孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

しがらみを捨て、健康と孤独死を望む、私かな・・・

2009年04月28日 | Weblog
しがらみを捨て、健康と孤独死を望む老後かな・・・
私は世間体や見栄と言ったものにこだわらない性格をしているので、特に世間の風習や冠婚葬祭に対応することが苦手でしたから、未だに新年の挨拶はもとより冠婚葬祭のときに言うべき挨拶さえもまともに出来ません。

新年の正月を迎えても新たな年が始まったとは思えないし、冠婚葬祭の準備で慌しくしていること自体が変に思えていたし、お中元やお歳暮の品定めからお祝いや悔やみの義理返しや、結婚式で仲人や来賓の品格や人数や引き出物が比較されたり、葬儀法要の品定めや花輪の数や仏壇やお墓といったものまでも同じように比較されたりしているのを知ると、何でそんなことに気をもまなければならないのか違和感を持っています。

だから、面白半分に始まった過疎地での遊びの場がいつの間にか生活の拠点となり、本格的に移住した際に過去のしがらみから離れてみる気になったのも必然・道理だったのです。
だからその移住した先のご近所やご縁で知り合いになった人たちにも前もって葬儀には参列しないことをはっきり説明した上で伝えておりますから、実際その通りに実行しても違和感無く、そのご縁に応じたお付き合をすることができています。

マスコミ報道で孤独死が何かと言われていますが、しがらみから離れた私ですから孤独死は望むところです。
一日のほとんどが山の中の単独行動であり、用事がない限り電話を使うことも無く、しかも80歳代の後期高齢者3人が独り暮らしをしているですからめったに往来することもありませんから、私が脳梗塞や心筋梗塞で意識を失えばそのまま死にいたる可能性が大ですから、便所や風呂場で発見されたときは腐敗して白骨化しているかもしれません。

生まれたからには死は当然です。 遅かれ早かれ死ぬ時がくれば死ぬだけですから執着はありません。 
死は単なる肉体の死ですから、命・意識・魂といわれる衣食住や財の要らない、良くも悪くも無い、天国でも地獄でもない自分にお似合いの意識次元の世界に行くだけです。

そもそも死を特別にしたのが世間ですから、その世間的見識のない私には死は当たり前に受け止める準備は出来ているのです。
だから孤独死も平気ですし、病気とは闘わない方針ですから健康診断もしていないし、がん等の大病を患っても手術や延命治療は必要ないし、また遺体を献体登録していますから、葬儀法要はもちろんお墓は不要と家族に伝えており了解してもらっていますから、私が孤独死することは、人にあまり厄介をかけずに死ねるのだから価値ある死に方に思えるのです。

高齢化社会の老人介護の問題が言われているときですが・・・ 私の場合は娘や息子に親孝行は不要としっかり伝えており、親のことで自分の家族が犠牲になることをしてほしくは無いので、ほっといてくれることが逆に親孝行だとも伝えています。
誰もが死を前にして手厚い介護を受けられることは喜び感謝ではありますが、家族が負担するとなるとそこには必ず何らかの無理問題が当然あります。 だから、私が死に対して執着していないだけ、たとえほっとかれて死期が早まるのも素直に受け入れられますから、結果的に死を前にした寝たきり介護を受ける期間が短縮されます。

★死★を特別に思う人ほど執着心が強く、それだけに特別な名医の神の手の手術や延命治療や他人の臓器まで移植して生きながらえようとしますが、病気や死と闘う人ほど薬漬けの要介護や寝たきりになる可能性が高くなります。

私としては自分のことを自分が出来る健康な間に元気よく死にたいのです。
人様からいろいろと気使いしてくれることも喜び感謝になっていますが、それが無くても大丈夫だから、のん気に好き勝手なことをして自由に生きていたいのです。
だから健康こそが基本になります。 銭金や物が無くても健康さえあればどうにでも生きていける自信があります。
しかも豊かな銭金や物を持っていることが逆に人間としての生き方や死に方の邪魔をしているとさえ思える意識のお陰から・・・(良いとこ取りの他力を欲張る)医者や薬剤に頼ることよりも、先ずは価値観・意識を変えてストレスの無い生き方で楽しく生きて、自分の備わっている自力・治癒力・生命力によって健康を維持することを実践しているのです。
そして月5万円の年金から5千円から1万円程度「ファバラ」エネルギー製品を毎月愛用していますから、そのファバラのお陰様を体感・実感することも出来ています。

ここらで良い悪いの判断で生まれた間違った常識や道徳風習や死の意味を見つめ直したり、高齢化社会の我が身に起こる健康問題や痴呆症などの老後や要介護や医術薬剤による寝たきり介護を考えてみるときかもしれません。

終わりなき 「悩み苦しみ不安」 を消すには・・・

2009年04月25日 | Weblog
悩み・苦しみ・不安は何処から来るのか? それは社会や他のものから来るのでしょうか? もしそうだと思われている人は勘違いをしています。
悩み苦しみ不安は自分の中から出ているものですから、誰の性でもなく、自分の意識に原因があるのです。
例えば自己縮小を実践していて、ただ生きているだけで丸儲けと思っている人なら、いま生きていることが喜び感謝になりますから、生老病死や喜怒哀楽の悩み苦しみ不安を持つことが次第に無くなっていきます。

ところが私たちは自分という個人意識を持っている関係から、まず先に自分さえ良ければが優先されますので、その自分の思い通りに行かないことがあれば不平不満を持つことになり、それが悩み苦しみ不安を持つことにもなるのです。

そして人間は悩み苦しみ不安を持っていれば生きていけなくなります。
そこで悩み苦しみ不安を取り除く行動をすることになりますが、自分という個が先にある以上はどんなに一生懸命やっても、また新たな悩み苦しみ不安を持つことになります。
その繰り返しで時代が進化発展して来ましたが、未だに悩み苦しみ不安が消えないで更に大きくなっています。
すなわち以前の時代とは違った形になっても、その時代の進化と同じように悩み苦しみ不安も同時に進化してきたのです。

