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「宮廷画家ゴヤは見た」(後編)─ゴヤの二面性と「2点セット」。そこから見える歴史の流れ。

2008-12-17 | └歴史映画
フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828年)が、スペイン宮廷画家に任命されたのは、1786年、彼が40歳の時でした。国王カルロス4世の首席宮廷画家に昇進したのはそれから13年後の1799年。翌年、彼は大作「カルロス4世の家族」(1800-1801年)を完成させます。国王の家族は全部で13人ですが、「13」は不吉な数字なので、急遽左手後方にゴヤ自身の姿を描き足したといわれています。中央にいるのは、国王ではなくて、王妃マリア・ルイーサの方。いかにも意地悪そうな顔をしていますね。



彼は、王家の人々を決して美化することなく、そのままに描いています。映画の中でも、王妃の馬上姿を描いた(ゴヤは実際にあの構図の絵「王妃マリア・ルイーサ騎馬像」(1799年)を描いています)ものの、顔の造詣があまりにも"リアル"だった(つまり美しくなかった)ために、王妃の顰蹙を買う場面が出てきました。宮廷画家が、王家の人々を描くときには、それがどんな人物であれ、美しく、雄々しく描くべきだとすれば、彼は宮廷画家としては、あんまりふさわしくなかったのかもしれません。

「カルロス4世の家族」で、彼女の両脇にいるのは、愛人との間に生まれた子どもたちとも言われているように、あれでなかなかのやり手だったようです。しかも、愚鈍な王はそれを全く知らなかったという…。映画で、馬上の王妃の絵のエピソードのあと、王がゴヤを自室に招いて、下手くそなバイオリンを弾いてみせるシーンがありました。ゴヤはゴヤで、その演奏をほめちぎるしかない。その時、使いの者がやってきて、「フランス王(※ルイ16世ですね)が処刑された」という知らせをもたらす。王はバイオリンを放り出して部屋を出て行く。あのシーンにはいったいどんな意味が込められているのだろうと思っていましたが、もしかしたら、王は、自分がバイオリンが下手くそなことを知っているように、何でもお見通しなんだよ、ということをゴヤに伝えたかったのかもしれません。王妃の浮気も、見て見ぬフリをしているだけなんだと。

ゴヤという人が本当はどんな人だったのかは知りませんが、ゴヤを演じているステラン・スカルスガルドが、様々なシーンでふと見せるちょっとオトボケの表情などから察するに、ひょうひょうとしているように見せかけて、実は反骨精神に富む人物だったのではないかとも思います。実際、王家や貴族、大商人、聖職者の肖像を描きつつ、一方では、主に版画という手段を用いて、彼は悪魔や野ざらしにされた死体といった極めて通俗的な作品も残しています。特に、「ロス・カプリーチョス」(「気まぐれ」)と呼ばれる80点の銅版画集(1799年)には、道徳的退廃、悪、虚栄心、残酷といった、ありとあらゆる「負」のテーマに彩られた作品が並んでいます。そこにはむろん、彼流の権力への皮肉や社会風刺が込められていることは言うまでもありません。

これら、ゴヤのいわば「陰の部分」は、この映画の冒頭で、まさに司教たちが槍玉に挙げている作品です。こういうものが庶民の間に出回っていて、誰でも簡単に見ることができるのは問題だと…。異端審問の厳格化も、こうした状況が背景にあったのでしょうか。

ゴヤはいつも現実の社会を見つめていました。民衆が見たいと思うものを描き、世間が潜在的に望むものを見せる。「わが子を食らうサトゥルヌス」(1819年)なんて、まさにその象徴的な作品なのかもしれません。ローマ神話に登場する農耕神サトゥルヌス(英語名:サターン)が、予言に惑わされて5人の子を次々と食べてしまったという伝説をモチーフにしています。そのリアルさには思わず目を背けたくなりますが、実は、人間はこういう光景を潜在的に見たいと思っているのかもしれません。



映画の中で、ゴヤは、どこまでも一途で哀れなイネスを最後までそっと見守っています。それも、ゴヤだからこそ…なのだなあと思います。

それにしても、あんな恐ろしい絵を、夜中に「ろうそく付きの帽子」(映画でも出てきました)をかぶって一心に描いている姿は、さぞかし鬼気迫るものだったことでしょう。何となく、ゴヤ自身が最も「異端」的な人物だったのではないかとさえ思えてきます。そう、教会にとっては極めて背徳的な版画を描いているゴヤ自身は、なぜ異端として審問されなかったのでしょう? そこはやはり「宮廷画家」としての才能のおかげだったのではないかと思います。ゴヤほどの有能な絵描きはそういるものではありませんからね。

宮廷の権威にしっかり守られていたゴヤは、しかし、ある時、こんなことを言って周囲を面食らわせる。「絵画にはいかなる規範も存在しない」。

これこそ、ゴヤのたぎるような反骨精神、チャレンジ精神を示す言葉です。彼は決して、「ただの宮廷画家」ではなかった。従来の「型」を打ち破るような独創的な彼の作品群を見れば、そのことは火を見るよりも明らかです。宮廷画家としての顔と、反骨精神あふれる民衆側の顔と。ゴヤの魅力は、何よりその二面性にあるのだと思います。

ところで、二面性といえば、ゴヤの有名な「2点セット」があります。「裸のマハ」(1800年)と「着衣のマハ」(1801-03年)ですが、もう一つ、忘れてはならない対作品があります。「1808年5月3日、マドリード プリンシペ・ピオの丘での銃殺」(1814年)と「1808年5月2日、マドリード エジプト人親衛隊との戦い」(1814年)。ナポレオン軍のスペイン征服の残虐性を表した絵です。

「5月2日」では、ナポレオンに雇われたエジプト人傭兵(マムルーク)にゲリラ的な戦闘を挑む民衆が描かれる。それはスペイン人による独立への戦いの第一歩でした。ちなみに、「ゲリラ」というのは、「小戦争」を意味するスペイン語で、この、スペイン民衆のナポレオン支配に対する抵抗運動から使われるようになります。

「5月3日」で描かれるのは、ロボットのように銃を構える兵士たちと、両手を挙げ、命乞いをする民衆。ナポレオンが掲げる「自由」とは程遠い情景です。この直後にどんな惨劇が行われたのか、容易に想像がつく。どんな大義名分を掲げようと、戦争は戦争、殺し合いは殺し合いだ。



そして、映画に登場するイネスの肖像とロレンソの肖像もまさに2点セットです。ミロス・フォアマン監督は、ゴヤの目を通して見た2人の人生を、改めてダイナミックなタッチでキャンパスに描いてくれています。そして、これはゴヤには見えなかったかもしれませんが、背景にうごめく歴史の大きな流れも。さすがですね。

参考:サラ・シモンズ著、大高保二郎・松原典子訳 ≫『岩波 世界の美術 ゴヤ』(岩波書店、2001年)


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