孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

宇宙の進化拡大と人間の進化拡大のすれ違いを修正するのが完全真理なの?

2009年07月31日 | Weblog
始まりなき終わりなき宇宙は意識を持っていて永遠に続き進化していきますが、その宇宙を創造の神とも言われます。
その宇宙であり神である意識(体)は「そのまま、このまま、あるがまま」に動いていますから、何も思い考え判断しないでそのままの時の流れで動いています。
だから宇宙・神といわれるものがその役割を果たすために「あるがまま」に動いていますから、いちいちあれこれ思い考え「判断」して動くことは絶対にありません。
 
もしも宇宙・神が「ひとつ」のことを分け隔て分離判断したとしたなら(絶対にないが)、どうしても己の意識・思いが入って「ひとつ」ではなくなり、確かな実在の表と思い判断した不確かな非実在の裏の両方を持つことになり、その判断に裏があったり表があったりして一律一定ではなくなり、その両方の矛盾に思い悩み混乱・錯覚勘違い・葛藤・衝突することになり、到底ながら一定のリズムで規則正しく動いている完全な今の宇宙が永遠に実在できる筈もありません。 
宇宙全体が混乱を起こして衝突崩壊破壊消滅している筈です。

すなわち良い悪い(善悪・優劣・損得)で判断する不完全な神は宇宙の何処にも実在していません。
しかしながら、裏表のある不完全な人間が宗教的に作った想像の神や姿形のある偶像の神などの非実在の神が奉りあげられている事実がありますが、もしそれらの神を本物に信じている人が居れば、その人は実在しない偽の宇宙・神の世界で生きることを選んだことになり、そして私は正しい・私の神は正しいと自己満足・自己主張・自己顕示することで・・・(自分の為だけの特別な神となり)自らの生き甲斐を自己満足していることでしょう・・・

ところで・・・なぜ地球の人間だけが「比較・判断」できる能力を持ったのでしょう・・・?
確かなことは・・・宇宙の「必然」から人間に判断能力が備わったと思われます。

その宇宙で新たなものを創造できる全知全能でもって「何でも」知っている完全な神でも「知らない」ことがあります・・・ すなわち完全がゆえに「不完全で非実在」の思い考え判断・想像することが出来ませんから、その出来ないことは「知らない」ことになります。
そこで神が「知らなかった」ことを人間の意識・命によって「知りたがる」のも・・・神の全知全能だと言われています・・・

それゆえに広大な宇宙の中で「地球と人類」というような形の存在は何処にも無いとも言われ・・・ その宇宙の命・意識のすべてを濃縮凝縮したものが地球・人間・万物の意識・命と言われ、それら宇宙・神の意識体(命・意識)すべてが人間に見える形・万物の姿形になって地球に揃っているとも言われていますから、(地球・人類が宇宙の縮図・お手本となり)更なる宇宙の進化拡大に果たす地球・人間の役割も大きいようです。

そんなことから言えば確かに人間は・・・無いものを有るように思ったり(不完全を完全に思う)、有るものを無いように思ったり(完全を非実在に思うこと)できるのは人間だけです。
ところがその判断・想像できる人間がいつの間にやら「良い悪い」で分離判断・差別することになったのが宇宙としては厄介なことになり・・・ それら「差」を無くする為に宇宙の法則・必然・お仕組みが自動的に働き、何度か宇宙の命・意識のものを人間の姿形にして送り込みやらせてみたが、そのミイラ取りが同じミイラになってしまって何度も失敗を重ねてきたのが現在とも言われるのは・・・確かです。

そして今日、ミイラ取りがミイラにならないように史上初の「完全」を説き伝えることができる「完全意識」「完全な神や愛の意識」の者が地球・日本で育ち、その役目を果たすために現在も働いています。
過去の人でもなく、また過去の聖書経典が頼りでもなく、今も実在する人ですから誰でもが自分の五感・感性・意識・命で直接に接し触れることが出来ますから、世界広しといえどもこれほど確かなことは他にありません。

しかも最も身近な日本から始まっているチャンスなのですから、それを見捨て見逃す手は無いと思いますから、先ずは「知る」「知りたがる」ことが重要になってきます。

「神の愛」「神の光」は全知全能の宇宙の愛意識エネルギーであり、科学的に言えば「常温核融合」となる。

2009年07月29日 | Weblog
一般的に科学が出した結果を見て不思議に思っても不信感にはなりません。
だから自然界の葉っぱ一枚作れない科学であっても信用しています。
そればかりか、科学が証明できないものは「信じられない」という不信感まで植え付けています。
・・・それはいつの間にか思い込み洗脳されているということになります。

