孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

必然ご縁から初物を先駆けたことが全て「確かな結果」となり続け、今は「此れしかない!」に到っています。

2011年10月31日 | Weblog
幼い頃から遊んで楽しむことばかりしていたことから学業不振で定時性高校に通い卒業し総合食品問屋に就職することになりましたが、そこで食品業界初の(今では名だたる商品になっている)新食品の販促を手がけたことがあるように、私は初物に恵まれることが多いので、家業の米屋を継いだ時にも日本<初>のネットワークビジネス「スワイプ」(アメリカの洗剤)に取り組んだ経緯があります。

その当時の国産洗剤は泡立ちがよくて量的に多く見える形が消費者に良い洗剤に思われていた関係から、洗剤の中に石灰粉を混ぜれば泡立ち良くなるし見栄えの量も増やせたことから、そのインチキまがいが一般的でした。
しかもその泡立ちが良いことが洗濯の邪魔をしているばかりか洗剤カスが付着して水洗いが長くなり、しかもその残留物が黄ばみの原因にもなっていたのです。
しかしそのスワイプの濃縮洗剤によって日本の洗剤の常識が改革されて(意識改革されて)現在のタイプが新たな常識となった事実があります。

またアメリカ製の低価格で高品質で安全性の高いサプリメントの「個人輸入」ネットワークビジネスも先駆けましたが、それが国内のサプリメントの品質と価格に大きな影響を与えたのも事実です。

また(ファバラのように)分析成分は一般的なのに摩訶不思議な効果効用、すなわち奇跡的結果が出る特殊多機能性健康食品のネットビジネスにも取り組みました。
それが縁となり次には宇宙エネルギーの浄水器にも取り組みました。

その洗剤にしろ、サプリにしろ、特殊健康食品や浄水器もそうですが、ビジネスで儲けることよりも製品に興味を持ったことから始まったことなのです。 だからネットワークを構築することよりも愛用者を増やすために始まったようなものですから、その愛用者が増えたことで収益になったのは事実ですが、その愛用者から感謝されたことになってもクレームになったことは一度もありません。

その愛用者を募るのに難点があったのは、濃縮洗剤も個人輸入も奇跡現象が起きる宇宙エネルギー関連も先駆けだけに一般的に馴染みがなくて不信感を持った人には詐欺まがいに思われますし、少し興味を持った人であっても、その馴染みのない説明をしていること事態が売らんかな主義に思われて不信感を持たれたり、またねずみ講に思われるのがいやで、主に掲示板の情報公開・情報交換でそれら商品を紹介して、それが理解できる人に限られましたが、北海道から沖縄まで様々な会員と多くのご縁がありました。

そして誰もが摩訶不思議なことに興味を持つタイプだったのも事実ですから、その中には私とご縁があった霊能者の「想念の世界」にまで付合いが続いた人も多いのですが、ビジネスと関係ない耕栄さんの完全真理になってからは離れ離れになりました。
・・・摩訶不思議なことにつながる中に歯医者さんが多かったこととロシアの名前が出てくることが多いのも不思議でした。

そんな目新しい初物(第一次のパソコンや釣りブームの先駆けから初期のアクアラング潜水や水中撮影やVTR撮影など)に先んじて取り組みながらも同時に摩訶不思議な世界をもずーッと紹介している形になっています。
そして目新しい初物や外国産に違和感を持つものや、摩訶不思議をインチキカルトに思う人がいたことや、その反対に飲んで良かった、使ってよかったと喜ぶ人がいた過去と同じように、このブログでも目のウロコが落ちたと喜ぶ人や知ってよかったという人が現れていますので、過去から現在までも相変わらずに同じことが続いている格好にもなっています。

と言うわけですが、それらに共通点や一貫性が有って、しかもあれこれと様々なことに取り組んできたことやその取り組みの中で見てきた様々な人間模様(欲望とその人間関係)が今回の完全真理で活かされているのも確かな事実です。
そして絶対とも言える良い結果を出せる代物であっても、それが世間になかなか認めてもらえなかった苦い?思いを経験しているだけに、その不信感に満ちた人間性にも違和感があるし、それが、何で知りたがらないの?何でやろうとしないの?につながってもいるのです。

そして別件で付け加えたいのが、否定反発を含めた「執着」です。
何でそこまでやるの?何でそうなるの?何が得でそこまでするの?何で簡単に終わらせないの?
何でゴタゴタ言うの?何で面倒くさい事を言うの?何で自分でやらないで人に押し付けるの?何で人様まで巻き込むの?
大したことでもないのに何で嫌がるの?何で怖がるの?何で~やったこともないのに?

しかしこのブログに訪れる人は何でも知りたがるタイプだと思います。
そして感性的に気付き目覚めた人も多いのではないでしょうか。
それが必然ご縁のお仕組みのレールに乗ったことになります。

過去も現在も個人意識丸出しの私ですから、それだけに自分が知って良かったことは人にも勧めたくなるのも道理があります。
しかも、知って始めた事が終わる頃には次の新たなことが見つかったりする、その繰り返しの道のりが今の完全真理につながり、それが言葉通りに絶対の完全を解いているのですから、此れしかない!となったのも当然のことです。

しかもその完全真理が説く中にある自己縮小の道のりを(必然ご縁の仕組みで)いつの間にやら無理なく既に始めていたのですから、それが完全真理の理解力の助けにもなり、その実践の必要性も納得確信できるわけだし、またいつの間にやら「しがらみ」から離れる結果になったことで此れまでの不完全な人間関係にも気付き、私としてはまったく申し分のない状況立場になっていたのですから、たとえ名だたる神様に必死に祈願しても此れほどまでは絶対に無理だったことでしょう・・・

