「死刑は人間社会に用いられたもっとも古い刑である。」(K.B.レーダー『図説 死刑物語』原書房、1989年)
山口県光市の母子殺害事件の被告の死刑が確定しました。
被害者の遺族の本村洋さんは、「遺族としては大変、満足しています。ただ決して、うれしさや喜びの感情はありません。厳粛に受け止めなければならない」と語っています(2012年2月21日付け朝日新聞)。
被告に死刑の判決が下ると、遺族の多くは「うれしい」とか「ほっとした」という言葉を口にします。大切な家族を殺された遺族の心境を思えば、その気持ちももちろん納得はできます。ただ、憎むべき罪を犯した加害者だとはいえ、そして、法に照らして下された公正な判断だとはいえ、人間の命が奪われることに対して、「うれしい」という心情を吐露することが果たして「真っ当」なのだろうかという気持ちは拭い去れません。遺族の立場にもなったことがないくせに、と言われればそれまでですが、たとえそういう立場になったとしても、「うれしい」という感情は、自分には湧かないだろうと思う。
だから、本村さんのコメントには深く共感できる。むろん、忌まわしい事件以来、13年間の彼の歩みすべてを知るわけではありません。でも、加害者への怒り、憎しみ、そして、「君の犯した罪は万死に値する。君は自らの命をもって罪を償わなければならない」と被告に向かって言い放った勇気、それらを私は心がふるえる思いで見てきました。被告が死刑に処せられたからといって、妻と子どもが戻って来るわけではありません。それでも、彼にとっては、被告が「自らの命をもって罪を償う」ことを望むほかなかった。その心境は察するに余りあります。そして、世間もそんな彼の言動に共感し、彼を支持しました。
ずっと昔に読んだ『図説 死刑物語』という本を思い出しました。死刑制度の歴史を説き起こした本ですが、根底に流れるのは、「死刑は偽装された人身御供である」という考えです。
死刑制度の是非、つまり、「国家が一市民を殺すことがどうして可能か」ということについて、これまで様々な議論がされてきていますが、いくら論争しても満足のゆく解答は得られない。「死刑問題を現代の世界像にはめこむことは不可能」なのです。死刑問題は、実は法律問題なんかじゃなく、まったく別の社会心理学的な欲求がかかわっているという。
つまり、こういうことです。人間を殺すことは、古くから最大のタブーの一つでした。ところが、たとえば、古代に広く行われていた「人身御供」という習慣があります。これも死刑と同じように、社会が人間を殺すことを認める風習です。神の恩寵を得るために、「誰か」が犠牲になる。それを社会が暗黙のうちに了解していた。社会の平安のためには、誰かがいけにえになっても仕方ない、いやむしろ犠牲になるべきだと考えていたのです。
今の死刑制度も、根源的には人身御供と変わらないのです。私たちの社会が、治安を守り、平和に暮らしていくために、極悪非道を犯した犯罪者には犠牲になってもらわなければならない。それを容認することで、私たちは少し「安心」できる。古代の人身御供と違うのは、「法」のもとで執行されるということだけ。まさに「偽装された人身御供」。
それにしても、本村さんの言葉。
「勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者なんだと思う」。
重い重い言葉です。
全くその通りですね。死刑制度は簡単に
割り切れる問題ではないので、いろいろと
考えさせられますが、なるほど、と
深く共感いたしました。
これからも時々
お邪魔いたしますm(_ _)m
①えん罪でなければ、死刑は社会保障政策の要として積極的に活用願います。社会防衛上、凶悪犯罪者を隔離するだけでなく間引きせねば、社会の安全・安心は保てない。
②問題はえん罪。ネパール人だから東電OL殺人事件の被告人になってしまった例が多い。証拠に基づく犯罪捜査を警察当局にお願いします。特高の亡霊のため日本ではFBIを創設できなかったのが悔しい。それでも東京は、警視庁や法務監察医院があり死因も解明しやすくなっている。
③さらに刑法第39条が一番頭にくる。責任能力がないと死刑が適用できない。私が犯罪被害者の父親なら、ゴルゴ13に依頼するしかない。武家諸法度の時代からの免責理由だが、なんとかして死刑の適用範囲を拡張し社会防衛を図って欲しい。欧米の死刑がない国では現行犯の射殺が多い。生かして犯行動機を聞き取り再発防止に努める我が国の刑事司法制度の方が社会防衛上、優れている。
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これからもよろしくお願いします。
コメントありがとうございます。
鈴木さんのように、死刑制度賛成の方も、逆に反対の方もいらっしゃると思います。法制度上の論争は、記事にも書いたように、いつまでたってもすれ違いだと思います。死刑問題はもっと深い人間の「性(さが)」に根付いたものだと思うからです。