ピカソ・マニマニア

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2009年  原 辰徳イヤー

2009-11-13 19:16:31 | 日記
 

昨11月12日は 平成天皇のご即位20周年記念式典でした。

両陛下が提灯を振られるお姿がとても微笑ましかった。

近頃行動といい言動といい こんなに安心して見ていられるカップルも珍しいのではないのかと思います。


原辰徳さんが お祝いを述べられていました。

3月のWBCの優勝で始まり 11月の日本シリーズ制覇で締めくくる 今年は正に 原辰徳イヤーでしたね。

両陛下に祝辞を述べる 原監督を見ていて またまた昔を思い出しました。

1965年、夏の高校野球甲子園大会で 原辰徳の父親の 原貢監督の率いる福岡の三池工業高校が 初出場で初優勝しました。
その実績を買われて 原貢氏は 神奈川県にある 東海大相模高校の野球部監督に引き抜かれます。

当時 私の父は神奈川県厚木市で 内科医院を開業しており 同市緑ヶ丘に住む もう亡くなられましたが 原辰徳さんのお母様が患者さんとしてお見えでした。

なれない土地なのに ご主人は野球部の合宿所に寝泊りで 殆ど家に帰って来られない状態。 東京生活が長いのに一向に方言が抜けない 博多生まれの私の父と博多弁丸出しで話せるのが 嬉しかったらしくちょくちょく来院されていました。

「せんせ せんせ あっちが変、こっちが痛い」 
「あんたの病気は 父ちゃんが帰ってきたらいっぺんに治ると」
いつも同じふたりの会話でした。

時々 小学校1,2年位の男の子と 幼稚園位の女の子の 2人のお子さんも連れてこられましたが その男の子が 原辰徳くんだったのですね。


後に東海大相模高校で 子母澤寛作の 勝子吉と麟太郎親子を描いた小説にちなんで 『父子鷹』 と呼ばれ 甲子園で大学野球で 大活躍されます。


巨人軍の監督になられる前、 ラヂオ番組をもっていらして 厚木市に越して来た頃の事を話されました。
故郷を懐かしんで 家族で 相模川で精霊流しをしたそうです。

ドラフト会議の抽選の日は 朝から大山に登り 山頂で結果を待ったそう。


こういう方は やっぱり人智で測れないものを 味方につけられるのですね。



                  
     

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