孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

矛盾も妥協も一切無い「真実に気付く」意識を学び知り味わうことの出来る完全な真理

2010年06月29日 | Weblog
人間は意識を持った命ですから、意識が無ければ命も存在できません。
その意識・命を持った生命体が人間の形を成しているのですから、鶏が先か卵が先かで言えば、意識・命が先(原因)であって、人間の形を成している肉体は意識エネルギー(全知全能のエネルギー)によって創造された形(結果)になります。

だから人間の赤ちゃんとしての形を成す以前から意識・命は存在・実在していた事になり、それが世間で言われている魂の世界・前世・意識の世界・神や愛の世界などと言われている人間には見えない世界・異次元界になります。
それを分かり易く言えば・・・あの世があるから(原因)、この世(結果)があるので、あの世が無ければこの世も無い完全な無になります。

と言うことから言えば、生まれたての赤ちゃんは両親の意識・思いで産まれたというよりも、(あの世の仕組み・必然によって)自らの意識が働いた原因があるからその結果として両親を得たことになりますから、原因は己の意識にあり、その結果が両親と言う関係になりますから、簡単に言えば(必然から)「子が親を選んで」生まれた事になります。

また己の意識によって思い通りに生きていけますから、例え自分の思い通りにならないことがあったとしても、(そのままにしていられずに)(それが気に入らなくて)何らかの行為表現をするに至るのにも(原因として)自分の思い・判断・意識が働いたことになりますから、すべて自分の思い通りに生きようとしている原因とその結果になります。 
その事を自己責任で生きているとも言われますが、それを言い訳正当化して他者責任に負わしたがる意識が「私は正しい」という自己主張に見られ、その「私は正しい」の意識を持つことから自分に都合が悪くて気に入らないことがあれば、その不平不満や不信感からそれらを否定反発・拒否することが多くなり、それが原因でいろんな問題が起きている現実がこの世にあります。

そして自分に都合が良いか悪いかの判断をしてその良いとこ取りをしたり自己主張して不平不満を解決したとしてもそれは自己満足ですから一時的に満足しても心が豊かになる満足・至福には至りません。
だから、もっと欲しい、もっと願いを叶えたいと更に欲張るようになり、たとえそれを実現させても、それも欲から出た自己満足だけですからいつまでもきりがありません。

しかも欲から出た自己満足や良いとこ取りで得た自己満足には必ず裏がありますから、(プラス・マイナスのバランスから見れば)得て得をした者がいればその裏で失ったり得られなかった犠牲が潜んでいますから、誰かが必ず不平不満を持つことにもなり、それら不満の者を解決させるための手立て(妥協)も必要になり、その不平不満のバランスをとるために更に複雑に絡み合い、その欲(良いとこ取り意識)の絡み合う複雑な構図の中での欲得損得で比較競争・差別することにもなっています。

しかも人それぞれに違った意識・思惑が絡んでいますから、あらゆる問題が解決する事無く更に問題が複雑多様化されながら次々と進化拡大しているのがこの世であり、人間の力ではどうしようもないのが現実にあります。
だから、この世の形をどうにかすることよりも、まず個々の意識を改革するしか他に道は無いのです。
そのために(他のことはさておき)今の自分の意識がどうあるべきかを学び知るための完全真理がこの世に初めて登場したのです。

そして良い悪い(善悪・優劣・損得)で判断せずに(比較競争差別しないで)事実だけを見ることが出来る「そのまま、このまま、あるがまま」の自然体意識や特別ではない神や愛の真理(意識エネルギーの実在)を説いて、その真理の実践を促しているのです。

その完全真理が比較競争・差別の無い平等・自由・調和のある真理であることを自覚納得・悟るためには必ず「自己縮小」が必要なのです。 その自己縮小を実践意識していると自ずと不平不満が消えていって心の満足を得られるように意識が変わっていくのです。
すなわち、欲(意欲・目的・理想)を持たなくても、また新たに物や金を出して使わなくても(今の中に)心に十分満足できるものがたくさん用意されていることにも気付けるのです。