その必然ご縁のお仕組みの数々を実際に体験してきただけに・・・欲張り無理したり捜し求めることが無くても、ただ自分にできる事をしていると、必然ご縁で先方から来る格好になる・・・その成り行き任せにすることにも自信があるのです。
そしてそのお仕組みが起きればそれが実際にアリガタイことになっているし、前もって思惑期待しているわけでもないことから、そのお仕組みがたとえ起きなくても、そのままが続くだけですから、それはそれで十分なわけです。
だから必然ご縁のお仕組みが訪れることは(前もって望んでいたことではないだけに)(大した事をしていないだけに)私には「おまけ」みたいなものです。

とどのつまり、何かにつけ欲張らなければ特別な過不足の思いを持つことも無く、それが当たり前の普通になりますから、不平不満も自己満足も無く(苦楽も無く)穏やかに暮らせることです。
その穏やかに暮らすことがどうしても出来ないのであれば、その苦楽を精一杯味わっていればいいのです。
それも「成るようになる」だけですから、それが神仏の性でも人様の性でも無く、その自己責任を自らが納得済みで背負い込めばそれで済むことであり、その死して後の事も成るようになるだけです。

過去のダビンチ以前にもダビンチとなる元が実在し、そのダビンチになるまでの繰り返しが何度かありました。

2011年10月30日 | Weblog
宇宙となる元が有ったから「宇宙」が誕生し進化しているように、その宇宙に元から実在していた意識を持った命(意識体)、すなわち「意識・命」(意識体)が姿形を持って自然界を成し、その自然界の中に人類となる意識・命が居たからこそ、その意識体が進化して今の人間の姿形を持つことになりました。
だからその進化の積み重ねが現在の宇宙であり地球の自然界や人類なのです。

だから人間となる前にも進化の積み重ねがあり、その人間となってからも進化が積み重ねられ、今も進化の道を絶え間なく進んでいますから、今の人間の進化が止まることはありません。

その人間としての進化の過程がいわゆる過去性・前世と言われていますから、その過去性・前世の積み重によって現在の私たちが実在していることにもなります。
だから進化し続けている人間としての姿形・肉体が滅びてもその「意識・命」はそのままに元の宇宙で実在することになります。
それが「あの世」と言われているわけですが、その衣食住の要らないあの世で実在し続け、また必然ご縁の宇宙のお仕組みによってまた新たな姿形を持った意識体が宇宙や地球に蘇ることにもなります。

その人間としての「意識・命」の積み重ねの中に「良い悪い」で判断してきたその積み重ねもしっかり残っています。
また太古の生きていくだけでも苦労していた時代に人間の知恵で創意工夫しながら何とか生きてきた過去性から現在までの幾多の積み重ねもその「意識・命」の中にしっかりと残っています。

そして前回に書いたように、生きるために「食って寝て糞をする」のが当たり前で普通なのに、その普通が不満になり、その普通より上の特別を思い考えて、それを無理して成して来ましたから、その普通の積み重ねと、それでは不足に思う、その積み重ねも同時にしてきました。
すなわち過去性・前世から不平不満と自己満足の繰り返しばかりしてきて、その中心の「普通」のままに止まることがなかったのです。

そして時代が進化するにつれ人間の知恵・能力が急速に発達したのも、現在の地球人類よりも以前の過去性「意識・命」の中にそれら知恵・能力の積み重ねが既に潜在していたからとも言われています。
だから未来がイメージ的に見える形になったり、それら様々な形・道具がイメージで浮かんだり、またそれらを頭脳的に閃いたことを創作したり解明・研究する人たちが、その時代ごとにご縁あって必然で現れ、それもまた繰り返され続けて現在に到っているわけです。
すなわち過去のダビンチ以前にもそのダビンチとなる元が意識体として実在していた事になり、そのダビンチになるまでの繰り返しも過去に何度かあったわけです。

すなわち地球人類が何度か死に絶えてまた蘇るというその繰り返しまでもしてきたのです。
・・・その殆どが「核爆発」によるものと言われています。
すなわち始まり終わり、そしてまた始まり終わる、その繰り返しを此れまでに6回繰り返している、と言われているわけです。
そして今回が7回目に当たっているのです(それだけに急速に進化したわけでもあります)が、今回が最後で決着し、此れまでの三次元界の意識体が終わり、宇宙の必然の仕組みから、それ以上の意識体に進化するとも言われているわけです。

その宇宙の仕組みの流れを感じ取る方々の中に宇宙的霊能者Kさんや山田耕栄さんがいたわけです。
そして感じ取ったイメージを自分なりの感性・感覚で説くことになりますが、霊能者は霊魂に関わる「想念の世界」を解き、耕栄さんはそれを「意識の世界」として解いているわけです。
・・・完全な宇宙(神)の流れ(光エネルギー)をイメージ的に感じ取った中にも己の思い・想念が入り混じりますから、己の思い願望(欲の思い)が強いと完全性が損なわれることにもなり「ミイラ取りがミイラになる」その例えになります。

その宇宙の流れに添った進化が始まり終わりしながら永遠に進化し続けることになるのです。
だから此れまで三次元界と霊界の四次元界を繰り返していましたが、良い悪いで判断していた三次元意識が無くなって同時に四次元界も無くなり、良い悪いで判断しない五次元界になり、その人間界の調和意識で自由平等調和の至福の時を味わいながらも、実際に次元上昇したことを自覚していますから、それに続いてまた新たな高次元界を意識するようにもなります。