悩み苦しみ不安を取り除くために豊かさを求めることをしてきました・・・ 趣味思考娯楽や刺激を追及してきました・・・
中には波乱万丈の人生や艱難辛苦の修行をしてきた人もいました・・・ 名誉名声・権威権力を持つことに熱心な人もいます・・・
しかしそれらは自己満足や自己主張や自己顕示になっても、悩み苦しみ不安が付きまとい決して消えることはありません。

すなわち、自分さえ良かったらの個人意識から善悪・損得・優劣で判断し、自分に都合がいいように使い分けしている以上、その裏表の矛盾に試行錯誤したり葛藤することになり、決して悩み苦しみ不安から開放されることはありません。

生き続けることに支障がある悩み苦しみ不安を豊かさや趣味思考娯楽や刺激で自己満足して忘れていても決して消えることはありませんから、それらが溜まり続けている現状からして・・・ まさかの有事・天災災害でなくても、ほんの些細なきっかけが有事となり、仲間や家族を切り捨て裏切ることになったり、まさかの思いもよらない行動に出たり、精神に異常をきたしたり、また不信感やストレスから病・感染症を引き起こす人も多くなっていきます。

幾多の修行を積み重ねてきた人も、波乱万丈に勝ち抜いてきた人も、豊かな今を極楽浄土に思っている人も、趣味思考娯楽や刺激で満たされている人も、または自分が負け組みの劣ると思っている人も、差別され虐げられていると思っている人も、それは事実ではありません。 そう思っている人やそう思えている人だけの個人の限られた「思い」想像ですから、現実に実在していることではないから非実在になります。
その非実在の個人の思い、その個人意識を終わらせれば自ずと実在する「愛」意識の人間に戻れるのです。
すなわち、始まりなき終わりなき愛、その愛の全知全能で創造されてきたのがこの世だから、この世に実在しているのは「愛」しかなないのです。
その元からある愛の灯火を消して、始まりがあって終わりなき個の思い個人意識を灯して生きているのです。
だからその悩み苦しみ不安となることを克服するために個の思い描く理想や目的を成すことは正しいと思って、皆が一生懸命頑張続けていたのです。
しかし、あるように思っている非実在をどんなにやり遂げても、それは非自在だから決して終わりがないのです。
その終わりのない悩み苦しみ不安を無くする為にいくら頑張ってもすべてが無駄に終わるのです。

始まりなき終わりなき愛である「あるがまま」の現実・実在を見るだけにして、そこに「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断さえしなければ「そのまま、このまま、あるがまま」の愛意識の人間に戻れるのです。
すなわち私たちの個人意識は非実在になりますが、各自の持つ個性・役割は実在する愛ですから、その個性を見る個性意識が「あるがまま」の愛になるのです。 個人意識から個性意識に変わっていくのです。

本物、真実・事実を知るためには

2009年04月22日 | Weblog
私は「新もの喰い」の性格ですから次々と目新しいものを求めてきましたが・・・ 20年前は奇跡的な効果が出る機能性健康食品、そして摩訶不思議な水の世界及び宇宙エネルギーとなり、それが縁で霊魂や想念の世界、そして最後となる山田耕栄さんの完全真理とファバラエネルギーと歩んできましたが、その間たくさんの人と出会い、また離れていく人もたくさんいましたが、そのご縁が途絶えることになる原因に欲得損得勘定と強い思い込みによる執着がありました。

このプログを読まれている人の意識の中に「持つべきものを持っている」から、その必然でこのプログに来られているのです。
すなわち意識していることの関心があったから来られた訳ですが、その関心がずれ出すと離れていくことにもなったり、欲得損得だけで離れていくことにもなります。
だから最初は「目からウロコが落ちた」「お陰様で」と言われていても、やがて自分の思い思惑からずれ出すと同時にご縁が少しずつ遠のき、やがて無かったことになってしまいます。

例えば、感謝される立場を望んで活躍している人の自慢話に対して、特別なことをして感謝されることより自分が感謝することが大切で、感謝できる人、有難いが言える人のほうが愛の人になれると説明すると、それ限りでご縁が終わることもあります。
また、摩訶不思議なことだけに本物と偽物の見分けが難しいのですが、妄信したり、欲を出さないでいれば、やがて気付いたり見極めができるのですが、そこに欲得損得が強く出るとそれが見えなくなります。

そこで、見えないことを本物か偽物かに見極めるのは難しいから、それが判るまで意識し続け行為行動していくしかありません。
それが内容的に理解できないことであっても否定反発しないで、先に信じようとする意識や白黒を確かめようとする動きは必要になりますし、中途半端に終わらせないで白黒をはっきりと自覚できるまでやり続けることも大切です。
その基準になるのが・・・「矛盾」があれば不完全だから、完全ではないのです。★重要★

そうした幾段かの段階を歩みながら進むことでやがて本物にめぐり合えるのです。
それが「意識の世界」であり、必然・めぐり合わせが起こる原因です。
だから、理解に苦しみながらでも意識してやり続けていれば自ずと見極めが付くようになっていきます。
とにかくあまり欲を出さずに、あわて急がないで、意識だけはしっかり持って続けることです。

「騙されたものが悪い」と昔から言われているように、もしも人に騙されて損をすることになっても、その騙された原因には必ず自分に何らかの思惑期待や欲があったからです。 
その欲を裏切られたのだから、すなわち自己責任であり、騙そうとした相手が必ずしも悪いのではありません。

そして自分の経験体験や知識を通して知ったことは間違いないと思っているから、「私は正しい」を持っています。
そして自分が「思いたいよう」に思い、「見たいよう」に見ますから、インチキ臭いと思えばインチキに思うことができます。
また、妄信して「本物」に思えれば、それが偽物であっても本物になります。 
また、相手が「偉そう」にしていると見れば、相手が偉そうにしていると見えます。
すなわち★事実★を見ているのではなくて、自分の思いを「投影」した形でしか見ていません。
そして「自分」にとって良いか悪いか(善悪・優劣・損得)だけで判断して、それを投影させて、相手を見たいように見て、思いたいように思っているのです。
すなわち他を見ているようで「自分」しか見ていないのです、だから個人意識と言われるのです。