その科学と言えども所詮は宇宙や自然界に元々から有る物質などを組み合わせたり除いたり一部加えたりして作り出しているだけ「新たに創造」したものはいっさいありません。
また元々からの生命を切り離したり付け加えたりして地上にあるものと同じ形のものを作って再現して見せているだけです。
例えば精子と卵子を結合させて生物を産み出したり、花粉を結合させて植物を生み出しているだけです。
中には遺伝子操作で「新たな品種」は作れても、その遺伝子そのものはまったく作れません。
また便利なエネルギーを開発すればそれがすぐさま争い戦う戦争や制裁や復讐やテロの道具に使われることにもなっています。

それだけでは有りません・・・物理的なエネルギーを多く持ったものが世界・国家・社会を牛耳ることになったりするだけに争奪戦となり世界を混乱させたり、我先に奪い合うことで人身を惑わすことにもなっています。、

そんないい加減な科学を信用して前提にされているから、前々から言われている人畜無害で平和となる宇宙エネルギー・フリーエネルギーや新たな意識エネルギー・常温核融合といった一般的ではない分野を不思議現象や奇跡現象として科学・研究から除外したり、中には忌み嫌うカルトや洗脳に見立てて否定反発拒否する類の科学者・専門学者先生・知識人が多いのも事実です。
・・・しかし旧ソ連の科学者が寄り集まって科学を超えた科学でそれら未知的な分野をデーターで示す専門分野が創設されているのも事実にあり、あのNASAも関心を持って取り組んでいるのも事実のようです。

とは言っても・・・それらの事実を事実として見せても・・・そんな筈は絶対に無い ・・・インチキ・手品に疑うことで・・・此れまでの自分の実績・積み重ねの地位名誉・権威権力を守ろうと必死になって否定し続ける事実が未だに根強くあります。
だから世間に知られること無く「葬り去れた」事例が過去にあるのも事実になります。

そこで登場するのが「ファバラ」ですが・・・ 発芽玄米に麹菌が満遍なく付着する事はこれまで無かったことなのに、それが事実として証明されて製品化されていても、未だに不信感を持っている人は多いようです。
そして、ただの調味料でなんでこうなるの、普通のお酒でなんでこうなるの、とその結果・情報が流れても、その真実を語ればたちまち不信感・違和感を募らせる人が大勢いるのも事実です。

しかしファバラの事実は事実ですから、いつの間にか世間に受け入れられ認められては来ますが、それだけがファバラの目的ではありません。
基本は「神の愛」「神の光」とも言われる全知全能の宇宙に実在する人間には見えない愛のエネルギー、宇宙の愛の意識の「意識エネルギー」の実在を知ることから、此れまでの間違った常識・意識を変革改革することにあります。

その意識改革・変革を最も邪魔する「見えない世界」に対する「不信感」を意識エネルギーである「ファバラ」が見事に解決してくれるものと、私は確信・実感を持っています。

また「ファバラ」製品は物質であっても、世間にあるような物質エネルギーではありませんから、ファバラからエネルギーを取り出して別なことに悪用することは容易ではありません。
また「ファバラ」の元となるのは宇宙・自然界に充満している人畜無害の愛の意識エネルギーを使っていますから、誰かが欲張って独り占めすることもできませんから争奪・戦争にもなりませんし、物質エネルギーのような弊害副作用もありません。
すなわち平和・調和のエネルギーです。

・・・物質主義のこの世が混乱するので、今すぐにとはいきませんが・・・
水のエネルギーをガソリンのようなエネルギーとして使えるようにもなります。
また無限エネルギーですから永久発電も可能です。
残留CO2を人畜無害の有効なエネルギーに復活活用できます。
すべての物質を変換して過不足の無い調和に出来ますから、食糧不足や水の過不足で困ることも無くなります。
またエイズウイルスやインフルエンザウイルスやがん細胞などが悪さをしないようにすることもできます。

と言うことは・・・この世のあらゆる問題が解決していきます。
でも人間の意識を「ファバラ」の他力で簡単に改革変換することは宇宙・神・愛の領域を超えたものですから決してなりません。
しかし意識エネルギーですから、(他力とは違う)意識力・意識するものに作用するのは当然ですから、成る時がくれば成ります。

・・・など等とはっきり言えるのも、先人・先生方が言っていることも相まって・・・私が前々から意識し続けて取り組んでいた「宇宙エネルギー」が神や愛につながるとは思ってもいなかっただけに・・・確かな確信でもって言えるのです。
そして此れまでの私の歩み(新もの喰い・先覚者意識・皆が知らないことを知りたがる意識)が無駄ではなかったばかりか、この世の完結に至る歩みにつながっていたことを自分自身が驚いている反面やっぱりそうかと得意満面に自己主張するところがあるので・・・私自身が宇宙の流れの「箱舟」から脱落することも十分ありえますから・・・もっと謙虚になりたいと思うところですが・・・知っていることを言いたがるのも私ですから、もうどうしょうもありません、かな?・・・・・・

