高校の必修科目履修漏れの問題は、世界史のみならず、芸術や体育、情報といった他の教科の未履修に拡大し、そしてついには茨城県の高校校長の自殺という事態を招くまで至っています。何とも痛ましいことです。
これだけ多くの学校で、「当然やらなければならないこと」が当然のことのように「行われていなかった」こと、それを学校の最高責任者である校長が容認していたということ、教育委員会もそれを黙認していたフシがあること…。まったくため息が出ます。
ある大臣は、今日のニュースで、「地方の教育委員会がこれだけ学校の実態を把握できないという“ガバナンス”機能の低下がある以上、地方に任せるわけにはいかず、国が責任をもって指導することが必要」なんてことをまくしたてていました。「ガバナンス」なんてわざわざ英語を使うところにまずいやらしさを感じますが、それはともかく、たぶんこの大臣は、都道府県の教育委員会の職員のうち、「指導主事」と呼ばれる人たちは、元々学校の教員だということを理解されていないのでしょう。教育委員会の職員は、学校とは関係のない職員ばかりで、だから今回のように、学校でやっていることがきちんと把握できていないのだといわんばかり。そんなことはありません。自分がかつて務めていた学校で「履修漏れ」や「虚偽報告」をしていたかどうかなんて、指導主事ならみんな知っているはずです。教育長だってそうです。いくつかの県では、教育長がかつて校長として勤務していた学校での履修漏れが明らかになっています。学校と教育委員会は、決して「だまし、だまされ」合う「別物」ではないのです。
だからこそ、この問題は根が深い。「大学にさえ受かってもらえばいい(できるだけ多くの生徒に)」という学校、その体質を黙認する教育委員会、子どもの進路は学校に任せきりの保護者。すべてが意識を変えなければ、この問題を根っこから解決することはむずかしいでしょう。
文部科学省は、学習指導要領と大学入試制度が乖離していることは今回の問題が起こる以前に明らかに目に見えていたのにもかかわらず、受験制度の根本的な改革には決して手をつけようとしません。学習指導要領にしても、そもそも世界史が必修とされたのは、「国際化に対応する人間を育てるため」というわけのわからない理由でした。現在、学習指導要領の改訂作業が進められていますが、今度は「愛国心を持ってもらうため」と言う理由で日本史が必修とされることも十分予想されます。そんな理由で必修や選択科目がころころ変えられたのでは、カリキュラムを組む学校もたまったものではありません。いったい高校生は何のために「歴史」を学ぶものなのでしょうか。
今回の事件ではいかにも「被害者」ぶっている大学にだって責任はあります。できるだけ多くの受験生を得るためだけにいとも簡単に入試科目を減らし「軽量化」を図ってきたこと、一部の私立大学の世界史や日本史の入試問題で、「重箱の隅をつつくような」設問がいまだに見られ、そのことが歴史科目を「暗記科目」におとしめている一因であること。今回の事件の根っこに大学入試のあり方があると主張するのは、加藤幸次・上智大学名誉教授です。
「建前として指導要領は守らなければならないのだが、実は高校の現場でこうした授業実態が進んでいることは、教育関係者の間では以前から周知のことだった。最大の問題は大学入試のあり方にある。今の入試で問われているのは、世界史や日本史といった、限られた領域の知識。それをペーパーテストのみではかっている。だから入試に関係ない科目はやらない方がいいという考え方になる。これでは、幅広い知識をもって実社会の様々な問題に取り組む人材は育たない。頭がよいとは、そういうことではない。世界の先進国の中で、こうした入試制度を実施している国は、そう多くはないことを自覚すべきだ。」(2006年10月28日付け朝日新聞)
「幅広い知識をもって実社会の様々な問題に取り組む人材」は、どうすれば育つのか。その一つの答えとして、「キャリア教育」に本気で取り組むという選択肢があると思っています。
しかし、「教育は長い目で」とはよく言われますが、「目の前の成果」が欲しい学校の先生はいくらでもいます。子どもたちが大人になる何十年も先にしか今の自分たちの教育の成果を見られないなんて、がんばりようがないではないか。そういう気持ちも確かにわかります。そういう「目の前の成果主義」と、長期的な目線で子どもたちを見ていこうというキャリア教育をどうすりあわせていくのかが、最大の課題なのかもしれません。
これだけ多くの学校で、「当然やらなければならないこと」が当然のことのように「行われていなかった」こと、それを学校の最高責任者である校長が容認していたということ、教育委員会もそれを黙認していたフシがあること…。まったくため息が出ます。
