孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

日々の生活を短縮して大掛かりに装飾すれば映画ドラマ小説になる。

2012年09月30日 | Weblog
私がテレビ離れしてから相当経ちますが、暇で退屈している関係から「ギャオ」無料映画・ドラマを見ていますが、興行収入や視聴率目的に制作されていますから、ありえない展開やアクションがあったり、所々に愛情やヒステリーの喜怒哀楽やセクシーを織り交ぜ、ここぞと言うときに邪魔を入れ、もうダメかとなれば味方がタイミングよく現われたり、我に不可能は無しの超人や正義の味方や極悪非道の者が現れたり、また憎たらしいのや優しいのを所々にちりばめて登場させて、その変化刺激の多いストーリー展開をしながらも目出度く終わります。

まさしく変化刺激の人生の縮図を大掛かりに装飾して見せている形ですが、それらの変化刺激を意図的に織り交ぜる中のワクワク・ドキドキ・トキメキはいいものとしても、イライラ・ムカムカ・ムンムン・ゴチャゴチャ・クドクド・ケンケンしていて、それが意地悪で憎たらしく、またどうしようもないくらいガチガチに頑固固守していて、それらに醜いほどに執着しているシーンが過度に繰り返されると嫌気が出て、視聴率アップのための変化刺激を超えた馬鹿らしさが出てきて、もういい加減にしてくれとばかりにスイッチを切ります。

また史実実話に基づくものであっても誇張拡大装飾していますから嘘になりますし、此れまでの現実を収録描写したドキュメンタリーに魅せられるのも「良いとこ取り」して短縮しているからにすぎません。


だから今の私の生き様を短くカットしたら飽きずに見られますが、一日24時間をそのままに見せたら30分も見ないでしょう。
しかしそれを現実に10年間以上続けられているのは「何か!」あるからです。

だから私の所に来て数時間くらい居てもその真価は味わえません。

また既にその真価を味わえる意識になっていなければ三日坊主で終わりまた元の生活に戻ることになるかもしれません。

だから自己縮小の形になるにも(街中や田舎であれ)、その自己縮小に納得確信できるだけの意識力精神力・自力自信を既にもっていなければ無理かもしれません。


またその自己縮小の実践に確信があっても映画ドラマのように「良いことをするのを邪魔する」形がありますから、これまた映画ドラマのように目出度く終わる事にならないかもしれません。

ところがその映画ドラマではなくして、事実・現実にしてそれが「自分に課せられた事実」と認識していれば、これまた映画ドラマのように「終わりよければすべて良し」の結果に向かってまい進し、立ちはだかる邪魔を乗り超えて進むはずです。


ところで、テレビを見ることが減ればその分だけ野外に出ていたり夜空の星や月を眺める事になったりしますが、そこでキジやヤマドリや様々な小鳥やウサギやリスやハクビシン・イノシシ等と出くわしたりして、自然界で生きていることが味わえたりします。

また古い事例では(私にご縁のある)オーストラリアに巨大隕石が落下したときの大気圏突入の直後が見られたこともあります。

また月信仰に縁がある私だけに今年10何年ぶりかで月が一番大きく見えるスーパームーンやまた一ヶ月で二度の魚座の満月(私は魚座です)になるブルームーンも、前もって知っていたわけではなくて後日に知ったことですから、成り行き任せの必然ご縁からして既に見ていたのです。

また昨日はクリスマスツリーに飾る豆球の大きさの発光体が3m先の草むらの中で約5秒間隔で青白く繰り返し点滅していましたが、一昨年は7回見ましたが去年は一度も見ていません。


と言うように暇で退屈する時間を趣味嗜好娯楽で過ごしたりテレビに釘付けになるよりも摩訶不思議に遭遇する率が高いわけです。

そして世間的な自己満足よりも摩訶不思議の事実に遭遇するその自己満足のほうが値打ちがあります。

そして世間的な生活から離れたほうが気疲れせずに呑気気楽であり、その暇で退屈する時間が危険度の少ない安心安全にもなっているし、おまけの摩訶不思議が見れるし、更に人間に課せられた役割使命を果たす道筋にもなっています。