しかしその喜び感謝の満足に気付けないのは「真理を意識」していないで、よそ事ばかり気にしてそれに意識が縛られているからです。 それが衣食住を極めることや財を成すことであったり、喜怒哀楽や生老病死を気にしていることであったり、多様性のある趣味嗜好娯楽・刺激を味わうことであったり、名誉権利権威を持つことであったりするから、それら以外の事に意識が向けられないないし、事実現実をそのままに見ることも出来ないで不平不満に思いそれに未練後悔執着しているからです。

それら意識の世界を説く「完全真理」は・・・矛盾も妥協も一切無い「真実」に気付く意識を学び知り味わうことの出来る完全な真理なのです。

失うべきものを失ってから、新たな喜び感謝に気付き・意識改革が起こるのかも知れません。

2010年06月25日 | Weblog
田舎暮らしに反発して街中に居残る妻が住む築40年を超える家屋を壊して、その更地にオール電化の二世帯住居を新築して妻と娘夫婦の家族が一緒に暮らすことになりました。
その引越し準備で整理していると、(職業として経営していたビデオ撮影制作機材を含め)二度と使わないであろう過去の遺物が出るわ出るわで、時代の流れとはいえ、過去の物質経済優先主義で上を目指していた頃の当時を思い起こして、再度悔い改める事になりました。

その家屋解体業者と立ち会う形で現場でいると、通りがかりの廃品回収業者が来て許可を求めてきたので快く応じ、その様子を見守る形にもなったわけですが、その汚い臭い危険な解体現場で動き回るその様子が何か楽しそうでもあるし、取り組む意識は集中しているので、(世間では卑下されそうな廃品回収に)何故そんなに意識・自信を持って取り組めるているのかが知りたくなり、その休憩中に私の甥を含めた三人が現場で話をする事となりました。

背丈・体型や顔形も申し分なくて幼い頃に生活苦を味わった様でもないその40代独身の廃品回収業者が言うことに・・・今の仕事は(実際に自分がやってみたら)有り余る物を持ちすぎた人や反対に物が不足している人の両方から喜ばれることもあって、職業に対する世間の見下し偏見が気にならないばかりか己の見栄や世間体を気にしなくなったし、自由業だから組織・形にあまり束縛されないので自由気ままに気楽にやれるし、収入の面でも満足しているので(それに比べれば)若い頃にやってた様々なことが如何にバカばかりしてきたのか、それに気付くことが出来たと自信ありげに言い切りました。

その話を聞いている50代独身の甥も廃品活用が趣味のようになっているし、70歳に近い単身田舎暮らしの私も含めて今は同じようにぼろを着てぼろな軽四を乗り回してはいるが、その過去の若い頃は上を目指してバカばかりしてきたと悔い改めている関係から言えば、三者三様に似た者同士が集まったことになりました。

ところで今も上を目指している人も大勢いるとは思いますが、その上を目指さなくなれば下降していくことになるのが今の競争社会であり、また今の立場・現状維持を守るにも・・・失うものを守ろうとすることは闘うことでもあるから・・・いずれにしろその限界があって相当な無理や諸々の問題が伴うことにもなるのです。

だからどんなに上を目指していても、その能力・財力・年齢や身体・健康状態やの限界があるからには、いつかは止まる事になります。
その止まる事になった多くの原因にあるのが、怪我や病気や失業倒産・財政難や災害や事件や老後や死に目に会うなどの「有事」のときが多いのです。
すなわちどんなに頑張っても今の世情・社会や世間や家族やで頻繁に起きている、あらゆる状況事実がやがて「自分」の現実事実になるのは明らかなのです。

そして遅かれ早かれ(人それぞれに違いがありますが大差はありません) その止まる事になったときが未練・執着・後悔するときでもありますが、そこで此れまでの生き方を悔い改めることが出来れば、終わり良ければ全て善しとなるのです。
その悔い改める年代が若いほどに苦悩が少ない心の安心・安定の生き方生活が早く味わえるのです。

