孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

嘘つき欲張りサタン同士の全員参加型どんぐりの背比べ&知恵比べ&力比べがこの世です。

2013年05月31日 | Weblog
自分のことは自分が一番よく知っていますから、
噓つきは泥棒の始まりと知っていても自分のためなら嘘をつきます。
だから嘘を承知で嘘がつけるのですから心はサタンです。

ところが幼子の嘘は可愛らしさがあります。
だから小さな嘘なら許してくれます。

しかし嘘は絶対に悪いとしたらこの世は全員がサタンになります。
そうなるとこの世には善人がいませんから悪の世界になります。
ところが自分が悪人だと認識している人は多くはいませんし、中には善人面して悪を裁いたり懲らしめる輩が大勢います。

しかもそれが可能になっているのがこの世です。
何でか、それは大きい小さいで決めているからです。
だから小さな嘘つきの人が大きな嘘つきの人をお前が悪いと決め付けているその矛盾があるからです。
そして皆がその矛盾の中で生きているのです。

だから自分が生きるためなら許される嘘でもってして何かと否定反発&陥れたり蹴落としたり、また自分に都合がいいように飴と鞭の使い分けでもって束縛制限支配したがるのです。
そして私が正しいと自己主張して勝って認められればその集合意識からして正義の味方ヒーロー主人公にもなれるのです。

すなわち不完全な邪な意識の者&サタン同士の「どんぐりの背比べ」が如きの知恵比べ力比べ(大きいか小さいか)(全員参加型)にして比較競争差別しあっているのがこの世です。

そして賢く利口でもってして嘘がばれないように守ったり、また同じ仲間を多く集めることで正当化したり、更に勢力拡大にしてそれを正義に摩り替えるなど自由自在に人を操ることも出来るのですからまさにサタンです。


しかしその不完全意識に(大や小に限らず)気付いた者たちが宇宙&神の愛の精神世界でもって学び知り気付きながらにしてその意識を修正改革しようとしているのです。
またそれが人間としての役割使命だとも気付き知ったわけです。

だからその嘘や欲張りでもってして何か事を成すことでもないのなら、
そこで無理する事無く&気にする事無く&気楽に生きながらにして、先ずは些細なことからして気付いていくその自力・感性・精神力・実践力でもってして自らの意識を宇宙&神の愛意識に修正改革していくしか他に道はありません。

人間関係の中での「誘う&誘われる」(巻き込む&巻き込まれる)矛盾と葛藤があります。

2013年05月30日 | Weblog
過疎地でもって単身自由孤独にして暮らしていると「誘う」(巻き込む)ことも「誘われる」(巻き込まれる)こともありません。
ちなみに一年に一回の「赤い羽根」募金を集めに来る人がいるからそれに協力するくらいです。
しかし成り行き任せだけに私が人様を誘うこともありません。

巷では地域行事やその会合や勧誘があり、また仕事関係での冠婚葬祭・送別会・歓迎会・記念行事や職場の飲み会があり、親戚家族関係でも様々な催し集まりがあります。
そして誘う側になったり誘われる側にもなっています。

ちなみに雨の降る日や猛暑や凍てつく日に冠婚葬祭があればどう思います。
生活費や小遣いを切り詰めたいのに余計に出費する事になるとどう思います。

地域や仕事関係と個人や家庭の事情とが重なったときにどうします。
何らかの事情があるときに友人知人・先輩後輩・恩師恩人から何かに誘われたらどうします。

ちなみに断りたくても断れないのが人情でしょうか、
それでも名実口実があれば断ることも出来ます。

ところが自分の都合が良いことなら名実口実を出して断る必要はありません。
と言うように名実口実を自分の都合のいいように使い分けていませんか。

ちなみに「しがらみ」が有るのと無いのと何れが都合がいいのでしょうか、
それもやはり使い分けているのでしょう。

すなわち矛盾でもって自分を守っているのです。

これらは些細なことのように思うかもしれませんが、
ところがその矛盾の中で生きていると自力自信のない弱い精神に更なる精神的負担・ストレスが積み重なるのです。
だから「癒し」が必要になっているのです。