だからこれ以上のものや形を欲しがり求めることにはなりませんが、出来ればお陰さまとお互いさまの意識の人との必然ご縁を待つことになるのです。

人が集まって良いこともあれば悪いことにもなる事実がこの世です。

2012年09月29日 | Weblog
己が進む精神世界に人様を巻き込むことなく、また人様が集い集まる必要も無く、己の自力と自信でもって独自独歩に歩むことを書いていますが、此れが基本と言ってもいいでしょう。
何故ならば人が集まって良いことも有れば悪いことにもなる事実が多くあるからですが、先ずは他と比べ合って差を付けたがる比較競争差別意識が出てきます。

また大勢の人が集まることでの安心感や信頼感からして(油断して)その心に隙間が出来てそこへ邪な意識が入り込むことがあります。
それがいつの間にやら思い込み洗脳されていたり自己陶酔していたりして指導者の思うがままに操られているのにその是非の分別が付かなくなって盲信状態に陥ることがあります。

また似たような者が同じような格好をして大勢集まっているのを外部の者が見ると異様な感じに見えたり、また洗脳集団に見えますから、その見掛けだけで否定反発・排除したがる警戒心・敵対心まで待たれることがあります。

例えそこまで行かなくても、多数が同意しているので断りづらかったりして寄付や奉仕や布教活動することになったり、その反対に自分が率先するもまだ同意していない者を白い目で見ている自分が居たりします。

またそれがアリガタイ物品だったりお布施だったり御札だったりもします。
とにかく最初は不信感を持っていたのにいつの間にやら盲信・洗脳状態になるのが精神世界の人が集まるその集合意識の危ないところです。

何で人が集まるのか? 自問自答してください。
何らかの「欲」を持っているから集まるのです。
その欲の中にプライドを保つことや人格を高めるための欲も含まれますが、まず(思惑期待理想目的)(他力依存本願祈願)(安心安全を得たい)欲の無い人が人様の集まる所に行くはずがありません。

人類有史以来の宗教や精神世界で人が大勢集まったことで(裏の無い)良かったことが一つでもありますか? また自問自答してください、
概ねながら、欲張り無理し無駄にして余計なことをした結末で終わっているのと、まだ途中結果であっても同じ結末になるはずですし、また人気集めの誇示拡大主張や人集め金集めの勢力拡大や仲間同士の争い派閥抗争や侵略・略奪・人殺し・集団殺人・集団自殺・闘争・戦闘・戦争になっています。

それ以外にも自然環境や人間関係・家族関係の破壊崩壊につながっています。

何たって矛盾する不完全からして、薬にもなるが毒にもなるし、その毒が薬になってもその薬がまた毒になるその矛盾の繰り返しがあるのがこの世です。
だからその宗教思想や真理が如何に優れものであっても、それを学び教える不完全意識の人間界に「絶対・完全」が無いのですから、そこで人様を巻き込まないためにも、また反対に巻き込まれないためにも、独自独歩の歩みが基本になるのです。

自己縮小の実践を味わうにはやはり世間離れした生き方しかないのかもしれません。

2012年09月28日 | Weblog
人間の意識は一つしかありません。
だから概ね複数の中の一つを選択することになります。
しかし一つの意識であっても二つ三つと使い分けることが出来ます。
そして上手く行っている方に主体を置いて後の方は手加減することは出来ます。

私は遊ぶことが大好きでしたから、その遊びも二つ三つ持っていました。
そして目新しい遊びや仕事が気に入るとそれに集中しますから、此れまでの遊びや仕事が次第に面白さに欠けていきますから、当然ながら疎かになりいつしか自然消滅していきます。

だから仕事も最初は家業の米屋だけでしたが牛乳販売を兼業でやるようになり、また好きで遊んでいたビデオを事業として始めましたから、合わせて三つの仕事を掛け持ちでやっていました。

その成り行き任せの必然とご縁からしての遊び感覚の田舎暮らしが、いつの間にやら家族や仕事から離れての月5万円の年金暮らしが本格的に始まりましたが、その頃には既に「此れしかない!」と完全真理一筋になっていました。