ところで多分ですが、欲得抜きでそれが必然であれば意識したことが(奇跡を成すが如くに)すぐさま現実化する、すなわち必然ご縁から思い道理のことが無理なく出来る7次元8次元が身近にあります。
それを超えると「意識・命」が肉体から離れ(俗に言う)幽体離脱することになったり、それを超えると肉体が不用になり姿形が消えて意識・命だけになり意識したところへ(UFOの如くに)瞬間移動できるようです。
・・・天界の上にも天界があり続けますから20次元30次元と続くようです。

ただこれら事実ではあっても今は夢物語ですから、それらを意識することよりもまず現実に意識を戻さなければ、それらが「絵に書いた餅」になります。

完全真理の「普通」に生きることを知るのにyafoo無料動画「ギャオ」<レナードの朝>が参考になります。

2011年10月29日 | Weblog
霊能者と関わっている時に学び知った事に、この世に生まれたからには何らかの「お役」があり、そのお役を果たしながらも自らが多くを学び知ることになると教えてくれました。
またそのお役の中で世間を驚愕に陥れるような残酷な殺人事件の犯人も「お役」でやっている事になるというのですが、その誰もが身震いするような事件を起こした犯人こそ、あの世でよくぞ大変なお役を果たしてくれたとその労をねぎらわれ、今度生まれ変わるときは世の為人の為に尽くすようなお役になるということでした。

そんな大事件を巻き起こすようなお役でなくても、この世の表と裏の両方を味わい学び知る事になっていますから、刑事だったものがドロボウのお役になったり、その反対のお役も前世でやっているそうです。
だから昔の戦で殺されたり殺したり、近代戦争・侵略の加害者や被害者だったり、騙したり騙されたり、裏切ったり裏切られたりと、その魂(意識・命)として必然とする事をこの世で体験(修行)していると言うようなことです。

そしてドロボウや殺人のお役をすることで、その世間に与える影響が教訓となるだけではなく、その本人も学びになるわけです。
だから貧乏人もいれば金持ちがいたり、表の政財界に君臨する者とその裏社会に潜んでいる者がいたり、表の宗教で人を導く者と裏宗教で人心を惑わす者がいたりするわけです。
また生まれてくる者と死に逝く者がいたり、健康な者と病人がいたり、介護される者と介護する者がいたりするわけです。

だからこの世で起きている様々なことの表も裏も知ることが使命役割であり、己の使命役割を果たすことで他の者も学び知り気付くことになるのですから、お蔭さまであり、お互い様になるわけです。

そしてそれらの裏表を生存中に多く味わい知った事で何を悟ることになるかと言うわけですが、誰もが表も裏もやってきたのだからそのお蔭さまとお互い様の関係から言えば(良いも悪いもない)「すべてが感謝」になるわけです。

そしてこのブログに何度か書いているのですが、生きてさえいれば感謝、怪我や病気で死に掛けていても感謝、介護する者も介護される者も互いが感謝、加害者も被害者もお互いさまの関係であることなどです。

そして「食って寝て糞をする」それだけで十分というのが「生きて」さえいれば十分となるわけです。
そして「生きている」ことが喜び感謝に思えるようになればいいわけです。
そして出来れば自然死を望み、物や金がなくても死ぬまで「健康」であればいいとも書いています。

ところでこのブログでは書いていないかもしれませんが、それ以前(霊魂の世界)のブログに知能障害者やライ病患者を特定の施設に集めて介護保護する(隠す)ようなことをやめてそのままに世間に出しているほうが、知らないよりも知ることが出来るのでいいのではないかという風にライ病報道の事例を含めて書いた記憶があります。

そして今日暇つぶしにyafoo無料動画「ギャオ」で映画<レナードの朝>を観たのですが、脳炎症で身体が硬直して30年間死んだも同然だった患者が新薬の実験で奇跡的に蘇り、ひと夏だけでしたが普通の状態に戻り、その普通に生きていることの素晴らしさを医療関係者に訴えるがごとくに語るシーンがありました。
すなわち脳障害を味わったからこそいま普通に生きることの素晴らしさを噛みしめているのです。
だから脳障害になるまでの普通に生きていたときにはそれが当たり前だけれども、長い年月死んだも同然だっただけにその普通に生きていることがとても幸せなことだとなったわけです。

だから此れまで苦楽の特別を味わってきただけに此れからは苦楽のない普通に生きることでその普通の良さに気付けるわけです。
ゆえに人間として生まれたその原因はこの世の三次元・裏表の矛盾を味わいつくし、そして矛盾のない当たり前の素晴らしさを我が身でもって学び知り悟る事にあるのです。

科学・医学・宗教でもない(ニワトリが先でもタマゴが先でもない)元々の「意識・命」の真実を知る時です。

2011年10月28日 | Weblog
地球に元からある自然界によって人間は生き続けていますが、その自然界のお蔭さまを創意工夫して生き易くすることは必要ですが、その創意工夫が過ぎた科学や医学によって操作されると、その過ぎた科学で自然界が破壊され操作され続けたり、医学によって必要以上に人命が操作され続け、またそれが当たり前に思うようになったのは事実にあります。

そしてその科学や医学が発達するほどに(結果的に)人命を軽視する結果ともなって簡単に人を殺せる道具に変化したりまた人命を生かす為に他の生命を操作することも当たり前に思うほどになりました。
それがまた宇宙・神の愛(全知全能の仕組み)を軽視することにもつながり、実在するが見えていない世界・精神世界の「命・意識」を説く真理・真実よりも、その謎めいた神秘を解き明かそうとする科学や医学が注目されるようになりました。