然るに人間の肉体や感情体は頑丈丈夫に出来ていても(現代人ほど)精神体は貧そ軟弱なのです。
だからして灼熱地獄でも氷結の中でも火の中水の中や危険と隣り合わせの冒険探検も出来ますし、災害被災地や漂流や地下に閉じ込められても生還する人がいますが、しかし不安心配恐怖には弱いことからしてその精神力が弱いほど助かる率が低いのは事実です。

だから肉体的外傷や内臓疾患は治癒治療しやすいしまた感情の起伏は収まりやすいが、
しかし不安心配恐れ恐怖など(高所閉所恐怖症や自律神経失調症や恐怖心など)の精神面での治癒治療は難しいのです。

また「病は気から」ですから、その精神意識が原因からして病気&精神疾患にもなります。

ところがその精神体よりも肉体や感情体を気にして生きている人が多いのです。
だから喜怒哀楽・変化刺激・快感快楽の生き方を選ぶことが多くて精神面の安心安全の生き方は後回しにされているのです。
だから尚更に精神面が弱いのです。

しかも肉体や感情体で生きるよりも精神体で生きることが難しいのにそれが蔑ろにされ敬遠までしているところがあります。

ところが実際に自力と自信の精神力の実践で生きてみると肉体や感情体がどうでもいいことになり、その精神面で生きることに真価価値が見い出せたのです。

すなわち闇の中でさ迷っている中に一筋の光が見え出したのです。

ところがせっかく精神世界に足を踏み入れ一筋の光を見い出したのに何故かよそ見をする人が多くいますから、その暗闇の中では方向性がまったく判りませんから、一度よそ見をすると元の光の位置を見失ってしまうこともあるのです。
だから中には二度と元に戻る事無くさ迷い続ける人もいます。

だから不完全意識ながらもよそ見する事無く一筋&一直線上&一本道&同じ方向を自らの感性を研ぎ澄まして(自問自答しながら)歩き続けるしかありません。

とにかく肉体や感情体は元に戻しやすいが「精神を元に戻す」ことは至難の業です。

しかも私は正しいと思い込んでいれば尚更に厄介になります。
更に思い込み錯覚勘違いや洗脳や陶酔まであるのですから、邪な精神世界に係わることがあれば尚更に危ない(犯罪事件に係わるような)危機的精神&意識に陥りる危険さえ潜んでいます。

だから「遅かりし内蔵助」「後悔先に立たず」になる以前に(元に戻れる内に)矛盾のない一本道&一筋の光の道しるべを知ることができる<完全真理>を学び知ることです。

頑張り努力が実らずにして虚しさを味わう人生にお金と時間を費やしている私たちです。

2013年05月29日 | Weblog
楽しく生きていたいのは山々なれどその分だけお金が多く要ります。
しかし楽に生きるなら少ないお金で十分です。

楽しく生きていたければその分だけ時間が多く必要ですからその分だけ時間が短く感じて忙しくなります。
しかし楽に生きるのであればその分だけ時間が長く感じて暇で退屈します。

楽しく生きるためにはその分だけ多くの人と係わることになります。
しかし楽に生きるのであれば自分一人でも大丈夫です。


となると楽しく生きるためには多くの時間と多くのお金と多くの人と係わらなければ楽しくありません。
だから尚更に忙しく生きることになります。

しかし楽に生きるのであれば少ない時間と少ないお金と少ない人間関係の中で十分です。
だから尚更に暇で退屈します。

だから忙しく生きる人には様々な便利な道具機器や大掛かりな機械などが必要になります。
しかし楽に生きる人には不便な道具であってもまた大掛かりな機器や機械が無くても自力でもってやりますから大丈夫です。

ところがどうやら忙しく生きている人ほど人間関係が多いのに何故か内面では寂しいようです。
だから尚更に目立つ服装や装身具で着飾りそして派手で賑やかな所へ出向きたがるようです。
しかし楽に生きている人ならその人間関係が重石になるから孤独を好むようですし質素素朴静寂が好きなようです。

その人間関係が多いとその分だけ束縛制限されますから窮屈な思いをします。
しかし楽に生きる人は人間関係が少ないからその分だけ気にせずに開放的な自由な思いで生きていけます。

