孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

原因はひとつであっても、その結果は幾重にも広がりながら未だに結果が出続けています。

2011年05月31日 | Weblog
原因(意識)から結果が出ていますが、その結果がまた原因となり新たな結果が出続けています。
だから原因はひとつであっても、その結果は幾重にも広がりながら未だに結果が出続けていますし、また今の結果は途中結果ですから、その結果もどんなに変わっていくかは定かではありません。
・・・だから原因となる自らの意識が最も重要なわけです。

だから不完全意識が多く強く出るほどにその不完全な結果も大きく出てきます。
すなわち大きな不平不満が大きな不安心配や恐れ怒りになり、それが原因で人殺しや戦争やテロにもなっています。
またごく小さな事であっても、その小さなままに推移する事無く、それに執着すればするほど進化拡大していくのが不平不満なのです。
しかもそれが個々の個人であっても、その不平不満が集合意識となれば地域社会や国家や地球までも動かすエネルギーになりますから、その必然性から時として英雄・ヒーロー・主導者・革命家・独裁者が出てくることにもなりますし、地球規模の真坂の有事に見舞われることにもなります。

しかもその集合意識に支配されますから、中にはのけ者にされたり、弾圧されたり、異端者にされたり、魔女にされるなど、皆の集合意識に不都合な意識を持ったものが邪魔な存在になり、否定反発排除されることにもなります。
しかしそれらも途中の結果ですから、その結果が永遠に続くことはありませんから、やがてまた別な集合意識によって色々と様変わりするその繰り返しで、此れまで続き続いた結果である現在がありますが、その現在の結果がこの先どんな結果になっていくかは定かではありません。

それが一般的な家庭の中でも同じことです。
だから豊かな生活が必ずしも良いことにはなりません。
すなわち「良い」ことの自己満足が多くあれば、その裏の不平不満が出てきて「悪い」結果も多く出てくるのは確かなことなのです。
そしてその不平不満を何とか解決して自己満足すれば、その自己満足したことがやがて不平不満に変わっていくのが不完全意識の人間なのです。
簡単に説明すれば、自転車で良かったことがオートバイや車になり、そして新品に乗り換え続けたり、高性能・豪華さになり、それで物足りなければ飛行機になりと、最初で止まらないのです。

また成績・業績が良くてもその成績・業績が落ちれば悪く思うように、また悪かった成績が上がれば良かった事にもなるが、その成績がいつも良いばかりではありませんし悪いばかりが続くわけでもありません。
・・・だからすべてにおいて同じことが言えるのです。
・・・だから苦と楽の苦楽、喜怒哀楽で生きている事になるわけです。

その事を何度も書いているのですが、それでも良いとこ取りしたがる人間意識・不完全意識は消えません。
だからその自己満足とその不平不満の繰り返しが延々と続くのですが、それでもお構い無しに良いとこ取りを繰り返し続けていれば、その裏が必ず出てきて困ったことの有事になっていますが、それが一般家庭と同じように地域・社会・国家も地球規模でも困った事になっています。
・・・それでも自分さえ良ければの意識に変わりはありません。

だから家庭でも国家や地球規模においても、予め懸念されている有事が起き続けていきます。
しかもその原因が良い悪いの自己満足と不平不満ですから、自己満足を多く持っている人ほど困ったことの有事が多くなります。

そしてその有事に強いのが質素・素朴であり、小さな満足で十分な人ほど多くを持っていませんから、その分だけ大きな不平不満にはなりません。
しかも人間・肉体を終える結果になっても、それも肉体が消えた結果ですから、その原因「意識・命」は実在し続けますから、その死に至るまでに持ち続けていた感情や精神は意識・命の中に残っていますから、人間を死して後も、その原因の結果が出続けます。

すなわち安らかなあの世なのか、憎悪に満ちたあの世なのか、苦楽の感情に支配されたあの世になるのか、新たな次元意識の世界になるか否かの分かれ道でもあります。
しかもそれで終わるのではありません、まだまだ原因意識の結果が出続けますから、その先行きは不確かです。

宇宙・地球・万物の中で「あるがまま」の成り行き任せに生きていないのは<人間>だけなのです。

2011年05月30日 | Weblog
良い悪いで判断する不完全意識を持っているからには、それが「成り行き任せ」であっても、成り行きに任すのが良いか悪いかで判断したがりますし、その成り行き任せにした結果も良かった悪かったで判断することにもなります。

また「事を成したい」人が、その始まりから「成り行き任せ」にする事はまずありえません。
そこで(私の場合)事を成すつもりで始めているのだが、その途中結果の成り行きがどうも思わしくなくなれば、そこで一旦立ち止まり、それ以上の事(無理)をせずに成り行きを見ることになったのは多くあります。 だからいつも呑気・気楽にしていられたのです。
しかし一旦立ち止まればどんどん下降していきますから、その間に次の船に乗り換えていました。

その途中結果が変な方向に行きだす原因にあったのがやはり人間関係です。
だから今も同じでして、私の性格からしてエゴの強い人とはどうしても馴染めません。
だからその相手の人も私を胡散臭く思っていることでしょう。
そこで聖人君子ならば自らが歩み寄っていくでしょうし、カウンセラーに相談しても同じ事をしなさいと助言するかもしれません。
そこで無理して自らが歩み寄る事をしても、その相手の意識次第ですし、それがたとえ旨くことが運んでも、相手のエゴは健在ですから、また他ごとからでもぶり返してくることになったり、また多少上辺が良くなっても同じことですから、また何度も歩み寄る事を繰り返すか、それともそこで思い止まるかになりますが、そこで同じ繰り返しをするよりも(私は)そこで成り行きに任せることにするのです。

そして、成ることはなるが、成らないことはならないし、また今は成っていることがやがて成らなくなる時も来ますから、その成らなくなった時に執着するのをやめて、あとは成り行きに任せにしているのです。
ところが無理をしたがるのは何らかの欲心が有ってのことになるわけです。
すなわち「欲」さえ無ければ無理する事無く、成り行き任せに出来るのです。

