社からの冬至の日の出のレイライン上に、内宮の場所を決めたぐらいですからね。

出雲にある佐田神社には北殿に「天照大神」が祀ってあります。

不思議ですね

倭姫は、ひょっとすると、出雲にも行っているかもしれない。











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