また誰もが私は正しいと主張したがりますからその人間関係が多いとどうしても互いが否定反発することが多くなりますし持ち前の不信感からして自分を守りたがりますから用心深くもなり敵対心も出てくるので安心安全とはなりません。

となると楽しく生きているつもりが(束縛制限&否定反発&不信感からして)ちっとも楽しく生きていることにはなりません。
どうやら錯覚勘違いして楽しく生きているつもり(思い込み妄想)になっているようです。

だからか趣味嗜好娯楽&変化刺激快感快楽やアルコールなどで(感覚を麻痺させて)酔いしれて(陶酔して)いたいようです。
それとも外面は楽しそうに振舞っているが内面では苦虫を噛み締めているのではないのでしょうか。

だから何か不都合な事になるとそれがきっかけからして此れまでの不満不足を(堪忍袋の緒が切れたように)吐き出すが如くに相手を責め立てます。
少なからずともなんか報復仕返し復讐されているみたいになります。

そして此れまでの頑張り努力苦労が実らずにして水の泡の如くに消えてただ虚しさだけが漂い残ります。
そんな人生に多くのお金と時間を費やしているのが私たちです。

私のことを一番よく知っているのは私自身です。だから内在心を偽ることは出来ません。

2013年05月28日 | Weblog
私のことを一番よく知っているのは私自身です。だから自分を偽ることは出来ません。
だから自分の良いところは人に見せたがりますから、そこで自己主張&自己顕示したがりますが、自分の悪いところは人に見られたくないからどうしても隠したがりますしそれを守りたがります。

だから美肌の人だと惜しげもなく肌を露出しますが肌荒れやシミがあればそれを化粧で隠したがりますからそのスッピンを見られないように守りたがります。

また悪いことをするときは自分が悪いことをしていることを自分は知っていますからどうしても人に隠れて密かに行いますが、自分が良いことをしているときはそれを人に見せびらかしたがります。

ちなみに漫画などで自分の中に天子とサタンがいて、良いことをするときは天子に従いますが、欲が出たときはサタンの誘惑に従う事になります。
と言うように人間の本能のままなら己が一人ですが、良い悪いで判断するからには自分の中に天子とサタンがいることになります。

ところが日々の生活の中で天子が登場することよりもサタンが出てくることが多いことからして困ったことに陥るわけです。
すなわち天子が登場するチャンスが少なくて何でかサタンが出てくるのに都合がいいのがこの世でありその人間関係だからです。

何たって欲張らなければ生きていけないような仕組みになっているからサタンが余計に多く出てくるわけです。
しかもその事を先刻承知の上でやっているがゆえにまったく天子が登場する余裕も隙間も暇もないのだから当然です。

とにかく天子が頻繁に登場してくると、この世では飯の食い上げとなって生き難いのです。
何たって殆どの人がサタンの言いなりになって動いているのですから、
しかもサタンが天子に成りすまして邪な道を教えているのだから同じサタンが増えるのも当たり前です。

しかもその邪な欲を持って動いている事を(自分のことは自分が一番よく知っていることからして)百も承知の上なのに(自分が得なだけに)(言い訳正当化&誤魔化して)偽の天子&サタンに従っている人がいるのだから「どうしようも」ないわけです。

しかも真面目で素直で謙虚にしてその天子が出てこようとすると迷惑千万とばかりに他の者が寄って集って押さえつけたり邪魔立てをするのだから「どうしようも」ないのです。

だからそんな不完全なこの世や人間関係を気にする事無く(惑わされる事無く)自分独りでもって己の精神世界&内在心の中で自問自答し気付きながらその気付きでもって自らの意識を修正改革していく道しかないと思っている私です。

と言っても私も天子とサタンを持っていますから、この先どうなるかは予測不可能ですが、とにかく神様や人様や自分を信じて動くのではなくして自らの自力とその自信でもって(自己責任)動きますから、この先でどんな結果が出ようとも自分なりに納得出来ますし、しかも生きてさえいれば何とな成るだけに(何事にも平気ですから)その結果結末を(良しかれ悪かれ)楽しみにして待っているのです。