だからこのプログも自分が読みたいように読んでいるはずです。
また、人それぞれに自分の経験や体験を通して自分は正しいと思っていますから、このプログの内容を拒否反発したり、違和感を持って読んでいるかもしれません。 
また、事実を知って目から鱗が落ちても、またしばらくすると不信感が出てきて元の木阿弥に戻るかもしれません。
 
だから「完全真理」が完全と知るまで続けなければ、これまでの過去の古臭い矛盾や妥協の産物・聖書経典や伝統風習道徳などの知識が正しいと思い込んだままに、その矛盾に迷い悩み試行錯誤したり葛藤することが続くことでしょう。
そして過去の地動説のように、自分の知らない新しいことに対して必ず反発否定しにかかります。 それがやがて常識化するまで頑固に拒み続ける人もいるでしょうが、それが「私は正しい」という自己意識です。

また宇宙エネルギー、意識エネルギーを知らない人にファバラエネルギーを知るには少し無理がありますが、否定反発しないで信じて試してみるなり、人の情報を信じて試していれば、その意識から必然の結果が出てくるのが摩訶不思議な意識の世界です。
しかし先に結果を求めすぎていればそれは欲になりますから、その欲を叶えることはまずありません。
それはファバラが皆の欲を全てかなえていたら世の中が混乱するからです。★重要★

また不信感が先に立ち、人を信じられない人に神も愛も信じることは絶対にできません。
だからそんな人たちに神や愛のファバラエネルギーが届くには少し無理があります。
また自分に感じられるような結果が出ていなくても他の大勢の人に結果が出ていれば嘘やインチキではないのです。
それなのに自分に結果が出なければすぐにインチキに思うようになり(事実を見ずして、私は正しいの思いが強いから)、それが不信感になり、その意識が邪魔をしてファバラのみならず真理からも離れていくことにもなっているのです。
すべて自分の個人意識が原因であり、誰の性でもなく、ただ自分の持っているものが出ていて、その自己責任★結果を背負って歩いているだけなのです。

また本物・事実の神や愛を知らない限り、見せ掛けで知った振りはできても本物を知ったことにはなりません。
そして本物を知りたければ、自分が本物にならない限り、本物を知ったことにはなりません。
だから私もあなた方も本物を知らない未熟者ですから、もっと本物に近づいていく必要があるのです。

その指針となるのが山田耕栄さんの完全真理であり、それを意識の面からサポートしてくれるのがファバラです。

命がけ、健気・けなげと一生懸命とは違う

2009年04月15日 | Weblog
「命がけ」という言葉がありますが、一生懸命とは違います。
一生懸命には私の思い通りにしたい結果を持っています。
命がけには「健気/けなげ」な心があり、結果を持たない一生懸命があり、欲得損得の計算がなくて、神と結びつく愛があります。

その一生懸命で知ったのと、けなげな心で知ったのとは違ってきます。
だから今の社会で起きている問題を何で解決するかといえば、「知っている」ことで解決しようとしますが、「知らない」ことでは絶対に解決できません。

その知っていることが一生懸命にした経験や体験であり、それが私は間違っていないという「私は正しい」の権威権力などの肩書きにもなっていますが、その知っている意識の投影が今の社会ですから、差別・不平等・戦争になることを「知って」いるが、自由・平等・平和を「知って」いないことになります。
だから事実ではない分離感を学んだことになり、その良いと悪いの判断基準を学んで「差」を付けることばかり学んでいるのが我々人間なのです。
だから「けなげな心」と「完全真理」で知った真実の自由・平等・平和を知らないのだから、今の不自由・不平等や戦争を解決することは絶対にできないのです。 ★重要★ 

事実ではない、全体ではない、差のある部分を見ているから「井の中の蛙」になります。
その井の中の蛙は大海を知りませんが、その大海が「愛」です。
その愛を知らないもの同士が集まって差を示しあっている形が今の社会ですから、その差を判り易く簡単に示すのが名誉名声や権威権力の肩書きであり、その肩書きが示すように「私は正しいこと」をしていると差を示すことができるのが名刺であり、その名刺で皆が簡単に理解を示してくれるので重宝な道具になっています。

その肩書き・名刺は「虎の衣」を借りたものですから、事実ではない過去の経験体験の頭の中の知識記憶を見せびらかしているだけで、けなげな心で真実を学んだ教養ではありませんから、まさかの有事の際には化けの皮がはがれて本性丸出しになり、知行同一とはならずに自分さえ良ければの行動が最優先されます。

真実の自由平等平和を知っていないから、差のある不自由不平等や戦争になるのです。
その差を付ける競争社会でありながら、その差別格差を問題にしているという矛盾に真正面から取り組まないで、いい加減な妥協や言い訳で済まそうとしているのです。
それが神や愛を説く宗教や聖職者やその道の専門家までが矛盾したことを正しいと教えてきたのです。
そしてその「私が正しい」を有史以来繰り返し引き継いできたことから、とうとう地球・人類の賞味期限切れ・末期症状が現われているのが現在なのです。

その差が付くのは「良い悪い」で判断する原因があるからです。
原因がなければ絶対に結果は出ないのです。
だからその原因である良い悪いを無くしていく完全真理とファバラエネルギーが必然でこの世に初めて現われ出たのです。

その元々から持っている分離感を無くするためにファバラ・神や愛の意識エネルギーが役立のです。
その個人意識を「けなげな心」に変えてくれる意識改革に常温核融合のファバラが役立っているのです。
その「けなげな心」になって知った教養がまさかの有事の際に役立ことになり、思いも寄らない出来事に動揺して心・精神を見失う(精神疾患)ことにもなりません。
また時代・次元を先取りしたファバラ・宇宙エネルギーですから、省エネにも役立っているし、悪化している環境を元に戻すことも可能ですし、また過去の病気やウイルス疾患から未知のウイルスや病気疾患の予防に役立ってくれています。

また、けなげな心になることでお互い様やお陰様の感謝を学び知ることができるのです。
姿形や個性役割が違うだけで「差」は無かったことを知るのです。
皆が同じで、神や愛が差のある特別ではなかったことを知るのです。
住む環境や暮らしぶりがそれぞれに違っていても、その差を示す上下左右の無い真ん中の「普通」に自由平等平和があることを知るのです。
すなわち「特別」を目指すことではなかったことを知るのです。
その特別を望むから不自由・不平等・戦争が延々と引き続いていることを知るのです。