また「成り行き任せ」に出来ない人の多くは
貧乏になりたくない思い、病気になりたくない思い、死にたくないなどと不安心配や恐怖心を多くもっています。
また暗い、汚い、臭いのを嫌い、ばい菌・ウイルスを嫌うなどの否定反発・排除したがる完璧・潔癖にもなっています。

だからその分だけ「否定反発・排除」することが多くなりますから、当然ながら不平不満が多く出てきますし、それが不安心配や恐怖心にもなっているのも当たり前になるのです。
そして当然の如くに自分を守る「守り」意識が強くなり、その自分を守る為に潔癖症や完璧主義になり「私は正しい」の自己主張が出てきて、これまた否定反発・排除したがる正義感にもなったりしています。

その多くの不完全意識を無くすることが無理でも「成り行き任せ」にすることでそれらが出てくることが少なくなるのは確かです。
しかしその分だけ成り行き任せにするにはそれ相当な勇気と決心・決断が必要になりますから、それだけに完全真理をよほど深く学び知っていなければ無理だと思います。

ところがいずれにしろ同じ不完全意識に変わりはありません。
ゆえに成しても成さなくても、また成せない事を成そうとしても、また成り行き任せであっても、その不完全意識に変わりはありません。
そこで、その原因も結果も不完全ならば、やはり無理をせずに「成り行き任せ」にしておくほうが気が楽で心の余裕が出てきます。
その余裕を完全真理の実践に向ければ更に余裕が出てきます。
そして意識し忘れていたことや新たなことにも意識が使われますからその実践も進んでいきます。

もう一度繰り返しますが・・・原因の意識が不完全ならばその結果も不完全ですから、同じ不完全な結果が出るのならば、そこで無理をすることよりも「成るがまま」に「成り行き任せ」にしておくほうが楽ちん人生になるのです。
更に付け加えれば・・・宇宙・地球・万物の中で「あるがまま」に生きていないのは<人間>だけなのです。

私達は常識ともなっている言葉に「洗脳」されているところがあります。

2011年05月28日 | Weblog
私達は常識ともなっている言葉に「洗脳」されているところがあります。

先ず「愛」そして「愛情」があります。
そして「優しさ」「思いやり」の人情・恩情・恩義・恩恵・施しがあります。
また尊重・尊敬の尊ぶ思いの恩師・恩人があります。
また義理堅い義理人情・義弟愛があります。

これ等は完全真理から言えば個人の思いから出ているだけに不完全意識になると指摘しています。
だから個の思いを捨て去ることが進まない限り、これ等の個人意識が出てきて自他共に困った事になっています。
そして事実困った事になっているのに、それらが原因にあると自覚できている人はいるのでしょうか?
反対に無ければ困ると思っている人が多いのではないでしょうか?

愛国心や正義によって何度も戦争が繰り返されているのに、それでも愛国心や正義を尊ぶことが「正しい」ことに言われています。
かと言っても、それらを否定反発すれば矢面に立たされて危機的な状況に追い込まれることにもなりかねません。
しかし耕栄さんが講演会で説明したくらいでは大した反響にはなりません。
また有名人が真剣に言ったとしても、それらの正しい解釈が成されないままに闇に消えていきます。
それを陰で支えているのが私達の不完全意識の「集合意識」です。

だから完全真理はこの世の形を改める形でなくて、各々個人のためになるように説かれています。
すなわちこの世の形やその人間関係の形ではないところの個人の意識について語られています。
すなわちピラミッドを支えている底辺の人達から意識改革・修正しているのです。

だから世間がどうだからと世間を気にしている人には縁遠い真理になります。
そして成せない事を成したがり、「何とか成る」「成せばなる」と目的理想にして無理をし続けるのです。
すなわち成せる事を成さないで、それ以上の特別を成そうとするのです。

だから苦労は買ってでもしなさい、歯を食いしばってもしなさい、誘惑にもめげずにやりなさい、我慢辛抱強くやりなさい、最後までやり遂げなさいと、一見きれいで好ましい言葉ですが、他の人と差を付けたがる差別意識・特別意識になります。
・・・それだけに自他共に束縛制限支配されて自由も平等も調和も損なわれた関係・形になります。

ところが完全真理を学び知ることで、それらの不完全さに気付くことが出来るわけです。
・・・すなわち常識に縛られていた(洗脳されていた)愚かさに気付くことが出来るのです。
そして「どうしようもない」事を「どうにかしようと」していたその無理や無駄に気付くことが出来るのです。
・・・「どうしようもない」事を「どうにかさせる」ことが出来ると思い込み・錯覚勘違いしていたことに気付くのです。

だからすべてが自分勝手な「思い込み」から始まっているといっても過言ではありません。
(私の場合)思い込まなくて済む様々な「しがらみ」から離れ孤独・自由を味わったことで、その多くが理解できたのです。
また自分自身が過去を振り返れば、(概ね)否定も反発もせずに「成り行き任せ」にして事が進んでいたことにも気付いたのです。
そして更にその成り行き任せが功を成して宇宙エネルギーや精神世界・想念や霊魂の世界や今の完全真理にもしぜんとつながっていたのは確かなことなのです。

そして人様の事を思う、その自分の「思い」は人様の為ではなくして、自分の為に都合がよい裏心が隠されています。
しかもそれが人情・愛情として「正しい」とさえ思われているのです。
しかし人情・愛情は相手の心に伝わらないのです。
・・・ただ都合の良かったことだけが受け入れられるのです。
すなわち「良いとこ取り」しただけなのです。
だからそれが人を思う人情・愛情でも、予め思惑期待していたようにならなければ、それが不平不満に変わるのです。

また尊敬することがあっても、恩を感じることがあっても、(愛を感じることがあっても)それが間違っているのではありません。
それを特別に思うと変になったり困ったことにもなっているのです。
だから特別に尊び奉ったり恩義を返す事を考えなくてもいいのです。
すべてがひとつのお互い様やお陰様の関係でこの世が成り立っているのだから、その感謝の心があればそれで十分なのです。