精神世界を実践したのにそれが見える結果にならないと不満不足&失意する人がいます。

2013年05月27日 | Weblog
成り行きの必然ご縁で仕組まれることを書いていますが、
私が成り行き任せに生きていただけに結婚も見合い結婚でしたし、その家庭生活も子育て教育も私は成り行きにしてきました。
また成り行き任せがゆえに否定反発&束縛制限しないタイプでしたから「来るものは拒まず去るものは追わず」でした。

そして今の過疎地暮らしが始まったのも、先ずは嫁いだ娘夫婦が言いだしっぺであり、私はその娘の思いが叶うように付き添っていた感じです。
そして今の過疎地の廃屋を紹介してくれた人と私のご縁はビデオ関係がご縁でした。
しかも先方からして我が方へ必然からして来られた大学の教授で明暗流尺八の名人でして、その尺八の恩師の記録をビデオに残すためだったので、それならばとビデオ撮影機材を無償で貸し出したのがご縁の始まりです。

そしてもう一方では不登校学生を受け入れるフリースクール創立に力を入れていましたので、その何回目かの記念講演に映画「学校」「寅さん」の監督を招いていたこともあってその撮影にも行くなどのご縁が(儲けにもならない腐れ縁が)長く続いていました。

そして私が何気なく娘が田舎暮らしの物件を探していることを話したら何とその教授が既に田舎暮らしをしており、しかもテレビ取材され放送されていたのですから真坂のご縁になったわけです。

その真坂がまた真坂になり、今の廃屋を購入することが出来たのですが、それも真坂の展開になり娘から私にそのお鉢が廻ってきたのが私の事の始まりです。
また過去にご縁があった超霊能者の場合も同じく必然のご縁がそれも廻りまわって私方へ来るご縁になったのです。

巷に「縁は異なもの」と言われるように
このブログに来られたのも必然のご縁ですし、そのご縁が活かされ続くも終わるも成り行き次第ですから、このブログについてこれなくなった人もいただろうし、またこのご縁があなた方の次なる人とのご縁につながるかもしれませんが、しかしその結果先行きは不透明です。

ゆえにその結果が大きかろうが小さかろうがその結果はあとから決まることですから、先ずは事の始まりきっかけ(ご縁)は些細なことから始まる事のその事実を学び知り気付いただけに、尚のこと「来るものは拒まず去るものは追わず」「成り行き任せ」の精神に磨きがかかりました。

だから出掛けにふと火元のガスレンジが気になれば戻って確認します。
すると急用で重要な電話が掛かってきたり来訪者が来ていたり大事な忘れ物をしていた事に気付いたりすることもありました。

しかし同じように気付いたことが見える状態の形あること、例えば草刈や部屋の汚れやゴミの整理などは気が向かなければほっときます。
すなわち内なる見えないところの気付きと今見えていることの気付きとはその中身が異なるからです。

ところが一般的には見えるほうの気付きを大事にします。
しかし私は先行きが不透明であっても内なる気付きを優先します。

ちなみに何かに気付いてその時間が遅れたことで事故などの有事に遭遇しなかった場合もあるかもしれません。何たって一寸先は闇で見えていませんから。
だから内なる見えない気付きのその結果も見えない場合があるのもやはり精神世界だからです。

だから精神世界を実践したのにそれが見える結果にならないと(本末転倒で)不満不足に思ったり失意する人がいるのです。
またそれだけに神懸り超能力&霊力霊視による見える結果が欲しいのです。

ちなみに私は成り行きが見えない不透明であっても、やはり成り行きに任せるほうが(何らかの結果が出るまで)気にしないで楽チンです。
そして成る様になって結果が出てきたら(良かれ悪しかれ)その時にその結果を素直に味わえばいいだけです。

私は孤独感になるよりも、孤独にして単純明快自由気楽に生きる道を選んでいます。

2013年05月26日 | Weblog
冠婚葬祭などの伝統風習は必然でもって出来た形でもありますが、反対に必然としない場合(裏表の矛盾)もありますから、ゆえに「どうでもいい」ことにもなるのです。

昭和の30年代に結婚式の派手さに問題があるとして質素な結婚式を率先していた時もあります。
また葬式も同様な時がありました、そして豪華な仏壇やお墓を慎むようにしようとしていた時もあります。
しかし何れも元の派手さに戻りました。