しかし自然界の葉っぱ一枚も創造できないし、また自然界の命一つも創造できない不完全な科学や医学でどんなに頑張っても全て余計な事で無駄なことになることを私たちが悟るときが来ています。
それなのにその科学や医学を信じて頼っている私達も同じく、その余計な事を無理にして無駄に終わることにもなっているのです。

また自由平等平和を言いながらもそれに矛盾することが平然と形作られていることにも気付く時が来ているのです。
そしてその矛盾する形から説かれている宗教真理のその矛盾にも気付く時が来ているのです。

すなわち科学でも医学でもない、すなわちニワトリが先でもタマゴが先でもない、元々からある宇宙・意識・命の真実を知る時なのです。
そして科学や医学や宗教真理の矛盾を知ることから、その世の中やその人間関係の矛盾するその意識に気付くことも出来るのです。
それが完全なる宇宙・神の「命・意識」とその「愛」を知ることの出来る「完全真理」なのです。

そして大元の自然界の必然ご縁のお仕組みで生まれた人間だからこそ、その自然界に素直に従って生きることが望ましいわけです。
しかし素直どころか逆らってまで生きようとしているのが科学や医学や宗教などを「信じて」いる私たちなのです。
そしてそれら不完全な形を幾ら「信じて」も何ら根本的に解決出来ないことを知ることです。

すなわち「形」では無くして、また信じることでもなくて、宇宙・神・人間の「意識・命」の原点・原因を先に知らなければ、何を成しても、何を成そうとしても、それら全てが不完全で「どうしようもない」「どうする」ことも出来ない結果が出続けるだけです。

と言うようにあの手この手で方向性を変えて書き続けていますが、それを活かすも殺すもあなた方次第です。

知り続け、実践し続けて、気付き続けることで完全真理の説く事実・真実が確信自信・悟りになるのです。

2011年10月27日 | Weblog
完全真理は完全で事実・真実を説いていますから「信じる」必要がありません。
だから「知る」ことから始まりその「終わり」もありませんから、知り続ける事になります。

そして知った事を実際に実践しなければ確信悟りに至らないままに止まることにもなり、その次を知ることにもなりません。
すなわち知識として知った事を実践して「気付く」ことからもまた新たに知ることにもなりそれが悟りにもなっていくのです。
だから知り続けて、そして実践し続けて、そして気付き続けることで完全真理が説くところの事実・真実が確信自信・悟りになるのです。

だから宗教真理と違いますから完全真理が説く神を信仰する形には絶対になりません。
だから神を偶像化する必要もありませんし、その偶像の神々に祈願することもありません。
また宗教のような聖書経典も形式もありませんからそれらに束縛制限されることになりませんから到って<自由>です。
まして布教活動に出向いたり、施しを受ける托鉢に出かけたり、堂々巡りの行脚や艱難辛苦の荒行修行も必要ありません。

あるのは良い悪いで判断していることの矛盾を日々の生活の中で気付く事です。
それで完全なる宇宙・神・愛の真実を知ることになりその実在を確信・悟る事になるのですから到って簡単楽ちんです。

ところが楽ちんなだけに、忙しい日々の生活の中で実践意識を持ち続けて、より完全真理を知り続け、より実践し続け、より気付き続ける事に、あまり意識が使われていない時・時間が多くなる可能性があることです。
また身近な仲間がごく限られていることやその仲間内が揃って同じ行動をすることもないし、定期的に一同に揃う形式的なこともないことからして、己一人の独自独歩に実践していく事になるから、どうしても実践意欲が失せて油断していることが多くなるのです。

すなわち朝や昼や夕べにお祈りすることも無く、身近な仲間が寄り集まり会話したり布教活動や慈善奉仕活動をすることもなく、特別に祝い願う記念日もなく、その「自由」にやれる分だけ意識が束縛されていませんから、完全真理のことやその実践のことが日々の生活の中に隠れてしまって忘れている時や意識することが忘れているときが多いことです。
しかも完全真理を学び知りそれを実践している事を世間に知られたくない思いから隠している人もいることです。
・・・自慢げに世間に見せびらかす(アピールする)ことでもないが、隠すほどの事でもないと思います。

そうすると一般的には信仰宗教のほうが熱心になれる要素があります。
だから日々の日常生活を犠牲にまでして信仰に取り組む人が多いのです。
そして知らない事を知ったことが喜びや自信になっているから人様を勧誘したがるのです。
ところがそうなってしまうと関心のない世間では特別に見えますから忌み嫌う人や不信感を持たれることにもなっています。

完全真理もカルト的な要素があるから似たり寄ったりですが、形式的なことがないだけに普通の自然体で実践できます。
その形式的なことがないだけにやはり日々の生活の中の実践意識が主になります。
それでも形式的な「形」があるほうが熱心になれるのは確かなようです。
だからか耕栄さんの講演会には熱心な人たちが多く新人がごく少ないのです。
そして形式的なことが少ないだけにその新人が定着することも少ないのです。

そんなことからしてどうしても独自独歩になるのです。
そして知ることと気付くことは一体ですから、その気付き知る実践から自信確信・悟りに至るしかありません。
そこで「結果と原因」は同じですから、その結果よりも「原因」に意識を使うことです。
だから結果であるこの世を気にすることよりも、その結果になった原因である人間の「意識・命」の真実を知ることです。

そうなればあらゆる結果が「どうしようもなく」て「どうでもいいこと」になり、それらに執着しませんから、日々が成り行き任せで気楽に生きていけるようにもなりますから、それがまた自ずと自己縮小につながり、何の無理をすること無く楽ちんで成る様になっていくのです。
そしてその後のことも宇宙・神に任すしかありません。