ゆえに、先ほどの真実を確かに知ることになるのです。
だから、知らないものは知らないで終わり、知ったものだけが「知った」ことになるのです。
知るも、知らないも、それは誰の性でもなく、自分が選択した結果です。
そして、すべては自分の意識に原因があるのです。

全てが「アリガタイ」ことになる

2009年04月04日 | Weblog
私たち人間は意識体ですから、先ずは知ることから始まり、その知ったことを意識するようになり、その意識したことを肉体で行動表現することが出来ます。
だから生まれたての赤ちゃんでも知ることから始まり、見たり聞いたり触ったり味わったり、親の教えや学校の教えで知ることが多くなっていきます。

しかし知ることにも人それぞれに違いがあったり限界があったりしますから、とうぜん何もしらいことも多くなります。
そして知らなければ意識できませんから、知らない事を意識して身体で行動表現することは絶対に出来ません。
そこで知識教養が幅を利かせますが、それを行動表現できなければ何の役にも立ちませんから、難しすぎる行動よりも単に言うだけが多くなり、物知り博士で終わることが多いようです。

それを神・愛の真理にあてはめても同じですから、神・愛のことをあまり知らない人も大勢いますし、言うだけの物知り博士が多くなります。
中には行為行動をしたことが有ってもそれは過去のことであって日々いつも通りにしていることではありませんから、せいぜい過去のことを自慢に話して言うだけでいつでも再現して見せることは出来ません。
すなわち日常には縁の無い過去の出来事を思い出して話すだけで終わりますから、話はありがたくても、過去のことを実感で味わうことは出来ません。 すなわち絵に書いた餅で終わりますから食べられません、どんなに空腹であっても食べられなければ「本物」ではありません。 
 
そして、息を吸って生きていることがアリガタイことなのに、そのアリガタイを忘れて喜怒哀楽や生老病死を意識しで生きることを望んでいるし、中には波乱万丈や艱難辛苦の修行で特別なアリガタイ神・愛を知ろうとしている人もいます。
そこで、息を吸って生きていることにアリガタイ感謝が一番先にあれば、それ以外の他のことも全てアリガタイことになります。
だから、それが喜怒哀楽や生老病死であってもアリガタイことになりますが、ところがアリガタイことになったり、ありがたくない事になったりしていれば、それはアリガタイことだけを選んで「良いとこ取り」をしているからです。
その良いとこ取りをしていれば、アリガタイことではなくて損得の得をして自分が良かったと思う自己満足ですから、アリガタイ神や愛を忘れている「雨やんで傘を忘れる」感謝の無い個人意識の人になります。

そんな個人意識の人はアリガタイ神や愛で満足していないから、その満足を衣食住や財、名誉名声・権威権力で自己満足しなければ生きていけなくなります。
しかし、その自己満足は自分の満足だから他の人に満足を与えることは出来ません。
しかも、良い悪いの判断をして自分さえ良ければの「良いとこ取り」をした個人意識の満足感ですから、自分に都合が「悪かった」分を誰かに押し付けることになりますが、その多くが自分より弱いものに押し付けた格好になっています。
それを今風に言えば、弱い者を虐める虐めであり、それが弱者の切捨て使い捨てがあたり前の時代になっているのです。 

その虐めのボスがお手本のように時代をリードしているのだから、皆が虐めをするのも無理はありませんが、その虐めの加害者が虐めの被害者にもなっていることに気付いている人は少ないと思います。
だから自分が弱者になったときにしか気付きません、しかも自分が虐めの首謀者や共犯者であったことを知ることもなく、ただ自分が虐められている現状実情だけを主張して、その私を虐め差別していることは悪いことになると訴えている「私は正しい」として、その行為を主張顕示している人も大勢います。
また、それら自己主張や顕示している人に共感して同じ様に虐めや差別は悪いと訴えることに引っ付いて行って同じように顕示している人もいます。

そんな加害者にも被害者にもなるという矛盾した世の中を知らない人が大勢います。
それは、その時の結果ばかり見て大元の原因を見ていないからです。
原因を見れば自分の過ちも見えてきて、同じ過ちを繰り返すことをしたりはしません。
ところが中には、私は間違っていなかったと主張するために再び形を変えて「私は正しい」とあくまで意地を張ってみせ、無理に答えを出そうと懸命になって同じ事を繰り返す人もいますが、どんなに巧くやっても形が少し変化するだけで結果は同じですから、如何に辛く苦しい道のりを超えてもまた同じ道のりは永遠に続きます。

だから何処かで立ち止まり原点・意識を見つめ直さなければなりません。
原点である意識が変わらない限り同じ事の繰り返しが続くことをいやと言うほど味わっているのに、また元と同じ道を少し変えただけで何ができるというのでしょう・・・ 
それは「完全」を知らないからです。 完全を知らなければ完全を知ることは出来ません。
また、完全を少し触れただけで全ての完全を知ることには無理があります。
だから、知ったかぶりをしないで知り続けることが重要になるのです。
それには知った知識を日頃の実践で活かさなければなりません。
それには実践意識が先であって、生活そのものを先に意識することではありません。
すなわち生活・形の「結果を意識」するのではなくて、その結果の原因である己の意識を知ることから始まります。
そうすれば、個人意識丸出しのどうしょうもない自分が素直に見えてきますから、そこから第一歩が始まります。
そして着実に以前とは違った意識になりその結果が出始め、特に拘り執着しなくなり、それが心のやすらぎや喜びや楽しさになっていくから、もっと本気で意識の世界を知り学びたがるようになっていくでしょう・・・

意識しているところで生きているのが人間

2009年04月04日 | Weblog
人間は意識体だから意識で生きています、 だから自分の居場所や状況に関係なく、その意識しているところで生きていることになります。
だから、喜怒哀楽・生老病死を意識していればそこに生きていることになる。
世間体や見栄やしがらみを意識していればそこに生きていることになります。
衣食住財や名誉名声や権威権力を意識していればそこに生きていることになります。
神や愛を意識していればそこに生きていることになります。