また地域の祭りごとなどの伝統行事が廃っていた時期もありますが地域起こしと言う名目からして近年は更に派手になりました。

また猫も杓子もとカラオケはやりの頃に人が集まるところにカラオケありで、時にはキャンプや花見見物に発電機とカラオケ機器を持ち込んでいた時期もあります(現在はどうなのか知りませんが)。

ところで皆さんはキャンプや花見見物や祭り見物や飲み会会食に誘われたときにどうしていますか、
都合が悪いときは言い訳口実を作って逃げていませんか、
なのに自分が参加しているときに参加していない者がいたら何かと批判的になっていませんか、

また独りでキャンプや花見や祭り見物に平然と行けますか、
また身寄りが無かったりご近所付き合いも無く身近な知人もいない孤独な人がそれらに参加する機会があるでしょうか、

いずれにしろ必然からして出来た形ですが、しかし元から無いままに時代が推移していたほうが(苦もなく楽もなく)(都合がいいことも悪いこともなく)何かと問題意識にならなかったのではありませんか、どうでしょう。

結論を早めれば「人は寂しい」のです。
だから寄り集まりたがるのです。
それでも都合が悪いときは敬遠するのです。

だから人間関係の裏が出たりまた巷の流行り廃りがあるのです。
だから「どうでもいい」ことにすれば楽チン省エネになるのです。

更に言えばそれら形が問題ではなくして、何かと人が集まりたがるその意識の中身が問題なのです。

ゆえにあなたが得になることなら実践しますが損なことは敬遠しますね。誰でもが同じです。
だから思惑目的理想が叶うことなら清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟勇気決断実行でもってやるでしょうみ、
しかしこのブログに書いているような精神的な事となると(飯の種にもならないから)(世間話の種にもならないから)言訳正当化口実からして敬遠したいほうでしょう。

ちなみに見栄や世間体からして職場の同僚やご近所や身近な友人知人や家族を気にしている人ほど裏の孤独感を持っている事に気付いていますか、
だから面倒臭いときもあるのに何でか誘われなければ気になるし寂しいでしょう、
ネットや携帯電話でメールしてもその返信が遅かったり返信が無ければ気になり寂しい気がしますね、
また同じ屋根の下で暮らしているのに疎外感を感じたりしませんか、

ところがそれら意識を断ち切ることが精神安定になるのですが、その実践は出来ませんね、
何たって精神面では名・権・財ほどの値打ち価値観が無いからですね、
だから清水の舞台から飛び降りるが如くに実践出来ないわけですね。

すなわち精神面の価値をとらずにして、外見の価値観を取りたいのですね。
気兼ね遠慮の無い自由と孤独の価値ではなくして、喜怒哀楽や孤独感の伴う価値観を得たいのですね。

自分に都合がいいことを取ればその裏の都合が悪いことも一緒に付いてきている事に気付いていますか、
例えば誘われたい気もあるが、誘われたく無い時があるように、
それを交互に味わうのも矛盾意識でありこの世の矛盾なのです。

ちなみにこの(誘う側&誘われる側)単純なことで1ページの文章が書けるほど人間関係&人間意識の葛藤(問題)がありますからあとは自問自答してください。

それでは精神面の(潜在的に積み重なり)気苦労からして疲れています。
昔よりも近年ほど(子供から大人まで)相当に疲れているはずです。
だから内面的な病例症状が巷に多く出ているでしょう。

私は(成り行きながらも)それに気付いたから孤独感になるよりも孤独にてそして単純明快気楽にして自由に生きる道を選んでいるのです。

宗教真理&精神世界を理解するのは簡単なようで複雑難解なところもあります。

2013年05月25日 | Weblog
ちなみに「楽しく」生きるよりも<楽に>生きることを理解できてもそれが実践されて実際にそれを味わっていない限りは自分のもの(本物)になっていません。
となると概ねにして(実践意識になるために)更に深く理解する必要性が出てきます。

すなわち学び知った精神世界を納得確信できていないからその実践も出来ないし、その実践をする気になってもやはり深く学び知ることがなければ実践する自信が出てきません。

だからこのブログの「楽に生きる」「自己縮小」を知っても、その自己縮小が出来ないからその必然性を知るために「完全真理」の基本を理解し納得確信する必要が出てくるのです。