すなわち、遊びも仕事も目新しいもの一本やりに乗り換えていたのがビデオに収まり、そのビデオの縁から紹介された過疎地の廃屋が現在の住居ですが、それも元は田舎暮らしに憧れていた(嫁いだ)娘のために探していたものであり、完全真理にめぐり合ったのもその娘が縁です。
だから必然ご縁の成り行き任せであっても一つのレールに乗ったが如くに仕組まれた結果が現在です。
だから先程に書いたような、同時にある複数の中から一つ選択した結果とは違っています。


ところで、先ずは精神世界で生きることを意識して暮らしているのと、先ずは生活の安定を意識して暮らすのとはでは、自ずとその結果が違ってきます。
そして精神世界で生きることを意識すれば当然ながら現実離れした生き方になるのが此れまでの形でしたが、完全真理なら日々の生活の中で実践が出来ます。
ところが真理では食っていけないことからしてどうしても世間一般的な生活パターンが優先されますから、実践は二番煎じ三番煎じとなり、完全真理を意識することさえ疎かになるかもしれません。

だから完全真理を知っているだけの人よりも信仰宗教や超能力者や霊能者に夢中になって、世間的な恋人や家族やの人間関係から離れている人のほうがその喜びに満ち溢れている、その事実があります。

しかしそれが自己満足で終わるのも精神世界の落とし穴であります。


しかし完全真理には良いも悪いもありませんから、薬にも毒にもならずに肥やしになるだけですから夢中になったり落ち込んだりはしません。
もしもぞんな山や谷を味わうようであれば、それは完全真理の実践ではなくして信じるか否かの不完全な信仰意識の状態になっているはずです。

ところがしかし、その薬のような良い効き目が無ければ真理の実践が疎かになるのも事実にあります。
すなわち真理の実践が先にあるのではなくして「良いとこ取り」意識が先立っているのが一般的なのです。
だから次々と良いことが起きなければ(過去のお陰さまが消えて)実践意識が薄れて(何か不都合が続くと)やがて完全真理から離れていきます。

ところが私の場合は完全真理を学び知りその実践からして世間離れした生活になっているのではなくして、また「良いとこ取り」意識からして現在があるのではなくして、また持っていたものをわざわざ捨てたのではなくして、成り行きで消滅したその結果が自己縮小の形になっていて、それを既に味わっていただけのことです。
だから「此れしかない」とまでの自信確信になったから、こうしてブログを退屈しのぎに数年書き続けています。

と言うことはやはり自己縮小の実践を味わうには世間離れした生き方しかないのかもしれないし、何処で実践していようが自己縮小すれば世間離れした生き方になるのは避けられないのかもしれません。
しかし信仰宗教のように世間離れした上に組織形式に縛られることが無いから、こうして独自独歩の自由があるのも味わい深いところかもしれません。

自力と自信が無ければ成り行き任せに意味(必然)がありません。

2012年09月26日 | Weblog
普段の生活をしている中に多くの矛盾を抱えている事に気付いていない人も多いと思っています。
例えば楽にしていたいが、しかし生活を豊かにした。
自由に生きたいが、しかし結婚して家族を持ちたい。
仕事を怠けたいが上司に認めてもらいたい。
家事を手抜きして身奇麗に遊びたいが生活を疎かにはしたくない。

他にもいろいろとありますが、二兎追いかけて二兎捕えることは絶対に無理です。
そこで何れかを選択するようになりますが、その時に出てくるのが見栄や世間体のプライドですから、無理しながらもカッコよいほうを選びます。
そしてその(二兎を追う)矛盾する思いを持ったままに生活する事になります。
また中には他力を使って成そうとしたり神仏祈願することにもなっています。


ところで私は概ね成り行き任せにしていましたから自分の中では何の問題も無いのに、私の周りの人が問題を出してそれに私が巻き込まれることが多くありましたが、それさえも成り行きに任せていても、そんな私を物足りないと(薄情と)矛先が私に向いてくることもあります。
だからこの世で生きているからには、(成り行き任せの)自分ひとりの問題だけではなくて、人様の意識の問題に巻き込まれる現実を多く味わってきたのです。

