孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全真理は宗教とは違い、宇宙万物の真実を知ることが出来る理化学や医科学や心理学ともいえます。

2011年11月24日 | Weblog
一般的に宇宙とか神とか愛とか言えば特別に思えていたのではないでしょうか。
だから神社仏閣や教会や神殿や虚像・偶像を立派に見せることでその威厳・権威・勢力を見せびらかす事にもなっています。
そしてその特別な神を知った人が祈願大祭を催したり慈善奉仕活動などでその神を皆に広め教え布教することにもなっています。

ところが完全真理に何ら特別がないだけに威厳・風格・形式を示すことにはなりません。
しかも、そのまま、このまま、あるがままの自然体で生きることに趣きがありますから世間に目立つことがありません。
その特別がないと見掛けの魅力がありませんから尚のこと世間に目立ちません。
しかも人間性から言えば「特別好き」ですから、完全真理は一般向きとは言えないかもしれません。

ところが表があれば裏があるこの世ですから、その一般向きではないはずの完全真理が実は最も一般向きなのです。
何たって特別の無いのが真実の神であり愛であると説いているのですから、特別が少ない庶民には都合がいいはずです。
しかも完全真理は宗教とは違いますから、元からある宇宙万物の真実を知ることが出来る理化学や医科学や心理学ともいえます。
だから「見えない世界」を信じることにはなりません。
・・・見えない世界の真実・事実を知ることが出来る唯一つの理化学・医科学・心理学でもあるのです。

それを解かりやすく説明しているのが大人向けの絵本「たまごとにわとりとプロペラひこうき」山田耕栄著作です。
すなわち「たまご」が先でも「にわとり」が先でもない大元の宇宙・神の真実を知るのと人間の役割使命を知る手立てにもなる絵本ですが、その内容はブログに何度か応用して(私なりに)書いています。

その人間の役割使命ですが、生まれながらにして持っている不完全意識でこの世の矛盾やその人間関係を学び知り味わうことが役割であり、その学び知った不完全意識をなくして完全意識・神意識になるのが使命なのです。
だから耕栄さんが言うように完全な宇宙万物の中で人間だけが良い悪いで判断する不完全意識を持って地球に誕生してきたのです。

ところで時代の進化が現在の理化学・医科学によるところが大きいわけですが、その理化学・医科学が止まる事を知りませんから、未知のエネルギーといわれていた核融合が核爆発の脅威にもなっているのにそれが止まることはないでしょうし、命を救うことが他の人の臓器を移植することになりそれが進んで心停止や脳死の人の命を奪うことになっているし、クローン細胞がいつしかクローン人間を作ることにもなるでしょうが、それらが止まる最終章が待っています。
・・・それ以前にも何かの原因から肉体の死を迎えることになるのも当然あります。

そして人間が創造されたのは時代の進化のためではなくして人間意識の進化にあるのですから、その時代の進化についていった者があの世と言われる宇宙・神・愛の意識の世界に馴染めなくて弾き出されることになるが、その意識の世界に目覚め気付き知り自己意識の改革に取り組んでいる人の「命・意識」が宇宙の仕組みでその意識の進化の流れにどうやら乗れそうです。

それが「完全真理」であり、それに付随する宇宙船「耕栄丸」「ファバラ」とも書いていますが、ただ「信じている」だけでは実践意識・意識改革に欠けていますから、その他力依存の祈願・望みが叶うことは先ずないでしょう、とも書いています。
しかし自力・自信の弱い人が信じることから始まるのも必然ですから否定しているのではありません。
そのままで止まっていることに私なりの違和感から注意を促すように書いているつもりです。

だから他力依存でもなく、また他を巻き込むことも他に巻き込まれることもない、その独自独歩の自由に思うがままに歩いていって、そこで現れた結果はすべて愛ですから、それを「良い悪い」で判断さえしなければ何の問題もなく平穏に生きていけるのです。
しかし良い悪いで判断することになっても、その事に執着さえしなければそこで一旦終わります。
その繰り返しがあってもその都度に気付くこともあります。
その「気付き」の積み重ねが<意識の進化>につながることは間違いありません。

欲張る必要が無かった事に気付けば自己拡大が終わり自己縮小が進む仕組みが「意識」の中にあります。

2011年11月22日 | Weblog
此れまでの自己拡大で味わってきた苦楽・喜怒哀楽が多かっただけに、今の自己縮小での苦楽のない生活が味わえているその真価を知ることにもなりました。
すなわち自己拡大が「得」で自己縮小が「損」ではなくて、自己拡大が間違いで自己縮小が正解だと実感で味わっているのです。

寒い冬場に一枚の着衣が増えれば暖かくなります。
しかしその一枚の着衣が無くても此れまで生きる事に不自由していなかったのは事実です。
だからその一枚の着衣を「欲張る」必要はないのです。

また今あるものを使っているからこそ愛着が出てくるわけです。
だから余計にもつ必要も無いのです。
だから必然ご縁で恵まれ与えられるまで「成り行き任せ」で待つことも出来るわけです。
それだけに恵まれ与えられる結果になれば(中古でも)それが喜び感謝のアリガタイことになるのです。

だから我が子に寒い思いをさせたくないことから余計な稼ぎに出かけることよりも、今のままにその子供に寄り添ってそのままに暮らしているほうが親子の心が温まるのです。
だから無理して頑張らなくてもよかったのに、それを家族のためにといって頑張っている両親の思いの中に実は自分も得をしたい思いや親の見栄や世間体・プライドを保つための欲な思いが先立っているのです。

しかし今となっては仕方がありません・・・ね。
身近な家族に不自由させるわけにはいきません・・・ね。
しかしそれも我が身の欲から出ている事だとは気付きません・・・ね。
何故なら、我が身が貧しい思いに至っていないのならば同じように家族に貧しい思いを「させている」とは思わないはずです。

しかし親が貧しいと思っていなくても、子供が不足に思っていればその子の思いですから、親といえどもどうしようもありません。
しかし子供の心に何らかの不満・欲が出るのは(原因は)先程の着衣の事例のように、子供の事と言いながらも裏では親の欲目が先に出ているからです。 だから「子は親の鏡」といわれるわけです。