そして「今を生きる」は、その時その場を生きることであり、実在しない過去や未来を思い考えて生きることではありません。
そして、意識しているところに己の意識が居ることになりますから、その意識次第でどんな風にも思えますから、事実と関係なく自分勝手に良くも悪くも思うことができます。

お母さんが赤ちゃんに乳を飲ませている時に母親の幸せを味わえますが、母親の意識が別なところに行っていれば授乳している行為があっても意識は別なところに行っていますか、授乳行為をしていても上の空になります。
公園で我が子が皆と同じ様に楽しんでいる様子を見ているだけで心が満たされますが、他の子供や他の親と比較していれば競争心を持つことになります。

静かな山の中で歩いていてウグイスの声が聞こえてくれば季節感を感じたりできますが、意識が別な深いところの場所に居れば鳥の声は聞こえてきません。
それが浅い場所ならふと気付き、その鳥の声に意識が行きます。
同じ様に、車の運転中に意識が別な深いところに居れば危険を察知するのが相当に遅れますが、浅いところであればそれだけ危険を察知できる感覚が違ってきますし、運転に意識が集中しているほどに危険を予知・察知できる可能性が高くなります。

真坂の有事・災害で生き埋めになったときに動揺が激しいほど余計なことに生命エネルギーを多く使いますから、それだけ生存救命率が下がります。
それが海難事故や山岳事故でも同じですが、死にたくないと思うほど不安や恐怖で生命エネルギーを多く浪費します。
それが、死にたくないとも助かりたいとも執着しなければ、起きた事実を直視するだけの心の余裕があれば、その分だけ生命エネルギー・意識力の自力が働いて助かる道筋も広がりますから、その分だけ生存救命率が高くなります。

また、災害などで住むところを失い避難したときに、それを苦に思うほど今を生きていることが辛くなりますが、その現実を素直に認めていれば助かったことにまず感謝することが出来ます。 そして救援活動にお蔭様のありがたい感謝の心が湧き出てきます。 そういう意識になれば、災害が辛く悲しいことではなくなり、感謝の場になります。
ところが、助かった喜びや感謝の心よりも現実を苦にする人は同じ被災者と比較するようになり、皆と同じであれば少々は我慢できるが、他より少ないものがあればそれが足らないと不服に思い、その足らないものを我先に欲しがります。
しかも、助かったことや救援にありがたい感謝の心を持っていた人までもが集合意識に影響され、静かに高みの見物をしていたものまでが自分だけが損をしたくない思いが強くなり、やがて皆と同じ様にあれが足らないこれが欲しいと欲張ることから次第に早い者勝ち意識になり、更に自制心まで失うことになって略奪や暴動に発展する原因にもなります。

そして、助かったのは運が良かったからだと思うようになったり、救援の感謝もただ自分に都合が良かっただけになり、初心のありがたい心、その当時の意識が消えているのです。
もし、命が助かっただけでありがたいと喜び、一切れのパンや一個のおにぎりにありがたいと思った心を忘れずにいたなら、その当時の意識を持ち続けていたなら、今日のあたり前の生活が戻ったことにも同じありがたい感謝の心を持つ続けて暮らしていることでしょう・・・

喜怒哀楽・生老病死・見栄や世間体・衣食住財・名誉名声・権威権力、過去や未来、それらの思い思惑で生きるのか、過不足の無い満足・感謝で生きるのか、その意識次第で自分の生き方・方向性が決まってきます。
そして意識は一つですから、欲張って同時に幾つもは意識できませんから、あっちへ行ったりこっちに来たりと、結果的には方向性が定まりませんから効率も悪くなるし、とにかく落ち着いてはいられません。
だから無理することも、悩み迷ったりすることも、不安心配・苛立ちや怒りや嫉妬が出てきて、更に混乱葛藤した生き方になるのも当然です。

そこで先ほどの何を一番先に意識するかに掛かってきます。
それが生活そのものを優先する生活の安定なのか、神や愛を意識した心の安定を得る為の生活なのか、その選択にかかっているのです。
そのいずれを選ぶのも個人の自由です。

その選択肢に私の文書が参考になればと思っております。

個人意識を持っている我々は孤独です

2009年04月04日 | Weblog
個人意識を持っている我々人間は「孤独」です。
それは「私・個」があるからです。
良い悪いで判断して悪いのを排除して良いとこだけを取る「良いとこ取り」をしている限り、自分中心の「自分さえ良かったら」他の人はどうでもよいという個人意識がある限り、その自己満足、自己主張、自己顕示、自己慢心自惚れに思ったりして他と差を付けたがったり、比較競争して他と差を付けたがる差別意識を持つことから、どうしても孤独になります。

だから町中の人ごみの中にいても孤独です。 例え友達や恋人夫婦や子供連れで寄り添って歩いていても、お互いの意識が離れていれば孤独ですから、人と接することの至福は味わえていません。
皆で楽しんでいるように見える趣味嗜好娯楽でも同じです、しかも互いに比較評価したり競い合ったりしていますから、他者との戦い、自分との戦いを持っています。

自分さえ良かったらの意識で生活していますから、自分に都合がよい時は仲間意識であっても、都合が悪くなれば離れていきますから、心から安心してはおれません。
だから不信感を必ず持っています。
その不信感が不安や恐怖や怒りになって潜んでいますから、言い知れぬ得体の知れない孤独感と闘うことになります。

心休まるはずの家庭が崩壊しているのも個人意識の集まりだからです。
地域社会・国家の仕組みや経済が崩壊するのも同じです。
自然環境が崩壊しているのも同じです。
例え形があって存続されているようでも中味は崩壊していますから、遅かれ早かれ崩壊することになります。
すべての原因、ことの始まりの原因に個人意識があるからです。

皆が孤独なのですが、その孤独には自由があります。
しかし、見栄や世間体を意識して自らを束縛制限していますから自由はありません。
また、国家社会や地域や家庭という形には自由がありません。
自由が無くて孤独だと、それが孤独感にもなります。
その孤独感を癒すために人が寄り集まりたがりますが、それは単に孤独感を一時的に忘れているにしかすぎませんから、すぐに孤独感が戻ります。