またそれだけに私の意識が原因で人様を巻き込むことが無いように常に平常心でいることになりますから、それが成り行き任せにもなるのです。
それだけに尚のこと、その人間関係がお陰さまとお互いさまの調和の時代になることに期待しているところがあるのです。

このように書くと、私が正しいとなり、それを裏付けるが如くに正当化していると思われるかもしれませんが、過疎地での単身生活の自由と孤独を味わっているからこそ(此れまでに多くの裏と表を味わったこともあって)気付いたことですから、私の中では偽りの無い事実になっています。

だから過去のカッコよさに見切りをつけてまでも現在の自由と孤独の暇で退屈している生活を続けられることにもなっているのです。

すなわち二兎追うことには無理がありますし結果的には余計なことをして無駄に終わりますから、そこで見栄や世間体を気にしてカッコよく生きるのをやめて自己縮小に進むしか道はありません。
その自己縮小に他の者を道ずれにすることには無理がありますから独自独歩でやるしかありません。

ところがそうなると此れまで一緒に自己拡大してきた身近な人を巻き込むことになりますから、理解されないと必ず反対されます。
その反対を無理に押し切ってやるとインチキ宗教に入信したが如くに思われて猛反対されたり別居離婚疎遠になるかもしれません。
そこで理解を促す説明がなされますが、概ね聞く耳がありませんから、それも無理で無駄なことになるかもしれません。
すなわち成す術も無くて概ね成り行きに任してほっとくしかありません。
その後の頼りは「この世は意識が原因の結果」ですから、他力をあてにしないで自力と自信の精神力・意識力を身に付ける実践になります。

その他力をあてにしない自力と自信が無ければ(意識が原因の必然ご縁の)成り行き任せの意味(必然)が薄れてきます。
その他力をあてにしない自力と自信の精神力・意識力がこの先の世間的な有事や真坂の有事にも必ず活かされます。
その意識力があの世といわれる意識だけの世界へ逝っても活かされます。


この世の悲喜劇ストーリーの幕が閉まって新たな夜明けの幕開けが始まるのです。

2012年09月23日 | Weblog
以前に「神こそが諸悪の根源」と鋭い見識見解のコメントを書き込んだ人がいました。
その時に私は一理あると思いました。
何たって良い悪いで判断する人間を地球に創造したのが神だからです。

その人類創造の神代の時代でも善と悪と言われる者が互いに殺し合うことが続いていましたし、釈迦やイエスやの神に仕える者と言われる輩・類が何人現れても、その神の召使を含めた人間同士の殺し合いが続きましたし、勝てば官軍で負ければ賊軍の正義や聖戦と言われる殺し合いが未だに続いています。

その神の召使が(ミイラ取りがミイラになって)残した数々の教えが聖書経典となってそれが宗教化され、その宗教のための人集め金集めの布教・勢力拡大に加担された信者も多く、しかも異端者やサタンや魔女や異教徒と決め付けて悪者仕立てにして滅ぼすその人殺しの手伝いまでさせられていますし、また古今東西の熱心な信者が(神を信じたがために)支配者や勢力者に弾圧迫害殺害されたりしていますし、その弾圧されている者達が反乱決起して多くの人を巻き込んだりもしていますし、反対に神を信じていないと迫害されたり排除される場合もありました。
また我が神や宗教やその創始者を侮辱したと怒り立つ無茶な信者を作ったのも、またハーレムのような生活をする教祖や集団自殺をする教団やオウム真理教のような類が出てくるのもその宗教の神やその創始者の邪な思いが込められていたのが原因になります。

ところが、全知全能の神やその神の召使やであればそんな悲惨な事になる可能性を十分に予測予知できたはずだから、前もってその神やその宗教の創始者らがその予防を講じた(完全真理のような)説教が成されていて当然なのに、何故か抜け落ちています。
すなわち此れほどまでも完全な仕組みの宇宙(この世)を創造する事が出来るのに何で人間の意識を不完全にしたのでしょう。

その不完全意識がゆえに、神仏を説く宗教家が言うところの生きながらにしての極楽浄土どころか、いたる所で悲惨な悲劇が繰り返し続いています。
その原因は不完全意識の人間にありますが、その人間を創造した神が諸悪の根源と言われても仕方がありません。