何故なら自分で何とか出来る事なら遠い昔にその結果が出ているはずです。
その結果が出ないで矛盾する不完全なままに生きているのですから、我々では「どうしようも」ないわけです。
だから自分に出来る事を無理なくやるだけやって、あとは(天運)宇宙・神に全託することになるわけです。
そしてその時の己の意識のあり方がその方向性を決めるのですから、全てが己の意識次第と言うことです。
だから宇宙・神のお仕組みに任すことになるが、前もって祈願することでもないわけです。

あるがままの事実が普通に思える意識とお互い様とお蔭さまの意識があれば調和の人間関係になる。

2011年10月26日 | Weblog
「普通」の事であればいちいち良い悪いで判断することにはなりません。
だから普通には判断が伴わないのです。
だから不平不満にも自己満足にもプライドや不信感を持つ事になるはずもありません。

だから普通に仕事や家事をしていれば何ら問題はありません。
だから怪我や病気になっても判断が加わらなければ、その事実が当たり前の普通になります。
また学業成績や技術や能率効率に違いがあってもそれが役割個性だけにそれが当たり前になります。
その各々の役割個性がお蔭さまやお互い様の関係になるのだからそれが当たり前の普通になります。

だから大金持ちであっても貧しくても、それが普通なら違いがあっても差はありません。
だからお金に貧していても、それは自らの意識が招いた自己結果責任ですから当たり前の普通になります。
またお金に貧していても裕福であってもそれが普通意識であれば見栄や世間体のプライドも無くまた差別意識もありません。
だから生活が貧しくても、また有り余るお金で贅沢三昧していても、人間として生きていることは同じですからその価値観に惑わされずにいれば、すべてが当たり前で普通になります。

ところでその大金持ちさんの大金が有り余るようなら、その手元に残った大金の使い道がありません。
そこで見栄・プライド・差別・特別意識を持っていないのですから、有り余る札束を人に見せびらかし飾り付けるような真似はしませんから、そのお金を使ってはじめて金券の価値が出るのですから、札束を持っているだけではその価値がありませんから、当然ながら紙切れ同然になり、しかも大量に持っていてもチリ紙にも使いにくいことでしょうから、そのお金を幾ら持っていてもその意味を成しません。

それに気付けば必要以上のお金を持つことに執着し無くなりますから、その有り余るお金をゴミのように捨てることよりも、必然ご縁で巡り会う人達の中で生きる事に事欠く人がお金に困っていれば遠慮無く活用してもらうことになるかもしれません。
そして生きる事に貧していた人がそのお金を活用して収入を得ることになれば普通に生きることが出来るようにもなります。

またその大金持ちが金儲けに執着しなくなりますから、その分だけ関係する市場が開放されて広い世間に仕事とその収益・お金が出回ることにもなり、あちこちで生きる事に事欠いていた人達までがそのお蔭様の恩恵を受けることになり、自分なりの普通の生活が出来るようになります。
そして大金持ちも自ずと自己縮小が進んでいき普通に生きることで十分になります。

そして既に普通の生活で満足している大勢の人がいますから、結果的に全ての人が普通になり、その結果から国家社会全体が自己縮小された形になりますから、共産主義だの社会主義だの福祉国家と言わなくても、皆が調和した社会国家になります。
そして皆がみな同じで差がありませんから、更にその自己縮小が進み、天然資源を無駄使いすることもどんどん少なくなります。

・・・夢物語を書きましたが・・・それは大金持ちの話に限ったことではないからです。
いつも長文になるので端的にすれば、普通以上の競争倍率の高い高収入の仕事に従事したがったり(奪い合ったり)、普通以上に仕事して収益を高めたりまた残業代を稼いだりパートに出向いていること等がお金に執着している事になり、その分だけお金に困っている下層の人(生きる事にさえ貧している人)の仕事面・金儲けのチャンスをそれだけ圧迫している事実を書いたつもりです。

だから普通に仕事をして、普通に暮らして、普通に子育てして、普通に老いていって、普通の自然死であの世に戻ればいいのです。
だから先々の事を思い考えないままに、子供は子供らしく、若者は若者らしく、熟年は熟年らしく、年寄りは年寄りらしく、他と比較すること無く、自分の身の丈に見合った無理のない普通に生きていけばいいのです。

そんな普通の人たち、すなわちお金持ちも貧乏人も子供も年寄りも、また様々に違った個性役割を持つ人たちが一緒に暮らしているのは調和のためであり、皆がお蔭さまでお互い様の意識で、当たり前の犠牲を出すことにもなったり、またその犠牲を受け取ることにもなって、そのアリガタイ調和の意識の至福を皆が味わえるのですから、無理苦労の多い特別に生きることよりも普通に生きることを意識しているほうが楽ちんでその先行きが明るいような気がしませんか!

