
昨年公開ですが、映画館で見逃していたため、DVDで鑑賞。セリフにビビっとくるものがいくつかあったので、こういう映画はDVDで何度も見直すのがいいのかもしれないと思いました。
原題は“Lord of War”。「戦争の王」ですね。武器商人ユーリー・オルロフの物語です。彼自身は実在の人物ではありませんが、5人くらいの実在の武器商人をモデルにしているのだそうです。映画の中で、リベリアの大統領が主人公のユーリーに「私は“Lord of War”(戦争の王)と言われているが、それは君にこそふさわしい」と言うのに対して、ユーリーが「それを言うなら“Lord of War”じゃなくて“War Lord”(戦争王)だ」と答えるシーンが出てきます。そのニュアンスの違いは残念ながら私にはちょっとわかりませんが。
監督は「ガタカ」のアンドリュー・ニコル、そして主演はこれが「ワールド・トレード・センター」の前作となるニコラス・ケイジ。むろん、こっちの方が断然いい。
冒頭。一面に散らばる弾薬の中に立つユーリー・オルロフ(ニコラス・ケイジ)が、「いま世界には5億5千丁の武器がある。ざっと12人に1人の計算だ。残る課題は――、“1人1丁の世界”」とクールに言い放つ。
次いで、カメラは、工場で製造される1発の弾丸の視点で、その弾丸「たち」がどのように運ばれ、どんな戦場で使われるのかを淡々と追っていく。そして迎える弾丸にとっての「晴れ舞台」。銃に込められた弾丸は、アフリカのどこかの国の少年の額の真ん中を貫く…。
ニューヨークのブルックリンで家族でレストランを営むウクライナ系移民のユーリーは、ふとしたことから銃の取引に手を染めるようになり、しだいに世界を股にかけた武器の「貿易」に乗り出していきます。武器商人としての自らの才能を見出すようになったユーリーは、東西冷戦の中で一匹狼の武器商人として頭角を現していく。
彼がソ連邦崩壊のニュースに驚喜する様子がおもしろい。テレビに映るゴルバチョフの額に何度もキスをするユーリー。冷戦終結は、意外なことに、彼にとってまたとないチャンスの到来だったのです。というのも、彼の叔父がソ連の役人であり、彼を通して、旧ソ連が手放す大量の武器を買い付けることができたからでした。ソ連の自動小銃AK47カラシニコフをはじめ、戦闘ヘリコプターまで買い付ける。冷戦が終わったからといって、世界から戦争がなくなるわけではありません。特に、アフリカで続く内戦、部族紛争は、武器商人にとって大きな市場でした。西アフリカのリベリア共和国の「バプティスト大統領」も、ユーリーのいい顧客でした。
リベリア。
ニュースで「リベリア船籍の貨物船」という言葉を耳にしたことはないでしょうか。リベリアは、船籍(船の国籍)にかかる手数料が、パナマと並んで世界で最も安いために、便宜上この国に船籍を置く船が非常に多いのです。また、黒柳徹子さんがユニセフ親善大使としてリベリアを訪問し、テレビ等を通じて内戦による惨劇を伝えたことを記憶している人もいるかもしれません。
リベリアという国名は、"liberty"=「自由」に由来しています。19世紀初頭、米国の解放黒人奴隷を受け入れるために作られた国。1847年に独立宣言して、アフリカで最初の共和国となりました。当時のアフリカには、独立国は他にエチオピアしかありませんでした。しかし、リベリアの建国者であるアメリコ・ライべリアン(白人)と先住民族の経済的、政治的、社会的格差を背景として、長く不安定な政権が続きました。1980年、先住民族出身のドゥ大統領がクーデターによって政権を掌握しますが、これに対して、1989年からチャールズ・テーラー率いる反政府のリベリア国民愛国戦線(NPFL)が軍事蜂起、内戦が勃発します。隣国シエラレオネの反政府組織、統一革命戦線(RUF)の支援を受けたテーラーは、1997年に大統領に就任しますが、以降も内戦は収まりませんでした。この間、テーラーによる大規模な虐殺や非道行為もあって、内戦を通しての死者は15万人以上にのぼると言われ、また220万人以上の難民が生まれています。
米国ブッシュ政権の介入もあって、テーラーは2003年にナイジェリアに亡命、昨年2005年の大統領選挙では、アフリカ初の女性大統領として、エレン・ジョンソン・サーリーフが大統領に就任しています。なお、テーラーは、今年6月に身柄を拘束され、国際戦犯法廷にかけられるとのことです。
映画に登場する「バプティスト大統領」とは、このチャールズ・テーラーをモデルにしているものと思われます。その非道さ残虐さ異常さは、官邸でユーリーとの商談の最中、手にした銃でいきなり部下を射殺するというシーンに象徴的に表されています。
このような権力者にとって、ユーリーのような闇の武器ブローカーはなくてはならない存在です。いかに数多くの国民に武器を持たせて、自分のために敵を殺してくれるかがすべてなのですから。それがたとえ年端のいかない少年であっても。