互いに認め合う、互いに許し合う、お陰様・お互い様の自由平等の愛、宇宙・神の愛、

2009年07月26日 | Weblog
人間の命・意識として生きている限り、意識したことを肉体・身体を使って行為行動表現することになります。
そして「成る」ことは成り、「成らない」ことは成らないという結果になりますから、いずれにしろ結果は出続けます。
またその結果が原因となり次の結果も生み出され続け原因と結果は永遠に終わることはありません。
すなわち否応なしに原因と結果が出続けて「成る」ようになっていきます。

例えば、お腹がすいたことが原因で食事という結果が出てきますが、その食事そのものの判断・結果から他の事までに及んで結果が出て、その結果が原因でまた次の結果につながり続けます。
また食事をすれば出るものが出る結果になり(排便され)、それが自然界に排出されて次の結果につながり続けます。
また生活が貧しい原因で思うように食べられない結果が出れば、その結果が原因になり肉体的・精神的jにも多岐にわたり影響して結果を出し続け、その結果が原因になりまた結果を出すという繰り返しで永遠に続きます。
すなわち「成っても、成らなくても」その結果は出続け引き継がれていき、時にはそれ以上に進化拡大していきます。
それが思い考えることの出来る人間の「この世」であり、それが今の結果であり、それが原因で更なる結果が出続けていくことでしょう・・・

人間の意識が一つであるように、この世のすべては(最初の原因である)完全な「ひとつ」の意識から始まったことです。
そして大元の宇宙は完全なひとつの愛ですから、その「愛」で始まったことなら今も「愛」の世界になっているはずなのですが、ところが今は愛の世界とは言えません。
何故なら、事実は一つなのにそれを「良い悪い」で判断していることにあるからです。

だから、この世を良いと悪いの二つに分離判断さえしなければ、ただ「成る」ようになった結果が今あるだけの「あるがまま」になり愛の世界になります。 ところが完全なひとつの愛の意識で見ていないから・・・愛の世界・・・に見えていないだけなのです。
すなわち現われた「事実」だけを見ないで、その事実に良いと悪いの差を付けて見ている原因と結果があるからです。

だから現実・事実はどうであれ、原因である個人の「良い悪い」の分離差別意識さえ無くなれば愛の世界になるのです。
とは言っても人間だから良い悪いは出てきますから一気になくすることには無理があります。
そこで「執着」しなければ気にならなくなり忘れ去って無かったことになります。
そして(執着しないためにも)先ずはお互いに認め合いお互いに許し合うことが大切になります。
それがお陰様・お互い様の自由平等・感謝の愛意識になり、調和の愛、宇宙・神の愛、皆が我神なり我愛なりの意識になっていくことが出来るのです。

こんなに簡単に誰にでも分かる真理を見逃す手は無いと思いますが・・・ 

新たな真理・完全真理の「白い玉」を知らないから、過去の常識・真理の「黒い玉」を選び続けます。

2009年07月23日 | Weblog
宇宙は一つです、二つもありません、だからすべては一つです。
同じく人の意識は一つです、二つもありません、だから同時に二つのことは思い行動できません。
それを無理して交互に使い分けていると(二兎追うものは一兎も得ず)しんどいばかりか中途半端な結果に成るのも当然の結果です。

意識は一つだから、その一つの中に様々な思い考え・思惑・感情・悩み・不安・混乱などを抱え持っていますから、そのすべてが元の一つにつながっているのも当然です。
すなわち「原因」は一つなのですが、現われた結果が様々に数多くあるのです。
その最たる原因が「良い悪い」で判断したことから様々な結果が出ていて、更にそれが進化拡大していって別な結果・違った結果が出続けているのも数多くあるはずです・・・ すなわち今は進行中の途中結果であって、まだまだこれから先も変形した形になって結果が枝分かれしてまでも出続けるということですから永遠に続きます。

だから「不平不満」から始まり、不安心配・怒り・嫉妬になったり、その仕返し復讐制裁報復心を持つことになり、それが抑えきれなくなれば行為行動になり暴力的精神的破壊(暴力・いじめ・虐待)になったり、更に相手構わずのやけくその破壊行動にもなり、それを意識するものが多く集まるほど事が大きくなり、その意識の集合が行き着くところが争いであり戦争でありテロであり、最たる破壊行為が核爆弾の行使になります。

しかもそれが人間界の人間の人生・生涯・生き様なのですから、それを「どうにかしたい」と知恵のある有能な人が(イエスや釈迦らのように)様々に現われ様々に試行錯誤してきましたが、結果的には良くなるどころか更に複雑に絡み合い進化して「もうどうしょうも無い」最悪の状態にまで達しています。 

すなわち先ほどの「良い悪い」で判断していることに原因があると気付かなかったのです。
だから現在も同じで、良い悪いを持たない「完全真理」があるのにそれに気付かなければ「知らない」のと同じになります。
何も知らなければ何も出来ないのは当たり前です。
しかし前者・過去とは違い今は「知っていて」実践している人がすでに実在していることです。
すなわち知らないで「黒い玉」を持っている人と、知っていて「白い玉」を持とうとしている人が居るという違いがあります。