しかし偶然にして地球人類が存在しているのではなくして、全知全能の宇宙・神の完全な愛の仕組みの必然からしてこの世があるからには、それら悲喜こもごも・喜怒哀楽を味わう人間に課した絶対的な役割使命があって当然になります。
そうでなければこの世に不完全な人間を創造した必然の意味が無いからです。


そこで毎回のように説明しているように「完全意識&神意識の世界」には不完全意識が原因の悲喜こもごもの喜怒哀楽がありません。
だから創造された人間が代理・代表・役割使命としてその不完全意識をいやになるほど味わっているのです。
だから時代が進むほどに複雑怪奇な矛盾だらけの世の中になっています。

ところがその「役割使命」が宇宙時間切れで終わる必然の仕組みがすぐそこまで迫っています。
そして次なる新たな仕組みが既に始まっています。
だから矛盾も妥協も無い完全真理が説かれることにもなったのです。

そしてこの世で生きながらにして極楽浄土を味わえなかったけれども、その人間としての役割使命を果たした者達(意識)が次元上昇の仕組みに乗るようです。

すなわち全知全能と言われる完全なる宇宙の仕組みの中の「始まり終わる」進化のその時が来ていると言うことです。
だからこの世の悲喜劇ストーリーの幕が閉まって新たな夜明けの幕開けが始まるのです。

巷の神仏霊魂の他力では大したことないし、いったい私たちはどうすればいいの?

2012年09月22日 | Weblog
完全真理を知ったことからして、此れまでの釈迦やイエスやその他の開祖・教祖などの教えが如何に不完全でお粗末な結果になっているかを知ったわけです。
何たって未だに宗教同志が勢力争いや内部抗争しているし、過激な行動を正当化しているし、戦闘さえも正義や聖戦として正当化して殺しあうことが続くのですから、まったくどうしようもないわけです。

また勢力拡大のために人集め金集めが目的のようになり、なんだか宗教家のために精神世界があるようにもなり、また特別に奉った偶像崇拝があったりするから多くの人が宗教離れしたり、そんな神仏に不信感を募らせていますから、宗教とは違う真面目な精神世界やその真実事実を語る真理の話さえ早くも拒否反応を示して逃げ腰になる人が大勢います。

ところで最近知ったことですが、一日に13万人もの人が訪れていると言われる伊勢白山道なるダントツトップのブログを知ったのですが、現在は日々3万人ですが、それだけ人気があるのならば何か素晴らしいことや目新しいことが書かれているのかと期待したのですが、幾つもの過去世を記憶に留めたままにこの世に生まれてきたとかで、その霊力からして見えない霊界のことを明解に回答しているのですが、あまりにも馴染みにくい古臭い神代の時代を持ち出してるし、霊視したことに己の想念が入ることを知らないのか?その霊視したことが必ずしも事実とは言えない不完全さがあるのに、如何にも私は正しいとばかりに絶対的な書き方が多くありました。

しかも内容が宗教的ですから、やはり信じるか否かの不完全さがあるのに、あれは良いがこれは悪いと否定反発して私の霊視は正しいとばかりに主張しているのですから、良いことも書いているがそれが反対に悪いことにもなるという、使い方によっては薬にもなるが毒にもなるという矛盾が目立ちました。

そんな中に人集め金集めの信仰宗教や有料霊能者や有料先生などの金銭がらみの不完全な形に係わらないほうが無難なことの事実をきっちり説明されていることには私も納得済みですから違和感はありませんでした。

しかしどう見ても情報過多ですから初心者や中途半端な精神世界を知っている程度ではかえって複雑怪奇になり不安心配が増すかもしれません。
となると伊勢白山道が他の有料霊能者や宗教家を邪なものと書いているのと同じく、不確かなことを事実のようにして大勢の人を惑わす邪な輩になります。