しかし今となっては仕方がありません。
だから自己縮小するしかありません。
しかしそれに従わない者まで巻き込むことは出来ません。
だから各々の好き勝手に任す自己責任の自由しかありません。

しかしそこで余計な口出し手出しすれば自らがそれに巻き込まれますから余計な事をせずにほっとくしかありません。
そうなれば同じ屋根の下で暮らしていても各々が独自独歩の自由で生きることになります。
そして成り行き任せの中での必然ご縁があればその役割を果たすことが出来ればそれでいいのです。
そうなれば独自独歩であっても孤独ではなくなります。

しかしそうは簡単に問屋が卸してくれません。
・・・そのことは何度も書いているので省略します。
それでも「やらなければ」何も始まりません。
・・・やらなければ何も気付けないままに終わるかもしれません。

そこで「欲張る」ことがなければ自ずと自己縮小になっていくのがこの世の仕組みにあります。
しかし「負け犬」ではありません。 気楽に生きる事を自らが選んだ結果が出ているだけです。
そして苦楽のない「楽」の真価を知ることになります。

だから貧乏であっても、心は「気付き」で満ちてきます。
だからそれ以上の事を欲張ることもなくなりますから更に自己縮小が進みます。

自己拡大し続けたところで限界を知り、そこから脱却する自己縮小によってその真価を十分に味えます。

2011年11月21日 | Weblog
私は高卒後総合食品問屋に就職して丁稚奉公並みに従事した後父親が死去したのでその家業である米屋を継ぎました。
その当時の米屋は食糧難から「配給制度」でしたから、タバコや塩と同じように専売でしたから営業活動といえば「ヤミ米」の買出しぐらいでした。

その食糧難が終わり飽食の時代になったころに米屋だけではもの足らずにいると明治牛乳の営業マンが飛び込みで来て牛乳販売を勧めてくれたのが縁で牛乳販売所を兼業で始めました。
その顧客獲得は専属の販売促進者(勧誘員)が定期的に来ていましたので、そうなると他店の顧客を新参が奪い取るような格好になりますから同業者に「にらまれて」後ろめたい気がしていました。
しかしその頃に紙パック牛乳が登場したのでそれを先取りして(同業者に気がねなく)乱立気味の食品スーパーで新規販売促進に関わることでやりがいを見出していました。

そして先取り意識から始まった趣味のビデオ撮影が面白くなり、それが新たな職業になると見越してビデオ撮影制作の事業として確立させることになりましたが、その思惑通りに事が進んでいきましたので、やがて牛乳販売を甥に譲り、米屋を妻に任せて本腰でビデオに挑みましたので、此れこそ我が天職と自惚れるほど達成感がありました。

その牛乳販売もビデオも時代の流れに乗っただけですから苦労せずに、営業しないままに拡大進化してきました。
ところがビデオが一般化するほどに同業者が増え始めましたが、後発だけに資金もコネもあり営業活動にも熱心ですから、技術は未熟でも押され気味になりました。
そこで無理することなく成り行きに任せてていましたが、やはり後発組みが資金力や人脈・コネ・接待力でのし上がって来ました。

その天職とまで思ったビデオがその思惑からハズレた時には、(私には絶対に無縁なはずだった)霊界・想念の世界に馴染んでいたことや(思いがけない仕組みで)過疎地で暮らすことを意識しているときでしたから、乗り換える舟が既に用意されていたも同然でした。
その乗り換える舟が先方から来る必然ご縁ばかりでしたから、それが結果的に「来るものは拒まず」の否定反発しないことになり、また自分を超えた無理をしないことで、それが結果的に「去るものは追わず」になりました。

いつも通りに前置きが長くなりましたが・・・
あれこれと自己拡大を続けてきたことがあるからこそ、今の自己縮小の真価が心に届いたのは事実です。
それがもし自分の限界を無理して他力依存(資金やコネ)で乗り越える事を繰り返していれば自己縮小のご縁もないままに(惨めな倒産で)終わったかもしれません。

自惚れになるかもしませんが、自力でやる事に面白さや楽しさがあるのです。
他力を使うことは自分を超えた欲望・野望を叶えるための偽善手段だと思っています。
だから人生を楽しみたい私にすれば自力(独自独歩)の創意工夫でやることに意味があったのです。
・・・だから先取りの「新たな」ことをし続けてきたともいえます。

その自力に限界を感じるとそれ以上のことを味わえませんから、それとは別件の新たなことに挑むのが新たな初心に戻れることからして私には都合が良かったのです。
だから過去のものを惜しげなく捨てることの繰り返しでもありました。
またその限界に達する前に次の新たなことに興味を示していたのも私には都合が良いことになっています。
すなわち私の本分である「知りたがる」「やりたがる」その意識が私自身に役立ったわけです。

そしてつながった「見えない世界」「完全真理」にはその「知りたがる」「やりたがる」ことに限界がありません。
それが<気付き>であり、この世に「気付く」限界はありません。
何故なら「知らない」ことが無限にあるから「気付く」ことも無限にあるはずです。
また気付きの中にも実践していたからこその「気付き」が多く含まれます。

そしてその「気付く」ことに生き甲斐やの充実感めいたものが含まれています。
それが「人間は意識で生きている」という証だと思います。
だから金銭物質に恵まれなくても「生きている価値」「生きる真価」を見出したような結果になるのではないでしょうか。

ただそれが「誰も知らない」事を知ったという自己満足・自惚れになる可能性があるのです。
だから「執着」しないことにしています。
だから「知った」事の足跡をブログに残すことで満足して終わらしています。

此れが最後の完全真理から他の舟に乗り換えることはありませんが、それでも<先取り>意識は健在ですから、できれば「調和」意識の者同士が寄り集まり各々が自力を出し合い「共に生きる」ことになることを先駆けたいのです。
そうすれば自他共に自分の自力を超えたことが無理なくできるようになるし(不完全意識では問題があるが)、その楽しさ喜びも「共に」味わえる至福がありますから、今の独自独歩の孤独な生き方からも「さようなら」できます。
しかしこれも必然ご縁のお仕組みが起きない限り無理なことですから、やはり「待つ」しかありません。