しかも「黒い玉」を持っている人は此れまで通りの結果しか味わえませんが、何とかして「白い玉」を持とうと実践している人はこの世の矛盾に気付きますから、その矛盾を取り除いた生き方が実践できれば結果的には無理・無駄の無い「新たな」生き方の道筋を見出すことが出来ていますから、過去のあらゆる「しがらみ」常識(常識化された宗教・科学・医学などを含め)・道徳・伝統・風習から抜け出すことが出来るようになるのです。

そして完全を知ることから不完全・非実在・矛盾が理解できるので此れまでのように迷い悩み試行錯誤・思考錯誤しなくてすみます。
また過去・現在・未来の不安心配や怒りなどは自分の思いの中にあるもので現実には無い非実在だと知ることで、自分が思い拘り執着しなければ忘れ去り消えていくことを知り実践します。

実践する誰でもが現実・事実にそれなりの結果が出ていれば、それを実践している仲間同士で共有しあうことからも「白い玉」を選び続ける実践に自信・自力が付きます。
だからまだ未熟であっても完全を知れば二度と黒い玉を迷い選ぶことがないから、その白い玉を選ぶ者の意識が次第に集合体となって他の意識体・皆を揺り動かす結果となり、しかもそれを推し進めている宇宙の働き・必然の常温核融合エネルギー・ファバラ効果もあいまって、やがて「成る」ようになっていくのが宇宙の仕組みにあります・・・ そのことを知っているのも完全を知っているからですが、完全をあまり知らないものが何かと否定反発したがるのも当然のことになります。

すなわち「知らないから」白い玉を選ばずに今は黒い玉を選び続けていますが、いずれ白い玉を選ぶときが来てもなんら不思議ではありませんから・・・ 「成る」ようになっている結果が今あるだけです。
すなわち過去に関係なく今の結果がすべてなのです。

その今の結果もすぐに過去になりますから、過去も未来も思い考えない「今」を生きることが重要・大切になるのです。
すなわち過去も未来も無い「今」の連続中に「良い悪い」の判断をはさむわずかな隙間さえ無いのが宇宙・自然であり愛なのです。
その今の連続が(判断をはさまない)「あるがまま」であり、それが「愛」の完全真理といわれるのです。


自分を守り闘う「完璧」がプライド・差別・不信感になるが、それは知るべきことを「知らない」からです

2009年07月21日 | Weblog
人は皆自分が大事だから必ず「守り」意識を持っています。
それが往々にして世間体や見栄を気にしたり、自分は騙されたくない、損をしたくない、恥をかきたくない、惨めな思いをしたくないと、とにかく損になることは避けたがりますから何かと用心注意してかかることから、それが「不信感」の原因になります。
だから最初は先ず疑ってかかりますから、今まで知らないことを聞いたり見たりして不思議に思えることも、それを信じなければ知ったことが不信感につながります。
だから「見えない世界」に関しては、決め手が無いだけに不思議がることも多く、その決め手の無いことが違和感や不信感・否定反発拒否につながるし、決め手・結論が出せない疑心暗鬼や試行錯誤にもなる原因です。
また宗教に染まっている人たちが神を信じていてもそれは空想・想像の神であり鵜呑み丸呑みの妄信や洗脳された神ですから、本当の神を信じていることにはなりません。 また奉られ尊ばれている特別な神を信じているがそれ以外の神を信じていなければそれは不信感になります。

また自分に都合が悪いことなら「誰でも」が否定反発拒否しても「当然」当たり前と自分勝手に思い込んでいますから、その誰でもが当然に思うことが歪んで「私は正しい」私は間違っていないという原因にもなっていますが、その私は正しいが差別や不信感になっていることに気付いている人は少ないでしょう・・・

守り意識がプライドになり差別になり不信感になっているのです。

特に「見えない世界」のことになると間違ったことを信じていたり、信じなければならないことを違和感を持っていたり否定反発している人も大勢いますが、良い悪いを持たない完全真理を学び知れば「見えない世界」も実在の世界になり、言い訳・正当化することも違和感を持ったり疑心暗鬼になることも、矛盾に試行錯誤したり中途半端な妥協で終わらせることもなくなり、見えない世界が摩訶不思議でも奇跡現象でも無くなり、神や愛が特別でもなくなり、すべてが「あるがまま」の当たり前に動いていることを知ることで、この世に特別が一切無いことを知り、特別で無いほうが人間本来の生き方だと知ることで不平不満・不安心配から守り闘うことも不信感を持つことも無くなって心安らかな日々が訪れるのです。

自分を守り闘う「完璧」を知っていても、すべてを認め差の無い「完全」を知る人はごくわずかですから、その知るべきことを知らないと中途半端な生き方にもなるし、事実真実を知らないことで不信感の原因にもなりますが、知るべきことを知れば当然「信じる」ことが出来るようになるのです。
すなわち中途半端で矛盾のある神や愛を知ることでそれが不信感の原因となるが、完全な本物の神や愛を知れば完全に信じることが出来るようになるのです。
そして完全な神や愛を知ってそれを信じて生き続けて人間を終えるのか、不信感を持ったまま生きながらえて人間を終えるのか、この白黒の選択によって人間の人生からあの世の居場所までが決まるのです。

