年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

身体の中が緑色

2016-05-10 00:00:00 | Weblog
 雨が降ると新芽の緑色が目に刺さるような錯覚を受ける。柿の木の葉っぱは今が見ごろ。

 5月の雨は五月雨。少しの間雨が止んだのを幸いに散歩したのは葉佐池古墳公園の裏の池。

 お目当ては“野いちご”摘み。GW明けの恒例行事とする。
 
 至る所に赤い実を見つけることができたよ。

 スマホで写真を撮るもなんだか緑色より青みがかるほどで・・・イバラのとげに注意しながら摘み取る。
 それで、その実が即刻ジャムになってしまった。

 野の香りいっぱいのジャムをトーストにぶあつく乗っけて食べる。う~ん。。至福とはこのことと実感。至福は労を経由する。

 久しぶりの出勤日。面接室に連行されてやって来たのは併せて3人。一人は他県にいる実母のもとに帰住地を許されている人。二人はすでに釈放前の居室に入っており近々出る予定である。私もそれに合わせて事業所から面接に来てもらい採用面接会をやるための最終意思確認作業の時間を作ることに。今までの自分の数多い失敗から学んだことに釈放される前と後では意思が大きく揺らぐということがある。受刑者の傾向として、傾聴することの中で刑余者の心模様が塀の中と外では大きく異なることがある。つまり、塀の中では、受刑者同志で身体は拘束されるが、お互いに心は自由。でも塀の外に出ると身体は自由になるが社会の視線により心模様が閉ざされる、つまり出所者という自分のレッテルを隠すなど・・そのような構造がある。相談員の自分としては、それをきちんと見極めることが要求されると思っている。塀の中では長年「ハイ」と云わざるを得ない中での生活訓練を受けている。自分の意見や気持ちを押し通すことが憚られる。刑務官の命令に違反することのなきよう生活をしなければならない。もしそれがあれば満期まで釈放されることはない。早く塀から出ようと思えば命令や規律を順守する良き刑余者であらねばならない。・・・でも、もし良き人になろうと塀の中で演技をしていればどうなるか、演技をすることのない日常生活を送るようになれば・・身体的拘束がなくなって塀から出た後に良き人になろうとする意思が確認できるほど自分には能力がない。

 私にとって彼らは「生きる」意味を教えてくれるようにも思う。犯罪を再び犯さぬようまっとうに社会の中で生き抜く知恵をアドバイスしたいと思うが、今の自分にはその材料がない。しかし「就労」することがそのような課題に応える良い方法であることは間違いない。

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