完全真理の実践は特別な宗教的儀式のない状態「独自独歩」で死に至るまで続けなければなりません。

2011年11月20日 | Weblog
完全真理を実践することは「普通」に生きる事になりますが、信仰宗教の信者になって暮らしていると「特別」なことがあります。
それが日々のお祈り・ミサの時間があったり、信者が教団教会に集り聖歌を歌ったりお経を唱えたり、また信者さんの慶び事を共有したり、教えにつながる体験や気付きを皆の前で発表し合ったり、共に布教活動に出かけたり慈善・奉仕活動をしたり寄付活動をしたりする「特別」なことがあります。

ところが完全真理を実践することの中に何の特別もありません。
それを言い換えると見た目に威厳や格式・風格が見当たりませんから普通の「安っぽい」実践になります。
だから、それらしく目立つ特別なことが好きな人は信仰宗教がお似合いになるわけです。
しかも教えられた神を「信じて」「祈願」していればその神と一体になれると言うのですから有難い事に思えるわけです。

ところが私が普段から暇で退屈しているのに完全真理の実践が伴うと更に変化刺激のない日々が続く事になりました。
だから時々完全真理に物足りなさ(調和不足)を感じるときがあります。
その中に宗教観や精神世界を語り合う人たちが世間に少ないことも影響しています。
それでも時たま宗教に属している人がその布教・宣伝に来て精神世界を語り合うときがありますが、私が完全真理を持ち出すと(怖いものに触れたように)慌てて逃げるように去っていきます。

だから完全真理を語り合う仲間となると更に限られています。
また仲間内だからとわざわざ(無理に)完全真理を語り合う必要性すらありませんから、当然ながら私が出る幕もありません。
だからこのブログを書くことで調和・慰めになります。

だから先に書いたような宗教的儀式があったり信者仲間と世間に出向いていくことがあるほうが自己満足の充実感を味わえます。
だから神を知る精神世界の中にも「見せ掛け」があるほうが「取っ付き易い」し脱落していく可能性も低くなります。
とは言っても既に宇宙・神・愛の真実を完全真理で知ったのですから、今更信仰宗教に親しむことには絶対にありません。

その見せ掛けに違和感や否定反発する人もいますので、その点から言えば完全真理のほうが「取っ付き易い」とも言えます。
しかし「見せ掛け」がないために世間に知られる機会も少ないし、世間に注目されることもないことから「わびしい」思いや物足りなさを感じたりするようになれば実践し意識し続ける意志が弱まり、その分だけ実践が止まったり途中で脱落していく可能性も多くなります。

ゆえに信仰宗教に染まる人がいたり、完全真理にご縁がある人がいるのも、その原因はその人の意識にあるのです。
その点から言えば完全真理にご縁があった人の意識のほうが見せ掛けよりも中身・真実を知りたがるタイプだと思います。

とはいっても見せ掛けに惹かれる人が多いのも事実ですから、何かと奇跡を成して見せる必要性もあるのです。
またその見せ掛けに惹かれる人ほど精神的に他力依存が強く、その精神力や実践力の自力・自信が弱いのが見られます。
だからか、信仰宗教に入信する人の中に精神的、また肉体的、または金銭的に困った状態になっている場合が見られます。

しかし完全真理にご縁があった人は他力依存性よりも自力向上の生活向上・健康関連・子育て学校問題や環境・人権問題やボランテア活動、また占い運勢や奇跡や異次元・怪奇現象などの見えない世界に関心を持っていた人が多いと思っています。
すなわち自力・自信がモノを言うわけです。

見えない神に衣を着せて見せ掛けその偶像を崇拝させているのが信仰宗教と言えますが、完全真理は見えない世界の真実を完全に知ることが出来ますから「信じる」必要はありません。
しかし「形」がないだけにその真実を自覚・悟りに到っていてもそれを誰にでも見せる事は出来ません。
・・・だから何か事欠いた物足りなさを感じることになっているのかもしれません。
・・・だから奇跡を成して見せる人に惹かれて人が集まることにもなっています。

また真実と言えどもそれは個人の中にあることですから、その真実に個人の思いの部分・想念が入り混じることがあります。
ところが完全真理であれば完全ですから、たとえ個の思いが入っていてもそれが完全なら何ら問題ありませんし、万が一不完全であれば誰でもがその事に気付くことが出来ますから、完全真理が変に歪められることには絶対にありません。

その真価を知れば完全真理から離れて不完全な信仰宗教に足しげく通うことにはなりません。
ところが他力依存から完全真理を知った人の中には真理の実践よりも耕栄さんやファバラが頼りの信者になっている人もいます。
しかしこのブログで真理を知った人が他力依存になることは先ずないと思われます。

しかし宗教的形式がまったくない状態で(独自独歩)死に至るまで実践意識を持ち続けなければなりません。
それが大変に思うようであれば、現在何らかの無理をしている段階にあると言っても過言ではありません。
だから、先ずは苦楽のない、無理のない、執着の無い、普通、素朴に戻ることが肝要なのです。
とは言っても<特別>がないことは魅力に欠けることですからその実践をやる気になれない人が多いかもしれません。
だから「知りたがる」「やりたがる」人の為の<気付く>実践真理なのです。

神を知りその神と一体となるにも「出家」があるように、完全真理の実践にも自己縮小の「形」が必要です。

2011年11月19日 | Weblog
昔から神を知るためにも自己縮小が必要だったように、またその神を知ったことで更に自己縮小が進むことにもなりました。
だから大企業の社長になったお蔭で真実の神を知ることになりません。
もちろん王様や国家指導者になったお蔭で真実の神を知ることにはなりません。
また名誉肩書きを持ったお蔭で神を知ったとしたら本物・真実を知ったはずはありません。