人間が地球で生まれ育ち死に至る原因(役割使命・本分)は「白い玉」を選ぶためであることは間違いありません。
そしてこの世で唯一つの完全真理が説かれていることは此れで「最後の選択」になることも間違いありません。
またそれを信じるか否かの選択も自分自身が決めることです。

人間としての一生・人生は小さな奇跡が如くの必然の巡り合わせとその選択で決まってくる

2009年07月19日 | Weblog
宇宙・地球・人類・万物すべては完全ですから、完全な必然で動いています。 
だから不完全な偶然や奇跡と言われることはありません、全て元から用意され仕組まれている必然になります。
それを「お仕組み」「ご縁」とも言い表しています。

この世で初めての矛盾の無い完全真理、何処を探しても無いこの世界に唯一つの完全真理、人類有史以来の初めてで最後・完結となる完全真理を説く人が現われたのも宇宙の必然からです。 だから特別でも偶然でも奇跡でもありません、原因があって「成るようになっている」だけですから、そう遠くは無い年月でその完全な結果がこの世に現われるのも当たり前のことになります。
すなわち「原因と結果」は離れていませんから、完全が言われていることは(嘘でも方便でもなく)完全に成るという「真実」になります。

その完全真理に私が巡り合えたのも必然であり、此れまでの摩訶不思議なお仕組みやご縁があったからです。

もしも此れまでの必然・お仕組み・ご縁が無ければ今の私と違う生き方人生を歩んでいたと思います。
そのそもそものきっかけは・・・15年以上も前ですが・・・今ひとつ確かな「探しもの」をしているときに、聞き慣れない波動とか宇宙エネルギーといわれる個人情報に巡り合い、それに関心を持ったことからでした。
それからというものはあらゆる必然・お仕組み・ご縁続きでしたが、その都度の節目で欲を出さずにいたから、しぜんと乗り換えができたお陰で(流れのままに任せて)、その方向性・選択を間違わなかったことから、そのお陰様で今日の「今」があります。

だから、私のプログに来られた人も・・・見えない世界に関心があって、自分探しとか神探しとか愛の追求や精神世界の深みに関心がある人だからこそ、その意識が作用しての必然・お仕組み・ご縁あってのことですから、この機会に素直に真剣に読んでみれば如何でしょう・・・ 理想・思想主義でも宗教主義でもない、理論道理に矛盾が無く、いい加減な妥協や中途半端のない完全な本物ですから・・・ 此れまでの思想・宗教や科学医学を超えた新たな真理で完全ですから・・・ 矛盾の無い神や愛を意識エネルギーとして完全宇宙・科学の「ファバラ」意識エネルギーで解明することもできることから(神は常温核融合)、やがて誰もが完全な神・愛を知ることにもなるのです。

とは言っても違和感や不信感を持つのが人間ですからせっかくのチャンスを見逃す人も多いと思います。
また自分の知っている知識・常識は正しいと思い込んでいる人も大勢居ますから素直に読まないで、自分の読みたいように読んでいますから、(また私の未熟さ不完全さから)あらぬ誤解や錯覚勘違いする場合もあります。

だから一番の早道は自分なりに矛盾や妥協の無い「完全」を知ることです。
完全を知れば何が完全か不完全かがよく見えてくるのです。
そしてこの世のすべての矛盾・無駄が見えてくるようになります。
それでも自分なりの完全ですから100の完全を知ったことにもならないし、知ったことを実践しなければ完全を知った価値がありませんから、此れまでと同様に「知った」かぶりして言うだけの自己満足のお飾り真理になります。

「守ら」なければ絶対に「戦う」ことはありませんから平等・自由の愛、即身成仏の愛の人

2009年07月18日 | Weblog
「守ら」なければ絶対に「戦う」ことはありませんから平等・自由の愛、即身成仏の愛の人

反対に「守る」ということは、その原因に「自分」という個人意識があるからです。 
自分を大事にして守ろうと思えば(良い悪いの裏表・矛盾の世界ですから)必然で他が余計な邪魔者・敵対する形に思わなければなりませんから、そこでそれらと闘うことで守った結果が出てきます。 すなわち守ろうと思わなければ闘う必要がまったく無かったのです。
と言うことは・・・★重要★ 守るために闘い、闘ったから守れたという「矛盾」した結果になるのです。 

また自分が善人になりたいが悪人にはなりたくない、自分が優れたものを持ちたいが劣るものにはなりたくない、自分が得をしたいが損をしたくない、そんな自分勝手な思い・意識・原因を持つと、その為には比較競争・差別する必要があり、そしてどうしてでも競争で戦って勝って行かなければなりません。
そして勝ったものが正しくて正義になり、勝ったものが優れたものとして評価され、勝ったものが得をしていることになります。
しかし比較競争で勝って差を持った特別意識の人には愛はありません。

