世界史の教科書には決して書いてありませんが、世界史を学ぶ上での「暗黙の了解」というのがいくつかあって、その一つに「王国」と「帝国」の違いというのがあります。
つまり、「王国」というのは一つの民族が一人の君主のもとに建てた国のことをいい、「帝国」は、民族を超えて広大な領域を支配した国、つまり多民族からなる国を指す、というものです。
それぞれの支配者(君主)をそれぞれ「国王」、「皇帝」と呼びます(ということになっています)。
「皇帝」という名称を最初に使ったのは古代中国、秦の始皇帝ですが、彼が中国を統一する前、つまり各地に支配者が群雄割拠していた時代には、支配者は単に「王」と呼ばれていました。始皇帝は、「王」に立つ者として「皇帝」という称号を使ったのです。
一方、ヨーロッパでは、「皇帝」に当たる意味を持つ“Emperer”(英)の語源は、古代ローマのカエサルの称号インペラトール(軍司令官)です。初代「ローマ皇帝」はカエサルの後継者オクタヴィアヌス、すなわちアウグストゥスですが、彼の時代には既にローマは地中海沿岸の各地域を支配下に収めていましたから、名実ともに「皇帝」という称号がふさわしかったと言えます。
なお、ドイツ語で皇帝を意味する“Kaiser”はカエサルの名前自体に由来しています。
「イスラム帝国」では、「皇帝」の呼び名がその性格や民族によって異なります。たとえば、トルコ人によるイスラム王朝である「オスマン帝国」では、皇帝が政教両権を掌握して「スルタン・カリフ」と呼ばれる制度のもとにありました。
「ローマ帝国」以前にも、古代オリエントにはいくつかの「帝国」が存在しました。アケメネス朝ペルシア帝国がその代表選手でしょう。しかし、アケメネス朝を滅ぼしてギリシアからオリエント、インドに至る大「帝国」を築いたアレクサンドロスは、なぜか「アレクサンドロス皇帝」ではなく、なぜか「大王」と呼ばれています。君主の地位にあった期間があまりにも短かったせいでしょうか。
暗黙の了解にも例外はあるようです。
つまり、「王国」というのは一つの民族が一人の君主のもとに建てた国のことをいい、「帝国」は、民族を超えて広大な領域を支配した国、つまり多民族からなる国を指す、というものです。
それぞれの支配者(君主)をそれぞれ「国王」、「皇帝」と呼びます(ということになっています)。
「皇帝」という名称を最初に使ったのは古代中国、秦の始皇帝ですが、彼が中国を統一する前、つまり各地に支配者が群雄割拠していた時代には、支配者は単に「王」と呼ばれていました。始皇帝は、「王」に立つ者として「皇帝」という称号を使ったのです。
一方、ヨーロッパでは、「皇帝」に当たる意味を持つ“Emperer”(英)の語源は、古代ローマのカエサルの称号インペラトール(軍司令官)です。初代「ローマ皇帝」はカエサルの後継者オクタヴィアヌス、すなわちアウグストゥスですが、彼の時代には既にローマは地中海沿岸の各地域を支配下に収めていましたから、名実ともに「皇帝」という称号がふさわしかったと言えます。
なお、ドイツ語で皇帝を意味する“Kaiser”はカエサルの名前自体に由来しています。
「イスラム帝国」では、「皇帝」の呼び名がその性格や民族によって異なります。たとえば、トルコ人によるイスラム王朝である「オスマン帝国」では、皇帝が政教両権を掌握して「スルタン・カリフ」と呼ばれる制度のもとにありました。
「ローマ帝国」以前にも、古代オリエントにはいくつかの「帝国」が存在しました。アケメネス朝ペルシア帝国がその代表選手でしょう。しかし、アケメネス朝を滅ぼしてギリシアからオリエント、インドに至る大「帝国」を築いたアレクサンドロスは、なぜか「アレクサンドロス皇帝」ではなく、なぜか「大王」と呼ばれています。君主の地位にあった期間があまりにも短かったせいでしょうか。
暗黙の了解にも例外はあるようです。
次に“王国は一つの民族が一人の国王のもとに建てた国”とありますが、厳密にはその領内に多数の異民族が存在する場合がほとんどですし、外国人国王も多数存在します。ハンガリー王国やベーメン王国などがその例です。さらに、神聖ローマ皇帝などではドイツ国王の戴冠式をはじめ正式には四度の戴冠式を実施して“皇帝”となります。この場合でもドイツ人にとっては“ドイツ王”と呼ばれるのが通例です。
こう考えると、世界史を学ぶ「暗黙の了解」は本当に世界史を学ぶ人たちの共通理解なの?と疑ってしまうし、とっても“正確さに欠ける了解”のような気がします。「日本は単一民族国家」と発言したおバカな政治家もいたようですし、この使い方はあまりにも短絡的な気がしてなりません。