またインドのガンジーは虐げられている人達を解放したような結果を残したことがあっても、(否定反発・抗議運動をするからには)真実の神・愛を知ったはずはありません。
またマザーテレサが貧困の人を救済した形式や受け継いでいる組織団体があっても、(見せ掛けの形を重んじているからには)真実の神・愛を知ったことではないはずです。
またサイババが奇跡を成して何を説いているかは知りませんが、御殿・神殿の形を持つ人が(見せ掛けの形を重んじているからには)真実の神・愛を知ったはずはありません。
もしこれらの人が完全な真実の宇宙・神や愛を知っていたとするならば、イエスや釈迦らと同じく「ミイラ取りがミイラになった」事例にあたります。

ところでネットや書物や講演会で実在する宇宙・神を知ることが出来る完全真理を知識で知ることができても、その実在で真実で完全だと悟るにも自己縮小が必要になるはずです。
その自己縮小が過去では出家して仏門に下るのが多かったように俗世間に染まったままでは無理があるのです。
そして出家するということは家族とも物欲とも離れて暮らすことになります。

その出家した人たちが団体行動をとるのも同じ仲間が居なければ脱落する可能性が多いからです。
また高い城壁に囲まれた場所や山間僻地や人里離れた場所で集団生活するのも一種の隔離です。
・・・過去の釈迦が邪念と戦い、その邪念が出ないように修行までしたと言われているくらいですから並大抵ではなかったのです。

ところで自己縮小の実践に己自身の無理が伴えばその実践は本物にはなりません。
何故なら無理をすることは欲があるからです。
その欲を捨てるのが実践なのにその欲から無理に始めれば途中で挫折するのが目に見えています。

また俗世間で一般的な生活を普通にしていても、その生活に欲がないと言い切れる人はいないはずです。
とは言ってもその欲を無理に捨てるのも問題が有って当然です。
だからすべてにおいて自然体が言われているわけです。
・・・私の場合は「成るようになっている」ことで十分に思えるようになったのです。

だから俗世間で一般的な生活をしている中で真実の神・愛を知る事になるのが望ましいのです。
その点から言えばこの世はアリガタイことにネットや書物や講演会で知ることができて、それを実際に実践する意識力・実践力・自信自力を前もって養うことが出来るのです。

ところが実践が本格的になるほどに世間のしがらみが邪魔になるはずです。
そのしがらみを守っていて実践が出来るとしたなら昔から出家する人もいなかったはずです。
すなわち世界のあちこちで(昔から)出家する形式があるのも形の自己縮小が必然だったのです。

だから完全な神・愛を知ったのにその自己拡大してきたものを持ち続けることには相当な無理があります。
そうなるとやはり「形」での自己縮小も余儀なくされます。
それが人災や天災の有事で(余儀なく)ではなくして、また束縛制限される出家の形では無くして、また他力が介在する自己縮小ではなくて、己の意識が原因の成り行き・自然体の結果であれば申し分ないわけです。

ところが幸いにも、この世の形結果では無くして原因である真実の神・愛の「意識の世界」を完全に知ったのですから、その見せ掛けの形から自らが離れる事に何の未練も執着もなくなりますから、自分の中では無理なくことが進みます。
ただ身近な人が邪魔する形になるのはいつの世にもあることですが、それに未練があるのなら無理をする事になります。
・・・その未練を断つために出家という形が必要だったのも事実です。
そこで(出家しなくても)自前の自力自信の独自独歩の自由な実践であれば可能になります。

そして完全真理は誰のためでもなく自分のために有るのは事実です。
また不完全意識の者同士や身近な者同士が寄り集まってどんなに協力し合っても不完全に変わりはありません。
反対に個人の自由が奪われますので、その自由が無ければ確かな実践も無理になります。

いずれにしろ、すべては己の意識に原因があることです。
だから(人様を捨て置いても)また(その人の為にも)己の意識を改革することが先なのです。
その不完全意識のままでは何を成しても余計な事になり無理することになり無駄になるかです。

自己拡大は時代の進化をもたらしますが、自己縮小は「意識の進化」になります。

2011年11月18日 | Weblog
私達は「良い悪い」で判断していることから、現れた結果事実が「ひとつ」なのに「二つの思い」に分けて判断しています。
その「思い」は己の中にあることであって皆にあることではありません。 だから不完全だと言われる訳です。

そして泥棒に入られるとその泥棒が原因に「思い」その対策を強化したり、その泥棒を憎む事になりますが、それが「きっかけ」で原因である「意識の世界」精神世界を学び知る実践になることは先ずありません。

また入学試験や就職試験のときに神社仏閣や教会に行って神仏に祈願する人がいますが、しかしその神仏の真実を完全に知っているわけではありませんで、ただその神仏を「信じて」いるにしか過ぎません。

その「信じ」ている神仏に、泥棒が入らないように頼んだり試験の成績が良くなるように祈願しても、必ずしもその願いが叶うことにはなりませんが、それは「不完全」だからです。
しかし完全な宇宙・神が当たり前の如くに完全な形結果を創造し続けているのは「完全」だからです。
だから完全から完全が生まれても、不完全からは不完全しか出てこないのです。
だから不完全な神仏に祈願しても不完全な結果になるだけです。

ところが不完全な神仏に祈願したから災難を免れたり試験に合格したと思う人がいますが、それが必ずしも神仏のお蔭だと真心から思う人は先ずはいないでしょう。
何故なら「信じる」裏には必ず「不信」があるからです。
もしその不信がなくして信じ切っていれば、それは妄信や自己陶酔や洗脳されているからです。

また「信じている神仏」に祈願したら願いは叶うと思っている信者にもその不信感は必ずあるはずです。
何故なら自分の「願いが叶った」ことが無いからです。
しかし願いが叶ったと「思い込む」ことはできます。
すなわち信じることは思い込むことにつながっているから要注意なのです。

前回にも書きましたが受験生が神仏に祈願することで合格することが出来るならば祈願した全員が合格しなければなりません。
しかし現実は違っていますから不完全になるわけです。
しかしそれを不完全な結果になることも「ある」と言うのであれば、有る時と無い時がある矛盾・不完全がありますから、それは完全な真実を言っていることにはなりません。
・・・「真実」は矛盾も妥協も言い訳正当化もない事実だけの絶対完全だからです。