このように完全真理を知っていることで様々に説かれている精神世界をきっちり見極められることはほんとうにありがたいことです。

巷の信仰宗教や有料霊能者や有料先生方や人気のある霊能者の説教の中に不完全があり、しかもそれを説いている人の想念も不完全丸出しですが、しかしそれらに魅せられる人が大勢いるのも事実ですから、私にすれば何で完全真理につながらないで、何かと思い惑わされる不完全な方向性に引っ張られて行くのか不思議にもなるのですが、それもやはり前世からの(学びの)因縁があるのかもしれません。

そんなことからして言えば、このブログの完全真理に引き寄せられている人は必然ご縁の仕組みが働いた事になるのですが、如何に完全とはいえその完全真理を自分のものにしないままに他に魅せられ引っ張りこまれることにもなるかもしれません。

その多くがやはり超能力や霊力とかの他力的な摩訶不思議に魅せられる信者意識や他力本願的な思いを持っていたりする人なのですが、その自力自信の無さに原因があると思われます。

それを裏返すと信仰宗教や精神世界にご縁がある人は自力自信が弱い人であったり、また情報過多で整理が付かずに迷い混乱している(神探し)人であったり、潔癖完璧からして私が正しいと正義感のように主張できる形を求めていたり、また感情豊かで、心優しく、情熱を秘めた人や真面目過ぎて洗脳されやすい人や自己陶酔しやすい(はまりやすい)性格タイプかもしれません。

だから私のように知りたがる好奇心からいつの間にやら精神世界・完全真理につながる人は少ないと思っています。

しかし神界・霊界・精神世界・人間界のあれこれを知ったとしても、その神仏霊魂や超能力や霊力の他力では大して変わらないし、そうかと言って自力も力不足ですから、これからいったい私たちはどうすればいいのでしょうか?
何か思案・試案・私案があれば教えてください。

人間として生まれてきたことを<無駄>にして「死する」のですか?

2012年09月21日 | Weblog
自己満足に趣味嗜好娯楽がありますが、その自己満足から離れる事になるとその分だけ時間的にも金銭的にも余裕が出てきますので、他力をあてにしないで自力で成すことに都合が良くなります。
その余裕と自力でもって成すことで新たな自信が出てきますし、その自力と自信の積み重ねから成す事があれば今を生きていることを実感する事になります。

その余裕と自力と自信からして身近な家族と接することにもなりますから、それでもって平穏な家庭生活が続くようになればいいのですが、ところが家族肉親といっても個性性格(意識)は人様々に違っている事実があります。
だから絶対的に足並みが揃わないのです。
だから結果的に自分のことが優先されることにもなるのです。

しかもその家族の中に一人でも不機嫌な者がいればそれが家族全体に影響しますから、何かしら気まずい雰囲気が漂う中で一緒に居ることになります。
だから皆揃っての家族団らんが有るようでも中身は不完全なだけに、実質は不調和の家族団らんになります。
それは家族団らんを装った(ぼろ隠しの)見せ掛けであり、不調和を気にしないように装った(自分を偽った)家族団らんになります。

しかしそれでもいいではないかと納得することも出来ますが、しかしその不調和は出続けます。
それでもいいのでしょうか? あるがままで気にせずにいられるでしょうか? それともやはり我慢するしかないのでしょうか? それが家族ということなのでしょうか?


私は夫婦喧嘩ばかりしている両親を見て育ってきました。 
そこで私は家族円満に暮らすことを優先してきました。
しかし土台無理なことであり、結果的には無駄なことや余計なことを繰り返していた事実と、その結果が今の私です。

何故ならば、家族と一緒にいる限りにおいて、自分・自力だけでは(力不足と言うよりも)どうすることも出来ないのです。
しかも皆も同じく自分だけの事ではすまされなかったのです。
すなわち一蓮托生の協力し合う関係なのに皆がそれぞれに自分さえ良ければの個人意識・不完全意識を持っていることに原因があったのです。
だからどうすることもできないのです。

また私が如何に家族思いであっても、その家族を連れてあの世へ行けるはずもありません。
また家族が私思い(親思い)であっても、その家族が私を極楽浄土に連れていくことは出来ません。
また親思い子思いの意識でもって(頭の中で)思い続けそして言い続けるだけではそれが事実の結果になることは絶対にありません。