しかしそうなる以前に今の現実があります。
だから世間全般にお構い無しに、遠慮気兼ね気遣いせずとも、自らが先んじて欲張らずに生きることを実践するのですから、関わる人たちが例え喜ばなくても、宇宙・神・自然界が喜ぶ結果になるのですから、自分に出来る普通の事を実践していけば、自らがこの世を生き易い人生にしつつその人間を終えることになりますから、死後のあの世でも居りやすい意識・命のままに何とか成っていくのです。

過去の変化刺激に満ちた暮らしぶりよりも今の暇で退屈している暮らしのほうが私に最も相応しい形です。

2011年10月25日 | Weblog
私の毎日が暇で退屈していることに過疎地の独り暮らしだけが原因ではありませんで、この世に現われている結果形にあまり意識を遣わないこともあるし、またその人間関係やそのしがらみにも気を使わないし、しかも自分の事さえも成り行きませですから、日々の生活にあまりにも変化刺激がないことにも原因があります。

そして意識していることといえば完全真理の実践とその気付きが主ですから、日々の報道ニュースや天気予報さえ知る気になっていませんから、大雨で風が強くなってから台風が接近している事に気付くくらいですから、前々回の地震津波や前回の大災害も数日後に知ったことだし、その地震津波の被害や今回の原子力発電所の放射能漏れにもあまり関心がありませんでしたし、その後の台風による大被害もあとで聞いただけでその関心もありません。
それも10年も以前から地球も人類もおかしな事になると(水による洗礼を含めて)書いていただけに、そのように「なる様に成っている」その事実を知った程度で止まります。
そして関心がなくても伝わってくることに涙することになったり、もういい加減にすればいいのと思ったりしながら、世間で繰り広げられるそれら人間模様が私の学びや情報源にもなっています。

またテレビ番組も前もって「見たい」と思うものがないから、夜中の暇つぶしに何か探してただ見ているという感じですから、長編ドラマで始まりから最後まで「見たい」と思っていたのは「篤姫」「チャングム」くらいです。
とにかく企画演出されたドラマよりも現実事実を概ね知ることになるドキュメンタリー番組が私の学び情報源になりますが、それが少ないからテレビを観る時間も少ないわけです。

そして文書を書いているのに私は活字嫌いで新聞はテレビ欄とマンガと大見出し程度しか見ていませんし、それも何十年来後無沙汰しています。 また成人して以来図書館や書店に出向いたことも殆どありません。

そして何でも知りたがるやりたがることから過去は多趣味でして、特に先取り意識・感性があったことから、何かと時代の先端を歩いてきた思いがありますし、それも幾つか事業化したにも関わらず、それも自己満足だけに飽きたのか面倒くさくなったのか「どうでもいい」ことになり、また別なことに乗り換えるその繰り返しの結果からも言えるのですが、結局は空しく終わりましたから、それを繰り返さないためにも、今では普通の(暇つぶしの)一円パチンコに興じているだけです。

だから世間的なことには無関心で無趣味になった感じですから、自らが進んで出歩くことがないだけに、尚更に暇で退屈します。
そして何度も書いているように人間関係も必然ご縁の成り行き次第で接し合っていますから、そこででも暇なわけです。
だから日々の中では「食って」いる時に美味しいと感じる満足感があるだけです。
そして暇つぶしの退屈しのぎにブログを書き上げる時間が多いこととそれを書き上げた満足感があります。
またパチンコで大当たりが来たときに「来た!」と言う満足感が味わえています。

それだけに過去の変化刺激に満ちていたほうが退屈しないでいいし、俺が我がで自我を出して自己満足しそのプライドをしっかり持って暮らし、神や仏や愛の事を素知らぬ顔で暮らしていたほうが今よりよっぽどマシなのではと、ふと思うときがあります。

ところがそれだけに・・・
完全真理が説くところの人間関係の意識が調和したときのその触れ合いの素晴らしさ至福を思い浮かべることも出来るわけです。
しかもそれに似た「感謝」のキャッチボール体験、また何ら気にせずにありのままの「個性」を出し合うことで(損も得も無く)ただ互いが楽しい気分・ひと時を味わえる、そんな気付き体験もしていますから、横道にそれる事無く実践意識で暮らし、必然ご縁のお仕組みや調和・至福の時が来るのをただ待っているのです。

そして必然ご縁の成り行き次第が自分に最も都合が良い結果になっている事実がここにあるだけに(二度と過去には戻りたくない思いがあるだけに)、その無理のない普通のあるがままの自然体で暮らしていれば、真理で説くところの先行きが成る様になって現実化することに確信自信があるのです。

それが私の憶測推測では無くして、絶対に成るところの完全真理で言われているのですから、信じるか否かのその不信感も無く、その自信でもって実践しながらそれを待つことも出来るのです。

誰もが「知らない」事を<知り>たがる人にもってこいのブログです。

2011年10月25日 | Weblog
私が牛舎の牛さんにエサやりしていますが、その牛のお腹が空いていれば稲わらを大変美味しそうにしかも大量に食べますが、短期に肥えさす為に高カロリーの配合飼料を食うだけ食わす成牛になると稲わらを多く食べません。
すなわち稲わらだけで満足していた仔牛に配合飼料を与えだすとその配合飼料が当たり前になり、そして出荷前の成牛になると目の前に多くの稲わらがあってもそれをあまり食べようとせずに配合飼料を与えてくれるまで寝て待つようになります。

だからお腹を満たしてくれる美味しい物に変わりはなくても、それ以上に美味しい物を与え続けると以前のものが不味い物になり、その美味しい物しか食べようとしなくなるのです。
・・・だから美味しく食べさすためにあの手この手を使って少しでも配合飼料を多く食べさすことになります。

それら動物達も自然界の犠牲・恵みにより生きていますが、家庭や動物園や畜産業などで飼育されだすと、その生きる事に有り余る余裕が出てくることになり、お腹を満たす満腹だけでは納得し無くなり、新たに満足感と言う価値観を求めるようになり、より高級な物、より新鮮な物、以前より味が良くなった物、また関わる関係者まで選り好みするときもあります。
だから人間も同じく食って寝て糞をする(衣食住の)中にも、それらを満たしくれる価値観を望むようです。