しかし不信感でもって祈願するという、その変な形・矛盾を何故持っているのでしょう。
それは自信・自力の精神力が弱いからです。
そんな弱い精神力の人達を(結果的に)惑わしたり、付け込まれたりして、その人達を思い通りに操り、人集め金集めの道具に使い、その勢力拡大に使おうとしているのが信仰宗教に見られます。

(結果論ですが)
完全な神・愛を説くことで組織拡大・勢力拡大すると矛盾が出てきて実現させることは出来ません。
そこで真実の神の一歩手前の不完全な神仏を本物のように見せ掛け教えることでそれを信じ込ませれば、その無知な信者を宗教の思うがままの「使い走り」の手足に使えるわけです。

信仰宗教を否定しているのでは有りません。
信仰宗教も人類の意識の進化の段階に必然だから出てきたことです。
ただ実在する真実の完全な神を知らないから教えることも出来なかったのです。
そこで(初めてで最後となる)完全な宇宙・神・愛を解く完全真理が必然で出てきたのです。

ところがしかし、その矛盾する過去の神仏を教えていた信仰宗教が根強く残っているのと、その信仰や宗教に不信感を持っている人も多いことからして、その完全真理が同類に思えるのか、世間になかなか普及拡大していかない一つの要因にもなっています。
しかも此れまでの自己拡大が時代の進化に思えていたのですから、その反対の自己縮小で「意識の進化」を説く完全真理になかなか馴染めていないのも事実にあります。

それでも「真実」を知ればそれを否定反発排除することにはなりませんから(出来ませんから)徐々にでも広がっていきます。
その「真実」を真実であると確信自信に至るにもその自信・自力の精神力・意識力が必要です。
その手助けの一つにでもなればこのブログも無駄ではなくなるのです。
そして意識の進化に乗り遅れないで下さいと(元は神である)皆様に願うばかりです。

「波動」「風水」「手かざし」「念力」「宇宙エネルギー」「洗脳(自己陶酔・思い込み・刷り込み)妄信」

2011年11月17日 | Weblog
私が摩訶不思議に興味を持っていた頃に「波動」が言われていまして、その波動から風水・手かざし・念力・オーラー・テレパシー、そして宇宙エネルギーや完全真理の「意識エネルギー」につながったのですが、自然界のものには問題はないが、人工的なもの、例えば絵画音楽・芸術・装飾・建造物・人的映像などに洗脳(思い込み・刷り込み・自己暗示・妄信に到る)エネルギーが含まれていたりトリックが仕組まれていたりすることです。

それで有名なのが映画フイルムの中に意図的に別な映像一カットを所々に挿入して潜在意識に植付け刷り込む方法です。
音楽では耳に聞こえない違和音を挿入して演奏する方法があります。
そしてライトの光・光線・カラー照明を意図的に点滅させて洗脳的に同調させることが結構行われています。
また宗教の集会で音楽演奏や聖歌があるのも、また新興宗教などの大集会で大舞台が使われたり多彩な照明や多様な装飾や高低音が鳴り響くその派手さに裏があります。
ちなみにエレキギターなどの派手な音が出る楽器、それを高音で聞かせるスピーカーや激しい動きに合う演奏・ライブに多用するのも、またパチンコ台にも使われていますが、そのパチンコ「海物語り」も次第に派手さが増しています。

また「それらしく」見せさせる意図がある神社仏閣の鳥居・仏像・祭壇・装飾や教会・神殿・偶像やステンドガラスの模様や紋様や色彩やの建造物も同じすし、また一目でそれとわかる一般的ではない衣装着衣を着ているのも他者を洗脳させる意図が隠されています。
また斬新・サイケ・サイコ・鮮やかな色調を多用する衣装・着衣に魅せられることもあります。
また絵画・彫刻は己の意識・念を植え込んでいるのが多く、素朴でないほど影響を受けます。
一般的な「名刺」も一種の洗脳ですから、その名刺だけで簡単に人を騙すことが出来ますし、卍や巴などの紋様・紋章からロゴマークやカット画も洗脳が含まれています。

過去の名画・名曲にも刺激の高いものと素朴なものがあるのも「調和」のために仕組まれて必然で出ているのです。
また流行に変化があるのも調和を取るために起きている必然です。
運勢に波があるのも調和のための必然です。

一般的ではないこと、万人向きではないこと、違和感を持つ人が多い事柄に「引き寄せられ」「魅せられる」のは概ね洗脳なのです。
それらの「特別」に魅せられることは(意図・他意に関わらず)潜在的に隠れている特別なことを欲する意識を高めてもくれます。
またそれらに強い反発や否定があれば、それと相反することに洗脳されている可能性があります。
だから否定も肯定もない普通がいいのですが、私の場合は意識に残るその違和感が事実を知りたがる事につながっています。
しかし一般的にはその違和感が集合意識で慣らされて(一種の洗脳)常識化しているのも事実です。

自然界の万物にもエネルギーがありますから、それらから「癒され」てもその弊害・副作用はありません。
それら自然界の物質で作られた諸々にもそのエネルギーがあります。
また素材が同じでもその色彩や形・形状ごとに(ピラミッド形・八方形・五角形など)異なるエネルギーに変化するようです。
その中でスパイラル(渦巻き)状態なるエネルギーが強いようです。

ところで太古の水や岩清水などの名水に高いエネルギーがありますが金儲けに商品化されたものは低くなっています。
太古の氷山が溶けているのも(深海の淡水・深層水)汚れた自然環境の調和のエネルギーにもなっています。
またアメリカの大農業を支えていたのが太古の地下水ですが、その地下水が消えて今やその農地が砂漠化している現実があります。 そして今や太古の遺産である石炭石油から今度はジャングルの湧き水や氷山・氷河の水の商権に移っています。

また鉱石・金銀・水晶・輝石に高いエネルギーがありまして、ダイヤモンド・ルビー・エメラルドの色・輝度に似合ったその高いエネルギーが出ていますが、ダイヤモンドが一番エネルギーが高いようです。
しかも白色よりもイエローがもっと高いエネルギーが出ています。
だから昔から言われている「黒龍」より「青龍」より「白龍」より「金龍」が愛でられるのと同じように、UHOも黒色よりも白光よりも金色に輝くのが高次元と言われています。