また人様家族のことを思って成すことのその意識そのものが自他共に不完全なだけに、その成すことが余計なことや無駄なことになる事実があるだけに、やはり自らが先に完全真理の実践をするしかないとして、その自覚確信からして今があるのです。
それよりも他に名案があれば教えてください。

精神世界・完全真理を知ったからには(私としては)この世に人間として生まれてきたことを<無駄>には出来ません。
だから不完全意識であっても神意識・愛意識の完全意識になっていくその実践を続けていなければ人間として生まれてきたことが意味を成しません。

だからこそ孤独にして生まれ、その孤独にして死ぬ時が来るのです。
だからこそ他力に頼ることなく自力と自信の独自独歩で歩むしかありません。
だから(人様に関係なく)(私が)どう生きるかしかありません。
だから(私の命を無駄にしないために)自己縮小を続けるしかありません。
それ以外に何がしの方法や選択があれば教えてください。

暇で退屈な時間をボケーッと呑気にしているほうが精神的には得策です。

2012年09月20日 | Weblog
私が過疎地に移住してからヤギや鶏を放し飼いにしていましたが、それも自己満足の類でしたから、その必然性が薄いのに面倒ばかり多く掛かりました。
今はその残骸・形跡の撤去をしているのですが、頑丈にしていただけにその撤去も苦労しています。
その収益性もないのに牧場並みの広さの頑固な鉄柵や防護網を施していましたから、今思えばその経費も積み重なって相当な額になっていますし、また自力でコツコツとやっていたその時間的な無駄も大きなものがあります。

それをやり始めたころは暇で退屈しているのだから、その時間をヤギや鶏の面倒に使ってもいいではないかと正当化していたのですが、しかし暇で退屈だからとヤギや鶏のために何かと思い考え創意工夫しての外敵からの防御やその世話を続けていたことが結果的には気苦労の連続だったのです。
それが自己満足と不平不満の苦楽の繰り返しとなり、またそれが生活の中の変化刺激になっていたのです。

だから暇で退屈な時間を必然性のない余計なことをして無駄にすることよりも、その時間をただボケーッと呑気にしているほうが精神的には安定している事に気付いたのです。
だからこの場合も欲張って無理をしない、余計なことをしない、無駄になることをしない、と書くことにもなるのです。

また地デジ化した際にテレビ離れしたのも同じ理由からです。
だから過疎地で呑気に暮らしている中にもまだ気苦労をしていた事になります。
しかしそのボケーッとしていられないのも私ですから、やはりブログを書く事とパチンコに行くことが多くなるのです。

こんなことを書くと、何でそこまで自己縮小するの?と思うかもしれませんが、大の元は小にありますし、気疲れ気苦労に大も小もなくて同等ですが、それが更なる苦につながるのか、それとも(気付きから)執着しないで終わるかの違いがあるだけです。
だから何かと気付く為にも心の余裕・時間の余裕・落ち着き→呑気さが必要なのです。
またその余裕の意識が変化刺激のないあの世やまた新たな来世にもつながり役立つと確信しています。

人の思い(想念)のその「集合意識」がこの世を揺り動かしています。

2012年09月19日 | Weblog
私には音楽・陶芸・絵画などのセンスがないことからして創作・芸術的なことや伝統芸能や風習的なことも、また思想哲学・心理学・精神学などの学識学問や文学的才能もまったくなく、また遊ぶことは好きでもスポーツや体力的なことになれば自信がありません。
だから暇で退屈しているのに成す術もない有様です。

ところで霊能者とご縁があったときに、人の「想念」がこの世を大きく揺り動かしていることが言われていましたが、それを完全真理では「集合意識」と言っています。
その想念・集合意識に敏感なのが超能力者や霊能者でもあります。
だからそれらの人に予言・予知能力もあるわけです。

その集合意識を高めているのがテレビラジオの報道や新聞や週刊誌などの記事ですが、今ではインターネットが大きく影響しています。
だから大きな災害や事件事故が起きたときにその集合意識も高まります。

そしてその集合意識が良い方向性にも悪い方向性にもなるのがこの世です。
だから防災意識が高まって良いことにもなるが、裏では不安心配恐れを持つことになりますから、その表と裏の集合意識が高まります。

