この二ヶ月間に聴いた音楽はあまりない、週末は自宅に帰っていたので何かを聴こうと思えば沢山聴くことだってできたのが、日曜の午後にはとんぼ返りして都内の某所に向かうと思うと落ち着かないことしきりだったし、親類の葬式が続いたもして、きちんと音楽を聴こうという気になれなかったのである。
従ってその間に聴いた音楽というと、もっぱらiPodで通勤の途中に聴いたものということになるが、その中で何を良く聴いたかといえば、これが意外にもブラームスの管弦楽曲なのであった。しかも、四つの交響曲とか三つの協奏曲なんかではなく(まぁ、これも良く聴いたけど)、この春に初めて聴いたばかりの「セレナード第1,2番」を一番頻繁に聴いたというのは自分でも意外であった。
春先にも書いたとおりこの2曲はブラームスの管弦楽曲の中では、いわば習作に位置するもので、交響曲や協奏曲はいわずもがな、「大学祝典序曲」とかああいった小ぶりな曲より音楽的な価値は低い....というのが一般的な通年だと思う。実際、春先にこの曲を初めて聴いた時の自分のレビュウを読んでみても、いわば歴史的価値みたいなものを重視した聴き方で、特に音楽そのものに感心した様子はないので、やはり自分でもそんな印象だったと思う。
ところが、ふとしたきっかけでこれを通勤途中で聴いてみると、なかなか具合が良い。おそらく「セレナード」という曲名に込めた、散文的で軽い気分のようなものが、通勤というシチュエーションにマッチしたのだと思う。どう考えてもバラ色とはいえない、「あぁ、これからまたしんどいトレーニング(授業)か、やれやれ」みたいなブルーな気分が、この曲に横溢している「牧歌的なムードの中にちらほらと見え隠れする陰影感」のようなと絶妙にシンクロしたということなのかもしれないが、もちろんこれは後付の理屈だ。
演奏はケルテスが60年代に振ロンドン響をふったデッカ盤がiPodに入っていたので、これオンリーである。おそらく、ブラームスにしてはリズミカルでややシャープ演奏なんじゃないと思う。この演奏の前に聴いていた若き日のアバドが振った演奏を聴いているが、ほとんと覚えていない....どんな演奏だったのだろう?。
従ってその間に聴いた音楽というと、もっぱらiPodで通勤の途中に聴いたものということになるが、その中で何を良く聴いたかといえば、これが意外にもブラームスの管弦楽曲なのであった。しかも、四つの交響曲とか三つの協奏曲なんかではなく(まぁ、これも良く聴いたけど)、この春に初めて聴いたばかりの「セレナード第1,2番」を一番頻繁に聴いたというのは自分でも意外であった。
春先にも書いたとおりこの2曲はブラームスの管弦楽曲の中では、いわば習作に位置するもので、交響曲や協奏曲はいわずもがな、「大学祝典序曲」とかああいった小ぶりな曲より音楽的な価値は低い....というのが一般的な通年だと思う。実際、春先にこの曲を初めて聴いた時の自分のレビュウを読んでみても、いわば歴史的価値みたいなものを重視した聴き方で、特に音楽そのものに感心した様子はないので、やはり自分でもそんな印象だったと思う。
ところが、ふとしたきっかけでこれを通勤途中で聴いてみると、なかなか具合が良い。おそらく「セレナード」という曲名に込めた、散文的で軽い気分のようなものが、通勤というシチュエーションにマッチしたのだと思う。どう考えてもバラ色とはいえない、「あぁ、これからまたしんどいトレーニング(授業)か、やれやれ」みたいなブルーな気分が、この曲に横溢している「牧歌的なムードの中にちらほらと見え隠れする陰影感」のようなと絶妙にシンクロしたということなのかもしれないが、もちろんこれは後付の理屈だ。
演奏はケルテスが60年代に振ロンドン響をふったデッカ盤がiPodに入っていたので、これオンリーである。おそらく、ブラームスにしてはリズミカルでややシャープ演奏なんじゃないと思う。この演奏の前に聴いていた若き日のアバドが振った演奏を聴いているが、ほとんと覚えていない....どんな演奏だったのだろう?。