ちなみに奥深く理解する必要性の無い人ほどに既に実践されている事柄が多いはずです。
例えば「執着」しないで呑気さを十分に味わっている人なら、もう既に自らして気付き学んでいるから執着しないでいられるのです。
でなければ今も何かと執着することが多いはずです。

それを言い換えればこのブログを読んだときに既に自分のものになっている事柄が有れば更に深く学び知らなくてもそのままにして(自ら自問自答して)気付いていきますから、いつの日かこのブログを読んだときに奥の深い真理が難なく素直に理解できるようになっているはずです。

だから前もって分厚い書物を読み漁らなくても、またネットで検索しまくらなくても、前もって精神世界の前知識を増やさなくても実践できる人はいつの間にやら自らがその道に進んでいるはずです。
俗に言う結果を求めた先付けではなくして、結果が出たあとで気付く後付になっているはずです。
それが俗に言う自然体になるのです。

だからとて知識を否定しているのではありません。
知識で知ったからこそ(後付で)気付けたわけですから。
ゆえに「自分のもの」(本物)になっているのか否かだけです。

すなわち単なる知識のままに終わるのか、それともその知識が役立つのか、ですが、その知識が不完全な事柄かそれとも完全なのかの見極めも重要です。
それならこのブログの書き始めからして何度も読み返していれば(次第に)理解できることが増えていくはずです。

何たって私自身も(事の始まりは)初心者でしたし、しかも(後で気づく後付の)鈍感なところがありますから、暇で退屈な時間つぶしに(娘との成り行きからして手元にあった)完全真理の録音テープ100本あまりを半年間以上かけて(その中で聞き取りやすい50本は)順繰りに三回以上は聞き直しました。

だから最初は時間つぶしに聞いていたのが少しずつ理解納得が進むほどに聞く耳になり、その事と次第の道理が私の見聞知識や体験経験やまた「何で」の違和感が一本線上につながるほどに更に納得確信に至りました。

そこで今までまったく知らなかったその真実を知る喜び楽しさがありましたし、知れば知るほどに奥行きが深いことからして今も飽きずに続いていますから、いつの間にやら自らの精神世界の中で自問自答しながらも日々呑気気楽に生きているような感じになっています。

ちなみに宗教に入信したり仏門に下ったり冥想や修行をする人が居るのも納得出来ます。
何たって精神世界を知れば知るほどに奥を極めたくなるのも当然だからです。

ところがどっこい巷の宗教真理は矛盾していますから結果的には思考錯誤し悩み迷い葛藤する事になり、最初のときの楽しさが薄らいで次第に苦悩するはずです。
ゆえに極めるほどに悩み続けてそして精神異常&うつ状態からして廃人同様になったり自殺をする人もいます。

なのに宗教真理に係わったことが生き甲斐に思えるようならばそれは単なる自己満足であり、その矛盾するその偽善にまったく気付かないままにいるのか、それとも惑わされたままに洗脳&陶酔しているのかもしれません。

この件に関して苦言があれば思う存分書き込んでください。
と言うよりもブログの最初から真剣に読めば反論の余地がないことに気付いて「実」のある学び実践になります。j

黙示録&マヤの暦の2012年問題等は精神世界に係わる者にたいする嘘も方便になります。

2013年05月24日 | Weblog
マヤの暦が原因からして2012年問題が取り沙汰されていましたが、その2012年問題が起こるとして耕栄さんもまた過去にご縁があった超霊能者も明言していました。

しかし私はそれを信じるか否か(事実か否か)ではなくして、その精神世界で言われていることのその実践のための嘘も方便かもしれないとブログに書いた覚えがあります。
すなわちなかなか実践できないでいる人たちに急を要するような目的意識を持たせてその実践を促すための方便だったわけです。

とにかく実践行動できそうも無いことを実践行動させるには何らかの思惑期待&目的理想がなければ人は動かないのです。
それゆえに特別な神仏霊魂や神懸り奇跡の超能力や霊力霊感に(その期待感からして)魅せられやすいのです。