しかし止まる事になればやがて下降していきますから、(大方の人は)それが不平不満の不足になり未練執着後悔することにもなり、それが(諦めきれない)原因で更に(金銭的にも肉体的にも)不安心配となり、苛立ち・怒り・恐怖を持つことにもなります。

しかし先ほどの三者三様のように上を目指すバカらしさに気付いたときは(悔い改めたときは)世間的には下降していて既に失うものを多く失っていることから・・・「無料のゴミが宝の山にもなるように」「不用品を再利用したり、故障欠陥を修繕加工修理して使い切る喜びが味わえたり」「暇と退屈さを解決するための単純作業や仕事を実際にやったことから、それが面白く楽しくもなり、それで収入が得られる喜びを知るように」・・・新たに気づき「得る」ことが増えてきます。

また見栄や世間体やしがらみを気にしなくなったことから得る今まで味わったことが無いような自由・気楽さであったり、失うものが無くなっただけに不安心配・不信感も出てこなくなったり、人目を気にしないで済む安堵・安心であったり、失ったものに対して未練執着後悔しないですむ穏やかな平常心・安定であったり、また己に自由があることから束縛制限・比較競争の差別意識も特別意識も次第に薄れていくので人目をはばかる事無く自分の出来ることをやるだけになりますから、無理も無く、問題も無く、その自分がやっている事に自信も喜びもあることから人の為にも十分に働けるし、それから得る収入や人様の喜び感謝を感じ得る確かな喜びもあったりして、今までのような上を目指して得た欲の満足・自己満足とは違った確かな満足を得た生き方を味わえるのです。

だから・・・欲を出して上を目指すことでもなく、途中で止まり維持・守り闘うことでもなく、失うべきものを失ってから(それらが必要なかった事に気付くことから)今で知らなかった新たな喜び感謝に気付き・意識改革が起こるのかも知れません。

思惑・理想・目的を持って捜し求めた満足は「自己満足」になり、止まることが出来ません。

2010年06月16日 | Weblog
人間は意識で生きている命ある意識体ですから・・・その意識の有り様でどうにでもなります。
例えば・・・美味しい物を食べていたり、楽しい娯楽施設でいたり、音楽芸術に親しんでいたりして、それらの趣味嗜好娯楽に興じていても・・・何か不平不満を思っていれば・・・その意識が邪魔をして楽しさや喜びが十分に味わい切れません。

また、楽しさや喜びを「求めて」出向いた場合は(思惑・理想・目的を持っていれば)・・・概ね予測していた通りになったことで新鮮さや意外性に欠ける事になったり、それらが持つ真の楽しさや喜びが奥深く十分に味わえなかったりするし・・・反対に期待に反したことがあれば不平不満を持ち帰る事にもなったりするし・・・また理想目的を達しただけの自己満足で終わったりしますから(満足し切れないままに終わり)、その結果が良ければよいほどに(その良いとこ取りをしたくて)何度でも繰り返し味わいたがることになり・・・(止まることが出来ないで)更に拘り・未練・執着を持つことにもなっています。
・・・それが「この世」の現実(進化発展が地球人類の破壊崩壊)に現われています・・・

だから・・・趣味嗜好娯楽は自己満足になりやすく、拘り・未練・執着することにもなっているのです。
ところが・・・(止まる事無く)いくら続けていても・・・極めきれないことや味わい切れていない(満足し切れていない)繰り返しから(不平不満から)自信喪失になったり興ざめしたりして・・・また別な新たなことを捜し求めることにもなります。
・・・過去の私がまったくその通りでした・・・ 現在は今の過疎地の田舎暮らしに十分満足していることから・・・衣食住や趣味嗜好娯楽を極める必要性がどんどん消えています。

