丹後半島のレイライン その2 湧田山一号墳のレイラインで紹介しているこの古墳の埋葬者は誰でしょう?
もうお分かりですね。
衆良神社に関係している人物で、多久神社の主祭神が、「豊宇賀能売命(豊受大神)」=真名井伝説による天女 。
全長約100メートルの大型の前方後円墳で、この地方最古。もうこの人物しかいないでしょう。
丹波能阿治佐波毘売つまり、猿田彦(サタヒコ)の妻、天鈿女命(アメノウズメ)ですね。
気になる事があります。
丹後半島のレイライン その3 朝廷別王(サタヒコ)との関係のある古墳に書いています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
湧田山1号墳の作られた年代です。
埴輪が存在しなかった可能性が高いということは、
ヒバスヒメの古墳より古い、もしくは同じころと推測します。
主体部の発掘調査は行われていないので、確実な年代はわからないようです。
そのため、諸説あるようですけど、300年頃のようです。
ヒバスヒメは306年頃亡くなっているので、その付近より以前に亡くなった人の古墳と推測します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そのころの、サタヒコに関する大まかな出来事を見てみましょうか。
推定年
302 倭姫伊勢に行く
304 白髭神社創建
305 椿大神社創建
305 大縣神社新宮を造営
305 佐田神社創建
306 ヒバスヒメ 亡くなる
気になるのは、305 年の 大縣神社新宮を造営 と言うことです。
おいら、最近までサタヒコの足どりを勘違いしていたかもしれない。
美濃の方々津神社から、尾張の高蔵神社に移動する途中に犬山の本宮山があるのですけど、その山頂にあるのが、大縣神社の古い神社です。
その神社が出来たときには、すでに犬山の東之宮古墳の埋葬者(尾張大印岐と推定します)の娘(真敷刀婢と推定します)を妻にしていたと思っていました。
ですけど、そうするとサホヒコと合流するのに砥鹿神社に出かけたり、諏訪に行ったり越に行き
さらに、丹後地方や出雲、岡山、四国、そしておそらくは淡路島にも行ってるようです。
このフットワークの軽さ、いくら時代が違うと言っても所帯持ちの行動じゃないですよね。
まだ、犬山の東之宮古墳の埋葬者の娘を妻にしていなかったと考えると、スッキリします。
本宮山山頂の大縣神社奥社は、中継地点の役割の場所だったのかもしれませんね。
そして、妻にした時期は「大縣神社新宮を造営」した時とするとこれも納得できます。
そこから推測できることは、それ以前に丹波能阿治佐波毘売=天鈿女命(アメノウズメ)は
亡くなっているということです。
それが、倭姫の伊勢に行く理由なのかどうかはわかりません。
いまだに何故、倭姫が伊勢に行ったのかは理由の糸口さえも分からないです。
もうお分かりですね。
衆良神社に関係している人物で、多久神社の主祭神が、「豊宇賀能売命(豊受大神)」=真名井伝説による天女 。
全長約100メートルの大型の前方後円墳で、この地方最古。もうこの人物しかいないでしょう。
丹波能阿治佐波毘売つまり、猿田彦(サタヒコ)の妻、天鈿女命(アメノウズメ)ですね。
気になる事があります。
丹後半島のレイライン その3 朝廷別王(サタヒコ)との関係のある古墳に書いています。
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湧田山1号墳の作られた年代です。
埴輪が存在しなかった可能性が高いということは、
ヒバスヒメの古墳より古い、もしくは同じころと推測します。
主体部の発掘調査は行われていないので、確実な年代はわからないようです。
そのため、諸説あるようですけど、300年頃のようです。
ヒバスヒメは306年頃亡くなっているので、その付近より以前に亡くなった人の古墳と推測します。
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そのころの、サタヒコに関する大まかな出来事を見てみましょうか。
推定年
302 倭姫伊勢に行く
304 白髭神社創建
305 椿大神社創建
305 大縣神社新宮を造営
305 佐田神社創建
306 ヒバスヒメ 亡くなる
気になるのは、305 年の 大縣神社新宮を造営 と言うことです。
おいら、最近までサタヒコの足どりを勘違いしていたかもしれない。
美濃の方々津神社から、尾張の高蔵神社に移動する途中に犬山の本宮山があるのですけど、その山頂にあるのが、大縣神社の古い神社です。
その神社が出来たときには、すでに犬山の東之宮古墳の埋葬者(尾張大印岐と推定します)の娘(真敷刀婢と推定します)を妻にしていたと思っていました。
ですけど、そうするとサホヒコと合流するのに砥鹿神社に出かけたり、諏訪に行ったり越に行き
さらに、丹後地方や出雲、岡山、四国、そしておそらくは淡路島にも行ってるようです。
このフットワークの軽さ、いくら時代が違うと言っても所帯持ちの行動じゃないですよね。
まだ、犬山の東之宮古墳の埋葬者の娘を妻にしていなかったと考えると、スッキリします。
本宮山山頂の大縣神社奥社は、中継地点の役割の場所だったのかもしれませんね。
そして、妻にした時期は「大縣神社新宮を造営」した時とするとこれも納得できます。
そこから推測できることは、それ以前に丹波能阿治佐波毘売=天鈿女命(アメノウズメ)は
亡くなっているということです。
それが、倭姫の伊勢に行く理由なのかどうかはわかりません。
いまだに何故、倭姫が伊勢に行ったのかは理由の糸口さえも分からないです。
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