YS Journal アメリカからの雑感

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歴史と現代の距離感

2010-04-06 11:33:08 | 雑記
「小沢一郎は西郷隆盛になるのか」で、小沢一郎と西郷隆盛、「かすっている人生」で、孫正義と松下幸之助の事を考えた。

歴史、自分の意識上で作り話とさほど違いのなかったものが、生身の人間の営みとして、自分の頭の中で組み上がっていく様な不思議な感覚が芽生えている。

文筆家としての才能があれば歴史小説家、学究肌であれば歴史家になれる類いの感覚であろう。吉村昭が『ポーツマスの旗』の文庫本での解説で、吉村昭が、取材先のアメリカニューハンプシャーシー州で蚊にさされて、小村寿太郎の心情に色を添えるエピソードの事が紹介してあり、取材の重要性が強調してあったが、吉村昭の思いはもっと深いところに根差していたのではないかと、ふと思い出した。なぜ、吉村昭の著作が大好きなのか、わかった様な気がする。(いつか全集を買おうと思っているのだが、地下室で『ポーツマスの旗』を探していたら、『生麦事件』やら『長英逃亡』なども所有していた。読んだ記憶だけがある。)

でも、歴史は物書きに優しい。いつでも俯瞰して観る事が出来る。

現代はどうであろう。人の営みと考えると、歴史上にいくらでも類型は転がっている。しかし、明日の事は誰も予言出来ない。人間はいつも未知の世界に向き合っているのだ。

歴史を勉強しながら、現代の向かう方向を考えないのは、知的怠慢であろう。小沢一郎や孫正義の玉石混交の情報の中から、彼らの存在意義を考える事は、必要である。松下幸之助は守銭奴の一面もあり、西郷隆盛は旧体制の抜け切らない逆臣である事は否定出来ず、小沢一郎は明日の日本の青写真を持っているかもしれないし、孫正義はアジア連携を成し遂げるかもしれないのである。

自分の中に芽生えたこの不思議な感覚が、使い物になるかどうか暫く時間を掛けて見極めようと思う。アメリカに住んで日本を見れる事、英語が読める事も有り難い事である。

歴史と現代の間の距離感が無くなった時の日か来るのが楽しみである。(来ない可能性も否定出来ず)