カクレマショウ

やっぴBLOG

佐賀紀行(1)─やきものの国

2008-09-01 | ■その他
以前勤務していた同僚が集合する会を2年ごとに開いていますが、前回の新潟・佐渡大会に引き続き、今年は「佐賀大会」。

佐賀といえば、悪いけど「マイナー」ですよね。福岡から長崎に行く途中、いつのまにか通過しちゃってた~てなもんです。数年前の「はなわ」のブレイク、そして「がばいばあちゃん」の出現で、佐賀もようやく日の目を見た…。なんて、佐賀の方には大変失礼なことを書いていますが、今回のホスト、Kさん(私が生まれて初めて出会った佐賀県人)が企画してくれた旅で、「佐賀らしさ」を満喫できたように思います。

まずは、佐賀といえばやっぱり「やきもの」。やきものにはちょっとうるさいKさんのこと、今回のツアーでももちろんその辺のポイントは逃さない。有田の県立九州陶磁文化館と、伊万里の「秘窯の里」の2ヶ所がしっかり組み込まれていました。



陶磁文化館。これでもかというくらいのやきもの責め。展示品のキャプションを見ると、どれもこれも1600年代。私にはやきものの価値や見分け方についてはもちろんよくわかりませんが、300年以上も前に作られた皿や茶碗がごろごろ並んでいるのはさすがに壮観。鍋島藩ゆかりの古伊万里、藩の名前そのままスバリで「鍋島」と名付けられたやきものなどには、洗練された造形と色の美しさに圧倒的な存在感を感じました。

古いものばかりではありません。佐賀にはやきものの伝統がしっかり継承されていることが、次のコーナーでよくわかります。現代に生きる陶芸家たちの作品群。これがまたすごい数で…。佐賀は九州に、この作品の数だけ窯元が存在するということです。それぞれ1品ずつ自分の「代表作」を展示しているのだと思いますが、実用というにはあまりにも大きな壺や花生けが競うように並べられています。伝統様式を受け継いだものから、いかにも現代的なデザインまで、どれも見応えがありました。

次の展示室では、九州の陶磁の歴史が紐解かれる。ここもまた駆け足で通り過ぎるのはもったいないくらいの情報量です。

「柴田夫妻コレクション」というのもすごかった。展示されているのは1,300点に過ぎない(「過ぎない」なんて言えないような数ですけど)ですが、全部で7,000点もあるのだそうで。個人でこれだけのやきものを収集するだけでも相当な財力だと思いますが、しかも、それらをすべて博物館に寄付するなんて、ただものではない。もともと佐賀にゆかりのある方でもないようですが、「生まれた土地」にやきものたちを帰してあげたいという気持ちにはいたく共感しました。

さて、陶磁文化館でけっこう「おなかいっぱい」になったあと、次に連れていってもらったのは、伊万里にある「秘窯の里・大川内山」。かつて、鍋島藩の御用窯があり、幕府や朝廷に献上される最高級のやきものが焼かれていたところ。つまり、先ほど陶磁文化館で見てきた「鍋島」が実際に作られた場所ということです。現在は、30数軒の窯元があって、御用窯の伝統を今に伝えています。

「秘窯の里」と呼ばれているのは、そこが三方を山に囲まれた「秘境」だからというだけでなく、かつて、鍋島藩は陶芸の技術が外に漏れることを恐れ、関所まで作って人の出入りを管理していたということにも由来します。職人たちは許可なく山を下りることはできなかったといいます。ある職人が禁を犯して窯元を出たときには、藩の追っ手に四国の窯元で捕らえられ、連れ戻された末に斬首。見せしめのためにさらし首にされたのだとか。そんなエピソードを聞くにつけ、鍋島藩にとって、やきものはまさに生命線だったことがうかがい知れます。



Kさんの案内で何軒かの窯元を冷やかしながら歩いていると、窯元によってやきものの趣がけっこう異なることに気づきました。たぶん、それぞれに長いつきあいの贔屓客がいるのでしょう。初めての人は、駐車場のところにある伊万里鍋島焼会館を最初にのぞいた方がいいかもしれません。ここに多くの窯元の作品が並んでいますから、自分の好みをある程度見極めることができます。そのあと、地図を見てその窯を探して、その店で気に入ったやきものを探すといいでしょう。

青磁専門の長春窯では、そこでは女主人から青磁の何たるかについて滔々と講釈をいただきました。講釈を聞くまでもなく、青磁の醸し出す色はそこはかとなくいい。古代中国から朝鮮、そして佐賀へと伝えられた陶芸技術の最高傑作ではないでしょうか。当然のことながら、透き通るような青磁であればあるほど値段の方も張るわけで、とても手が出るものではありませんが。

16世紀後半、豊臣秀吉は、佐賀に拠点を築き、朝鮮半島への進出をもくろみます。2回にわたる出兵はいずれも失敗に終わりますが、この出兵は別名「やきもの戦争」とも言われます。そこから佐賀のやきものの歴史も始まるわけですが、それについてはまた改めて。

ところで、地元紙の連載で、戦時中、陶磁器製の手榴弾が作られていたという話を知りました。金属製に比べるともちろん威力は比べものにならないにしても、戦争末期には実戦でもずいぶん使われたようです。有田や伊万里でも製造されていたらしい。伝統ある窯元の職人たちは、いったいどんな思いで手榴弾を焼いていたのでしょうか。


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