平成19年11月9日付け読売新聞に、「大学の生活指導どこまで」という記事を読んで、ついにここまで来たかと愕然とさせられました。
最近、「勉強以前の社会常識や生活態度まで学生に指導する大学が出始めている」とのこと。「大学全入時代」を迎え、「未熟な学生をそのまま社会に送り出せば。大学の評価も下がる」ので、「手取り足取りの指導」をせざるを得ない、のだそうです。
ある大学では、「登校指導」が行われている。朝、教員が校門に立って、学生たちに「おはよう。ちゃんと勉強してるか」などと声をかけるのだとか! 記事では「中高生に接するような」とありますが、これではまるで小学生並みではないですか。この大学では、全学年で「キャリア開発」という授業が必修なのだそうですが、その中身は、「おはようございます」「ありがとうございます」という基本的なあいさつの仕方、お辞儀の仕方を繰り返す…。もちろんそればかりではないのでしょうが、少なくともこれが「大学」の「キャリア開発」の講義の内容に含まれているというのは驚きです。就職担当の教授のコメントには、「服装も乱れ、あいさつも出来ない新入生もいる。社会で活躍できる下地を作るには、ここまでやる必要がある」とあります。
また、ある大学では、「生徒指導」に力を入れている。専門のスタッフが学内を巡回し、講義中にイヤホンで音楽を聴いていたり、携帯いじってる学生には注意する、のだとか。
そもそも、「大学全入」って何なのかと思う。数値上は、大学に行きたい人は、とりあえずどこかの大学に全員入れるというのは、どこか妙です。大学って、高校出てもっと勉強したい、将来の職業に必要となる高度な知識や技術を身につけたい、「学問」をしたいという人「だけ」が進学するところなのではなかったのか。そのために、ある程度の「選抜」が必要だったのではないか。
「登校指導」やら「生徒指導」やら「出席の促し」など、大学が本来担うべき役割以前の「指導」に取り組んでいる大学って、「大学」として本当に「必要」なのか?と言ったら言い過ぎでしょうか。記事の中では、「口うるさく指導されることを学生も嫌がらない」というコメントもありました。大学も大学なら学生も学生ですね。こんな主体性のない「18歳」にまで選挙権を与えて、「大人」として認めるなんて、私は断固反対です。
そして、もう一つ思うのは、いったい、高校までの教育(学校教育だけではもちろんありませんが)の成果はどこにあるのか、ということ。つまり、「18歳」という一つの節目に向かって、大人たちは子どもをどう教育してきたのか。大学に進学する子どもだけではありません。就職して社会に出る子どもなら尚更です。残念ながら、就職する生徒についても、依然として「生徒指導」が必要(この場合は「社会人指導」か)という傾向があるようです。どうも、「将来の社会人になるために教育する」という視点が抜け落ちていいるような気がするのです。ま、これにはかつて高校の教員だった自分自身への自戒も込められているのですが…。
いつの世も、ろくにあいさつもできない若者はいました。でも、現在のように、大学や社会に出てからまで「ごく普通に、学生全員に指導しなければならない」ほどではなかったと思います。少なくとも、自分が何のために親のすねをかじって大学に通っているのかということを自覚している学生が、今より多かったことは確かでしょう。
今、「大学全入」の弊害の方こそ、もっと考えてみる必要があると同時に、やっぱり、高校までの段階の教育を、「社会人になるための教育」=キャリア教育へといかにシフトさせていくか、ということが大切のような気がしています。
最近、「勉強以前の社会常識や生活態度まで学生に指導する大学が出始めている」とのこと。「大学全入時代」を迎え、「未熟な学生をそのまま社会に送り出せば。大学の評価も下がる」ので、「手取り足取りの指導」をせざるを得ない、のだそうです。