気兼ねなく一心不乱に取り組むことで孤独を楽しめます。
冒険家や探検家や研究家や専門家が没頭できるのも孤独だからです。
自由孤独を味わうには、世間や人の目を気にしていては絶対に味わえません。
しかし生きていくためにはお金が必要ですから、そのお金を集める必要があります。
それには自らが稼ぐことであり、スポンサー探し、寄付援助協力を求める行為です。

そこで一般的には、孤独や孤独感を補うのが「心のよりどころ」になります。
それが趣味嗜好娯楽・刺激・探検冒険研究の中にありますが、それらは原因の心ではなくて結果の「形」を追い求めているものですから、いろんな気苦労も当然あるし、目指す成果を挙げるために時間的・肉体的な苦労も我慢しますから、心身が疲れてしまいます。
そして形ある成果を見せ付けて評価されたいという欲望・野心や見栄や自惚れの自己満足や主張顕示のためにやっていますから、心からの満足は決してありません。

そこで「形」ではない「原因」である人間の心・意識と言う方向を見つめていれば、情報社会ですから学ぶにも大してお金も必要ないし、孤軍奮闘も可能ですし、孤独だから時間もたっぷりあるし、しかも束縛制限支配されずに自由に動けるし、知ることに限界は無く、その知らなかったことを知る喜び楽しさや共に判り合える友と接し合う喜びや楽しさもありますから、それらから暖かい心にさせてくれます。

その知る喜び楽しさに加えてその実践からも喜び楽しさが味わえますから、自ずと続けることが出来るのです。
そして万人向きのことではないだけに、他の世間的な無駄な方向性に意識を向けなくて済むから効率が良くて無駄がありません。 しかも完全真理ですから矛盾も妥協もありませんので、迷い混乱葛藤することもありません。
そして完全真理だから、その完全を理解することで他の変な方向に洗脳されたり泥沼に引きずり込まれることもありませんので安心安全です。

学び知る喜び楽しさ、その実践で知った喜び楽しさの中に至福・感がありますから、それが心の支え・自信・自力になり、この先にくじけたり、あきらめたりすることにはならないと思っています・・・ 

個人意識を知り、認めることで自己縮小になり、穏やかな心になれる

2009年04月04日 | Weblog
完全真理を言う中に「知識」だけではダメですよ・・・と、よく言いますが、良い悪いで言っていることではありません。 すべてが「知る」ということから実践・行為行動表現が始まっているから、知った知識は重要になります。
しかし、知った知識は頭の中の記憶ですから、その自分が知ったことを思い出して表現することになり、それは自分の意識・思いから出たものですから、私の個人意識が出たことになります。
また、良い悪いで判断して良いことをしたと思うのは自己満足や自己主張や自己顕示になりますから、人のために思ったことでも原因は自分のために行った自己愛・愛情になり、真の愛とは言えません。 それが完全を言う完全真理です。

また、ただ知っただけの知識を見せびらかして「言うだけ」の人が多いのも事実であり、ただ言うだけなら学問知識で誰でもが言えることであり、その記憶や思い想像で「言うだけ」の行為には実のある実践が少ないことになり、それに固守・執着する人も多いから、その分だけ愛意識・神意識、我愛なり・我神なりを自覚・悟るのが遅れて当然です。
でも、言うことも聞くことも実践の内ですから、言うだけ、聞くだけが良いとか悪いとか言うことでもありません、すべてが必要で必然なのです。

誰もが自己愛、自分さえ良ければ個人意識を持っています。
自己満足や自己主張や自己顕示欲も誰もが持っていることです。
ゆえに自惚れ自己慢心のプライド・優越感を持っています。
だから裏側の劣等感も持っています。
持っているものを無くすることは至難の業だと私は思っています。
だから、持っているものを無くする為に(良い悪いで)闘わないで、持っていることを認めればいいのです。 誰もが持っているのだから隠さなくてもいいのです。 隠したがるのは「悪い」ことだと思っているからです。 隠したがるのはプライドがあるからです。
そして、個人意識を無くしたいと思うと、それと闘うことにもなるのです。
だから闘わないで、もっともっと個人意識の全てを知り自覚することです。
それらを知れば知るほど見栄や世間体といったプライドも徐々に消えていきますから、その裏側の劣等感も同じ様に消えていくことになります。

とにかく、誰もが皆同じものを持っているのだからあまり気にしなければいいのです。
それらを持っている量や質は多少違っても、持っていることは同じですから、良い悪い優劣損得で判断することではありません、「お互い様」の皆同じ個人意識の持主です。

その誰もが持っている自分さえ良ければの自己愛を他者から「守る」ことが闘いになり、それが原因で数々の問題が起きているのです。
また、自分の中に有るものは自分のものですから、自分が困ったことになるだけですみますが、その自分だけが困ったことになるのが承知しかねて言い訳正当化したり、他者に責任の一端が及ぶように人を責めることもします。
その人を責める(人と闘う)のが不平不満なのです。
そして自分を責める(自分と闘う)のが後悔や未練になっています。
それら不平不満や後悔や未練に執着するほど自分が困ったことになります。
そこでまた(自分が安堵・安心するための責任転嫁で)他者の責任にしたりして自分を守ることをしますが(自己防衛)、それが言い訳や正当化をして誤魔化す他者暗示や私は正しいと思い込む自己暗示があります。

また、自分が損をした被害者になったことで(我慢できずに)人を責め、「私は正しい」と自己主張したり、その正当性を認めてもらうために顕示・行動をしたがりますから、それが時には世の中を巻き込んだ大きな混乱に至る事実結果がたくさんあります。
だから、始めは被害者だったのに(強く主張するあまり拡大していって)いつの間にか多くの人に迷惑をかける加害者の役割もしていた結果が出てくることになるのです。

そこで自分さえ良ければの個人意識を持っていることを自分が認めてしまえば、それがお互い様になり人を責めることも無くなりますから、(自分が持っている意識の全てを知ってそれを認めることで)、自分とも他者とも闘うことが無くなるから、それが自己縮小の実践になるのです。 
だから、良くも悪くもお互い様だったことを知るだけでも相当な自己縮小につながります。