ところで私も思い込みがあります。
だから不完全な事を完全だと思い込んでいるかもしれません。
何か変に思われたならば遠慮なくメッセージを書き込んでください。

人は意識で生きている事を知ってからは、その矛盾する意識の面白さ可笑しさに気付き知りました。

2011年05月26日 | Weblog
タバコが害になると思いつつタバコを吸う人がいたり。またそんな人ほど本数が多かったりと。
酒はいいが煙草は駄目とか、タバコは過ぎなければいいが酒が過ぎれば駄目とか。
また病気が怖いと思って健康診断を受けたがために症例・病名が発覚し病院に通うように。
交通事故が怖いと思っているのに車の運転から離れられないように。
東南海地震が起きれば困った事になるのが判っているのにそこから離れられないように。
・・・どうにか出来る事を「どうする」ことも出来ないように・・・

地方分散型が良かったり一極集中型が良かったりと。
海外生産が良かったり悪かったりと。
大型店舗が良かったり悪かったりするように。
年功序列や能力主義が良かったり悪かったりと。
フリーターが良かったり悪かったりと。
ホームレスが良かったり悪かったりするように。
・・・良い悪いがある限り<定かな>ことは絶対にありません。

先日の事ですが、牛舎の主人が田植え前の田起しを例年以上に早く済ませたので、その地域の人が驚いて「地震が来なければいいが」と冷やかされたようです。
その主人も忙しさのあまり毎年誰よりも遅く田起し田植えをしていたのですが、それも毎年のように「気に」していたことですから、それが早めに終わったことから気持ちがすっきりしていいと大喜びしていました。

すなわち同じ田起しでありながら、毎年遅いことを悪いことのように「気に」していたことから、早く終わって気持ちがすっきりして良かったと思えたのです。
しかしこの場合の逆もあります。 例えば毎年田植え時期が近づきだすと早く田起しをしなければと「気に」していた人が、そんなに慌てなくてもいいと思い例年になく遅くなったとしても、そのおかげでゆっくりと呑気にやれたと大喜びすることにもなります。
・・・結果的には・・・「良くても悪くても」「早かれ遅かれ」・・・やる事をやって、成るようになっている、その<事実>があるだけです。

私は頼まれた田んぼのあぜ道や土手の草刈でも、また自らがやる山道や赤線道の草刈であっても、それをやれる時・やりたくなった時に行うのと、見栄や世間体で行うのとでは、同じ結果であっても気分がぜんぜん違ってくるだけに、私は何事も自分がやりたい時にやりたいようにやっているだけで、人目を気にしての行動はしていません、だから気楽・気が楽なのです。

だから急ぎ慌てる事無く、雨であっても日差しが強くても、早朝でも日暮れでも、年末年始であっても、それらは関係ありません、また嫌になれば(請け負ったことでも)途中でもやめられます、まして(人の為であっても)今はやりたくない事を急ぎ慌てたり自らが率先することにはなりません。
すべて自分の気の向くままですから、無理が無理ではなくなり、当たり前は当たり前で、特別がないから、気が楽です。

だから私は(過去の)正月に備えた年末の慌しさが嫌いでした。
正月連休のためにただでさえ「忙し」のに、何で年末だからと「特別」な店舗ガラス磨きや店舗照明灯の掃除やクリスタルガラス玉が連なるシャンデリアの分解水洗いをしたりと、その店舗や家屋の装備備品の整理整頓やの大掃除に違和感をもっていましたが、それでも妻に言われるままに(妻を満足させるために)素直に従っていました。

また「お早う」とか「今日は」の簡単な挨拶しか出来ない私にすれば、年末の「良い歳を迎えますように・・・」とか年始の「明けましておめでとう御座います、今年もどうぞよろしくお願いします」の丁重なる挨拶が苦手でしたから、まともに挨拶返ししたことがありません。
また同じく冠婚葬祭の特別な挨拶・儀礼も特に苦手でした。
だから縁者の仲人をしたときも、母親の葬儀の喪主挨拶も、嫁ぐ娘の婚礼に関わる諸々の挨拶も、至極簡単な挨拶ですませました。

だから私は特別が無い普通のほうが気楽でしたし、その特別を尊重しなくても、世間で変人扱いされること無く、過疎地で村八分にされることもなく、普通に成るようになっています。

だからあれこれ思案して成すにしても、また人の為に何かを成すにしても、自分さえ良ければの自分の都合が優先される不完全意識を持っているのは「どうしようもない」ことですし、あれこれと何を思ってやっていようが(結果的には)成るようになっている事実があるだけですから、それならばあまり思い考えずに(執着せずに)やるだけやっていれば、その後の事は「成り行き任せ」にしているほうが気が楽なのです。

だから特別のない普通、質素・素朴な毎日が続く、今が私には好都合になるわけです。

この世の形やその人間関係の不完全さを知れば知るほどにその実践が板に付き自信・自力になります。

2011年05月25日 | Weblog
宗教・真理で優しさ思いやりがよく言われますが、良い悪いで判断している不完全意識の人間の中に真実の「優しさ、思いやり」があるのでしょうか?
また同じく、その優しさ思いやりが「愛」とも言われていますが、今の人間にその真実の「愛」があるのでしょうか?

・・・何度も書いていることですが・・・
愛しているその感情から出るのは「愛情」ですから、本当の「愛」ではありません。
人の情け、人情・恩情も感情から出ていることですから、それが「愛」にはなりません。
また愛を形にして見せれば、その裏に必ず思惑が隠れていていますから、不完全な愛になります。
また好きの裏に嫌いがありますから、その好きなことが愛情になっても「愛」にはなりません。

そこで完全真理では、そのまま、このまま、あるがままの自然体が<愛>だと言われています。
そうなると、良い悪いで判断していない、否定反発・排除していない、必然ご縁のお仕組みの、その成り行き任せの成すがまま成るがままが愛になります。
それを言い換えると、思い判断していることの中に愛はありません。
ゆえに、愛と思えば(受けた人も出した人も)、その(授受関係の)愛は愛では無くなるのです。

ところで完全真理を知っている人の中にも、「愛情」があればそれでいいではないか、また愛より愛情が強いとかで愛情のほうを優れた特別なことに思って、愛よりも愛情を尊ぶ人も居るようです。
また愛と愛情が入り混じってごちゃごちゃになっていることも考えられます(以前の私もそうでした)。
しかし愛情は個人の感情から出ているだけに、その裏に隠れている憎悪が出てきて憎しみ嫉妬に変わるときが来ます。
だから愛情が強ければその分だけ憎悪も強くなりますから、分別・見境のない危機的な意識にも変わります。