武器の売買について、ユーリーは言う。 「掃除機販売と同じだ。営業して回り注文を取る」。
実際、「救世軍を除くあらゆる軍に」彼は武器を売りまくります。イデオロギーも宗教も関係ありません。イスラエルの銃をムスリムに、ソ連製をファシストに。とにかく儲けが最優先。掃除機販売だっても少し最低限のルールやモラルはありそうなもんです。ユーリーは、自分の扱う商品が掃除機とは違うんだということからあえて目を背けようとしているようです。だから、ユーリーは紛争地域のゴタゴタからも一線を引いて決して巻き込まれようとはしないし、自分自身で銃を持つことはもちろんありません。自分の息子のおもちゃの銃でさえ、彼はさりげなくゴミ箱に放り込む…。
しかし、「死の商人」であるという事実は、否応なく彼自身を破滅に追い込んでいきます。いや、彼だけではありません。むしろユーリーを取り巻く人々がみんな不幸な目にあっていくのです。この映画の最大のポイントは弟ヴィタリーの存在ではないでしょうか。「戦友」と呼び交わし、一時は一緒に世界を飛び回った弟は、「死の商人」である事実にクールになりきることができず、麻薬に溺れ戦線を離脱していくのです。綱渡り的だが贅沢な兄の暮らしぶりに憧れつつも、自分はコックとしてつつましい生涯を送ることを決める弟。
妻への思いからひととき「仕事」を中断したユーリーは、リベリア大統領の半ば脅迫めいた取引の強要に押され、再び「仕事」に乗り出すのですが、最後の大仕事に際して、ユーリーは何を思ったか、ヴィタリーを誘う。二人でリベリアに飛ぶと、大統領は、隣国のシエラレオネの反政府組織RUFが顧客だと告げる。言われるままに、二人は大統領の息子とともにシエラレオネに向かうが…。
「死の商人」になりきれないヴィタリー。難民キャンプを見下ろして、「銃を渡すと彼らが殺される」と言う。「俺たちには関係ないことだ」と答えるしかないユーリー。あのような商売は、なりきれる人となりきれない人の2種類いるんだということをまざまざと見せつけられます。しかし、ユーリーは果たして「なりきれる人」だったのでしょうか。
この映画の結末は、十分予想することができます。「死の商人」が、合法・非合法にかかわらず、米国にとって必要悪の存在であること、そして、米国政府こそが世界最大の「死の商人」であることを知っていれば。
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原題は“Lord of War”。「戦争の王」ですね。武器商人ユーリー・オルロフの物語です。彼自身は実在の人物ではありませんが、5人くらいの実在の武器商人をモデルにしているのだそうです。映画の中で、リベリアの大統領が主人公のユーリーに「私は“Lord of War”(戦争の王)と言われているが、それは君にこそふさわしい」と言うのに対して、ユーリーが「それを言うなら“Lord of War”じゃなくて“War Lord”(戦争王)だ」と答えるシーンが出てきます。そのニュアンスの違いは残念ながら私にはちょっとわかりませんが。
監督は「ガタカ」のアンドリュー・ニコル、そして主演はこれが「ワールド・トレード・センター」の前作となるニコラス・ケイジ。むろん、こっちの方が断然いい。
冒頭。一面に散らばる弾薬の中に立つユーリー・オルロフ(ニコラス・ケイジ)が、「いま世界には5億5千丁の武器がある。ざっと12人に1人の計算だ。残る課題は――、“1人1丁の世界”」とクールに言い放つ。
次いで、カメラは、工場で製造される1発の弾丸の視点で、その弾丸「たち」がどのように運ばれ、どんな戦場で使われるのかを淡々と追っていく。そして迎える弾丸にとっての「晴れ舞台」。銃に込められた弾丸は、アフリカのどこかの国の少年の額の真ん中を貫く…。
ニューヨークのブルックリンで家族でレストランを営むウクライナ系移民のユーリーは、ふとしたことから銃の取引に手を染めるようになり、しだいに世界を股にかけた武器の「貿易」に乗り出していきます。武器商人としての自らの才能を見出すようになったユーリーは、東西冷戦の中で一匹狼の武器商人として頭角を現していく。
彼がソ連邦崩壊のニュースに驚喜する様子がおもしろい。テレビに映るゴルバチョフの額に何度もキスをするユーリー。冷戦終結は、意外なことに、彼にとってまたとないチャンスの到来だったのです。というのも、彼の叔父がソ連の役人であり、彼を通して、旧ソ連が手放す大量の武器を買い付けることができたからでした。ソ連の自動小銃AK47カラシニコフをはじめ、戦闘ヘリコプターまで買い付ける。冷戦が終わったからといって、世界から戦争がなくなるわけではありません。特に、アフリカで続く内戦、部族紛争は、武器商人にとって大きな市場でした。西アフリカのリベリア共和国の「バプティスト大統領」も、ユーリーのいい顧客でした。
