風塵社的業務日誌

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最近書いた文章

2012年05月11日 | 出版
当然ながら、書くことが本日も思いつかない。そこで、ミニコミに最近書いた文章でお茶を濁すことにした。文中、「檜」の字は、新字と正字がゴッチャになっているけれど、これは物語の主人公である故人が「桧」を使っていたことに由来しているので、あえてこのまま。
また、『水平線の向こうに』という本には複雑な思いがあるけれど、それには触れない。

(「救援」516号、2012年4月10日発行から)
「檜森孝雄さんを偲んで――10年目の3・30に」
 二〇〇二年三月三〇日、桧森孝雄さんがイスラエルの暴虐に抗議の焼身決起をしてから、十年を迎えた。その生涯は、『水平線の向こうに――ルポルタージュ檜森孝雄』(二〇〇五年、風塵社刊)として一冊にまとめたことがあるので、そちらをご参照願いたい。生きていれば、六四歳であった。
 桧森さんは、律儀な人でもあったけどルーズな面もあった。生真面目さと同時に陽気でお茶目な一面も持っていた。温厚だったけどかたくなでもあった。そして、さっぱりしていた。
 そういう一筋縄ではいかない人柄で、私とはしばしば口論したものであったが、決して、私は桧森さんのことがきらいではなかった。いや、より正確に述べれば、その人柄に惹かれていた。惹かれていたから、甘えて、口論していたのかもしれない。桧森さんが私のことをどう思っていたのかは、もちろん知らない。
 あるとき、大した用件でもなかったが、桧森さんとどこかで落ち合うことになった。私は時間より少し早く着いたので、手持ちの本でも読んでいたのだろうか。そこに、時間どおり桧森さんが姿を現わした。開口一番、「君はこういうものは読んだことがないだろうから、あげるよ」と、手にしていた『軍事研究』(ジャパン・ミリタリー・レビュー刊)という雑誌を渡された。確かに、読んだことのない雑誌だ。ただし、その上から目線の勧められ方に少しムッとした私は、「こういうのは、どこをどういうふうに読んだらいいんですか」とたずねてみた。すると、「資本主義の喘ぎが伝わってくるはずだ」と、えらそうに語りやがる。
 とにかく、ありがたく拝受し、自宅に戻ってから読んでみることにした。その号の特集は、三菱重工が開発している新型戦車に関するもので、どこに資本主義の喘ぎがあったのかは見当もつかなかった。
 私が桧森さんと最後に話したのは、決起する数週間前のことだった。なにかの会合のあと数人で居酒屋に入った。酔っ払っていい気になってきた私は、「レーニンの洗濯女でもできる政治というのは差別的な表現だ」と、どうでもいいことを話し始めた。近くに座っていたAさんが、「それは時代性もあるんだから、それだけをもってレーニン批判を展開するのはおかしい」という主旨の正論を述べられた。隣りにいた桧森さんは、お前は何をくだらないことをしゃべってんだ? というような顔付きで、つまんなそうに酒を飲んでいた。
 そして、先月(2012年3月)三〇日、九回目のささやかな追悼会を、焼身決起した日比谷公園かもめの噴水前で行った。参会者は二十数名。今年はまだ桜が咲いていない。その場でしか会わない顔もあり、旧交を温める場にもなろうとしている。その後に入った居酒屋でKさんから、八〇年代半ばの桧森さんの話をうかがうことができた。長くなるので詳細は省くが、さもありなんという姿で、桧森さんのまっすぐさを感じられて少しうれしくなった。
 十年。短いようで短い歳月である。日本も世界も、私たち個々人の生活も、それなりに激動の日々であったと、だれしもが振り返ることだろう。その時間を桧森さんとも共有し、お互いに生活にあえぎ、酒を飲みながら愚痴をこぼし合いたかったと思わなくもないけれど、それは言っても詮方ないことだ。桧森さんの焼身決起の意味や理由を軽々しく論じたり、桧森さんとの近しさを誇示して何かを語るつもりもない。桧森さんの追悼めいたことを述べるのも、これで最後にしよう。

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