ところで、地面に根を下ろしている植物が、成すがままの成せるがままの即身成仏した生き仏と言われるのは、まったく否定も反発もせず、拒み排除もせずに、逃げも隠れもせずに、すべてを自然に任せているから完全意識・愛意識と言われています。

それが人間であれば(植物とは違って)その足で自由に動けますから、人間の愛は何処へでも行くことが出来ます。
ゆえに「愛」の字には心の下に二本の足が付いています。
しかし「恋」には足が付いていませんから心・愛が自由に動けません、すなわち束縛制限支配を意味します。

「あるがまま」が愛ですから、そうなれば決断も勇気も、頑張りも一生懸命も、熱中も集中も、艱難辛苦も修行も必要ありません。
しかし特別な愛を目指す人(欲しがる人)には、それらが大いに必要になります。

したがって宇宙・神・愛の必然ご縁のお仕組みに任せた成り行き任せに生きることにも、また普通・質素・素朴に生きる事にさえも、大いなる決心決断や勇気が必要になる人がいます。
ゆえに完全真理を知れば知るほどに、自分が都合悪くなる人もいます。
だから実践せずにおいて、ただ信じることで(耕栄さんが助けてくれると思って)何とか持ち堪えている人もいます。

しかしそれでも完全真理を知らないよりかは、知っているほうが善しともなります。
・・・だからこのブログを書き続けています。
すなわち、未熟さの尺度は違っても皆同じ不完全ですから、あとは実践意識か否かにかかっていますから、完全真理を意識した上での日々の生活の中で気付く、その気付きにあります。
その気付きによって、この世の形やその人間関係が如何に不完全なのかを知れば知るほどに、その完全真理の実践が心強くもなり自信・自力に成っていくのは間違いありません。

そして同じ未熟であっても(99も1も)、その人の自信・自力の実践力・意識力の違いが、今の生き方にも関わってくるし、また一般的有事や真坂の有事のときの意識のあり方の違いとなって必ず現れますから、皆とまったく同じ有事であっても、その有事の受け止め方の違い(大事・小事)になって現れますから、やはり実践力・意識力を高めておくことが(現在も)その後の人生の有り方も違ってきますし、死して意識の世界に逝ったときにその違いがもっと明らかになりますから、あれこれと後悔反省することにもなります。

不平不満に執着するようになるのも、満足が満足にならないその欲にあります。

2011年05月22日 | Weblog
私が完全真理を理解したときに、こんなに単純明解で完全な真理の教えなら、瞬く間に広がるであろうと思っていたのですが、ところがあまりにも完全すぎて(妥協が許されないことから)、完全真理を理解したところで実際に実践できる環境では無いことに気付きました。

例えば真理を理解して「信じて」いればいいわけでもありませんし、記憶している事をお経のように唱えていればいいわけでもありませんし、神仏に祈り祈願することでもないし、艱難辛苦に耐えればいいわけでもないし、世間に出向いて施しを授受していればそれでいいわけでもないし、ただただ日常生活を実践の場にして真理の教えに「気付く」ことから始まり、そして完全真理に添った生き方に修正していくわけですが、元々から不完全意識を持っているし、しかもその不完全な世の中で完全真理を実践していくのですから、その矛盾があるだけにやはり無理があります。

ところが先程のように無理をすればいいのでは無くて、無理なく実践しなければなりません。
だから不完全な矛盾意識を持った者がその不完全で矛盾する世の中を「気に」せずに、その逆である完全を意識した上で平然と生きていかなければなりませんから、それが私には無理に思えてなりません。

例えば先程のように、志す者が一緒に集り互いが協力一致して事を成すとか、修行する者を仲間が見守り補佐するとか、よそ見したり雑念が出たりしないように高い塀で外界と遮断して(外界を排除して)同じ仲間同士が寄り添い共同生活をするとか、寺院仏閣で志す者同士が集団生活をするとか、または自然界の開放的な所や逆に閉鎖的な場所で同じような仲間が集団生活するとか、同じ仲間が定期的に集って事を成すなど等があれば、一心同体になったような気になりますから、途中半ばであきらめたり、中途半端なままに止まることになったり、他の間違った横道・邪道に引き込まれたりする、それら落伍者を少なくできるかもしれません。

すなわち似た者同士が集まらないと事が成り立たない場合があるということです。
だから一人ボッチでは何も出来ないとか、一人では疑心暗鬼になるとか確信・自信が持て無くなるとか自信喪失になるとか、それが原因で人の集まる邪道の道に引き込まれる危険性もあります。

すなわち自分に自信・確信が無いのです。
すなわち理解も実践も中途半端にしているから自信確信になっていないのです。
また自信確信がないから、信じようとするし、その裏の不信感も出てくるのです。
だから皆して寄り集まり確かめ合わなければ安心していられないのです。
しかもそれら主催者・主導者・教祖・宗教家自身も、参加者・仲間が一堂に大勢集まらなければ気弱になったり、自信喪失や不安心配にもなるのです。
だから、それらに関わる人は(概ね)人を集めたがります。

そんなことから言えば、完全真理が個々の一人歩き・実践の真理だけに、集合化する必要も無いだけに、皆と一緒・一心同体になっていないだけに、個々の独自独歩で実践をしていくことに自信がなくなっているのです。
だから日々の目の前にある生活に囚われて実践意識が後回しになったりするのです。
また「赤信号も大勢で渡れば怖くない」の例えのように、仲間内と一緒でなければ進まないで中途半端なままに止まったり、また他力依存にもなりやすく、また「信じる」ことで偽りの自信・安心で自分を誤魔化したりもしているのです。

だから(以前にも書きましたが)一般世間の中で居て「素朴であればいい」というその実践はそれも無理だと思っています。
すなわち素朴になるためには先ず無理をしないで、そして余計な事に手出しする事無く、必然ご縁のままに自分に出来ることさえしていればいいと言われても、俗世間の中で居て、しかも家族やの生活がかかっている中で、それらを前もって思い考えた思惑や目的・理想を持たずに生活するなんてことは至難の業に思えます。