「守る」には(裏表・矛盾の世界ですから)必ず相手が必要になります。
しかも形ある相手とは限りませんし、自分と内面的に戦うこともあります。
それが「人を責めたり、自分を責める」不平・不満であり、その思いが過ぎると不安・心配・怒り・嫉妬・仕返し・復讐心を持つことにもなり、それらと向き合い試行錯誤・思い悩み葛藤(精神的な戦い)することにもなり心が安らぐことはありません。

それだけではありません、持っているものを搾取策略・略奪されたり失敗して失うことになりはしないかといつも不安・心配・恐れていますから、平常心を装いながらも内心は不信感を持って他から自分を守ろうとします。 すなわち自分の意識の中で不安・不信に思い争い闘っているから心が安らぐことはありません。

また見えない精神的な不安や恐怖とも守り戦いますが、先々に予測できる不安や恐怖とも守り闘うことにもなります。
だからそれらの保険や保証・互助制度・マニュアルが充実はして安心できるようだが、それでも自分が損をしたくないので予め用心注意深く暮らす必要があります。 すなわちまだ実在となっていない相手・まだ見えていない事柄、そんな未来の仮想の敵などから用心にために守り闘おうとしているのだから心から安心できるはずもありません。

そして何より「病気」から守り闘います。 重病・重症ほど怖いからもっと守り闘います。 
そして死を怖がっていると、死にたくないから必死で守り戦います。
中には他の臓器を移植してでも助かりたい、生きていたいと欲張る人もいます。
だから巷の健康食品・健康促進回復剤・一般的な薬剤から抗生物質まで簡単に使用できるし、そして予防介護・医療手術療法や設備施設が充実進化しています。 しかし医療費はどんどん高額になっているし薬害副作用は必ず出ています。 また後遺症や転移や再発の可能性が十分あります。 
だから安心できる体制がありながら不安は消えません。

すなわちこの世で安心できるようで安心できない矛盾がありますから、更に二重三重で守り闘うことで安心を得ようとしますが、原因である不安心配がある限り絶対安心はありません。 だから守り戦うことの繰り返しが続くのです。

はっきり言って「守り闘う」ために生きているのが今の人間といえます。
不安・不信から守り闘う一生ですから、生きていて面白いはずもありません。
だから趣味嗜好娯楽の追及で自己満足したり、他と差を付けることで自己満足したがるのです。
どんだけ一時的な自己満足(自分の出した結果に自分が満足すること)をいくら積み重ねても、それだけの努力や競争や気苦労が伴っていますから、結果的には心からの満足が無くてしんどいだけの人生で終わります。
そしていつまでも不安恐怖と戦い続けて心身ともに傷つけあっているのがこの世です。

とにかく実際に「守り闘う」ことをやめれば誰にでも分かることです。 
しかし、どんだけ思い考え想像してもそれは無駄骨に終わります。

好き嫌いとは違う必然は愛、守り闘わないのも愛

2009年07月16日 | Weblog
人は「好き嫌い」で人を判断しますが、それを必然・必要で見ると好き嫌いで接し触れ合っているわけではなくて、私にとって必要な人だから接し触れている、私を必要とされているから接し触れ合っていることであれば、必然・必要だからそこには感謝・愛があるのです。
ところが接し触れ合う必然が無くなったり、何かの都合で必要とされなくなくなったのであれば、当然ながら接し触れ合うことが無くなっていくのが人間自然の流れだと思っています・・・真理とずれているかもしれませんが・・・

その必然・必要の愛・役割個性を出し合って自由に接し触れ合っているのであれば、ご都合主義のエゴや束縛支配したがる愛情も消えていき、これまでのような人間関係・形による束縛制限が無くなり自由平等になると思います。

すなわち皆が形を超えた必然:ご縁でつながり合いが起こり、たとえ一緒になって暮らすことがあっても、その必然・必要が無くなれば自然に離れて行っただけの関係であれば、今で言う裏切りとか言わないし、別居別離や離婚関係だの復縁だのバツ一だの不倫関係だのという形もありません。 もちろん不純行為や同性愛や近親相姦といわれる形もありません。
またそれらの繰り返しがあってもそれは必然で起きたことであり、必然が無ければ起きなかったことですから、それらを特別扱いにして問題にさえしなければ、自由で多様性に満ちた人間社会になり、自分に見合った生き方が自由に選択できるようになり、それぞれの自己責任で面白おかしく楽しく生きていくことが出来れば、いま生きている価値が有るというものです。