そのものの価値・普通よりも、それより上のものを得たがる特別意識・価値観によって地球も人間もおかしくなってきたのですが、その価値観に縛られない生き方を実践している人も増えているようにも思えるのですが、それも世間の負け犬で終わりたくない思い、そうするしか仕方がなかった部分、余儀なくそうなってしまった部分があることから、それを旨く隠す為の言い訳正当化の見せ掛けの部分が多く感じられます。
すなわち、見える結果形ばかりを気にして、その大元の原因である意識にあまり関心を持っていないようだからです。

ところが真坂の有事などから人間として生きるための衣食住に事欠くことになれば、それを辛抱しながら何とかして生き抜く事を考えますから、その時々の必然ご縁から何か必要なものが与えらればそれで十分に満足する事になります。、
・・・イワシよりタイの方がいいといって空腹なのに(価値観から)そのタイが与えられるまで待ち続ける人はいないと思います。
だからその時々の必然ご縁で成るようになるその生き方でも何ら問題なく生き続ける事が出来るのが事実にありますが、ところがその成るようになっている中に価値観が入ることになると、同じ価値のもの(衣食住)で大して不都合がないはずなのに、(その姿形などから判断して)(普通とは思わずに)不満と満足の矛盾する区分け・思い分けることにもなっています。

その真坂の有事によって不自由することが多くなりますが、その不自由していたことが少しでも補われることにでもなれば(その時は)それで十分喜び感謝になっていたのに、その補われることが次第に多くなるにつれ選り好みすることも多くなり、またその選り好みから外れることにでもなればその強い不満や不信感をぶちまけ撒き散らす人も増えてきます。
しかも時が経つにつれ次第に「雨やんで傘を忘れる」ような結果にもなっている意識の人が多くなります。

何かにつけ飽食の国と飢餓の国が話題に出ます。
また開発途上国の物不足や人材不足があります。
貧困差別や人種差別もあります。
戦争やテロや核問題もあります。

しかし「どうしようも」ありません。
どうにかなる問題ならもう既に解決していてもおかしくありません。
ところが既にお先真っ暗な闇に覆われているのです。
それが事実なのです。
ただ気付いているか否かだけです。
また神仏祈願・他力本願の人が「私の信じる神に任せておけば大丈夫」とばかりに変な自信を示して、しかも人を惑わし誘っている場合もあるようです。

だから「どうにもならない」それら結果ばかりを意識しないで、その結果の大元の原因である私達の意識に関心を寄せない限り、全てが堂々巡りで空回りするだけです。
私達の身近な問題も同じでして、「どうにもならない」その結果形に意識を使うのではなくて、自らの意識次第で「どうにか成る」その「意識の世界」精神世界を知ることです。

そうなると「どうにもならない」事を学び知るだけではなくて、それら空回りし繰り返されている無駄なことが無駄では無くなり、それらすべてを活かすことが出来るし、それによって「何とか成る」方向に歩んでいくことになるのです。
しかも人様の事を気にすること無く独自独歩で歩いていけるのですから何の無理もありません。

その為のブログですので関心のある方、とくに知らない事を「知り」たがる人にもってこいのブログになっています。

「食って寝て糞をする」が普通、その不足でも満足でもない普通が愛であり、愛に生きることになるのです。

2011年10月24日 | Weblog
人間として「食って寝て糞をして」生きていかなくてはなりません。
それだけに衣食住が必要になりました。
しかしその衣食住に関して言えば、過去ほど貧していたのは事実にあります。
そしてその貧したままでも「生きて」いくことに支障が無かったのも事実です。

だから「食って寝て糞をする」ことが普通で当たり前の事になります。
ところがそれでは不足に思ったことから、その普通とは違う「特別」を欲しがる事になりました。
そして衣食住の充実を思い考えそれを成してきましたが、それは特別を目指していたことであって普通とは違います。

普通とは過不足の無いことですから、そこで前もって思い考え理想目的を持っこともなく、ましてそれを無理に成すこともせずに、ただ必然ご縁の成り行きに任せ続けて、(無理のない)新たな必然ご縁で与えられ得るまで待つことになります。

ところで、その時代ごとに衣食住が進化発展してきましたが、その時々の時代のそれ以前の(過去の)衣食住に満足したままが長く続いてそれが普通になっていた時もありました。
ところがその時代のその時の満足した普通がいつの間にやら普通に思えなくなって、その普通とは違った特別を欲しがることの繰り返しで現在に至っているのも事実です。
※だから「今の普通」は過去では「特別」(満足)だったのです。
例えば現在ではタマゴやバナナは当たり前の普通になっていますが、過去では貴重な特別だった時があります。
だから「普通」には何ら不足な部分はないけれども、それが過去では特別な<満足>にあたるのです。

それを厳密に言えば、普通はそのままの事実なのですが、それを良い悪いで考えるからには、不足か満足か普通かに区別されます。
そこで普通を不足に思うのも変ですし、それを満足に思うのも変ですから、そこで普通は普通であって差のある特別ではないと理解することが適切になるわけです。

だから普通ではない差のある特別な事をすれば、普通ではないだけにその苦労が伴い、その苦労が伴って良い結果になれば、普通のことではないだけに特別な自己満足になるわけです。
それが悪い結果になれば苦労していただけに失意・自責・不平不満にもなるのです。

そして宇宙・神はあるがままに(当たり前の普通に)実在しているから特別では無いのです。
だから宇宙・神の全知全能の愛も特別では無いのです。
だからあるがままに実在していることが普通でありそれが愛なのです。

だから特別に思える愛は愛では無いのです。
それが私達人間から出ていればそれは個人の思い・感情から出ていることから愛情と言われるのです。
その愛情が普通(愛)ではないことは事実ですから、その普通でないからにはそれを不足に思うか満足に思うしかありません。
しかもその判断は各々の個人の判断に任されますから、その尺度の違いや差のある不確かなのが愛情なのです。