だから(私の場合を含めて)必然ご縁のままに任せてあとは成り行きに従っていくだけですから、家族のことや仕事のことであっても、あれこれ先立って考えることなく、判断することなく、必然に任すだけになりますから、それ以外は概ね「食って寝て糞をする」同然の生活になります。
しかしながら、世間的に仕事をしていればどうしても比較競争の実績を上げなければ減収・首切りもありえるし、また家族が居れば見栄や世間体も出てくるし、子供の成績・進学・就職も気になるし、親戚・友人の手前もあったりして思うように実践が進みません。

※しかしその実践が進まないことに関しては、それでも私は十分に思っています。
すなわち実践の結果を気にすることよりも、日々の今が実践意識になっていることが肝心なのです。
だから不完全なのは百も承知で生活しているのですから、事が不完全と知っていても(思惑・欲が絡まない)必然であれば、それも成るようになりますから、その事を良い悪いで判断して執着しなければ事無くなります。

ところが何度も書いていますが、その執着しなければいいというのも至難の業になります。
常々子供や家族や親しい人と接していることから起こる不平不満も不安心配も腹も立つこともあります。
それは不平不満とその自己満足の繰り返しばかりしていている中でその「満足」を忘れているからです。
もし本当に満足したことがあれば、それだけで十分になるのが裏のない「満足」なのです。

ところで(自分の都合で人を好きになったのでは無くて)必然のご縁からその人が居る事だけで満足しているのであれば、それだけで喜び感謝になっていますから、その人が原因の不平不満は出てきません。
また一時不満が出てきても執着することにはなりませんが、しかしその度合い・尺度が幾度も過ぎだすと、以前の満足が消えてそれが不平不満に変わるのも不完全意識だからです。

そこでやはり問題なのが小さな不平不満で収まっている内は大したことにはならないが、それが執着になればなかなか治まりません。
すなわち執着によって実践意識が消えてしまっているのですからどうしようもなくなります。
その不平不満に執着するようになるのも、満足が満足にならないその欲にあります。

だから「質素・素朴」を意識しての生活が重要なのです。
しかも(前項のように)独自独歩の歩みで進んでいくしか他に方法はありません。
また、耕栄さんの助け舟を期待するのも他力依存ですから、実践意識とは言えません。
だからこそ自信確信の「実践」意識を日々持ち続けることが大切になってくるのです。

そして実践し続けることで真理の理解力や実践力・意識力の自信・自力が高まっていくことにもなり、それによってこの世の不完全なことが(どうでもいいことになり)気にならなくなりますから、更なる実践・自信・自力につながっていきます。

不平不満・腹立ちの仕返し報復を「しつけ」に正当化する不完全意識

2011年05月21日 | Weblog
良い悪い、たったの一言ですが、その一言に、始まりなき終わりなき宇宙・地球・人類が、創造されたといっても過言ではありません。
何故なら、すべてはひとつの宇宙に人間(意識・命)が居なければ「あるがまま」の神意識・愛意識・完全意識のままに始まり終わるその繰り返しが延々と続くだけで、何一つ問題なく、「すべて」が神や愛の完全な調和の基で、この世・宇宙・地球の仕組みの中で、「あるがまま」に実在し続けているからです。

すなわち、人間によって何一つ破壊されること無く、奪われること無く、痛めつけられること無く、汚されること無く、宇宙の調和の基で、始まり無き終わり無き「命・意識」のままに実在し、その役割個性を果たしながらも終わり、また新たに始まるという、その終わりと始まりの繰り返しが続くだけだったからです。

なのになんで良い悪いを持った人間を地球に創造したのでしょうか?・・・この事は何度も書いているので省略します。

その良い(自己満足)と悪い(不平不満)さえ無ければ、すべてが調和になるのに、なんで良い悪いを持ち続けるのでしょうか?
このブログに書いていることは、それに尽きるのですが、それを真剣に受け止めて実践意識になっている人は居るのでしょうか?
高が不平不満、されどその不平不満が原因で不安心配・怒り・嫉妬・仕返し復讐、そして破壊意識に至っている事を書いてきました。

ゆえに、憎しみで人を殺める原因が、不平不満の意識から起きていることは、私も重々承知しています。
だから私自身が牛や猫や犬を衝動的に叩いたりしたときに、その暴力・破壊行為に至った自分を怖いと思ったことは何度もあります。
・・・もしもそれが我が子や家族や人様に対する行為であったならと一瞬ドキッとします。
しかしそれでも「相手が悪い」からだ、言う事を聞かないからだ、また人様の迷惑にならないように叱り付けているのだとして、それを「しつけ」にして自分自身を欺き、言い訳正当化する、その繰り返しが今も続いています。
・・・やはりどうしようもないのでしょう。

ところがよく考えてみると、私がご機嫌だったり平常心の場合は何事も無く「またお前か」で治まっているし、時には「そんなことまでお前は出来るのか」とその芸・技・能力に感心したり、その仕草を見て喜んでいたりするのですから、やはり矛盾しています。
それを更によく考えてみると、それら畜生にも良い悪いで喜んだり迷惑がっていたりするその繰り返しの中で、良い事よりも悪いことが重なると(その良かった事を忘れてしまって)それが原因で感情に出ている事と、またその日の夢見が悪かったり前日のパチンコで負けていたり、また余計な事を考えていることが影響していることなどが、その都度気付きました。

すなわち質素・素朴であっても、良い悪いで判断していることはそのままに出ているのです。
それが人様に対することなら自分の中で治められているのに、それが畜生だからと軽々しく思っているからです。
ところがその犬畜生に対する苛立ち・腹立ち・怒りの感情を持っているだけに、いつ何時衝動的に人様に向けられるか判りません。
しかも、それくらい恐ろしいことはないと、自分の中では理解できているのに、その理解を超えてまで衝動が出ているのですが、そんな不安定な意識・感情を持っているのを既に知っているのに、それさえ今の私には「どうすることも」出来ないのです。

すなわち理解しているだけでは何事かの有事には役立たないのです。
しかし有事の後でなら、思い気付き・悔い改めるのに、これまで理解していたことが(当てはまり)役立つことはあります。
だからこの様にして書くことにもなっていますが、やはり有事が起きてからのちに(真理の教えに)気付き・後悔・反省することよりも、有事が起きたときに後悔も反省も無くただ平常心でいられることが望まれるわけです。