う~ん。むずかしいですね。確かに「正確さに欠ける了解」と言われればそのとおりかもしれません。高校で世界史を教えていた経験からして、授業で教えられることにはどうしても限りがあります。どこまで正確に、どこまで詳しく教えられるかということについてははっきり言って自信がありません。
ただ、そもそも何が「正確」なのか、歴史は見る人によって解釈が違いますし、いろんなとらえ方があるから歴史は面白いのだということこそわかってほしいと思っていました。もちろん、最低限の「正確さ」の上に立ってのことですが。
たとえば、「スルタン・カリフ制」については、オスマン朝スルタンのカイロ征服以後、オスマン一族がカリフ位を継承したことにより、スルタン位とカリフ位を兼ねたことから、一般に「スルタン・カリフ制」と呼ばれています(教科書にも書いてあります)。
しかし、実はオスマン朝で「スルタン」という称号が用いられたのは公文書のみで、それ以外では「パディシャー・ヒュキュムダール」といった称号が用いられていました。また、そもそも「スルタン」の権力は絶大なものであり、改めて「カリフ」の称号を付け加える必要もありませんでした。…という具合に説明していったらそれこそきりがありません。
「国王」と「皇帝」の使い分けについては、もちろん例外はあるけれど、そのようにとらえると「わかりやすいかなー」という程度のものです。民族と国家の関係については、誤解を招かないような説明はしてきたつもりでいます。
けれど原記事は不思議に思っていたけれど
どこにも書いてないことを明記していただ
いて、おかげですっきりしました。
大体「立憲君主制」というような大事なことも
はっきり説明された記憶がありません。
子供に大統領と総理大臣とどこが違うのって
言われてつまった覚えがあります。
なぜアメリカには首相がいないの?
も同じですよね。例外や厳密性の違いはあるに
せよ、まずは大進歩です。
「日本は単一民族」というのは学会レベルでは
問題なことかもしれませんが、日本語の通じない
地方はないし、現実認識としては許されるのでは
ないでしょうか。バカよばわりするほどでは・・?
おっしゃるとおり、「政体」ってわかっているようであまりよくわからないですね。同じ民主政治でも、カタチはいろいろです。今さら聞けない、ってところもありますね。
ただ、「立憲君主制」にしても、それを打ち立てた時の人々にとっては、「立憲」かそうでないかというのはずいぶん違っていたはずで、そういう思いを伝えていくのが歴史ではないかと思っています。
皇帝はローマ帝国の正統後継国家(自称)の元首で、
国王は領主の大領土版。
だからふつうのもと貴族は基本的にkingであって
一方でナポレオンは皇帝を名乗り、
ナチスドイツは「第三帝国」を名乗ったわけです。
ただし、「フランス国王はその領内においては皇帝である」などといった言葉では、
皇帝について、「神賦王権」に基づく正当な支配(国王の合法支配とはまた別)の概念を含んでいます。
一方アメリカ合衆国は、ローマの後継を自称しているのに皇帝でなくプレジデント、
帝国の呼称も採用していませんが、
これは歴史的な背景のほかに、
五賢帝およびそれ以前の時代の
世襲でない、国民の支持により支配権を与えられるという概念を、強くイメージしているからだと考えられます。
だから支配領域が学校の先生が時々言う他民族か否かというのは、、
「帝国主義」についての逆説的な呼称に過ぎないので、
それ以前には基本的に通用しません。
こういう拡散があるので正しく情報は載せるべきでしょうな。
民族としての分類?
三国時代、中原を支配した魏のみならず、呉、蜀の君主もそれぞれ皇帝を称し、五胡十六国時代や五代十国時代など中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。南北朝時代には2人以上の皇帝が同時に存在した。
軍事力に劣った北宋の皇帝は、北の異民族王朝である遼、金の君主を皇帝と認めた上で自らを格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付け、辛うじて面子を保たざるを得ず、中国君主が地上の唯一の皇帝であるという東アジアにおける理念を自ら覆した。金と南宋に至っては、南宋の皇帝のほうが格下という位置付けになってしまった。
民族で分けるなら、周辺異民族は全て王でなくてはならない。
近代日本史最大の資料であるエンゲルベルト・ケンペルの日本史によると、将軍は世俗的皇帝であり、天皇は聖職的皇帝(=教皇)であるとある。
アイヌの王、沖縄の王ならまだ分かりやすいが、藩が王を名乗り、それを束ねる将軍が皇帝なら、どこに民族差があるのだか。
また、欧州も長らくは王でなく公、公を束ねるのが王とされてきた。しかし近代史で見ると、王を超える称号が相応しい場合に皇帝を用いたと考えるのが妥当であり、民族と規定すると、教えやすいだけにすぎない。