年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

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2011-08-17 00:00:00 | Weblog
 先日無くなったフーランが戻った。モチノキの枝に吊り下げていた小さな鉢にいっぱいの白い花を咲かせ、静かに甘い香りを醸すフーランが、玄関脇の木の下に目立つように置かれていた。場所が違うので枝から落ちたとは思えないが、家人は枝から落ちたのだろう、と言う。しかし、私があまりにも落胆しているので、それを感じた犯人が、そっと夜の闇にまぎれて戻してくれたのだろうと、と考えておる。
 何でそうなったのかワカラナイけれど、物の価値を判断するのに全て貨幣価値による基準が横行している。自分の大切なものなど、金額の高により、いい物とそうでないものに区分する判断基準が何時の間にか、当たり前になってきている。値段の張るもの、高価なものが良いものである、と決めているのは自分ではなく、他者である場合が多いのではないか、何時の間にかコマーシャリズムに乗っとり良いものであることの価値を、他者(=この場合売り手になろうか)が誘導している・・そのような日常があるのではないか、自分にとって高価なものであり価値があるものは、生活するにあたり、やっぱり必要なものであり、欠かせないものであり、将来に渡って大切にしたいものなんだろうと思う。
                        
 小さな鉢のフーランは紙幣の1枚か2枚で購入できるものであるけれど、私にとっては、夜誰も帰って来ていない我が家にたどり着いた時に、真っ先に香りでもって迎えてくれるものであり、存在感を示してくれるものである。

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