だから理解した事を実践で活かしていなければ(後の祭りになって)後悔反省することになるのでが、その気付きによる後悔反省も実践になっているのです。
そして何事も小さな原因から大事に至っているだけに、その有事・大事に至る前に(大きな原因になる前に)、その小さな事・小さな原因に気付くだけの意識力・実践力も養わなければならないのです。

そうなると質素・素朴が重要になり、無理しない、余計な事に手出ししないで、必然ご縁の自分に出来る事をすることになるのです。
だから人様のことでも、犬畜生であっても(例えば極度に体調の悪い牛がいても)、私に出来ることはしれていますから、そのどうにもならないことは(獣医さんも手当てをして見守るだけですから)執着せずに、(人様も畜生も)成り行きを見守るだけになります。
すなわち成り行きを見守る平常心でいることが出来るようになるのです。

ところが平常心がそれなりに板についていると、これまた(それはそれで)私に問題が出ているのです。
それは以前からTVも新聞も観ない、世間のことはあまり感心が無く、牛舎の行き返りとスーパーとパチンコと、無料映像・ドラマのチャングムを見たいくらいですし、そしてこのブログと、ご縁のある仲間内や必然の身近な人達の事を意識しているくらいですし、それらも必然で成すときにしかしていませんから、以前に増して暇で退屈する時間が多くなり過ぎたことです。

ところがそんな生き様が間違っていると気付いたのならば既に変更しているのですが、それもどうやら間違っているとは思えないことから(自信さえも持っていますから)今も同じ繰り返しが続いています。
また「仙人」みたいな生き方が正しいとか良いとかも思っていませんから、自分が思うままに自由に生きています。
しかしその「思い」が元から不完全なのだから、これまた「どうしようも」ありません。
・・・これから先一体どうなっていくことやら・・・だから不完全意識は「一寸先は闇」と言われる訳です。

と言うことで(ブログ・ネタの為にも)皆さんからのメッセージをお待ちしています。

知ってよかった、気付いてよかったと、いつも新たな気持ちで前に進んでいくような人達と仲間意識になる。

2011年05月19日 | Weblog
私は自分に成せることを好き勝手にやっていましたから、(その私同様に)身近な家族・妻・子供にも好き勝手にさせていましたから、私が腹を立てた事は(冷静な判断の中で)妻に一回と二人の子供に一回づつあるだけですし、私と関わる方々と対立・意見し合うものの平常心・冷静さを失ってまで相対することはありませんでした。

世の中や世間のことならどうでもよくても、私に直接・間接に関わることであれば無視する事は出来ませんから、自己をあまり出さずに冷静に見守り続け、また相手の意に添うようにお手伝い力添えはするものの、その限りもあることからしてそれ以上はどうすることも出来ずに、あとは成り行き任せにしますから、その先の不安心配があっても、また望み期待することがあっても、その己の思い・エゴ・感情が高まらない性格なのは確かなようです。
だから不平不満も同じように成り行き任せで執着せずにほっといといていましたから、自然消滅していった感じです。

また情け深く、愛情を込めて、親身になる等とそんな感情がないのに(知らないのに)出せるはずもありませんでした。
だから友情を築くとか、また夫婦の絆や子供との絆を強くするなどと思い考え意識したことも無く、ただ「好きか嫌いか」の感情しか無くて、一緒にいることで好きになることも嫌いになることもあり、好きだから一緒にいられるし、もっと好きだからもっと長く一緒にいられる、しかし嫌いが多くなればやがて離れていくのは当然の事に思っていましたから、その好きさ加減・尺度は時と場合によって少し違っても、それ以上の別な感情は私には無かったようですし、あとは自分の都合が良いか悪いかしか考えていなかったようです。

また「全て」について言える事ですが、例え相手の身になっても、また親身になって思い考えても、その相手の(老若男女に関係なく)自己主張・誇示顕示・見栄・欲張り・エゴ・虚栄・偽善などが(今で言う不完全意識が)丸見えになることから言えば、大元の原因が私の問題でも責任でもなく、相手の出方(今で言う意識)に問題があるわけですから、その相手に求められたことに追従するのに違和感が出てきて素直に対応できなくなるのが私の性格の中にあるからです。

だから愛情・親身・真剣・素直に対応できないことで、私が実質損をする立場になり困った事になると確実に判っていても、それでも愛情・親身・同情・温情・恩義・儀礼などを(持ってないものを)尽くすことは出来ませんで、その後は成り行きに任せてきたのも事実です。
だからブログでも書いているように「来るものは拒まず去る者は追わず」の成り行きに任せてきました。

そんな私だから成る様になって(必然で仕組まれて)今の過疎地での単身生活に至ったのだと思っています。
そして質素・素朴な日々を送ってはいるものの、良い悪いで判断する不完全意識はしっかり持っていますから、良かったりも悪かったりもする生活からは抜け出せません。

だから、ごく平凡なことで満足することもあれば、(裏が出て)それが「やるせない」思いになることもあります。
だから、暇で退屈なのを味わっている中にも、その暇な時間がやるせない時間に思えるときもあります。
・・・かと言って色んな趣味嗜好娯楽を味わうのも余計なことで無駄になることだから、その気になれずにいます。

また全てにおいて、どうしようもない事と判っているだけに、そのどうしようもないこの世や人間関係を味わい見ることで、私までがやるせない思いになることもあります。
また生産性の低い生き様だけに、その生き甲斐が薄っぺらくも淡くも思えるときがあります。
・・・かと言って多くの苦楽を味わうよりも、今のままに平然と生きていたいのです。

また人恋しいときもありますが、現実にそうなれば当然ながら孤独と自由が損なわれるし、苦楽・気苦労が一緒についてくることが判っているだけに、あえてそれを求めることはありませんから、やはり必然・ご縁のお仕組みに任せるしかありません。
そして必然のご縁で仕組まれた関係であれば、余計な気遣いや無理をしなくても、双方共に似合った関係が続くことにもなり、事が無駄なく進んでいきます。
・・・しかし共に不完全意識を持っているからには、それがいつまで続くかは不確かです。