ちなみに欲深い財産家が宝石・輝石を欲しがるのは(潜在的に)そのエネルギーで調和を取りたいからです。
だから貴金属・金銀・宝石を沢山身に着けている人ほど欲深い事を示しています。
ちなみに病院通いしている人はそれに似合った意識の持主である事を示していることになります。

コンクリートに囲まれた人工的な都会暮らしを望む人ほど欲意識が強いはずです。そして疲れているはずです。
それだけに様々な癒しエネルギーに関心があったり、また合成品よりも自然素材を好むのも、またその希少な自然素材で作られた着衣や装飾品やその感触や色彩・艶やかさを選んでいるのも、そのエネルギーで補っていたいからです。
また着衣や装身具などに愛着や感謝があるとエネルギーが高くなります。

これらのことは概ね10年以上も前に書いていたことです。
そして自然界の事を書いていただけに、いつの間にやらその自然界に馴染んでいる現在があるのです。
しかもその中に先取り意識・先覚者意識・感性があったことも書いています。
またそれだけに、それが正解だっただけに、自惚れています。

そして上記にあるような波動から始まるそれら諸々のエネルギーが万物や人間の持つその命・意識の「意識エネルギー」と名称が変わっただけです。
そして私の(浅くて広い)事例が多いわけです。
それだけに「威厳」「格式」や「専門」分野的な人名やその語録や語学やの単語や解説やその横文字が少ないだけに重みのない安っぽいブログになっています。
また色気・色艶・装飾のない、行間の少ない文字ばかりになっています。
すなわち「特別」がないのです。
そして豊かな自然界の中でいるとその調和エネルギーで「特別」が要らなくなるようです。

良い悪いで判断する「役割」を果たしながら、良い悪いで判断しない「完全意識」になるのが<使命>です。

2011年11月16日 | Weblog
私達人間は生まれながらにして「良い悪い」で判断することが役割として持っています。
そしてその役割を果たしながらも「良い悪い」で判断しない完全意識になることが使命となっています。
すなわち己の不完全意識に気付くのが役割で、その不完全意識をなくしていく実践が使命になるわけです。

その人間を何処から見ても人間ですから「完全」です。
ところが見ている面・表しか見れませんから、見えない裏側は想像するしかありません。
その想像することが(事実を見ていない)不完全になるわけです。
だから姿形・結果そのものが不完全なのではなくて、見えていない所を思い想像するその意識を不完全意識と言われる訳です。

そして見えているのは事実だが、その見えていない部分を思い想像してそれが良いか悪いかで比較することからしてその「差」が生まれ、その差を如何にも事実の如くに思うことからして、それを不完全意識と言われる訳です。
・・・想像したことを事実に思うその意識に問題があるだけです。

だから表の事実だけを見ることは完全で愛があります。
そして裏側を判断する不完全意識が出ることがあっても、それが一日24時間出続けていることではありませんから、表の事実だけを見ている「あるがまま」の愛の時・時間もあるのです。

そして「過去」は既に終わっていることですから、記憶(裏)に残っていても「表」に出して見せる事は出来ませんから、それは不完全になります。
また生まれながらにしての詐欺師やドロボウや人殺し戦争をする人はいません。
となると、食って寝て糞をしながら生きている最中に何かの原因があったからその結果が現れたことになります。
その原因にあるのが「良い悪い」で判断する世の中にありますから、その結果も全ての人の責任でもあります。

そして結果(表)である詐欺や泥棒や人殺しも時間が経過すれば過去の事になりますから、たとえ記憶(裏)に残っていてもその事実(表)は完全に消えています。 ところがその事実(表)が消えて見えていないのに、頭の記憶(裏)に残っていることに執着していつまでも悪人扱いする人がいますが、そんな人のことを愛のない不完全意識を持ち続けている人と言われる訳です。

それらをまとめると表(結果)は「完全」ですが、裏(判断)が出れば「不完全」になるわけです。
だから「判断」しなければ結果の事実(表)だけになり何ら問題ありません。
すなわち宇宙・万物の姿形やそれらの原因から出た結果(事実)は「完全」で<愛>がありますが、その結果の姿形や事実を想像して「判断」しているその『思い』が不完全意識(裏心)であって愛がなくて問題があるのです。

だから弱肉強食の形結果は完全で愛がありますが、それを「良い悪い」で判断している不完全意識の人達に愛がなくて問題があるのです。 そして地面にいるアリさんも完全であり、その役割に愛がありますが、そのアリさんを踏みつけて殺す事になると、それが知らない間になった事でも、知ってやった事でも、それを「良い悪い」で判断した人の不完全意識に愛がなくて問題がある事になります。

また先程の詐欺や泥棒や人殺しの結果・事実にも原因が有ってのことであり、その原因が自分さえ良ければの不完全意識の人間に愛がなくて問題があったことですから、人間である限り、それはお互い様の関係でもあり、そのお互い様のその結果事実を役割として果たして見せてくれた人がいれば、それはアリガタイお蔭さまになり(役割を果たした)愛がありますが、それを良い悪いで判断している裏心の不完全意識の人に愛がないわけです。

そこでよく考えると、判断しているときに不完全意識になっているが、判断していなければ問題ないわけだから、不完全意識を持っていることに変わりは無くても、その日々の生活の中で愛が出ていることが多いはずですから、あまり不完全意識の事を気にしないで平然と生きていて、判断が伴ったときに気付いていけば執着することにもなりません。

そうなると私は世間のことに無関心ですから、それだけ判断することもありません。
また人間関係もごく限られているだけにそのことで判断することもごく限られています。
また食って寝て糞をしているだけのような生活ですからそのことで判断することも限られています。
すなわち呑気気楽であれば判断する事無く、また過去や未来を思い考えるのはブログを書いている時くらいですから、持っている不完全意識が出ることも限られます。
・・・だから(完全意識に近づいているということではなくて)穏やかな暮らしがあります。

