標高900 田舎ぐらし

~* 八ヶ岳の麓にて *~

写真か、絵か。

2010年11月03日 | Weblog

今日は、お天気がよく冷え込みました。
写真を写す時間は、とれませんでしたが雪をかぶった富士や八ヶ岳がきれいに見えていました。
紅葉前線も標高1,000くらいまで下りてきました。
その紅葉のアルバムを先日、同期生のMLに載せましたが、15枚ほどの写真の中に2枚、お遊び写真を混ぜました。
蓼科湖横の川の岩に、モミジを乗せた1枚。



同じく朽ち果てた根に、赤いモミジを1枚。



案の定、この2枚の写真についての論議が始まった。

よく、写真を写している友人からは、「自然にタイミングよく、きれいな葉だけが石に乗ることはない。もしこれが手をかけずに撮れた写真だったらこころから陳謝する。」

「私は、そう思いはしたが真摯なので、黙っていた。」

「無言の何かを伝えるために、何らかの作為をする写真もあるんだ、写真の技術を使った絵ではないかと思い始めている。」

「写真とはなにか、という問題ですが、絵とはなにか、本とはなにか、ぐらいにいろいろな答えがありそうですね。」

「写真は何もかも写してしまうけれど、 絵は不要な部分を落す=捨象する事ができるから、ヤッパリ 絵はすぐれているなと思う。」
など、など。。。

これらは、すべて私の想定内の意見。
面白がり、ほくそ笑みながら、皆さんの投稿を読んでいる。
ただ、最後の意見には異論がある。
例えば、下の今日の八ヶ岳。
2度目の八ヶ岳冠雪でしたが、もし、これを作品にしたいとする。
ところが、現在の田園風景には、ご覧のような見苦しいビニールシートがあったり、シカやイノシシよけのネットが張ってあったりで、作品とするには邪魔なものばかりが写る。 
そんなわけで、いくら雲がなく、美しい空に、雪をかぶった八ヶ岳がくっきり、きれいに映えるとしても、ここからの景色を写真として作品にすることはできない。

ところが絵だったら?
そう、絵なら不要なものは描かなければいい。
電信柱の本数を減らしたり、青いビニールシートは描かなかったり、のごちゃごちゃした家も省略できる。
どんよりした雲を秋の空に浮かぶ鰯雲に描きかえることもできる。

でも、写真はすべてを写してしまう。
そのすべてを写してしまうレンズで、何を選び出すかが、難しくもあり、楽しくもある。
お遊びで入れた2枚の写真のようなことは、プロの写真では、当たり前のように行われている。
勿論、同期生に判るように置いた私の写真とは違い、もっともっと、ずっとずっと巧妙ですが。



絵の方が、写真の方が優れているというのではない。
きちんと表現できている作品は、どちらも素晴らしい。