また、何を成すにもその余裕があるのに、その成すべきことがあまりにも無くて困惑しているときもあります。
ところが、成すこと・成せることが多くありすぎても、呑気さが消えてそれも困ったことにもなります。
・・・すなわち自分の都合が優先されるのです。

だから成り行き任せの「来るものは拒まず去る者は追わず」の自然体であれば(自分の都合に関係なく)、それも成るようになっていくのですが、あとを振り返れば(現在のように)自分の都合がいい様になっています。
だから余計なことも無理も無駄も無く(良かれ悪しかれ)事が進んでいくのです。

あとは他愛ない自己満足と不平不満を繰り返しながら、それによって更に気付き・悟りとなって事が進んでいくのです。
そして望むことがあるとしたなら、素直で正直で否定も反発もしない人でありながら、何でも「知りたがる」意識を持っていて、知ってよかった、気付いてよかったと、いつも新たな気持ちで前に進んでいくような人達と仲間になることです。
・・・すなわち生活のことよりも、真理の実践意識を持っている人達と巡り会い接し触れ合いたいのです。


すべてが必然であっても、それが過ぎれば拘り執着になり、不平不満や自己満足に変わる。

2011年05月17日 | Weblog
先日の子供の日に娘夫婦が孫達を連れて山へ遊びに来ました。
それも娯楽施設や人ごみの所で疲れて帰るより山で呑気にして居たかったからですが、その孫達は犬や猫と一緒になって飽きずに楽しくすごしているかたわら、そんな孫達を旦那に任せて娘は雑草の中に座り込んで冥想の真似事をしたり、気の向くままに近くを散歩したり、ハンモックにくるまって一休みしたりしていたのですが、その娘が「ここへ来れば本当に何にもすることもない」と肯定的にも否定的にも言った言葉ですが、私自身も娯楽性に乏しいだけにその娯楽で言えば味気ない思いをしているのは確かなことです。
・・・だから一円パチンコと無料映像の映画ドラマを観るのが私の娯楽になっています。

そんな快適便利性もなく娯楽性もないところでいるだけに暇で退屈しているものの、その分だけ一見何でもない事に意識が働き使われたりしますから、その点から言えば意識・生活そののもは大丈夫なのです。
だから単なる牛のエサやりのバイトであっても(意識も時間にも余裕があることから)何かと気付くことがあるだけに、その雇用主も何かと喜んでくれているから給与も割り増ししてくれたり米や牛肉も配給してくれますし、それ以外にも気遣ってくれていますが、何度も書いているので省略します。

そして先日、持っていれば便利だからと(緊急用を兼ねて)携帯電話を雇用主が費用もちで購入してくれました。
しかし便利とはいっても、私に電話がかかることも殆どなく、また電話をかけることも殆どありませんから、まさしく緊急用になります。
また携帯電話に関係ない便利な機能も多くあり、また常に表示される日付曜日時間も便利ではありますが、私にはそれさえ無用の長物であり、ポケットの重たいお荷物にもなり、しかも電池切れや置き忘れば意味を成しませんからそれに注意することにもなり、私にすれば余計な事に意識が使われています。

それでも面白く思ったのは、机の上に置いていた携帯電話を手にするとメロディのあとに「日付曜日時間とバッテリー容量」と「圏外です」というメッセージが自動で流れてくるのが(まったく人声のない所だけに)何故か滑稽な感じで面白く微笑さえも浮かべています。
また「圏外」に住んでいるのに携帯を持っている滑稽さも笑えるところです。
それと暗い所で小さな照明代わりになることも判りました。

先程の娘も携帯電話やパソコンに関心を示さなかったのに、3年前ごろ学校関係のメールが着たりすることから携帯電話が必要になり、それを使い始めるとどんどん使い道が広がり今では重宝しているようです。
またパソコンでのネット検索も手馴れた感覚で使いこなしています。
だから必然から始まったことが、その必然を超えた形にも使われ始めたのは確かなようです。

その文明の利器の便利を便利として道具を使いこなす事はその道具に依存する事が多くなりますから、その便利な道具の使用法・使い道やその注意や管理・危機管理に意識が使われることも多くなるし、もしもその道具に何らかの不都合・有事が起きたときに使えなくなれば依存していただけその不便さを味わうことになります。

しかも便利が当たり前になるとそれ以上の機能を持った道具を持ちたがるのがあります。
また古臭くなると新品に買い換えることもあります。
すなわち※此れまでの「満足」が消えて不足・不平不満を持ったことになり、それを解決すれば自己満足したことになります。
それを真理から言えば、余計な事に意識を使い、無理や無駄をした格好になります。

だから近代的な生活をしているほどに困ったことも多くなりますから、その分だけ不平不満が増え、また金銭や時間や労力を使っての自己満足も多くなりますし、また何かと有事にも弱く、困り果てたことにもなりやすい体制にもなります。

また生きているからには娯楽も必然になります。
しかし必然が過ぎると欲が強くなります。
そうなると娯楽・パチンコも度が過ぎて困ったことにもなるのです。

だから同じ必然であっても、それが過ぎた必然になればなるほどに満足が薄らぎ不足にもなり、やがてその満足を欲しがる事になって不平不満に変わるのですから、必然であってもそれを過ぎれば問題意識にもなるのです。
ところが私の携帯電話の事例のように、私に必然でなくても先方から与えられる事にでもなれば(来るものは拒まず)、それも必然ですから、(意識していなくても)(使いこなす事をしていなくても)この先に思わぬ効果効用を導き出してくれるかもしれません。

また6年前に15万円で購入した軽四が故障続きになったので車検切れになる前に乗り換えることに決めていたのですが、それも成り行きに任せていたのですが、その車検切れ寸前で2年間の車検と保険付きで20万円のトッポ・四輪駆動・軽四にご縁がありました。
そして装備品や外装も内装もきれいで文句なく、まさしく新たな車・新車に乗った気分をいま味わっています。

だから必然で「与えられるまで待つ」その自然体が功を成すのです。
それが嘘偽りでも無く確かな事実だと知ってもらうためにも、「来るものは拒まず去る者は追わず」の自然体の必然・ご縁のお仕組みの数々・事例を此れまでにもブログで紹介しているのです。

