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環境問題は本質的に議論されていない件

せっかくなので重いテーマ連投で。ちなみにゴア氏の安っぽいヒロイズムが対象です。

のっけからであるが「里山」という存在は人為的な存在であろうか?当然yesだ。環境問題という立場で人為的な介入をNGとすれば里山は都市と同じように極悪である。もちろんその人為的環境でトンボが成育できようが、鳥が繁殖しようが関係ない。環境問題を論じるうえでは「人為的」ということをキーワードとするとかなり限定される。里山を維持する手入れなどは全否定なのだ、めだかも蛙も人為的に幅を利かしている生物には退場してもらうほか無い。

帰化生物はどうであろうか。人為的帰化生物は毛嫌いされているようではあるが、そもそも帰化生物ではない生物とはいかなる生物なのであろうか。そもそも人間ですら大陸から縄文・弥生と別ルートで移ってきたという指摘もある。純正「環境」という概念は存在するのか?植物でも野菜はOKで、雑草はNGという論理は分かりづらい。虹鱒などの経済動物はOKで、ブラックバスはNGというのも同様だ。人間にほぼ完全に管理されているとはいえ、牛馬などの家畜、犬猫などの愛玩動物にも当てはまる。

田畑が耕作放棄されると国土が荒れるそうだが、自然に戻っているといえるのではないか。河川は氾濫を繰り返し、崖は万有引力の法則に従い崩れる。自然とは本来そういうものだ。その自然に対抗するため人類は3千年以上がんばってきた。環境をコントロールするのが人類の悲願だったのだ。

そう考えると「環境問題」の本質が分からない。人為環境である里山とマッチしたスズメ(雀)は本来繁栄されるべき種ではなかったかも知れず、堤防をコンクリートで固めることにより洪水を減らしその結果植生が変わろうが人類には関係ないかも知れない。そもそも「環境問題」は人によって大事なものが違い、コンセンサスが得られていない。ある人は里山が大事だといい、ある人は自然、またある人は野生生物、あるひとは汚染問題。皆がいうことが違い、かつ矛盾することも少なくない。

海や河川が汚れると食料調達に問題がきたすし、人類への健康被害も問題となった。昭和人間にとって環境(公害)問題は生活のために必要だったのだ。必要だから大事にしたし、社会要請もあった。現在叫ばれている環境問題、例えば氷河を守るという意見にどういった意義があるのであろう。地球の平均気温が上がると問題が増えるというが、対策に金を使ったほうが効率的という側面もある。

ギャグだろうが「人間が手入れをしてきたから絶滅を逃れた種もある」という主張に至っては理解不能だ、環境問題は積極的に人間が手を入れろというのと同意になってしまう。であれば人間の好き嫌いである種を優遇したり、ある種を滅ぼしてもいいのだ。実際天然痘などの病原菌を殺すのは推奨されているが、人間の好きな種は優遇されている。ある種は自然環境下では存在せず(牛馬とか)、それでも「環境至上」なの?

環境という単語は至極贅沢な概念ではないのか。「守るべき」というのはなんとなく理解できる、でも「どうでもいい」と思えなくも無い。

で問うのであるが、あなたは環境問題という概念にどう思い、どう行動しますか?私は環境問題を考えてきましたが考えるだけ損だという気分を少し持っています。エコでいいんじゃないのと。。。とほほ。。。(本当は環境派です、すいません。)

理論的に考えると「環境問題」とは人が立ち入らない箇所を作るか、何もしないことだ。人が何かすれば環境に影響を与えるのだ。それが無理ならば環境への影響を小さくしたいと考えるであろう、それも「小さい」からいいのか、「影響が有る」のがいけないのかがはっきりしない。ヒステリックな、宗教的な概念が幅を利かすほどのものであろうかという疑問だ。

私の主張(そんなの知らんてか?)

私は「教育」を普及させることが重要だと思う。環境問題、資源枯渇問題の教育を現在以上に「正しく*」行い、省資源・公害問題を優先すべきであろう。途上国では我々が経験したように経済優先から公害問題が引き起こる、また途上国の人口が先進国並みの生活を送ろうと思うとエネルギー・資源が莫大に必要となり、近い将来足りなく出あろう。途上国の方々に先進国並みの生活を享受することを拒否することは出来ない。これを教育した上での環境問題なのではないのであろうか。

*正しい教育は存在するのかという命題はあるのであるが、科学的事実を教育するという意味で。

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