ただそれらを「良い悪い」で判断している個人意識に問題があるだけで、道徳だの常識はずれだ野蛮人だのという形で批評非難すれば差別でもって自由を束縛することになり、それらを規制取り締まれば足かせを付けていることになります。
またそれらに好き嫌いの感情があってのことであっても、好きだからしぜんとくっ付き合い、やがて嫌いになったからしぜんと離れていっただけにして、良い悪いで問題にさえしなければ人間として生きている中での自然な流れになります。
すなわち人間だから好き嫌いがあってもそれを問題にしなければ好き嫌いが無かったことになるのです。

必然で生まれ育っている宇宙・地球・人類・万物ですから、その必然・必要の中に感謝・愛があります。
この世で必然で存在実在している限り愛があり、その愛が必要とされているのです。
今はあまり必要とされていないと思えても、あるがままにそれで十分なのです。
だから欲を出して、急ぎ慌てて結果を出すことを焦らなくてもいいのです。
自分に見合った生き方をして楽しみながら「その時」が来るまで自然に任せて「待って」いればいいのです。
・・・何事からも「守り戦わない」神・愛意識の自然体で「待つ」ことです・・・
その時が人間最後の最後に訪れるかもしれませせんが・・・心して・意識して、その選択・白黒を間違わなければ「終わり良ければすべて良し」となることでしょう・・・

迷い・混乱・自己拡大から脱却できる完全真理、終わり良ければすべて良し

2009年07月14日 | Weblog
私のプログに良い悪いを持たない完全真理を書いていますが、元々から良い悪いで判断している人間世界で生きているのだから、この世から良い悪いをなくすることは到底無理がありますが、しかし自分の中から良い悪いを無くしていく実践は可能です。
だから自らが実践していく実践真理なのですから、言うだけ・聞くだけ・思うだけの真理ではありませんし、また宇宙・神・愛意識の人が勝手に奇跡を起こしてくれて愛の世界にしてくれる訳でもありませんので他力本願は通用しません。

たとえ宇宙・神・愛の全知全能の力・意識エネルギーで地球が完全な愛の星になったとしても誰もが住める訳ではありません。
当然ながら自分が個人意識丸出しの(三次元意識の)愛の無い意識体・人間であれば、その新たな愛の星・地球に住みたくても意識・次元が違うのだから到底住むことは叶いません。
それが不公平でも差別でもありません、自らが選択した自分に似合った生き方を選択したのだから公平なのです、何の制限も差もない自由平等の選択結果になります。
だから個々の個人意識を無くしていく自己縮小の実践しかないのです。

実践真理の完全真理ですから、既存の世間に見られるような方法論を説いて伝授していません。
だから世界平和や世界統一を掲げて目指しているわけでは有りませんし、差別格差を無くしましょうとかの方法論を論じていません。
まして善を施しなさい、人を助けなさい、人を導きなさい、布教しなさいというような形は一切ありません。
それは形にすれば裏表の差が出て矛盾することになるからです。
例えば、善を施した人が善の者になれば、善を施さなかった人が悪い人に思われるからです。
また世界平和が良いことだと寄り集まって強調すればするほど、戦争が悪いことだと知っているのに何で戦争になっているのかというような矛盾に悩み混乱葛藤することになったり、自分は正しいはずだからと他を責めて、他の責任に転嫁して悪者にしたがる傾向が誰にでもあるからです。

そこで他のことは気にせずに、自らの自力で完全な愛・神を学び知り、その知識や悟りや実践が未熟であってもかまわないから、真面目に真剣に健気に取り組んで意識し続けていること(意識での実践)実践意識が言われているのです。
その意識の未熟さに違いはあっても「差」はありませんから、99%も1%も皆同じ未熟・不完全になり、自分さえ良ければの個人意識を持った人ですから、完全な愛意識ではありません。 また100以外のパーセンテージは不確かなものですから安定していません。 いつなんどき急変するか分かりません。 だから未熟者同士に上下の差はありません。

私の中から良い悪いの判断をなくすることは不可能と思っていますから無理しません、無理しなければ気楽に真理と付き合えます。
また田舎の年金暮らしですから暇で退屈していますから多くの時間が真理と共にあります。
だから過去にカッコよく生きていた頃の見栄や世間体や仕事の気疲れや自己満足・主張・顕示していたことや私は正しいの矛盾にもどんどん気付かされていますから、暇で退屈も真理もありがたいことになっています。 

そして「好き嫌い」を持っていますから、好きなことをしても嫌いなことはしたがりません。
でも独り暮らしだから生活するために嫌いなこともするようになります。 でも実際にやりだすと当たり前になって嫌いではなくなるのです。 なんとなく面白さ楽しさも味わえることも有ります。 すなわち自分にでも出来るということは元々から嫌いではなかったことであって、見かけ・先入観・イメージで嫌いに思っていただけだったのです。
また人との接触も好き嫌いを通り超えた必然に思えるようになっていますから、好き嫌いとは違った必要性で接しています。
また過去これまで必然・ご縁というものの大切さを身をもって知っているだけに「来るものは拒まず去るものは追わず」の自然体で接することができるようになっています。