何故に「不平不満」が多くなるのか?それには「自己満足」したことが加わるからです。

2011年05月14日 | Weblog
良い悪いで判断する意識を持っている限りにおいて、ひとつの事を二つに分けてその良い方を取りたがる「良いとこ取り」意識を持っていますから、どうしても「自分さえ良ければ」の個人意識にもなります。
ところが一つの事を「良い」と「悪い」で判断しているのですから、その一方の「良いとこ取り」したつもりでいても、もう一方の「悪い」ほうも裏に隠れて一緒に付いてきますから、いずれその悪い方が表に出てきてからやっと気付くことにもなります。

例えば「快適便利」な良い生活をしていれば収入が多くなければそれを維持していけません。
そうなれば生きて行く為の収入以上に労力・自力を使わなければなりませんから、その分だけ苦が伴い増えることになります。
そうなると、表向きの結果は良かったけれども、しかし裏向きの方では苦の悪い結果が出てきた事になります。

だから、どんな形で良いとこ取りしても、その裏の悪い形も必ず出てきます。
それを病気に例えれば、風邪は万病の元といわれますが、その風邪症状を治さなければ仕事や家事に影響するからと手短に薬に頼れば、確かに風邪の症状が和らぐことにもなって生活に支障が無くなって「良かった」ことになりますが、ところが体内では薬による副作用が必ず出ていますから、その結果が良くても見えない裏側では悪い結果が出ている事になります。

しかも人間本来の治癒力・回復力を薬によって邪魔をしたことにもなりますから、当然その治癒力・回復力が低下してきます。
またそれを繰り返すほどに治癒力・回復力の更なる低下だけではなくて抵抗力も同じように低下してきます。
だから手短に済ませたことが後々まで影響してくるし、それに気付かなければ何度も手短に良いとこ取りを繰り返しますから、その後の歳を重ねるごとに体力も衰えてくることからして次第に重い病気・症状を引き起こすことにもつながっています。

ところが人間関係も同じですから、恋人や夫婦関係でも良いことがあれば悪いことも付いて来ています。
例えば互いが好き合っていてもその裏の嫌い合う感情も持っていますから、誰かの都合が悪くなると嫌いに思う感情が出てきて不満を持つことになり、好き合っていることが建前ても嫌いになった部分も併せ持った矛盾・偽善関係が続くことにもなります。
すなわち都合の良いことも都合が悪いことも出てきている矛盾関係が続くことにもなるのです。

ところが更に、好き同士の関係から自己満足することも多くあります。
例えば記念のプレゼントし合ったり、ご褒美を出し合ったり、その愛情を確かめ合ったりして自己満足していますから、その自己満足が途絶えることにもなれば、これまで自己満足していたことが水の泡の如くに消えてその不平不満だけが強く出てきます。
すなわち自己満足していた数だけの不平不満が強く出てくるのですから、当然ながら困った関係にもなります。

そして不平不満を持ったままだと人間は「生きて」いけませんから、その不平不満を満足に転換する為に、また何か満足できる事を与えることや求めることになったり、または代替で趣味嗜好娯楽や刺激で満たそうとしたりしますが、それら一時の満足では直ぐに不平不満を持つことにもなっていますから、結果的には何をやっても不平不満が残ることになり、全てが無駄になります。

その事例として・・・不満を持っている妻を見かねて、その妻が喜ぶ事をすれば、その時は喜んでくれますが、その喜ぶ事・行為行動が減ったり途絶える事になれば・・・以前はあんなに優しかったのに冷たくなった、私のことはどうでもいいのね、貴方は好き勝手なことばかりしているなどと、言い出し始めるときりがないくらい文句が出てくることにもなるのです。

すなわち不足を満足にしたことがアダとなり(余計な事をしたことになり)、その満足が原因となって今度は不平不満のしっぺ返しとなって跳ね返ってくるのです。
だから自己満足の回数が多いほどにその反対の不平不満も多く持っていた事になるわけです。

ところが満足した事をいつまでも忘れずにいれば、先ず不平不満が出ることはありません。
だから不平不満が出るのは以前に満足した事を忘れているからです(裏表の関係にあります)。
その満足を忘れる原因が私欲・エゴなのです。
その私欲・エゴが無ければ満足も不満も無く当たり前になります。
だから私欲・エゴを持っているから(満足が少なくて)不平不満が多くなっているのです。

それを言い換えると、生きる為に生きているのではなくて、満足するために生きているようなものになります。
だから自分の都合が良くなる事を前提にして愛を語り合い、共に協力し合い、また妥協し合い、言い訳・正当化し合いながらその関係・生活を続けいますから、決して満足はしていません。
だから満足したいがために何らかの不平不満を持つことにもなっているのです。

※言い換えると、何かを「成さねばならぬ」と思い立ったときは既にそのままではいけないと不足・不満に思ったわけですから、その時点から満足したいがための裏の不平不満を持った事になるのです。

だから妻や夫や我が子のためであれ、恋人のためであれ、災害被害者のためであれ、誰のためであれ、何かをしてあげたい、何かのお役に立ちたい、何か成して喜んでもらいたい等と良い事をしたいと思ったときから既に不平不満を持ったことになります。
そしてその良い結果が出たときに自己満足することにもなるのですが、しかし自分は良い結果を出したと身勝手に思っていても、相手がそれを認めてくれなければ、その自己満足が裏の不平不満に変わるのです。

ところでその不平不満を持ちながらも何とか生活し生きていけるのは少しでも満足できることがあるからです。
その満足できることがまったく無くなり不平不満ばかりになると(命を灯す光が見えなくなり)自らの死を望む自殺願望を持つことにもなりますが、それでも時たま満足できることに巡り会えば死を選ぶことから救われます。
だから小さな一つでも満足できることがあれば(接し触れ合うことがあれば)それを支えに何とか生きていけますが、しかしその小さな満足(記憶)さえも完全に消え失せれば、あとは自らが死ぬことだけに意識が囚われてしまい危険な状態になります。

だから、高が不平不満、されど自己破壊や他者破壊の破壊意識にもなっているのです。