ところで・・・現在は肉牛の餌やりのバイトをしていますが・・・単純作業の繰り返しであり、それが仕事だけに(犠牲が伴うので)・・・その作業に喜び楽しさがあるとは言い切れませんが・・・特に不平不満はありません。
と言うのも・・・その一年前までは・・・まったくの生産性の無い日々を如何に活かすかだけの暇で退屈していた8年間があっただけに・・・今の生産性のある仕事に従事できている喜びや楽しさがありますから、その感謝の心を仕事に向けることが出来ています。

しかも・・・不平不満がなければ・・・いつも微笑み笑顔で接することが出来ますから(相手に不信感・不調和を与える事にならないから)、その接する相手側からもしぜんに笑顔が出てくる場合が多く見られます。
だから(私が)入院治療介護を受ける事になっても・・・その(私の)有事に対して不平不満・不足を持つのでは無くて・・・人様のお陰で治療介護を受けられることに喜び感謝の意識があれば、その意識が相手の意識にも当然ながら通じますから・・・その意識を出す方も受ける方も互いが満足し合える快い関係になり・・・(私の)治癒回復が早まるだけではなくて・・・関係者自身の役割仕事に自信が出てきたり、その仕事の楽しさや喜びに目覚めることにもなるかもしれません。

その反対に不平不満を持っことで・・・損得で言うところの「損」・・・すなわち不平不満が原因で不安心配・苛立ち・怒り・恐怖などの苦悩を持つことにもなっているし、しかもそれが原因で制裁復讐仕返し意識や正義聖戦の戦争やテロなどの破壊意識を持つ事にもなっているのですから・・・損になっても「得」にはなっていません。
★「注」★・・・良い悪いで判断して・・・自分に都合が良い「良いとこ取り」をしている人間が・・・わざわざ何んで「損」することになる不平不満を持つことになるのか?変に思いません!・・・

それは・・・過去の不平不満を正当化・主張して・・・その過去の損を補うべき(代償を得る)「得」をするための行為行動・意識が・・・更に損を積み重ねる事になっていることにまったく「気付」いていないのです。
すなわち・・・自分の目先のことを大事に思いすぎて、そのことに意識が縛られているから・・・更に損をすることになっているその結果にまったく気付けないでいるから・・・★(他を巻き込んでまで)自分が「損」をしていると思えていないのです。

すなわち・・・その過去の損を取り返そうとしていることが自分の「得」になると・・・思い違い・錯覚勘違いしているのです。
すなわち(良いとこ取りしたがるように)・・・自分が善悪の善、優劣の優、損得の得に思いたがるのと同じく・・・(正当で優位な得をしたい立場を主張したがるように)・・・「私は正しい」の差別意識・特別意識を「自己主張」(顕示・誇示)することで・・・私は「善を成し、優れたことを成し、得を積み重ねている」と自惚れ自己満足しているだけなのです。

だから・・・不平不満を持ったり解消することが・・・地球・人類・自他共に損害になることに気付き納得・悟れば・・・必ず自己縮小が始まります。
だから完全真理に接し触れて実践しているつもりでも・・・何かと不平不満を持つようでは・・・特別意識・差別意識を無くしていく自己縮小が進んでいない事になります。

また、その不平不満を持たなくする自己縮小が進まなければ・・・喜怒哀楽や生老病死を意識することにもなり・・・その良いとこ取りの喜びや楽しさ満足を捜し求めることにもなりますが・・・ その良いとこ取りで捜し求めた形(思惑・理想・目的)から得た満足感は(あるがままに与えられたものではないだけに)自己満足になります。

その・・・あるがままに与えられるまで待つ・・・その自然体・真理を実践していなければ本当の満足を感じることやその気付きが起こることには無理があるようです。

だから・・・衣食住・趣味嗜好娯楽を追及して極めたり、財を築くことや名誉名声・権威権利を得るために伴う不平不満や不安心配・怒りなどの苦悩を味わいながら生きることよりも(人間関係の崩壊や地球破壊に進むことよりも)・・・
その不平不満を持つことから(自己縮小して)卒業して、今に満足してその日々を明るく楽しく生きることからして・・・人類史上初の自由・平等・調和のある世界、新たな意識・命の人間・地球に成るのです。