ある大学では、「登校指導」が行われている。朝、教員が校門に立って、学生たちに「おはよう。ちゃんと勉強してるか」などと声をかけるのだとか! 記事では「中高生に接するような」とありますが、これではまるで小学生並みではないですか。この大学では、全学年で「キャリア開発」という授業が必修なのだそうですが、その中身は、「おはようございます」「ありがとうございます」という基本的なあいさつの仕方、お辞儀の仕方を繰り返す…。もちろんそればかりではないのでしょうが、少なくともこれが「大学」の「キャリア開発」の講義の内容に含まれているというのは驚きです。就職担当の教授のコメントには、「服装も乱れ、あいさつも出来ない新入生もいる。社会で活躍できる下地を作るには、ここまでやる必要がある」とあります。
また、ある大学では、「生徒指導」に力を入れている。専門のスタッフが学内を巡回し、講義中にイヤホンで音楽を聴いていたり、携帯いじってる学生には注意する、のだとか。
そもそも、「大学全入」って何なのかと思う。数値上は、大学に行きたい人は、とりあえずどこかの大学に全員入れるというのは、どこか妙です。大学って、高校出てもっと勉強したい、将来の職業に必要となる高度な知識や技術を身につけたい、「学問」をしたいという人「だけ」が進学するところなのではなかったのか。そのために、ある程度の「選抜」が必要だったのではないか。
「登校指導」やら「生徒指導」やら「出席の促し」など、大学が本来担うべき役割以前の「指導」に取り組んでいる大学って、「大学」として本当に「必要」なのか?と言ったら言い過ぎでしょうか。記事の中では、「口うるさく指導されることを学生も嫌がらない」というコメントもありました。大学も大学なら学生も学生ですね。こんな主体性のない「18歳」にまで選挙権を与えて、「大人」として認めるなんて、私は断固反対です。
そして、もう一つ思うのは、いったい、高校までの教育(学校教育だけではもちろんありませんが)の成果はどこにあるのか、ということ。つまり、「18歳」という一つの節目に向かって、大人たちは子どもをどう教育してきたのか。大学に進学する子どもだけではありません。就職して社会に出る子どもなら尚更です。残念ながら、就職する生徒についても、依然として「生徒指導」が必要(この場合は「社会人指導」か)という傾向があるようです。どうも、「将来の社会人になるために教育する」という視点が抜け落ちていいるような気がするのです。ま、これにはかつて高校の教員だった自分自身への自戒も込められているのですが…。
いつの世も、ろくにあいさつもできない若者はいました。でも、現在のように、大学や社会に出てからまで「ごく普通に、学生全員に指導しなければならない」ほどではなかったと思います。少なくとも、自分が何のために親のすねをかじって大学に通っているのかということを自覚している学生が、今より多かったことは確かでしょう。
今、「大学全入」の弊害の方こそ、もっと考えてみる必要があると同時に、やっぱり、高校までの段階の教育を、「社会人になるための教育」=キャリア教育へといかにシフトさせていくか、ということが大切のような気がしています。
文科省の方々に、道徳教育などといわず、人間社会教育を考えていただきたいです。
文科省もそうですが、地域の大人たちが立ち上がらないと人間教育はできないのかもしれませんね。
周囲の子どもたちを見渡しても、よほどうちの子の方がしっかりしてます。
健常と言われている子どもたちの親御さんたちと接していると、子供が将来、社会的に自立できるように育てるって意識が殆どない事に気づかされます。
多分、社会的自立を最大の目標としている障害者の親だからこそ、そう思うのかもしれませんが。
社会とのふれ合いは日常的なもので、普段の生活の中から勉強できる事はたくさんあるのに、大人の意識が低いために子供達は学べる機会を失ってるように思います。とっても可哀想ですね。
コメントありがとうございます。
体験活動とか殊更に必要性が言われますが、確かに日常生活の中で学べることはたくさんありますね。
意識を持って子どもたちに接している大人もたくさんいます。けど、そうでない大人の方が目立つことが悲しい。子どもの、おいう以前に、「社会的自立」をしていない大人が多いってことですかね…。