しかし2012年問題にしろ黙示録的な予言にしろ、宇宙・地球・自然界が変化進化拡大しているのは事実からして、いつの日か「その時」が来るのは間違いありません。
それが水の中の生物が陸上に上がって進化したことやそれら小動物が次第に巨大化し恐竜時代になり死滅したように、また過古の巨大都市が沈没したり廃墟となったように、その始まり終わる繰り返しが事実にあります。

ただ「その時」がいつなのかは成り行きからしての必然ご縁の自然発生的に起こることですから、(仮の例えにして)全知全能の創造主&神様と言えども確かな予測はできないはずです。


その目的意識が無ければ動かないことからして思惑期待&理想目的を持たせるその教えの言葉が美化されたようです。
ところが目的意識でもって始めたことは不完全なだけに裏表のその苦楽を味わいます。

ところが成り行きの必然のご縁であれば(不完全意識同士であっても)自分に出来ることをご縁ある人から必然にして求められたわけですから気分よく楽しく出来るし、受ける側もそれで難義が助かるわけですから、共に喜楽が有っても哀苦は(概ね)ありません。

だから美化された言葉(理想目的)に添うことに酔いしれていると自己拡大&苦楽からは抜け出せません。

しかし呑気気楽にしての(余裕からしての&成り行きの)必然のご縁であれば(暇で退屈からして)喜んで楽しく接することができます。

とは言っても時として我がまま・エゴ丸出しの人とご縁があるときもありますが、その時は必然性に欠けることからして無駄に動かずに簡単な解決の糸口アドバイスで止まります。
それが相手に気に入られなければそのご縁も遠ざかりますが、そのほうが面倒に巻き込まれないから、私には都合がいいことにもなります。

ちなみに理想目的をもって目指すほうがカッコいいしその思い思惑が叶うことを目標にしていますからわりと意気込み実践実行しやすいが、
ところがその思い思惑&理想目的期待の無いままに自然の成り行き任せにするには当然ながらその必然ご縁が仕組まれるその時まで待ち続けている状態になりますから、そのままにして穏やかに待てるその自信と自力が必要ですし、また見栄や世間体(カッコつけ)プライドも捨てなければなりませんから大方の人は無理でしょう。

だから自分を捨てるくらいの度量&精神力実践力が無ければ簡単そうで簡単ではありません。だから何らかの有事がきっかけから始まる人が多いでしょう。

ちなみに内面の精神に関しては単なる思い付きで事が始まることはありません、何たって自分の中に無かったことを新たにはじめるわけですから、清水の舞台から飛び降りるくらいの精神力&実践力が必要になります。
ちなみに私の場合は元から(過去世から)して備わっていたようです。

何はともあれ先ずは気を楽にして心身ともに楽に生きることからして(その自力自信からして)次第に成り行き任せにできるようになっていくと思います。
ただ成り行き任せ&自然体にする必要性がないと思う人には釈迦に説法になります。

己や人様の不完全さを探し出せば幾らでも見つかり出てきます。

2013年05月23日 | Weblog
自己縮小して心身ともに楽にしていても不完全意識はそのままに残っていますから、その不満不足や見栄やプライドが出ます。
だから人が大勢集まる温泉に行くときはシワだらけの着衣にアイロンがけしていますが、それ以前ならシワだらけのヨレヨレの着衣やほころびた肌着や穴の開いた靴下でも平気でした。

また以前なら牛舎の汚れや臭いや粉塵も気にしていなかったのに人が集まるところでしかも裸になることからしてそれらが気になっています。
そして気になることがあるとそれを何とかしなければと思いますから、仕事に行く前から着て行く着衣のことに(以前よりも余計なことに)気を配ります。

また温泉で大声の気合を入れから行動する人、また全身を洗い終わるまで蛇口の湯をフルに出しっぱなしにしている人、肉体美を見せるかのようにボディビルダーをする人などに出くわすたびにそれが気になります。

また牛舎でオーナーが歌謡曲を大音声にして仕事をしているときや大型スーパーの店内宣伝放送の流しっぱなしや温泉場のBGMが私には雑音になります。
ちなみにカエルの大合唱やパチンコや工場などの騒音は当たり前ですから雑音(不自然)ではありません。