衣食住を極めることよりも、今に満足して今を生きる、そこに喜び感謝(愛)がある。

2010年06月10日 | Weblog
人間は良いと悪いの矛盾の世の中で生きていますから・・・満足と不満が同居しています。
そして・・・満足が無ければ不満を持つ事になりますが・・・満足があれば不満が出てこなくなります。

すなわち・・・本当に満足を味わい知ればそれで満ち足りていますから、それ以上の満足を欲しがったりしません。
また・・・別な形の満足を欲しがったりもしません。
また一度満足したものが壊れたり失われることになっても・・・一度満足を味わい知っただけ十分ですから・・・それに拘り・未練執着を持つことにはなりませんから・・・不平不満・不安心配・怒りを持つことにはなっていきません。

ところが・・・一度の満足で止まれないのは・・・それは価値観・格差・特別を追い求めた結果の「自己満足」だからです。
・・・その自己満足は一時の満足で終わりますから・・・心が満たされることにはなりません。

その満足を手軽に味わえる形に趣味嗜好娯楽がありますが(それらが無くても人間は生きていけることからして)・・・それらには良いと悪いで差を付けたがる比較競争・差のある「特別意識」にもなりやすいし、自分の思い通りになって満足することもあるが反対に思い通りにならなくて不満にもなるという矛盾があることからいえば・・・裏と表のある不完全な満足、己の特別意識を味わうことになる自己満足になるのです。

すなわち・・・満足を味わい知っていれば不満を持たなくてすむが、その満足が少なくて自己満足が多い人は(その分だけ)不平不満を持っているということになります。
その不平不満を自己満足で一時消し去ることが出来ても、(満ち足りた満足を知らない限り)必ず不平不満が次から次と出てきます。
だから現実から言えば・・・自己満足で誤魔化していても・・・生きていることが喜び感謝の楽しいものにはなりません。
・・・楽しくないから不平不満を持つことになり、不平不満があるから楽しく生きられない・・・原因と結果は同じなのです。

その不平不満が原因となって・・・責めたり、怒ったり、不安心配や恐怖を持つことにもなり、(生きている楽しさよりも)生きていることが苦悩になるという生き方にもなります。
だから過去未来を気にしすぎたり(未練執着)、喜怒哀楽や生老病死で感情を酷使したり、先々の不安心配で枕を高くして眠れない日が続くことになります。
そこでやっぱり・・・身近に味わえる趣味嗜好娯楽・生活様式・衣食住に関ることでの自己満足に逃避するしかありません。
だから・・・自ずと生活経済優先の生き方になっていき、肝心な心の安定から更に遠ざかった生き方になっていくのです。

すなわち(自己拡大で)・・・衣食住や趣味嗜好娯楽を極め、財を成し、名誉名声・権威権力を持ってしても・・・己の不平不満・不安心配・怒りや恐れの苦悩からは・・・絶対に「逃れない」のです。
そんな無駄なことに(この世の形に)・・・生き甲斐を見出すことは・・・ すなわち満足を味わい知り今を生きることから「逃避」して・・・自己満足だけが頼りの苦悩に満ちた生き方・人間関係の崩壊・地球破壊・・・すなわち人間であることを放棄した「自滅への道」を選択していることになるのです。

この世のすべての問題は・・・(良い悪いで比較判断したことが原因の)不平不満の心・意識から始まっていることをしっかり学び知れば・・・自ずと自己縮小が進み「心が安定」してきます。



実践は・・・真理を意識してそれを「守る」ことではなくて・・・「気付く」ことにあります

2010年06月03日 | Weblog
実践は・・・真理を意識してそれを「守る」ことではなくて・・・「気付く」ことにあります

だから良い悪いで判断しないように(意識して)・・・注意することではありません。
不平不満を持たないように・・・気を付けることでもありません。
比較競争差別しないように・・・用心することでもありません。

