風塵社的業務日誌

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アナルコ保守主義(07)

2019年09月06日 | 出版
前回、全共闘の不倶戴天の敵であった林健太郎と、日本の新左翼との比較でもしようかしら、というところまで話が進んだ。しかし、結論を急ぐつもりもないし、このテーマで結論めいたものにたどりつけるのか自体がはなはだ不明だ。ようやくおのれのなかでは、こういうことなのかなあという像が結ばれつつあるのだけれども、それを文章として記せるのかどうかはわからない。まあいいや、ゆっくりやりましょ、てなもんだ。
また前回、戦時中に林がどういう意味合いでニヒリズムという語を使ったのか、それがよく理解できなかったということを述べた。それと、小生は専門知とか学知のようなものからは縁遠い人間なので、哲学用語にはどうしても弱い。そこで、書棚に転がっていた1970年刊行『現代哲学事典』(山崎正一+市川浩編、講談社現代新書)の「ニヒリズム」の項を開けてみた。すると、ニーチェを引いてから続けて、
「あらゆる既成性の打破に向かって多くの学生・青年のエネルギーを噴出せしめた六八年から六九年にかけての異様な出来事が彼(ニーチェのこと――腹巻)のいう『能動的ニヒリズム』の顕在化ではないという保証は、どこにもないのである」(岩永達郎)
げな。エーッ、70年くらいの気分としては、全共闘運動が能動的ニヒリズムの一種として受け止められるような感覚だったのか。知らなかった。しかしそれならば、どうでもいいけれど、東アジア反日武装戦線をニヒリズムと小生が評したのはあながちまちがってはいないということになる。
ここで整理しておくと、アナキズムとニヒリズムは隣り合わせの概念なのだろう。ものすごく単純化させてしまえば、世のなか全体に疑念を抱き、それをぶち壊そうというのがニヒリズムで、そこから生まれてくるであろうと期待されているのがアナキズムという定式になるのかな。ただし、アナキズムといっても(ニヒリズムも)多様な概念があって、そうそう簡単にこの定式に収まってくれるわけではない。しかし、その多様性に踏み入るとわけがわからなくなるので、ここでは避けて通ることにしよう。
要するに、似たようなことをさまざまな人々が表現しているのだけれど、そこには微妙な差異なり温度差が生じ、そのゆえにそれぞれがイズムと化していったのだろうと、大局的観点からぶった切ることにする。最近読んだ文章でその出典をいま思い出せないのだけれどもそこでは、「特に左派系の論者は自分の頭が一番すぐれているとしたいゲームに陥る傾向が強く、結局は同じ結論に至っているのに、他の論者とどうでもいいような差異にこだわろうとする」という主旨のことを述べられていた。その文章を読みながら確かにそのとおりだなあと感心しつつも、その出典が出てこないというのは年齢によるものなのだろうか。
つまり、小生はキリスト者ではないので、神様なるものに向き合っている人間の気持ちというものを根底から理解できるわけもなく、そしてまた、その向き合い方からそれぞれの方向性なるものが生じているのではなかろうかと想像しつつも、ヨーロッパで生まれたさまざまな資本主義批判の思想はどれもこれも内容としてどこがそんなに大きくちがうのかという疑問も生じる。マルクスやエンゲルスの『宣言』4章や『空想より科学へ』ではさげすんだような批判を他派へ繰り返しているけれど、マルエン以外の「空想的」社会主義者の目指したものは、当時の悲惨な状態に置かれている人々をどうしたらいいのかという社会実験のトライ・アンド・エラーの過程にすぎない。そこをわかっていながら受け入れられないのだから、マルエン自体が狭量でしかなかったとしか評価できないだろう。おかげで、マルエンの忠実なる弟子を僭称した連中の行った革命ほど悲惨なものはなかったわけである。
また話が脱線してきた。レーニンやトロツキーへの批判を試みているわけではない(しかし、憧れもない)。アナキズムなる語に隣接するいろんな概念がある。それらと厳密に概念規定することに意味があるのかという疑念を記しているわけである。小生などはそもそもがいい加減な人間なので、そういう厳密さが苦手なのだ。しかしならば、権藤成卿的な「社稷」という言葉の土着性に着目した天皇制無政府主義を認められるのかとなれば、認める気分にはまったくなれない。ならば、その線引きはどこにあるのだろうかという、自分自身への問いへとなっていく。
右翼なりナショナリストを自称する人にも、人間的に立派なかたは多数いらっしゃることだろう。べつにそれは彼らに限らず、警察官にも自衛官にも官僚にも、人間として成熟している人はいるにちがいない。そうでもなければ、この国の行政が成り立っていないことになってしまう。しかしそうであっても、やはり彼らとはどこか一線を画したい気分がある。その一線とは単純で、日本国憲法1条から8条までを廃棄せよと思うか思わないかのちがいなのだ。
ありゃ、すみません。保守思想からアナキズムにとっていかに現代的な教訓を汲み出そうという過程なのに、小生の天皇嫌いが表に出すぎてしまった。次は、また話が変わるかも。

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