過去を省みてのことではありますが、あえて嫌がること(否定反発・排除)をしなければ自分に必要な必然に気付くことが多くなるが、(裏表の関係から)反対に自分に不必要なことや無駄なことが起こらないですむ、引き寄せたり寄り付かなくなる、気にならないから気づかないですむことも確かにあるようです。
だから人とのご縁もその時々の必要なときに必要な人が必然でつながったことから、横道にそれたり山谷坂も無く何とか上向きに歩み進むことが(真理・宇宙エネルギーが同時に)できたことから、これまであまり思い考え悩み苦しむことも無く当たり前のように生きてこれたし、俗に言う奇跡や異次元・現象などを数多く体験経験し見て知ることができたのも私には必然であり、今も未知なるもの、知らなかったこと・見たこともないこと・不思議なことが起きています。

それでも今までに好き嫌いの「嫌い」だからと避けて通った中に「勿体無い」「大切なもの」を数多く見逃していたかもしれません。
でも今の結果から言えば「完全真理」に巡り合えたのだから、今が良ければすべて良し、終わり良ければすべて良しになります。

愛のある常識と矛盾と妥協の不完全な常識と、虐めの仕返し制裁や拉致・戦争・テロとの事実関係

2009年07月12日 | Weblog
人それぞれに常識をたくさん持っていますが、良いと悪いで判断して差を持った人の常識の中には差別があり、良いと悪いの裏表の矛盾が必ずあります。 
そして誰も間違った常識は持ちませんから、自分の常識は正しいと思っています。 すなわち正しいと思っているから常識として持っていられるのです。 
その「私は正しい」の常識が正義感にもなります。 だから正義感には矛盾があります。
その際たるものが戦争やテロで敵対するもの同士が正当性を正義や聖戦に掲げて、それを守るために戦い殺し合い大勢を殺して戦果を挙げたものが英雄やヒーローになっている矛盾があります。

その例えで小さな矛盾といえば「いじめ」に見られます。
過去にいじめを受けたものがその相手や他の者を虐め返すことがあったり、虐められた腹いせに仕返し復讐することがあるように、虐めの被害者が加害者にもなる矛盾が有ります。
だから虐めはいけない、虐めの仕返しはいけないと常識で言っていても、いざ自分がその被害者になったら虐め返すことを正しいとして実行したがります。 その大きなものとして先ほどの戦争やテロに加え拉致問題がありますが、その他の犯罪事件や搾取詐欺事件などにも見られ、仕返し報復制裁・科料を裁判で決めています。

すなわち虐めはいけないとして、だが虐め返すのは正当化されているという妥協と矛盾があります。
そして妥協で大きなことはいけないが小さなことならかまわないとして常識化されているために小さなことが見過ごされているのです。
だから虐めでもそうですが、小さなことが集合しだすと慌てて対策を講じますがそれではもう手遅れになっているのが現状です。
そのお手本・見本として有史以来・昨今の世界に現われている全ての問題に見られます。

すなわち小さいうちから元を断たなければ次第に大きくなっていくことを常識では知っているがなかなか実践する人がいないのです。
また「人を責めない、自分を責めない」「未練・後悔・執着を持たない」「人を許しなさい」「人を認めなさい」を常識で知っていても実践しなければ何の意味もありません、「絵に書いた餅」同然になります。

すなわち常識であっても行為行動が無ければ無いに等しいから本当の常識・愛とは言えないのです。
言うだけ、聞くだけ、思うだけでは不完全で実在・愛にはなりません。
また「大きい小さい」に違いはあっても、それに「差」を付ければ、その差に矛盾がつきものですから迷い混乱が起こるのです。

愛のある新しい常識
・・・「良い悪い」(善悪・優劣・損得)の差を付けなければ自由平等・平和になる。
・・・何事からも「守」らなければ「戦」わないで済む。
・・・すべてに形の違いが有っても差は無い。
   形が表であるとしたら裏は見えないから想像して思うしかありません。
   その個の思いに良いと悪いの差をつけたのが「個人意識」です。
・・・表の「私は正しい」が裏の「不信感」「不安・恐怖」を生み「守り戦う」ようになる。

自分勝手に思い想像したことを自分の中に実在する形にするためには表と裏が必要になりますが、その表裏も想像ですから実在には絶対なりません。 すなわち思い思惑想像ですから非実在であり、実在しないものは不完全となります。
だから想像・判断で差をつけないで事実だけを見る「そのまま、このまま、あるがまま」の意識が完全であり、完全で実在するものが愛になります。
すなわち、この世で完全で実在する万物・すべてが「愛」なのです。 すなわち愛以外は実在できないのです。
だから神・万物同様に人間も完全で実在する愛意識の表現者なのですが、ところが個人の思い思惑判断・差を挟むから不完全な意識となり、完全な愛を表現できないから「この世」の裏表のある形でしか見られない人間界・三次元界にいるのです。