ところで地面にいるアリさんを踏みつけないように意識することがあっても、その事に執着してアリさんを踏みつけないように前もって注意・用心しながら歩くことは行き過ぎた愛になり不完全になります。
・・・命あるものを思うことから・・・田畑を歩く道に板を敷いたり踏みつける所を決めて歩いている民族国家があるそうです。
だから前もって「思い」考えて行動することは不完全意識ですが、その行動が結果になり「良い悪い」の判断「思い」が伴わなければ愛の行為になります。
・・・「思い」の部分が不完全なだけです。

だから前もって思い考え想像していることは不完全意識であり、その行動が伴わなければそれも不完全なままですが、それが行動になりその結果が出れば事実になりそれが愛になるわけです。
そしてその結果・事実・愛に「判断を加えた人」だけにその不完全意識が出ている事になるのです。

何はともあれ「判断」しなければ事実だけになり愛ですから問題にはなりません。
そうなると「判断」しながら書いていることは不完全意識ですが、出来上がったブログは結果ですから愛があることになります。
またその愛のことを書く中に自分の思いが入っていれば不完全ですが、完全真理に元ずく判断から確信で持って書いています。
しかもイメージ的に思い浮かんだ事を説明文書にしている中で思いつくままに書いているだけですから、私の強い思い意識で書いているわけでもありません。
だから事例を(完全とも愛とも自覚しないままに)思いつくがままに書いているときに、その内容が完全なことや愛にあたることなどに(書きながらにして)気付くことになっていますから、こうして書き続けることで私も気付き知り学んでいるのは確かです。

「調和の仕組み」「気付く仕組み」「必然の仕組み」「過ぎた意識・執着を終わらす仕組み」があります。

2011年11月15日 | Weblog
宇宙・自然界は完全なだけに「調和」の仕組みがあります。
だから特別な過ぎたことには絶対になりません。
だから完全なままが延々と続くことが可能になっているのです。

弱肉強食とも言われることも調和・バランスで起きている当たり前の仕組みです。
巨大隕石が落下したり原子爆弾・核が爆発しても元道理になるのも調和のその仕組みが元からあるからです。
世界各地で原油汚染が起きてもやがて収まるのも人力以外の調和の仕組みがあるからです。
天変地異が起こるのも地球(意識体)自らの調和を(限度ぎりぎり)維持するために必然で起きている仕組みです。
万物・人間にそれぞれの違った役割使命があるのも調和の仕組みからです。

それと同じように人間関係・人間意識の中にも「調和」の仕組みが起きています。
それが「良い」ことも「悪い」こともあるという裏表の原因とその結果です。
だから自己満足(幸福)の裏に不平不満(不幸)があるように、片方に偏らないようになっています。
だから自己満足が強ければその裏の不平不満も強いものがありますが、当然その逆も同じようにあります。

また過ぎた特別な事を成そうとすると「苦労」が伴うのも<調和の仕組み>で起きていることです。
そうでなければ終止がつかなくなり一気に破壊(自己破壊・他者破壊・自然破壊)が進むからです。
だから自然界の如くに無理することのない「あるがまま」の普通・調和でいれば安心安全の穏やかな生き方になるのです。

また調和を乱す「過ぎた意識」に気付かせる仕組みの<鏡現象>と言われる形があります。
その例えに、親が子に無理強いすると今度はその子供が親に無理強いする(ダダをこねる)ことになっています。
また感謝の心がない人に有事が起きて困った事になることからしてそこで感謝を学ぶことにもなっています。
そして執着するほどに問題解決が難しくなるのも、最初から執着する必要がない事を学ぶためです。
だから学び知り気付くことが重要になるわけです。

高い位置でいるほどに落ち込みも大きくなりますが、普通でいれば穏やかです。
すなわち高低のない中心に位置するからです。
それでも高い位置に執着するとそれだけ苦労も続くのですが、それを乗り越えて頑張り続けても、その苦労の連続から虚脱感に陥ることがありますが、それも(潜在的に)元に戻ろうとする仕組みが起きているからです。

そこで元に戻ることが出来れば二度と自己拡大することにはなりませんが、そこで過去の栄華に執着するとまた頑張り続ける事を選びますから、それも結局くたびれ損で終わり、その過去の栄華を思いに生きるだけになり、過去に生きている哀れな意識の人で終わりますが、(それを世間に隠していても)その事実を一番よく知っているのが当人と言うような皮肉で情けない結果になります。

その世間に注目されなくなったその落胆空虚とまた人様から見放されたと思い込むその孤独感を自が背負って生き続ける精神的な負担は計り知れません。
だからそれが原因で(逃避になる)うつ病や、(すっかり忘れる)痴呆症や、(人に見放されていない証として常に付き添う人が側にいる)要介護の生活にもなっているのです。

また思い込みが過ぎるとその結果が出てきます。
だから不幸と思い込むと、その通りに本心から不幸に思えます。

それと同じく用心しすぎたり警戒しすぎたりするとそれが事実となる結果が出てくることがありますが、それも先々の不安心配・恐れ恐怖の執着を終わらすために起きている(元に戻す調和の為に起きている)必然の仕組みになります。
すなわち「今」を生きていないで<想像の世界>で生きていることに早く気付かせるために起きる前兆の仕組みですが、それがお仕組みだと気付ける人には概ね大きな事には到りませんが、その前兆を用心・警戒していた「お蔭」だと思い込み信じ込んでますます変な自信まで持つと、その意識力が災いを呼び込むことになって(仕組まれて)先には思い込んでいること(詐欺・盗難・火事や事故死や人災や天災による災害死や病死など)が現実となるように仕組まれる場合があります。
・・・人間が意識で生きている事実に気付かせるために必然で起きています。

また自信・自力も無いのに「私は大丈夫」とかで見せ掛けているとその裏が出てくることもあります。
また不信感が強いのに「信じている」と見せ掛けていると裏が出てきます。
それが表も出れば裏も出るという(調和の為の)仕組みの中のその裏が出る「裏切り」と言われる形です。
すなわち不信感を持っていたのにそれを隠しておいて、如何にも信じているかのごとくに見せ掛けていた(勝手に思い込んでいた)から、それに反する結果になったときに(自分勝手に)それを裏切られたように思えているのです。
・・・信じることは自力でも自信でもありません、他力頼みの欲になります。