自分が持っている個人意識を隠したり上手く言い訳正当化して誤魔化すより、自分に持って有るものは有るのだから、それを素直に認めていれば拘り執着することにもなりませんから、いつも平常心で心安らかでいられるから、結果的には自分が得をする生き方になるのです。
すなわち自分が損をしたと思うことでも、こだわり執着しないことで結果的には自分が得をするのですから、損をしたと騒がずに「あるがまま」に成り行き任せにしておけばいいのです。 それが「お互い様」の意識なのです。

不平不満・悩み苦しみ・不安心配・怒り・憎しみ・嫉妬などを持ったために「損」をすることになるから、その「損」を取り返したがる個人意識でまた次の問題に波及していって止めなく続き、頑固執着でいつまでも引きずることにもなるのです。
だからその問題を問題にしている限り(結果ばかり見ている限り)絶対に「心が安らぐ」ことはありませんから、結果的には「損な人生」を送っていることになるのです。

人間の意識に表と裏がある限り、得が損になったり損が得にもなって、その矛盾で思い悩んだり、良いとこ取りばかりして自己満足・主張顕示したり、時には「私は正しい」の正義感となって人と闘う戦いになり、双方互いが被害者にも加害者にもなって大きな実害が起きているのです。 
結果の良い悪いに良いも悪いも無いのです。 優劣損得に優も劣も損も得も無いのです。 ただ、その思いで思うことに実なる実害も出ているのだから、自分だけのことではすまされなくなるのです。
頭の中で思い考え想像したことを良い悪いで行為行動表現することで、見える害も見えない害も自他共に及ぼしているのです。
だが、頭の中の思い考え想像したことに良い悪いがなければ「あるがまま」になって、喜怒哀楽や生老病死がごくあたり前になって、その喜怒哀楽や生老病死に拘り執着しない心安らかな日々の生活がおくれるのです。


自己満足の感謝と心からの感謝

2009年04月03日 | Weblog
人間は空気や水が無ければ生きていけませんから、水や空気などの自然に感謝をしなければなりません、それがアリガタイになります。
その感謝を思ったり言ったりは出来ますが、心から感謝出来る人は少ないでしょう・・・
ゆえに豊かな生活に感謝することは出来ても、その原因である自然界に心から感謝出来る人は多分いないでしょう・・・

完全真理で言われるところの、良い悪いを持たない自己縮小の実践がありますが、その良い悪いで判断する個人意識は持って生まれたものですから、そう簡単には良い悪いを無くすることは出来ません。
そこで良い悪いで思う事があっても、それに執着しなければ忘れることになりますから、良い悪いで思っても忘れればそれが無かったことになります。
ところが忘れたつもりでいても、持っているものは直ぐに出てきます。 特に真坂の有事になれば直ぐに出てきます。

そこで良い悪いの思いが出ないためにも、アリガタイ感謝の心を学び知り自覚して持つようになればいいのです。
既に持っている「良い悪い」で判断する個人意識を無くするのは難しくても、感謝の心は人間が元々から持って生まれたものだから容易に出すことが出来ます。

とは言っても空気や水や植物動物鉱物といった自然界に素直に感謝するにも、今の豊かな生活を長年やってきているだけになかなか本物の感謝にはなりません。
その豊かな生活を心から感謝していればそれが全ての感謝につながるのですが、どうしても「良いとこ取り」の自分に都合がよい事だけに感謝の心が行きますから、すべてに感謝できるアリガタイ感謝の心にはなりません。

ホームレスの人が明日は飲めないかもしれない缶ビールを美味しくアリガタイと思って飲むのと、毎晩ビールをあたり前のように飲んでいる人とは感謝の度合いが違ってくるように、同じ物でも価値観が違えば感謝の思いも違ってくるのです。
だから、「原因」である意識の自己縮小の実践をするためにも、「結果」である形・物質での自己縮小も必要だと、私は思っています。

毎晩あたり前のように飲んでいたビールが飲めなくなって、そのビールのアリガタサがわかるように、ベットに横たわる病人になって健康のアリガタサがわかるように、死にかけてから始めて生きていることがアリガタイことだとわかるように、その状況立場になって始めてアリガタイに気付く事も多いのです。
だからエコ生活やワークシェアリングが言われている世の中だけに、生活面や仕事面での物質的な自己縮小も必要だと、私は思っています。

良いと悪いの両面を持っている国家社会ですから、戦争や侵略で良いことも悪いこともあります。 巨大国家企業になって良いことも悪いこともあります。 どんな方法を使って良いところを追求しても、(良いとこ取りしても)必ず悪いことも付いてきます。
だから、同じ様に生活格差の貧困にも良い面と悪い面があります。
その悪いといわれる貧困になればなったで以前の豊かさがアリガタイと思うようになりますから、物質的な価値観や意識面では良い結果にもなります。
その貧困の中にも貧困の差がいくらでも有りますから、過去の豊かさがアリガタイことになります。 すなわち富む者が貧困で知ったアリガタサになります。 

自分の都合に良いことをアリガタイと思うことは容易いが、(悪いと思われている)貧困がアリガタイことになれば、病気になった事がアリガタイことになれば、死にかけていてもアリガタイことになれば、病人を介護できる事がアリガタイことになれば、それが本物のアリガタイになります。
しかし、他と比較してからアリガタイと思うのは心からの感謝ではなくて自己満足の感謝になります。 また、貧困を後悔しているかぎりアリガタイを知ることにはなりません。 

ところで本物の愛は優しさ思いやり感謝の心ですが、自分さえ良ければの自己中心の個人意識がある限り私・個の自己満足になりやすいのですが、その自己満足に良いも悪いも無いのだから・・・ しかもその自己満足になる個人意識を消すことがなかなか難しいのだから・・・ 
その視点から私的にいえば、たとえ自己満足であっても、それを簡単に否定することではないと思っています。 
その自己満足に拘り執着しなければ強い自惚れ慢心・自己主張や顕示には至りません。
そして、こだわり執着しなければ単なる自己満足は直ぐに忘れていきますが、お互いに感謝し合った心に残るシーンは(自己満足が含まれていても)長く記憶に残り続け、その時のことを思い浮かべることで真の実践の自信にもつながっていきます。

