私がテレビ離れしてから相当経ちますが、暇で退屈している関係から「ギャオ」無料映画・ドラマを見ていますが、興行収入や視聴率目的に制作されていますから、ありえない展開やアクションがあったり、所々に愛情やヒステリーの喜怒哀楽やセクシーを織り交ぜ、ここぞと言うときに邪魔を入れ、もうダメかとなれば味方がタイミングよく現われたり、我に不可能は無しの超人や正義の味方や極悪非道の者が現れたり、また憎たらしいのや優しいのを所々にちりばめて登場させて、その変化刺激の多いストーリー展開をしながらも目出度く終わります。
まさしく変化刺激の人生の縮図を大掛かりに装飾して見せている形ですが、それらの変化刺激を意図的に織り交ぜる中のワクワク・ドキドキ・トキメキはいいものとしても、イライラ・ムカムカ・ムンムン・ゴチャゴチャ・クドクド・ケンケンしていて、それが意地悪で憎たらしく、またどうしようもないくらいガチガチに頑固固守していて、それらに醜いほどに執着しているシーンが過度に繰り返されると嫌気が出て、視聴率アップのための変化刺激を超えた馬鹿らしさが出てきて、もういい加減にしてくれとばかりにスイッチを切ります。
また史実実話に基づくものであっても誇張拡大装飾していますから嘘になりますし、此れまでの現実を収録描写したドキュメンタリーに魅せられるのも「良いとこ取り」して短縮しているからにすぎません。
だから今の私の生き様を短くカットしたら飽きずに見られますが、一日24時間をそのままに見せたら30分も見ないでしょう。
しかしそれを現実に10年間以上続けられているのは「何か!」あるからです。
だから私の所に来て数時間くらい居てもその真価は味わえません。
また既にその真価を味わえる意識になっていなければ三日坊主で終わりまた元の生活に戻ることになるかもしれません。
だから自己縮小の形になるにも(街中や田舎であれ)、その自己縮小に納得確信できるだけの意識力精神力・自力自信を既にもっていなければ無理かもしれません。
またその自己縮小の実践に確信があっても映画ドラマのように「良いことをするのを邪魔する」形がありますから、これまた映画ドラマのように目出度く終わる事にならないかもしれません。
ところがその映画ドラマではなくして、事実・現実にしてそれが「自分に課せられた事実」と認識していれば、これまた映画ドラマのように「終わりよければすべて良し」の結果に向かってまい進し、立ちはだかる邪魔を乗り超えて進むはずです。
ところで、テレビを見ることが減ればその分だけ野外に出ていたり夜空の星や月を眺める事になったりしますが、そこでキジやヤマドリや様々な小鳥やウサギやリスやハクビシン・イノシシ等と出くわしたりして、自然界で生きていることが味わえたりします。
また古い事例では(私にご縁のある)オーストラリアに巨大隕石が落下したときの大気圏突入の直後が見られたこともあります。
また月信仰に縁がある私だけに今年10何年ぶりかで月が一番大きく見えるスーパームーンやまた一ヶ月で二度の魚座の満月(私は魚座です)になるブルームーンも、前もって知っていたわけではなくて後日に知ったことですから、成り行き任せの必然ご縁からして既に見ていたのです。
また昨日はクリスマスツリーに飾る豆球の大きさの発光体が3m先の草むらの中で約5秒間隔で青白く繰り返し点滅していましたが、一昨年は7回見ましたが去年は一度も見ていません。
と言うように暇で退屈する時間を趣味嗜好娯楽で過ごしたりテレビに釘付けになるよりも摩訶不思議に遭遇する率が高いわけです。
そして世間的な自己満足よりも摩訶不思議の事実に遭遇するその自己満足のほうが値打ちがあります。
そして世間的な生活から離れたほうが気疲れせずに呑気気楽であり、その暇で退屈する時間が危険度の少ない安心安全にもなっているし、おまけの摩訶不思議が見れるし、更に人間に課せられた役割使命を果たす道筋にもなっています。
だからこれ以上のものや形を欲しがり求めることにはなりませんが、出来ればお陰さまとお互いさまの意識の人との必然ご縁を待つことになるのです。
まさしく変化刺激の人生の縮図を大掛かりに装飾して見せている形ですが、それらの変化刺激を意図的に織り交ぜる中のワクワク・ドキドキ・トキメキはいいものとしても、イライラ・ムカムカ・ムンムン・ゴチャゴチャ・クドクド・ケンケンしていて、それが意地悪で憎たらしく、またどうしようもないくらいガチガチに頑固固守していて、それらに醜いほどに執着しているシーンが過度に繰り返されると嫌気が出て、視聴率アップのための変化刺激を超えた馬鹿らしさが出てきて、もういい加減にしてくれとばかりにスイッチを切ります。
また史実実話に基づくものであっても誇張拡大装飾していますから嘘になりますし、此れまでの現実を収録描写したドキュメンタリーに魅せられるのも「良いとこ取り」して短縮しているからにすぎません。
だから今の私の生き様を短くカットしたら飽きずに見られますが、一日24時間をそのままに見せたら30分も見ないでしょう。
しかしそれを現実に10年間以上続けられているのは「何か!」あるからです。
だから私の所に来て数時間くらい居てもその真価は味わえません。
また既にその真価を味わえる意識になっていなければ三日坊主で終わりまた元の生活に戻ることになるかもしれません。
だから自己縮小の形になるにも(街中や田舎であれ)、その自己縮小に納得確信できるだけの意識力精神力・自力自信を既にもっていなければ無理かもしれません。
またその自己縮小の実践に確信があっても映画ドラマのように「良いことをするのを邪魔する」形がありますから、これまた映画ドラマのように目出度く終わる事にならないかもしれません。
ところがその映画ドラマではなくして、事実・現実にしてそれが「自分に課せられた事実」と認識していれば、これまた映画ドラマのように「終わりよければすべて良し」の結果に向かってまい進し、立ちはだかる邪魔を乗り超えて進むはずです。
ところで、テレビを見ることが減ればその分だけ野外に出ていたり夜空の星や月を眺める事になったりしますが、そこでキジやヤマドリや様々な小鳥やウサギやリスやハクビシン・イノシシ等と出くわしたりして、自然界で生きていることが味わえたりします。
また古い事例では(私にご縁のある)オーストラリアに巨大隕石が落下したときの大気圏突入の直後が見られたこともあります。
また月信仰に縁がある私だけに今年10何年ぶりかで月が一番大きく見えるスーパームーンやまた一ヶ月で二度の魚座の満月(私は魚座です)になるブルームーンも、前もって知っていたわけではなくて後日に知ったことですから、成り行き任せの必然ご縁からして既に見ていたのです。
また昨日はクリスマスツリーに飾る豆球の大きさの発光体が3m先の草むらの中で約5秒間隔で青白く繰り返し点滅していましたが、一昨年は7回見ましたが去年は一度も見ていません。
と言うように暇で退屈する時間を趣味嗜好娯楽で過ごしたりテレビに釘付けになるよりも摩訶不思議に遭遇する率が高いわけです。
そして世間的な自己満足よりも摩訶不思議の事実に遭遇するその自己満足のほうが値打ちがあります。
そして世間的な生活から離れたほうが気疲れせずに呑気気楽であり、その暇で退屈する時間が危険度の少ない安心安全にもなっているし、おまけの摩訶不思議が見れるし、更に人間に課せられた役割使命を果たす道筋にもなっています。
だからこれ以上のものや形を欲しがり求めることにはなりませんが、出来ればお陰さまとお互いさまの意識の人との必然ご縁を待つことになるのです。