本当に自信・自力・確信・絶対があることなら、その成り行きで現れた事実だけを見ていますから、その結果を良い悪いで判断することにはなりません。 だから事実(表)だけなら「裏切り」(裏)は元から無かったことなのに、それを如何にも有ったが如くに口に出す人は(信じる振りをしていた裏のある)「偽善者」にあたります。

すべては意識にあり、その意識で生きているのが人間であり万物や宇宙・神でもあり皆が同じです。
ただ問題なのが人間の意識に「裏と表」が有って、それを使い分けている矛盾する不完全意識を持っていることだけです。

お蔭さまとお互い様の意識とその感謝の心があれば真坂の有事が仕組まれることも少ないようです。

2011年11月14日 | Weblog
前回の投稿で気付いたと思われますが・・・
不完全意識の私が意識して出した愛は不完全意識から出ただけに同じ不完全な愛になりますが、私が意識しているわけでも無いのに自然と出ている(知らない間に出ている)のはあるがままの自然体の愛になります。
だから過疎地で呑気気ままに生きている私の生き様を見て、それを真似てみたいと思う人がいたり、憧れることになったりしても、また私の生き方を否定反発する人がいても、それは私が意識して出した結果ではありません。
だから私の知らない間に人様の意識に影響を与えていた事になりますので、それが人様の意識に届いた愛になるわけです。
ただその受けた愛を如何様にするか、どう判断するかはその人それぞれの意識にかかっていることです。

だから成り行き任せの必然ご縁は宇宙・神のあるがままの愛の仕組みで起きていることであり、その必然ご縁で関わる人からも(その人が愛を出しているとは思っていなくても)その愛を私が受け取っていることになるのです。

その事例が変わりますが、私が何らかの被害に遭遇しても、その加害者を責めることよりも、先ず自分の心・意識の隙間・油断をつかれた事に気付き反省することになります。 そして気付かせてくれた加害者やその被害に遭ったことをアリガタイと感謝の気持ちになればいいのですが、そこまでは無理にしても、その加害者を責め続けることにはなりません。

その事例に車両の接触事故で此れまでに3件ありましたが、いずれも相手の不注意が大きな原因だけに損害賠償を請求できる立場ですが、乗っている車が頑丈な中古の軽トラックだけに損傷も少なくて平気なのですが、相手の新車・旧車の損傷がひどいだけに気の毒になり、何事も無かったように簡単に済ませて終わりますが、その時の相手の安堵の表情が私を嬉しく楽しくさせてくれました。

また夜間高校の帰りに太陽族まがいの荒くれ青年に暴行を受けて後遺症が出るほどの警察沙汰になりましたが、その後にその犯行グループを街中で見つけても面倒に巻き込まれるのがいやで警察に通報しませんでした。
また精神世界を知る以前にも大きな車両接触事故が2件ありましたが相手側の対処だけで穏便に済ませることになりましたし、詐欺まがいの学習塾経営で大損したことも、また摩訶不思議な事に取り組んでいたときの宇宙エネルギー浄水器を騙し取れたことも2件ありますが、いずれも執着しないままにほっときました。

すなわち精神世界で言われるところの起きてしまった過去のことに執着しないことが私の中に過去性から潜在的に根付いていたのは確かなようです。 そしてその被害に執着しないで終わらせることからして、その自分が反対の加害者の立場になるようなことが起き難い「意識の世界」の仕組みがあると思っていますが、現に何の騒動も起きずに此れまで平穏無事に来ています。

・・・元に戻しますが・・・
詐欺師やドロボウさんにも殺人者にもこの世の必然で仕組まれた役割を果たす愛があったことになるのです。
また自らが怪我したり病気や死に目に遭うのも、その必然ご縁の仕組みの中に愛があったからそうなるのですから、その愛に気付けばいいのです。 しかしその愛に気付かなければそれが不満不足になったり不安心配や恐れ恐怖にもなるのです。
だから何事にも感謝の心になる「すべてに感謝」の意識が言われる訳です。

そしてお互い様だから、共に許し合うことで、その自分も結果的に許されて(意識が開放されて)→それがお蔭で執着しないで済むことなりますから→それがまたアリガタイ感謝になるのです。
だから詐欺師やドロボウさんや殺人者をアリガタイと思うのに無理があっても、それを許すことでその執着が消えて(出てこなくなり)自らが気楽になれるのは事実にあります。
しかし執着が残っていれば、その執着に自らが束縛制限支配されます。

またその感謝の心があるから真坂の有事(人的災害や天災)に遭遇しないで済むとも思っています。
・・・言い換えれば「感謝の心」を学ぶために有事が仕組まれているとも言えるのです。
だからわずかな事に心からの感謝(喜び)がある人にはその有事が起き難いともいえるわけです。
また有事に遭遇しても被害が少なかったり、また大きくても土台(精神力・実践力の実力)が残っていて、その立ち直りが早くなるとも思っています。

そして欲が少ないから必然ご縁で与えられ恵まれることになり、しかも欲が少ないから些細なことでも喜び感謝になるのです。
だから自己満足には苦労が伴うが、自己縮小には労せずに満足を得ることが出来るわけです。
だから成り行き任せが板につくのです。

自己拡大は自己満足になり感謝の心にはなりません。
その感謝の心がないままに自己拡大ばかり続けているから真坂の有事が仕組まれるのです。
しかしそれにも負けずに自己拡大を続けると更に大きな有事に見舞われます。
そこで感謝の心に気付くことが出来てもすぐに「雨やんで傘を忘れる」ことになれば、その自己拡大が出来ない状況に置かれる仕組みにから、それがうつ状態や痴呆症や要介護の有事になるやもしれません。

感謝の心を忘れている原因から、この世で現実に起きている様々な有事が結果として現れ、その結果が我が身や身近な人にも起きたりしているし、また巻き込まれていますから、「何で私が・・・」となっているのです。
また「あの世」でも同じでして、自己拡大してきた特別意識の人にも<何で私が・・・>の自分の予測と違う結果が待っています。
そこで人様に擦り付けて「あの時のあいつが悪い」「あのクソ坊主のせいだ」と宇宙的霊能者に語ることになるかもしれません。