そこで完全真理に付随して説くところの「自己縮小」が必要になるわけです。
すなわち、不足でも満足でもない普通(愛)のままに生きていけばいいのです。
そして生きるために「食って寝て糞をしている」ことが普通であって、それ以上の過ぎた望みは特別だと自覚できれば、自己縮小で消えていく形や物に未練も後悔も無く執着することにもなりません。

それを簡単に言えば、過去に満足していた、その過去の満足に戻るだけなのです。
そしてそれより特別な満足があっても、それに執着しなければそのままになりますから、やがてその(過去の)満足が不足でも満足でもないただの「普通」に思えるようになるのです。

そして普通のままの生活の中で何事が起ころうとも「お互いさま」「お蔭さま」の事実しかありませんから、それに執着しなければそれが大きな不平不満にも自己満足にもならずにして、普通の平常心の思い意識で生きていくことになりますから、その普通が続くことにもなるのです。
そして「お蔭さま」「お互いさま」の関係に気付けば、それに気付いた人達同士の意識同士の触れ合いの中で「至福」の思いを味わったり、普通に思える自然界がアリガタイ「お蔭さま」に思えるようにもなっていくのです。

無理なく一度ゼロに近い状態に戻れば、新たな次の1や2や3が「ありがたい」ことになる事実があります。

2011年10月22日 | Weblog
10年以上も前に娘夫婦が田舎暮らしの真似をし始めたことから私までが刺激され、それがきっかけで、私も仕事が無い日に遊びがてらに山の中に潜んでいたいと思うようになり、その構想の中では、広い竹薮の中でもいいから、小さな掘っ立て小屋を手作りし、そこにソファー兼用のベットを置き、夏は扇風機一つで冬は囲炉裏で焚き火をする程度にして、弁当持参で日中はほとんど野外活動で色々と創意工夫をしながら遊び楽しむ事を考えていました。

ところが娘家族が探していた廃屋が見つかったときには既に田舎暮らしの不便さからその意欲を失っていたので、それでは私が購入して、以前に構想していた事を実現させてみたくなり、仕事がない日に先ず廃屋の手直しから始めました。
それも遊びがてらに殆どが手作業でコツコツとやっていましたから、おおざっぱな日曜大工の真似事になりました。
また敷地の草刈や雑木の伐採も同じく、長カマと手斧と手ノコだけの手作業を楽しむ程度の道具でした。

ところが本格的に一泊二泊するようになったことから、廃品の流し台やガスレンジやオープントースターを置き、排便は取りあえずオイル缶に腰掛けてすることにしました。
そうしている内に宿泊することが多くなったことから、下隣のおばさんが田舎の風呂だけどよければと入浴のお誘いを受けました。
それがどんな風呂かはおよそ想像も出来ますから、内心ではお断りするつもりでしたが、県外の見知らぬ私を家の中にまで招くと言う先方の善意・親切を無碍にすることができないと思いそのお誘いに素直に従いました。
そのお蔭もあって、今までも着飾らない自然体に近いお付合いが(頂き物が多いが)ずーッと続いています。

また不気味で幽霊屋敷みたいな家屋を夜中まで手直ししたり、それもオンボロ廃品再利用していることや家財道具や電気製品も中古ばかりですし、また鬼が出るか蛇が出るかと思うような暗くて不気味な所や獣道がある草むらやヘビや毛虫やクモの巣や蜂の巣がある生い茂る草むらに平然と入って行ったり、オイル缶に腰掛けて排便するなどしている内に、自分に忌み嫌う・毛嫌い(否定反発)することが少ないこと、前もって期待することよりもぶっつけ本番が似合っていることなど、また自分の見栄やプライド・思い都合を抜きにして人様の親切を素直に受けることで相手側もまた素直に喜ぶことにも感じ気付いたのです。

そんな物不足・金不足の出発点から始まっただけに(過去の贅沢三昧が当たり前だったのに)オンボロでも必要なものが手元にあってそれを有意義に難なく使えることのありがたさや自らが自力で廃屋を手直しして「愛着」になれば古臭くても文句なしに親しみ楽しめることもわかりましたし、昔は当たり前だったその不便さを味わうことが面白くなったり、自分なりに創意工夫するその自力を使う喜び楽しさみたいなものが身にしみてきました。
それだけに新たに購入した近代兵器の草刈機やチェンソーや電子レンジのありがたさも十分に味わっています。
ところが一度便利なものを使い出すとそれが手放せなくなるのも良いとこ取り意識ですね。

だから余程の必要性がない限り快適便利を導入しないほうが素朴に生きられて(手作業が多くて)そのゆとりが楽しいことにもつながりますが、しかし日々を忙しく過ごしている人達には不向きな内容になります。

すなわち(前置きが長くなりましたが)・・・その過去の4や5や8や10が過ぎた暮らしに思え、それが無駄なことだったと気付き反省できることです。
だから寝泊りにも不自由しているフリーターやホームレスの人達にもこれ等のことが通じるかもしれません。
そして1や2も無くても、(食って寝て糞をするだけの生活でも)生きてさえいれば何とかなるという自力と自信があれば、その意識が必然ご縁を呼び込んでくる可能性が十分ありますから、その1や2に恵まれることにもなり、その1や2や3が「ありがたい」ことになれば、無理に4や5まで欲しがらないままに生きることになり、またその欲しがらない生活にも確かな自信が持てるようになるかもしれません。

それが完全真理で言うところの「意識改革」だと思います。