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鯨は諦めた方がいい

豪州の反対運動が過激になってきているらしい。過去のエントリーでも述べたが、補足を。

過去にも述べたが一般的に捕鯨反対は(1)公海の資源を好き勝手してはいけない、(2)鯨は希少資源で食ってる場合ではない、(3)鯨という生物を食うなという理解をしている。(1)は他の水産資源(魚)と同様に扱えばいいし、(2)は科学的に解決をすればよい。

どうもそうではないようだ、論理的な解決は出来ない様相だ。原因は残る(3)ということか。この点を日本側・欧米側から考察してみよう。

欧米は「鯨は高等生物」だという意見らしい、高等の意味が分からないので想像ではあるがようは「種に好き嫌い」があるらしい、欧米人から見た好きな順番が合って食っていい種と食ってはいけない種があるらしい。もちろんヒンズー教・イスラム教・ユダヤ教に禁忌があるのは分かっているがその中に鯨は入っていないようだ、であるから宗教的な理由ではないであろう。食っていい種は牛・羊・豚・鶏等で犬・猫・鯨等は人類と友達なので食ってはいけないらしい。彼らの神は彼らに種の優劣選別を許したらしい。しかしこれは理解できる。肌の色の違う人間は人間でないという判断をした過去があり、現在もWASP(White Anglo-Saxon Protestant:アングロ‐サクソン系プロテスタント教徒白人)という単語から象徴する明快な人種差別があるということだ。どういうことかというと欧米人>愛玩動物>高等生物(鯨・イルカ)>有色人種>家畜ということか。鯨を盲目的に優遇するということは一方で蔑んでいる存在があるということと同じことであろう。友達である生物とは殺して食っていい生物、駆除していい生物の存在が無ければ存在できないからだ。優遇の裏には非優遇=差別というのが存在するのだ。

菜食主義者という存在がある、彼らは多くの生物は捕食しなければ生きていけないという当たり前の事実を否定し、ご都合的に「死への抗議をする」動物を敢えて食べないという選民的な欺瞞を感じる。植物も生物であり、抵抗をかなりしている(栗は玉の子の種子を守るためにイガを作成する)し、害虫に本体を食われないように毒素を体内に貯める植物種もある。彼ら菜食主義者はエリートに多いと聞くが選民主義の表れであろう、(知性の低い人間が食べる動物を食べない)選ばれた知的な人間であるということだ。彼らが捕鯨反対主義者と違う(被っている人も多いとは思うが)のは主義主張を押し付けることだ。鯨食反対主義者の神が鯨を尊重することは否定しない。しかしヒンズー教徒は牛を食べないことを他者に押し付けないし、ムスリムも他者が豚を食べることを反対しない。捕鯨反対主義者は違う、非鯨食を押し付けるのだ。日本人はそれが多数であることを認識しなければならないであろう。

しかし、捕鯨が日本の文化だという主張も眉唾的だと思う。「戦後の蛋白源」や郷愁は大正~昭和世代の話であって伝統文化というのは無理が無いであろうか。明治期以降に大々的に行われたに過ぎず、江戸期までは沿海捕鯨であったのは間違いないであろう。鯨料理が大和煮とかベーコンであるように日本料理とは無縁な名称であることから想像に難くない(ご当地料理ではあるであろうが)。もちろん日本人のお家芸として皮から髭まで使ったのは本当であろうし、欧米が当時鯨油のみを欲したのとは比べるまでもないであろうが。

このような背景があって日本が南極海・公海で捕鯨をするのは無理がある。差別主義者である彼らはそれを無意識に地下に隠した上での行動であることは明白だからだ。彼らに聞いてみたらいい、「あなた方の神は羊と鯨の差別を行うのか」「あなた方は神から優遇すべき種を選ぶ根拠(権利)があるのか」と。

だからといって欧米人と喧嘩してなんの得があるのであろう。しかも前述したように鯨食の文化も本音としては怪しいもんだ。それであれば彼らの理不尽な要求は飲んでもおかしくは無い。もちろん、論理で戦って権利を獲得するという論法もあろう。それは否定しないが、本来の文化でないものを多大な犠牲を払って守る必要があるのであろうか。「鮪を食うな」と言われれば怒るが鯨ぐらいは譲っても良いような気がする**

解決策はある、沿海漁業に徹することだ。なにも当時辿り着けなかった南氷洋まで行く必要はない。

*個人的には鯨食の経験があり美味いという認識もあるし、鯨解体ショーにいったこともある。

**鮪(トロ)は江戸期に下魚とされたらしいが現代の日本人が好きなのだから「食うな」という抗議には国力を挙げて反論してもよかろう。

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