今日(11月24日)の 月に一回の 『吾妻鏡』講義は 源頼家の甲(かぶと)始めでした。
文治4年(1188年)7月10日 万寿公(頼家)7才 (満5才10ヶ月)。
北条義時が 御簾(みす)を上げると 若君の乳母の夫の 平賀(源)義信と 比企能
員(よしかず 乳母の兄)を両脇に 万寿公が現れる。
小山朝政が直垂(ひたたれ 上下に分かれた男性用の和服)を着せる。
千葉常胤が息子3人に運ばせた櫃から 甲を出して着せると 梶原景季(景時嫡男)と 三浦義連が それぞれ剣を捧げ 庄司行平が弓を 佐々木盛綱が矢を献じた。
八田知家が 子息の朝重に引かせた 黒馬を献上すると 三浦義澄、畠山重忠、和田義
盛等が 若君を馬に乗せた。
葛西清重、小山朝光が轡をとり 左右に 小笠原長経、千葉胤通、比企時員 を従えて
南庭を三回り 足立遠元が 抱えて降ろした。
後の宴会では 小山朝光が初献を 三浦義村が二献を 葛西清重が三献した。
これらの役には それぞれ序列があり かなり役目が低い 轡をとった小山朝光と葛西
清重の盃の順が早いのは それが気遣われてのこと。
『吾妻鏡』には 誰が頼朝に気に入られているか とか この人は頼朝旗揚げ時からの家来だとか この人は元は平氏側だったから 序列は低いとか そんなことばかり書いてあります。
お気づきでしょうが 地名が苗字っていうのが ほとんどなのですね。
風呼r でした
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