しかし以上のことはその場面に出くわしたときのことですから、そこから離れたら気になりません。
すなわち過ぎた思い悩み(執着)にはなりません。

と言うように探し出せば幾らでも出てくるのです。
そして「ちりも積もれば山となる」し小さな嘘が大きくもなるのです。
また人には厳しく己には甘くなるのが一般的です。

だからそれを人為的&意図的に大きな事(悔やみ悩み苦言や腹立ち)にも自らが変えれるのです。
すなわち些細な原点・原因からして(起因になって)(執着するほどに)大きくもなっているのです。

だから気にせずにほっとくことで執着にならないのです。
また大きな事に係わらなければそれだけ穏やかに過ごせるわけです。

だから波乱万丈を自慢する人や名・権・財に執着している人を見れば私は愚かな生き方の人に見えます。
それでもって私は(裏のある不完全ながらも)謙虚素直真面目に立ち振る舞うことにもなっています。

しかし今はすべてが「どうでもいい」ことに思えるだけに(考え直すことも出来るだけに)執着しなくなりました。
だから心身ともに楽チンなのです。

人が集まりたがるその欲が消えるとその無理無駄な余計なことが次第に減っていきます。

2013年05月23日 | Weblog
人が集まるところには何らかの欲絡みが隠れているだけに(私の場合は)その集合体の欲意識が私の欲よりも大きいと(私の感受性からして)それが違和感・威圧感になるのか、そこで居辛くなり私の居場所が無い様に思えるようです。

その欲が金銭絡みとは限らずに名声肩書き的なことで強勢を張りたがるその自己主張・堅持・誇示したがる(目立ちたがる)ことも含まれます。
また「信じるか否か」の<信頼と不信>の相反する矛盾意識エネルギーが会場内に渦巻いていた事にもそれとなく感じていたようです。

だから金がらみの人や目立ちたがる人や助かりたい救われたい思いの他力依存の人、また盲信陶酔洗脳の信者意識の人や信じるか否かで迷っている人、また何かと不信感や否定反発したがる輩までが集っているからです。

だから大勢の人が集まるところに出掛けて行きたい人ほど何らかの欲絡みになっているわけです。


ちなみに世間で人の優しさ思いやりが言われていますが、
しかしながらその世間的にして親が子供に優しくて親切で思いやっていますが、その裏では束縛制限支配&否定反発排除しています。
だから私は束縛制限支配しない否定反発排除しないことが真の優しさ思いやりと確信しています。

だから自他共に自由を大切にしています。
また若い時からして必然ご縁の成り行き任せにしていたのもそれに準じると思います。

私が「何で」の違和感を持つと自問自答することになりますが、その場合は事の始まりの原点を探し見つけることになります。
そうなると世間の常識や伝統風習や道徳や精神世界を説く形やその信仰宗教も大元からして無かったことに気付きます。
また見掛け外見では似通ってはいるが、しかし様々に異なる点&矛盾があることにも気付きます。

いずれにしろ誰かが目立ちたがることや私は正しいの自己主張をやり始めたのが事の始まりになります。
すなわち何らかの欲絡みで始まったところにこれまた同じ欲絡みの人が集まりはじめて(集合意識になって)それが次第に大掛かりになっているのです。
そしてその欲が原因からしてその苦楽・喜怒哀楽を味わう事になります。

ところがそれらの欲が必要なくなればそれら人の集るところに自らが出向いていくことも無くなります。
だから次第に趣味嗜好娯楽に興じることも無くなりその分だけ暇で退屈な時間が多くなります。
また私は若い時から違和感の有った冠婚葬祭や盆や正月やの風習や様々な記念行事も無縁になりました。

その伝統風習&趣味嗜好娯楽などは変化刺激の少なかった昔に始まったことが(派手になりながら)今も引き継がれているのです。

すなわちどうでもいい事を守り続けていることの(金銭物質と時間の浪費になる)余計で無理して無駄になっていることなどを学び知ることになると、次第に外を見るのではなくして内を見るその意識にも磨きが掛かります。

そして食って寝て糞をして生きていく中に自分に出来ることだけをしていれば楽チン省エネにして生きていけます。
またそのためにも否定反発排除&束縛制限支配のない自由が重要なのです。