リベリア。
ニュースで「リベリア船籍の貨物船」という言葉を耳にしたことはないでしょうか。リベリアは、船籍(船の国籍)にかかる手数料が、パナマと並んで世界で最も安いために、便宜上この国に船籍を置く船が非常に多いのです。また、黒柳徹子さんがユニセフ親善大使としてリベリアを訪問し、テレビ等を通じて内戦による惨劇を伝えたことを記憶している人もいるかもしれません。
リベリアという国名は、"liberty"=「自由」に由来しています。19世紀初頭、米国の解放黒人奴隷を受け入れるために作られた国。1847年に独立宣言して、アフリカで最初の共和国となりました。当時のアフリカには、独立国は他にエチオピアしかありませんでした。しかし、リベリアの建国者であるアメリコ・ライべリアン(白人)と先住民族の経済的、政治的、社会的格差を背景として、長く不安定な政権が続きました。1980年、先住民族出身のドゥ大統領がクーデターによって政権を掌握しますが、これに対して、1989年からチャールズ・テーラー率いる反政府のリベリア国民愛国戦線(NPFL)が軍事蜂起、内戦が勃発します。隣国シエラレオネの反政府組織、統一革命戦線(RUF)の支援を受けたテーラーは、1997年に大統領に就任しますが、以降も内戦は収まりませんでした。この間、テーラーによる大規模な虐殺や非道行為もあって、内戦を通しての死者は15万人以上にのぼると言われ、また220万人以上の難民が生まれています。
米国ブッシュ政権の介入もあって、テーラーは2003年にナイジェリアに亡命、昨年2005年の大統領選挙では、アフリカ初の女性大統領として、エレン・ジョンソン・サーリーフが大統領に就任しています。なお、テーラーは、今年6月に身柄を拘束され、国際戦犯法廷にかけられるとのことです。
映画に登場する「バプティスト大統領」とは、このチャールズ・テーラーをモデルにしているものと思われます。その非道さ残虐さ異常さは、官邸でユーリーとの商談の最中、手にした銃でいきなり部下を射殺するというシーンに象徴的に表されています。
このような権力者にとって、ユーリーのような闇の武器ブローカーはなくてはならない存在です。いかに数多くの国民に武器を持たせて、自分のために敵を殺してくれるかがすべてなのですから。それがたとえ年端のいかない少年であっても。
武器の売買について、ユーリーは言う。 「掃除機販売と同じだ。営業して回り注文を取る」。
実際、「救世軍を除くあらゆる軍に」彼は武器を売りまくります。イデオロギーも宗教も関係ありません。イスラエルの銃をムスリムに、ソ連製をファシストに。とにかく儲けが最優先。掃除機販売だっても少し最低限のルールやモラルはありそうなもんです。ユーリーは、自分の扱う商品が掃除機とは違うんだということからあえて目を背けようとしているようです。だから、ユーリーは紛争地域のゴタゴタからも一線を引いて決して巻き込まれようとはしないし、自分自身で銃を持つことはもちろんありません。自分の息子のおもちゃの銃でさえ、彼はさりげなくゴミ箱に放り込む…。
しかし、「死の商人」であるという事実は、否応なく彼自身を破滅に追い込んでいきます。いや、彼だけではありません。むしろユーリーを取り巻く人々がみんな不幸な目にあっていくのです。この映画の最大のポイントは弟ヴィタリーの存在ではないでしょうか。「戦友」と呼び交わし、一時は一緒に世界を飛び回った弟は、「死の商人」である事実にクールになりきることができず、麻薬に溺れ戦線を離脱していくのです。綱渡り的だが贅沢な兄の暮らしぶりに憧れつつも、自分はコックとしてつつましい生涯を送ることを決める弟。
妻への思いからひととき「仕事」を中断したユーリーは、リベリア大統領の半ば脅迫めいた取引の強要に押され、再び「仕事」に乗り出すのですが、最後の大仕事に際して、ユーリーは何を思ったか、ヴィタリーを誘う。二人でリベリアに飛ぶと、大統領は、隣国のシエラレオネの反政府組織RUFが顧客だと告げる。言われるままに、二人は大統領の息子とともにシエラレオネに向かうが…。
「死の商人」になりきれないヴィタリー。難民キャンプを見下ろして、「銃を渡すと彼らが殺される」と言う。「俺たちには関係ないことだ」と答えるしかないユーリー。あのような商売は、なりきれる人となりきれない人の2種類いるんだということをまざまざと見せつけられます。しかし、ユーリーは果たして「なりきれる人」だったのでしょうか。
この映画の結末は、十分予想することができます。「死の商人」が、合法・非合法にかかわらず、米国にとって必要悪の存在であること、そして、米国政府こそが世界最大の「死の商人」であることを知っていれば。
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