このお盆休み中に、「用心棒」と「椿三十郎」を観た。多分、どちらも7回目か、8回目である。私は黒澤明の作品はちと説教臭いところがあるのが災いしているのか、それほど入れ込んでいる訳ではないけれど、この2作品ばかりは、1年か2年に一度は必ず観たくなるし、その度とんでもなくおもしろい、そして新たな発見がある....というくらいに好きな作品である。どちらも、「映画作家としての黒澤」というよりは、むしろ「映画職人としてお仕事」みたいな作品であり、黒澤自身のメッセージだの信条だのからいささか離れて成立しているのが、私にとっては敷居が低いのかもしれない。某巨大匿名掲示板群にもその手の書き込みがあったけれど(※)、この2本などかろうじてそれに近い作品なのではないか。
などと、このまま映画本編のことを書きそうになってしまうが、それについてはまたいずれ書くこともあるだろう。今夜の主題はサントラである。この2本のサントラは佐藤勝が担当しているのだが、どちらも早坂文夫の後を継いだ佐藤のおそらく彼の代表作といっていいだろう。彼の音楽は例えば伊福部先生のようなオーケストラをガンガン鳴らすタイプではなく、どちらかというと小編成のコンボのようなスタイルで(彼は万能なので、フルオーケストラでもジャズでも平気でやってしまうのだが)、全般にジャンル横断的なフットワークの軽さと妙に記憶に残る音響、そして苦みの効いた旋律....といったあたりに特徴があると思うのだけれど、この両作品にはしばらく前にとりあげた「美女と液体人間」のようなジャズ風味はないけれど、彼の美点をフルに発揮した傑作中の傑作という気がする。
特に「用心棒」は傑作中の傑作だ。打楽器のドロドロ、チェンバロの切れ込み、ブラスと低弦の不穏な動きに導かれて始まるメインテーマのずる賢そうな調子良さはまさに「桑畑三十郎」そのものである。ついでに書けば、こうした響きは当時としては、かなりモダンなものだったのではないだろうか。馬目の清兵衛のテーマの剽軽さなどもそうだが、時にストラヴィンスキーの新古典派的な音響に近づきもするこの音楽は、少なくともチャンバラ劇としては相当に破格だった気がする。とりわけ、ラストの対決のシーンの緊張感など、音楽だけ聴いていても実に素晴らしい。ついでに書けば、それらとは対照的に百姓小平(土屋嘉男ね)とその女房ぬい(司葉子、もうどうしようもなく美しい)のところで流れる悲劇的なテーマも、全編荒涼とした音響に彩られた音楽の中にあって、その叙情性が光っている....。
※ とても良くできた脚本を入手したプロデューサーが/「一字一句変えずに撮れ!」と黒澤に厳命した作品を見てみたかった。/職人監督・雇われ監督に徹した作品みたいなの。/きっとすごいテクニックの集大成が見られたと思う。
などと、このまま映画本編のことを書きそうになってしまうが、それについてはまたいずれ書くこともあるだろう。今夜の主題はサントラである。この2本のサントラは佐藤勝が担当しているのだが、どちらも早坂文夫の後を継いだ佐藤のおそらく彼の代表作といっていいだろう。彼の音楽は例えば伊福部先生のようなオーケストラをガンガン鳴らすタイプではなく、どちらかというと小編成のコンボのようなスタイルで(彼は万能なので、フルオーケストラでもジャズでも平気でやってしまうのだが)、全般にジャンル横断的なフットワークの軽さと妙に記憶に残る音響、そして苦みの効いた旋律....といったあたりに特徴があると思うのだけれど、この両作品にはしばらく前にとりあげた「美女と液体人間」のようなジャズ風味はないけれど、彼の美点をフルに発揮した傑作中の傑作という気がする。
特に「用心棒」は傑作中の傑作だ。打楽器のドロドロ、チェンバロの切れ込み、ブラスと低弦の不穏な動きに導かれて始まるメインテーマのずる賢そうな調子良さはまさに「桑畑三十郎」そのものである。ついでに書けば、こうした響きは当時としては、かなりモダンなものだったのではないだろうか。馬目の清兵衛のテーマの剽軽さなどもそうだが、時にストラヴィンスキーの新古典派的な音響に近づきもするこの音楽は、少なくともチャンバラ劇としては相当に破格だった気がする。とりわけ、ラストの対決のシーンの緊張感など、音楽だけ聴いていても実に素晴らしい。ついでに書けば、それらとは対照的に百姓小平(土屋嘉男ね)とその女房ぬい(司葉子、もうどうしようもなく美しい)のところで流れる悲劇的なテーマも、全編荒涼とした音響に彩られた音楽の中にあって、その叙情性が光っている....。
※ とても良くできた脚本を入手したプロデューサーが/「一字一句変えずに撮れ!」と黒澤に厳命した作品を見てみたかった。/職人監督・雇われ監督に徹した作品みたいなの。/きっとすごいテクニックの集大成が見られたと思う。