ところが良いことよりも悪いことに意識が集まるのがこの世の常でもありますから、その防災意識の不安心配恐れが原因で、それらから防御・守り戦う敵対意識を強めます。

また最近では「領土問題」で近隣諸国が反日感情で騒いでいますから、その騒ぐ側もそれを受ける側にも不愉快な感情(敵対意識・防御意識)が日々高まっています。

だから、ただでさえ危なっかしい状況になっているのにそれに輪をかけたようになっていますから、多分ながら此れまで以上の様々な有事が吐出する事になるかもしれません。
しかしそれも成る様になっていることですから止めることは出来ません。

そんなことからして私は情報過多の現代を危惧しています。
と言うのも情報が集合意識を高め、それが思い込み洗脳や自己陶酔につながる一面があるからです。

また物まね模造犯罪事件を引き起こすきっかけの一押しになったり、また悲観的な人にも大きく影響して絶望的になったりしてやけくそ意識が高まります。
すなわち第一次に限らず、第二次や第三次と次なる予備軍を持ち上げたり広がることになる、その事実を知っているからです。

だから表に出てきた結果の氷山の一角よりも水面下に潜んで広がっているものを危惧するのが私ですから、今表れて見えているのは前兆であってまだまだ大きく現われ出てくることも予測できるわけです。

それだけに(どうすることも出来ない)結果よりも、その原因意識のほうに私の意識が使われます。

そしてこの世は意識が原因のその結果形が出て見えているだけというその事実を自覚確信納得することにもなっているのです。
そして毎度の如くに、その不完全意識からは同じ不完全な結果が出ることを書き続けることにもなっています。

そしてまた、この世のことは「どうしようもない」と書くわけです。
しかし何とか出来そうなのが「自らの意識」を変革改革することです、と毎度同じ事を書くわけです。

私の自己拡大の裏表と自己縮小の裏表の両方の事実を書いているつもりです。

2012年09月18日 | Weblog
私に超能力や霊力があるわけでもなく、また信仰宗教の教師でも信者でもなく、世間的な生活の中に成り行き任せの生き方があり、その中に人様より先んじたことが後に一般的に普及したという形が多くあったくらいですから、すべては成り行きから始まりいつの間にやら成った形ですから、私の中に優れた特別能力はありません。

また成り行き任せも個性から出ているだけであって私の中では当たり前になっていますから、此れまで欲張り無理をしてきた思いも少なく、また自己満足することが多くあっても不平不満に満ちた生活をしてきた思いもないからことからして十分満足しています。
だから不安心配になったこともなく、ただ冷静な中で一時的に腹立ち怒りになったことが此れまでに3回あります。

だから今までに真に迫る困った思いをしたこともないし、まして我欲から困った事になるはずもありません。
だから何か事が起きても自力で難なく解決しています。
何故なら自分の中で無理していることが無いからです。
そしてそれ以上が無理だとなるとそこであっさり諦めて離れています。
だから成り行き任せが続くのです。

そんな私が書くブログですから、変化刺激過激もなく、飴とムチの使い分けもなく、また否定反発することもないから(特別な薬にも毒にもならずに)精神世界を知る肥やしになっているくらいです。
そして「信じるか否か」もないから他者洗脳や自己陶酔の心配もありません。
だから見えない世界・摩訶不思議な世界・精神世界を学び知るのにも安心安全のブログになっています。

しかも私の思惑理想の想像創作提言を書き続けているのではなくして、過去に自己拡大していたその事実と今の現在の自己縮小の実践での事実を書いているだけですから、私の思いを綴っているブログであっても中身は矛盾のない確かな事実になると思っています。

すなわち自己拡大の裏表と自己縮小の裏表の両方の事実を書いているつもりですから、何か矛盾があればその旨を書き込んでください。
と言うのも、世間の中で注目される先生方が書いた文書の中に矛盾不完全があることは容易く見極められますが、私の事を自分では見極められないのが(人様は見えても自分が見えないのが)道理にありますから、もし何か気付いたことがあれば遠慮なく書き込んでくだされば助かります。