
クリント・イーストウッド監督による「硫黄島」2部作の第1作目です。太平洋戦争の最大激戦地の一つ、硫黄島の戦いを、日米両国側の視点から描き分けるという、なかなか興味深い試みです。
硫黄島。改めて地図で探してみると、東京から約1000kmのところに位置しています。東京から船で25時間半かかる小笠原諸島・父島からさらに200kmほど南下したところにあります。面積22平方キロ。かつては住民もいたのですが、今は自衛隊の駐留地となっています。しかし、太平洋戦争中、この絶海の孤島は、日米双方にとって戦略上非常に重要な島だったのです。
とうことで、まずは、太平洋戦争(1941~45年)における硫黄島の位置づけから…。
1941(昭和16)年12月8日の真珠湾奇襲攻撃に始まる太平洋戦争。それまで既に中国、東南アジアに進出していた日本軍は、当初こそ快進撃を見せますが、しだいに国力の弱さをさらけ出していきます。
日本軍は、開戦当初、南方の海軍根拠地を小笠原・父島に置いていましたが、南方戦線と日本本土を結ぶ中継地として、飛行場を建設できる硫黄島に注目し、1943年に硫黄島に海軍を移していました。
ところで、米軍のB29爆撃機による本土空襲が本格化するのは1944年夏からですが、いったい、B29はどこから飛んできたのでしょうか? 米軍は当初、中国を日本から奪い返してB29の基地とするつもりだったらしい。ところが、インド、ネパール側から責めるのはヒマラヤという障壁があってなかなかうまくいかなかった。そこで、方針を転換して、日本が占領していた南方諸島方面から攻めることにしました。1943年から翌年にかけて、米軍はトラック諸島、マリアナ諸島(グアム、サイパン)を次々と陥落させ、そこを基地としていったのです。サイパン島では、日本兵や住民たちによる「玉砕」という悲劇もありました。
こうして、グアムやサイパンからB29が次々と飛来しては日本各地に空襲をしていくようになりました。ところが、B29を護衛する戦闘機がこれらの島からだと日本までたどり着けないこと、また、硫黄島に置かれた海軍司令部が早期にB29を長距離爆撃の情報を本土に送っていたため、日本軍の迎撃を受けることになったことから、米国は、なんとしても硫黄島"Iwojima"を確保する必要があったのです。
その頃、硫黄島の海軍司令部を率いていたのは栗林忠道陸軍中将。12月に公開される第2作「硫黄島からの手紙」の主人公です。彼は、硫黄島への援軍が望めない中、米軍の攻撃に備えて、この島の徹底的な要塞化を図りました。天然の洞窟を巧みに利用しつつ、全長18kmにも及ぶトンネルと地下壕を掘ったのです。
1945年2月、硫黄島に終結した米海軍及び海兵隊による上陸作戦が開始されます。米軍は、3日間にわたる猛烈な艦砲射撃と空爆ののち、2月19日、島の南端にそびえる標高169mの摺鉢(すりばち)山のふもとの海岸に一斉に上陸を開始しました。
「上陸作戦」といえば、「史上最大の作戦」、ノルマンディ上陸作戦が思い出されますが(≫「史上最大の作戦」、≫「プライベート・ライアン」)、この映画でも、それを彷彿とさせるリアルさで上陸の様子が描かれています。ただ、ノルマンディと違うのは、向こうが上陸と同時にドイツ軍の猛烈な迎撃にあっったのに対して、こちらは上陸からしばらくは不気味な静けさに襲われていたことです。日本軍は、トーチカや地下壕に身を潜め、米軍の上陸を待ち伏せしていたのです。
姿の見えない敵から突然攻撃をかけられ、わけのわからないまま倒れていく米兵たち。ある米軍兵士が「日本兵の姿はほとんど見たことがなかった」とのちに語っているそうですが、栗林中将の地下作戦はそれほど徹底したものでした。映画では、夜間の戦闘のさなか、一人の米兵があっという間に地下壕に引っ張り込まれ、そうとは気づかない仲間が必死で探し回るシーンが出てきました。ちなみに、このような戦法はのちにベトナム戦争におけるベトコンのゲリラ戦で真似されることになったのだそうです。
日本兵たちは、約1ヶ月の間、硫黄島を守り抜きますが、3月17日、ついに壮絶な戦いに幕が下ろされます。日本軍の死者は21,900名に及び、生還したのはわずか1,023名でした。一方、総勢70,000名もの兵力をつぎこんだ米軍の方も、死者約7,000名、戦傷者は20,000名にのぼりました。
硫黄島を得た米軍による日本本土への空爆がますます激しさを増したことは言うまでもありません。それは5ヶ月後の敗戦の日まで続くのです。
さて、前置きがすっかり長くなってしまいました。
日本人にとっての「硫黄島」が、壮絶な悲劇に彩られたものであるのに対して、米国人にとっての"Iwojima"とは、摺鉢山の頂上に翻る星条旗と、それを立てようとしている9人の兵士たちが写る1枚の写真がすべてなのではないかと思います。長引く戦争が経済を圧迫し、米国社会に厭戦気分が漂う中、この1枚の写真が、再び米国に勝利への雄叫びをあげさせるきっかけとなるのです。
「父親たちの星条旗」は、その写真をめぐる物語。それについては、次回にお届けします…。