ある大臣は、今日のニュースで、「地方の教育委員会がこれだけ学校の実態を把握できないという“ガバナンス”機能の低下がある以上、地方に任せるわけにはいかず、国が責任をもって指導することが必要」なんてことをまくしたてていました。「ガバナンス」なんてわざわざ英語を使うところにまずいやらしさを感じますが、それはともかく、たぶんこの大臣は、都道府県の教育委員会の職員のうち、「指導主事」と呼ばれる人たちは、元々学校の教員だということを理解されていないのでしょう。教育委員会の職員は、学校とは関係のない職員ばかりで、だから今回のように、学校でやっていることがきちんと把握できていないのだといわんばかり。そんなことはありません。自分がかつて務めていた学校で「履修漏れ」や「虚偽報告」をしていたかどうかなんて、指導主事ならみんな知っているはずです。教育長だってそうです。いくつかの県では、教育長がかつて校長として勤務していた学校での履修漏れが明らかになっています。学校と教育委員会は、決して「だまし、だまされ」合う「別物」ではないのです。
だからこそ、この問題は根が深い。「大学にさえ受かってもらえばいい(できるだけ多くの生徒に)」という学校、その体質を黙認する教育委員会、子どもの進路は学校に任せきりの保護者。すべてが意識を変えなければ、この問題を根っこから解決することはむずかしいでしょう。
文部科学省は、学習指導要領と大学入試制度が乖離していることは今回の問題が起こる以前に明らかに目に見えていたのにもかかわらず、受験制度の根本的な改革には決して手をつけようとしません。学習指導要領にしても、そもそも世界史が必修とされたのは、「国際化に対応する人間を育てるため」というわけのわからない理由でした。現在、学習指導要領の改訂作業が進められていますが、今度は「愛国心を持ってもらうため」と言う理由で日本史が必修とされることも十分予想されます。そんな理由で必修や選択科目がころころ変えられたのでは、カリキュラムを組む学校もたまったものではありません。いったい高校生は何のために「歴史」を学ぶものなのでしょうか。
今回の事件ではいかにも「被害者」ぶっている大学にだって責任はあります。できるだけ多くの受験生を得るためだけにいとも簡単に入試科目を減らし「軽量化」を図ってきたこと、一部の私立大学の世界史や日本史の入試問題で、「重箱の隅をつつくような」設問がいまだに見られ、そのことが歴史科目を「暗記科目」におとしめている一因であること。今回の事件の根っこに大学入試のあり方があると主張するのは、加藤幸次・上智大学名誉教授です。
「建前として指導要領は守らなければならないのだが、実は高校の現場でこうした授業実態が進んでいることは、教育関係者の間では以前から周知のことだった。最大の問題は大学入試のあり方にある。今の入試で問われているのは、世界史や日本史といった、限られた領域の知識。それをペーパーテストのみではかっている。だから入試に関係ない科目はやらない方がいいという考え方になる。これでは、幅広い知識をもって実社会の様々な問題に取り組む人材は育たない。頭がよいとは、そういうことではない。世界の先進国の中で、こうした入試制度を実施している国は、そう多くはないことを自覚すべきだ。」(2006年10月28日付け朝日新聞)
「幅広い知識をもって実社会の様々な問題に取り組む人材」は、どうすれば育つのか。その一つの答えとして、「キャリア教育」に本気で取り組むという選択肢があると思っています。
しかし、「教育は長い目で」とはよく言われますが、「目の前の成果」が欲しい学校の先生はいくらでもいます。子どもたちが大人になる何十年も先にしか今の自分たちの教育の成果を見られないなんて、がんばりようがないではないか。そういう気持ちも確かにわかります。そういう「目の前の成果主義」と、長期的な目線で子どもたちを見ていこうというキャリア教育をどうすりあわせていくのかが、最大の課題なのかもしれません。
高校での世界史が必修で無い国は、結構たくさんあることを知りました。
しかし、トルコ人のオスマン君に「オスマンとはオスマントルコのオスマンであるのか」と聞いただけで、自分の国を知ってくれていると喜んでくれ、友達になれたと聞きます。
受験勉強は確かに大変で、暗記量の多い歴史を必修にするのは大変だと思います。
しかし、このように浅い知識でも、友好を深めるきっかけになります。
娘に、「こちらの世界史ブログ」を教えると面白そうに読んでいます。
受験の終わった生徒達に、卒業式まで受験に関係ない生きた世界史を教えていただくのも、一つの選択肢かと思います
大変示唆に富むコメントをありがとうございました。
漫画家の倉田真由美さんは、高校の時世界史を学ばなかったことを後悔している、と語っています。社会人になって歴史的な知識が必要な場面も多い。高校生の時は、何の勉強が将来役立つかわからないと思うが、幅広く勉強することは大切だと思う、と。
「オスマン君」の話は面白いですね。そういうエピソードを聞くのは、世界史の教員としてはとてもうれしいものです。
「受験に関係のない生きた世界史」のアイディアも大賛成です。それこそ、私が教えたい世界史です。歴史は人間が作ってきたものですから、世界史から「人生」を学ぶことだっていくらでもできます。世界史でキャリア教育をする、というのが私の夢です。