救世主になるための実践をすることでもありません。
善行・奉仕・親切を目指して心がけることでもありません。
特別な結果の形・偶像・神仏を崇め奉り、それを信じて信仰することでもありません。

すなわち・・・(先に意識して)目標目的・理想を描いてから実践することではなくて・・・
あるがままの日々の生活の中で気付き、また悔い改め反省することが出来ればそれでいいのです。
だから・・・あれはダメ、これはダメ、こうすれば良い、この様にしなさい・・・等と決め付けて束縛制限することでもありません。

この世から戦争を無くするための実践・行為行動・表現をすることでもありません。
この世から差別・虐待を無くするための実践・行動表現をすることでもありません。
この世から貧困格差を無くするための実践・行為行動表現をすることでもありません。
また無縁孤独・無縁死孤独死の無縁社会を無くするために努力実践することでもありません。
だから・・・立派な目標・理想を掲げて(プラカード・看板・アピールする)実践することではありません。

これら・・・自分の力ではどうすることも出来ないことは・・・成り行き任せにするしかありません。
また同じ思いの人が何人集まって団結しても、それに異議を唱える者や団体も同じように出てくることから・・・口論・勢力争い・抗争・闘争・戦争になるだけですから・・・何をやっても(幾つかの不満が残り)上手く解決するはずもありません。
・・・せいぜい今までの形の三角が四角や五角形に変化するだけで丸く収まることはありません。
だから・・・有能な学者先生・指導者になって世の中の形を変えるために働いても・・・同じ結果になります。
しかも・・・来世で生まれ変わっても、別な形で同じことを繰り返すかもしれません。

そこで・・・己の環境・立場がどうであれ(例えルンペンであっても)・・・その日々の生活の中で己が気付き、己が悔い改め反省する、その繰り返しの中から・・・玉ねぎの皮をむくようにして、真実の愛に目覚める意識改革が進んでいけばそれでいいのです。

また例えば・・・「エコ生活」を家族のスローガンにして取り組むときにも・・・それを家族に強要・束縛制限することでもなく、また電灯の消し忘れなどを家族らに注意することでもなく、未熟な子供に言い聞かせてそれを守らせることでもなく、風潮に乗って見せ掛けでやることでもなく・・・やりたい人がやり、出来る人がやり・・・(エコに関係なく)無駄な電灯を消す必要があると気付いた人が当たり前に実行すればそれでいいのです。

と言うように・・・完全真理を身構えて、こだわり執着して、窮屈な思い(しんどい思い)で実践に取り組むことでは無いのです。
また・・・完全真理の実践を他の人にお仕着せ強要することでもありません。
また・・・不平不満を持たないように努力することではなくて・・・自分が楽しくなること・・・今の自分のやりたいことで今の自分に出来ることだけを実践していれば不平不満は出てこなくなるのです。

ところが・・・やりたい事が見つからない人は・・・己の価値観・見栄・世間体・常識に縛られtれいるのかもしれません。
また・・・実践・実行する前にあれこれと予測をしたりして不安心配が先立つ事になれば・・・それは自信が無いことですから、自分には出来ないことを実践しようと考えているのかもしれません。

また・・・実践実行する事柄に己の価値観や評価の差を付けていれば・・・それは良い悪い(善悪・優劣・損得)で判断していることですから、その結果も良い悪いになり、自分を卑下することになったり、または自己満足・主張顕示していることにもなります。

やれることをやらないで、やれないことをしたがる(無理をする、頑張りたがる) 
また、したいことが出来ないで、したくない事をやらされる
・・・あれが良いこれが悪い・・・そんな型枠に閉じ込められ制限束縛される、それが今の家族・社会・人間関係です。

だから・・・己の力で今の世の中(家族・社会・人間関係)を変えることは到底無理なのです。
だから・・・他がどうであれ、まず己を変える(意識改革)完全真理の実践が先立つのです。