硫黄島。改めて地図で探してみると、東京から約1000kmのところに位置しています。東京から船で25時間半かかる小笠原諸島・父島からさらに200kmほど南下したところにあります。面積22平方キロ。かつては住民もいたのですが、今は自衛隊の駐留地となっています。しかし、太平洋戦争中、この絶海の孤島は、日米双方にとって戦略上非常に重要な島だったのです。
とうことで、まずは、太平洋戦争(1941~45年)における硫黄島の位置づけから…。
1941(昭和16)年12月8日の真珠湾奇襲攻撃に始まる太平洋戦争。それまで既に中国、東南アジアに進出していた日本軍は、当初こそ快進撃を見せますが、しだいに国力の弱さをさらけ出していきます。
日本軍は、開戦当初、南方の海軍根拠地を小笠原・父島に置いていましたが、南方戦線と日本本土を結ぶ中継地として、飛行場を建設できる硫黄島に注目し、1943年に硫黄島に海軍を移していました。
ところで、米軍のB29爆撃機による本土空襲が本格化するのは1944年夏からですが、いったい、B29はどこから飛んできたのでしょうか? 米軍は当初、中国を日本から奪い返してB29の基地とするつもりだったらしい。ところが、インド、ネパール側から責めるのはヒマラヤという障壁があってなかなかうまくいかなかった。そこで、方針を転換して、日本が占領していた南方諸島方面から攻めることにしました。1943年から翌年にかけて、米軍はトラック諸島、マリアナ諸島(グアム、サイパン)を次々と陥落させ、そこを基地としていったのです。サイパン島では、日本兵や住民たちによる「玉砕」という悲劇もありました。
こうして、グアムやサイパンからB29が次々と飛来しては日本各地に空襲をしていくようになりました。ところが、B29を護衛する戦闘機がこれらの島からだと日本までたどり着けないこと、また、硫黄島に置かれた海軍司令部が早期にB29を長距離爆撃の情報を本土に送っていたため、日本軍の迎撃を受けることになったことから、米国は、なんとしても硫黄島"Iwojima"を確保する必要があったのです。
その頃、硫黄島の海軍司令部を率いていたのは栗林忠道陸軍中将。12月に公開される第2作「硫黄島からの手紙」の主人公です。彼は、硫黄島への援軍が望めない中、米軍の攻撃に備えて、この島の徹底的な要塞化を図りました。天然の洞窟を巧みに利用しつつ、全長18kmにも及ぶトンネルと地下壕を掘ったのです。
1945年2月、硫黄島に終結した米海軍及び海兵隊による上陸作戦が開始されます。米軍は、3日間にわたる猛烈な艦砲射撃と空爆ののち、2月19日、島の南端にそびえる標高169mの摺鉢(すりばち)山のふもとの海岸に一斉に上陸を開始しました。
「上陸作戦」といえば、「史上最大の作戦」、ノルマンディ上陸作戦が思い出されますが(≫「史上最大の作戦」、≫「プライベート・ライアン」)、この映画でも、それを彷彿とさせるリアルさで上陸の様子が描かれています。ただ、ノルマンディと違うのは、向こうが上陸と同時にドイツ軍の猛烈な迎撃にあっったのに対して、こちらは上陸からしばらくは不気味な静けさに襲われていたことです。日本軍は、トーチカや地下壕に身を潜め、米軍の上陸を待ち伏せしていたのです。
姿の見えない敵から突然攻撃をかけられ、わけのわからないまま倒れていく米兵たち。ある米軍兵士が「日本兵の姿はほとんど見たことがなかった」とのちに語っているそうですが、栗林中将の地下作戦はそれほど徹底したものでした。映画では、夜間の戦闘のさなか、一人の米兵があっという間に地下壕に引っ張り込まれ、そうとは気づかない仲間が必死で探し回るシーンが出てきました。ちなみに、このような戦法はのちにベトナム戦争におけるベトコンのゲリラ戦で真似されることになったのだそうです。
日本兵たちは、約1ヶ月の間、硫黄島を守り抜きますが、3月17日、ついに壮絶な戦いに幕が下ろされます。日本軍の死者は21,900名に及び、生還したのはわずか1,023名でした。一方、総勢70,000名もの兵力をつぎこんだ米軍の方も、死者約7,000名、戦傷者は20,000名にのぼりました。
硫黄島を得た米軍による日本本土への空爆がますます激しさを増したことは言うまでもありません。それは5ヶ月後の敗戦の日まで続くのです。
さて、前置きがすっかり長くなってしまいました。
日本人にとっての「硫黄島」が、壮絶な悲劇に彩られたものであるのに対して、米国人にとっての"Iwojima"とは、摺鉢山の頂上に翻る星条旗と、それを立てようとしている9人の兵士たちが写る1枚の写真がすべてなのではないかと思います。長引く戦争が経済を圧迫し、米国社会に厭戦気分が漂う中、この1枚の写真が、再び米国に勝利への雄叫びをあげさせるきっかけとなるのです。
「父親たちの星条旗」は、その写真をめぐる物語。それについては、次回にお届けします…。
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