完全真理を知ってベテランになると(完全を求めているだけに)、あらゆる個人意識をついつい否定的にとらえて自らが後悔したり、他に自己満足は悪いことのように伝わって思わぬ誤解を与える時があると、私は思っています。
だから、完全を意識するあまり個人意識の自己満足を否定的にとらえれば、それは完全なる善の完璧を目指していることになると思います。
また、頭の中の知識記憶だけでは完全真理が教えているように「言うだけ」で終わりますが、しかしその知識記憶が無ければ思い考え意識行動表現することは出来ませんから、まずは頭の知識記憶も必要になります。

だから教えられ知った完全真理をあまりにも強く意識しすぎると(盲信・猛信)排他的な拘り執着になりやすいので、気をつけたいところです。
そして自分さえ良ければの個人意識は必要・必然で授かり持っているものですから消し去ることは困難だと私は思っていますから、私自身もあらゆる個人意識を持っていることを自覚し認めています、だから完全真理を意識しながらも自分の中の個人意識と仲良く付き合いながら、自分に一番お似合いの生き方で自己縮小の実践をしています。
それがたまたまですが(理想目標で特別に目指したわけでもないが)、物質的な自己縮小といえるような山間過疎地での食って寝て糞をするだけのような、年金独り暮らしになっているのです。



NHK「多摩川の猫とおじさん」に真理を見た

2009年04月02日 | Weblog
NHK「多摩川の猫とおじさん」で、捨て猫と関わるホームレスのおじさんをビデオカメラマンの語りと一緒に描写している番組を見ましたが・・・
そのおじさん達がホームレスになった原因の中に、どうやら競争社会に馴染めなくて負け組みになったことからどんどん落ち込み、家族からは失望感で責められて居場所が無くなって家出をしたり、または妻に家出をされたり、自分が家出をしたわけではないが働き口が見つからずに帰郷できなくなってしまい、その独り暮らしがやがてホームレス生活になったようですが、その初期のころは失望感や絶望感で大方のホームレスが自殺を考えたようですが、それでも死に切れずに仕方なく暮らしているうちに社会の底辺で長くいることで意識変わりが起きて、ホームレス以前のような生活が自分には苦であったことがわかり、以前と同じような生活には戻りたくないと意識するようになり、もう過去の未練も消えてしまい、今のホームレスからの脱却を望みながらもその生活を猫と共に楽しんでいる様子が描かれていました。

多摩川の土手に壊れたおもちゃを捨てるように猫を捨てに来る人とがあとを絶たないことが、ホームレスのおじさんたちがあちこちで使い捨てにされた立場と一致していて、その捨て猫を自分にダブらせているのか、本当に優しく大事に世話をしていました。

ホームレスの空家を撤収に来た委託業者の作業員が何気なく言ったのか「こんな暮らしをするくらいなら首を吊って死んだほうがましだ」と言ったのを聞いたおじさんが憤りを感じて説教していましたが、その中に「明日は我が身に降りかかる」ことを実感を持って言っていたようですが・・・ その作業員に一抹の不安はあるが「私は大丈夫」と思っているから、何気なく「首を吊る」話が出たのだと思います。

その委託作業員と同じように、不安はあるが私は大丈夫と思っている人は大勢います。
しかしそれは生活のみの話であって、その不安や悩みや幸せは何処にあるのかといった意識・精神面はぜんぜん別物に思っているのかもしれません。
先ほどのホームレスのおじさんのように、その日暮らしの何気ない生活の中に心温まる優しい心があったり、その日暮らしの呑気気ままに生きれる孤独と自由を確かに味わっているほうが、今の比較競争社会で息苦しく妥協と惰性で生きているよりか、自らが底辺に落ちたことで味わった比較競争社会の矛盾した現実を見つめ直すことが出来て、その今を自分なりに確かに生きて、今を生き抜いていると言う実感を持って生きているほうが人間として意味ある生き方ではないでしょうか・・・ 私のように年金で食って寝て糞をしているだけのような暮らしより充実しているように見えました。

何はともあれ、此れまで精神面・意識をないがしろにして生活経済を優先してきた歪がどんどん噴出しているのが現状なのに、未だにそれさえもないがしろにして経済回復・景気対策を一番に掲げ、ついでに相反するエコを掲げて言い訳正当化しているのが現状ではないでしょうか・・・

そんな矛盾や妥協に本物は見出せません。
その本物とは「意識」のことです。
そして意識の中に愛があるのです。
良い悪いで判断しなければすべてが愛になります。
良い悪いで判断した形の中に愛はありません。

良い悪いが無ければお金も愛です。
お金が多いのが良くてお金が少ないのが悪いと思えば、お金の亡者で愛はありません。
お金が多くても少なくても幸せは同じです。
たくさん食べても少なくても美味しさは同じです。
心が満足すれば形の満足をあまり求め欲しがりません。
全て形には関係ないのです、意識次第なのです。

有っても良し、無くても良しであれば矛盾していないから、良いも悪いも無かったことになります。
多いとも少ないとも思わなければ「普通」になります。
その普通には矛盾がありませんから、矛盾が無ければ迷い悩むこともありませんから、普通の穏やかな心になります。

いい加減にして形ばかり見ないで意識を見てみては如何でしょうか・・・
天国も地獄も、幸せも不幸も、全て自分の中にある意識がそう思わせているだけです。
お金の量や物の量は関係ないのです。
すべてが自分の意識に原因があるのです。
良い悪い・裏表・矛盾が無ければ「普通」になり、形の質や量が違っていても皆が同じ普通になり、意識に差は無くなります。
意識に訳隔てる差が無くなれば意識は離れていませんから、形や境遇が違っていても皆が平等で自由な至福・平和を味わえるようになります。

それを教えているのが山田耕栄さんの完全真理であり、その「完全を知る者が完全を成す」ことが出来ますから、やがて地球に住む人間が(全員とは言えないが)良い悪いの無い完全意識になる時が必ず来ます。
そこで先ず、「知らない事」を意識するわけにはいきませんから、完全真理を学び知ることが先決になります。
そして「その時」が来るまで完全を意識して実践していなければなりません。