孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

人間なら誰しも皆が「自分が良くなりたい」の思いをもって生きているのは事実です。

2013年07月31日 | Weblog
然るに仙人であろうが聖人君子も宗教家教祖も超能力者も金持ちも貧乏人も自分が良くなりたいのです。

然るに何でも悟った風に思っていても不完全意識は出て来ます。
然るに「どうしようもない」のです。

然るに神仏霊魂の世界や宗教真理や超能力からしても、然るに言うだけ聞くだけで「どうにもならない」事実からして、何ともし難いわけです。

それでも何とかして良くなりたいのが本心です。
だから遠方彼方此方の扉を開いたり覗いたりしているのです。
然るに言うだけ聞くだけ学ぶだけ考えるだけで終わるのです。

然るに人が大勢集まる所に良いことが有るように思って顔を出したいのです。
然るに人集めや金集めをしている所に行くことになるのです。
然るに何を探し当ててもそれだけでは満足できないことからして更に遠方彼方此方に寄り道して他のも探し出したいのです。
すなわち「欲張り」なのです。

その欲張りなのに他の者の欲張りをとやかく言いたがるのも「私が正しい」があるからです。
然るに私にも私が正しいが常に出ています。
ところが其の事に気付くことからして執着しなくなりました。
しかも得手勝手な人間関係から離れているだけに尚のこと執着することがありません。

然るに執着することが無ければ意識心&感性が開きます。
然るに何となく気付きが起こるのです。
然るに熱中集中していることで起こる気付きとは少し違います。
その多くが一度気付いていたことの再確認&再認識になり、然るに己の中で深みが増してきます。

だから捜し求めなくても自らの中からしぜんに出てきて気付きます。
ところが気付いてもそれが自分のもの&本物になっていなければただ気付いただけになります。

すなわち言うだけ思うだけ意識するだけになります。

然るに執着しないことの必然性に気付いたからとて、その執着心をなくする取り組み実践となれば相当な無理があると言うことです。

然るに呑気気楽に暮らすことの必然性に気付いたからとて、その「楽に生きる」実践をするには相当な無理があると言うことです。

然るに巷の精神世界で言われていることが既に実践されているのが本来なのですから、
然るに人を集めて精神世界を説く教祖指導者の言われるままに(見える)(見せる)形式や格好で行動することになれば、然るにそれは人に見せるための見せかけの実践になるのです。

もっとはっきり言えば不完全意識の人間が創作創設したその精神世界を説く形は人集め金集め目立ちたがりやの欲絡みなのです。

然るに自らの意識の中で自らが気付き悟るその精神が大元であって、それが他力絡みになればその相手が不完全なだけに矛盾する精神世界になるのです。
しかも実践となれば見せ掛けの対外的なことになり、肝心要の内なる実践が無理なわけです。

然るに過去の釈迦やイエスも自らの未熟な精神を磨くためにこの世に生まれたのです。
然るにそれが仙人が如く人知れず静かにしていようが、また超能力を見せびらかすことであっても、それぞれの意識に見合った形でもってしてお役を果たしながら共に学び合っているのです。

然るにまだ完成されていなくて未熟なのです。

ところで私が60代にして精神世界に目覚めたのも、それまでの間に自力の自問自答の気付きと実践でもってして自らの精神力を自らが育んでいたから目覚めることができたのです。

だからあまり精神世界を意識することが無かった人でも(己の個性役割を果たしながら)既に自力でもってして自分のものにしていることがあるはずです。

また巷の精神世界&宗教真理でもってして新たに学び知り気付いたこともあると思いますが、然るにそれを意識し続け更に気付き続けていたならばやがてそれが身に付いて(板に付いて)自分のものとなるでしょう。

しかしならが自らの精神力をもってしても人様のことだけはどうしようもありません。
すなわち自分が満足していても不足に思う人がいる限りそれに巻き込まれて不愉快な思いをすることもあるのです。

然るにそれら得手勝手な人間関係を気にしない精神力も必要なのですが、然るにまだ未熟なだけにそれら人間関係から離れての貧乏孤独生活になりましたが、然るに其処で欲を出さずに楽に生きることの実践からしてその真価を見い出し味わい知りそれが板に付いて自分のものとなったのは上出来だったと思っています。

然るに前もって思惑期待したことでもなくまた他力に頼ったところもありません。
然るに精神世界を学び知ったことが原因ではなくして自らの精神の中で気付きながらにしての結果になります。

自分だけが満足していてもこの世に不満足の人がいればそれに巻き込まれるのがこの世です。

2013年07月30日 | Weblog
日々暇で退屈していますからその時間つぶしに猛暑の中で時おり草刈をしているのですが、それが単純で単調なだけに精神世界が頭をよぎり然るに自問自答するのですが、
何で私が仕組まれて過疎地で呑気気ままに暮らすことになったのか、その思いを廻らしていていてふと気付いたのですが、

然るに私だけが良くても、人様も同じようにして良くなければ、然るにその人様の不平不満に私が巻き込まれることがありますが、然るにそれを言い換えれば「皆が良くなければ」そのとばっちりが私にまで累が及ぶと言うことを改めて再認識したのです。

然るに私自身は何でも知りたがるやりたがるで次々と新たな事に取り組んでいましたから、然るに徹夜してもそれを苦労心労に思うことにはなりませんでした。
然るに登山家が山登りを楽しんでもそれを苦に思わないのと同じです。

ところがしかし何をやっていても得手勝手な人様が絡んできます。
もうお判りですね。
自分だけが満足していてもこの世に不満足の人がいれば(然るに私と直接関係が無くても)それに巻き込まれるのがこの世なのです。
ゆえに神仏霊魂の世界&信仰宗教&真理が必然で説かれているのです。

ところで過去のイエスや釈迦が多くの人を連れ立っていたようですが、然るにその人達だけが満足していても他にそれらを不満に思う人がいれば然るにそれが諍いになったり弾圧されても(目立つだけに)仕方がありません。

然るに弾圧する側のものを悪人サタンと名指ししてモーゼが如くに罪の無い追手の兵隊を人馬もろともに溺れさせれば、然るにそれが正義とは名ばかりの人殺し&サタン意識と同等になります。

ゆえに自分だけが満足するその集団を作ることよりも先ずは皆が一緒に満足できる形&自由平等調和の人間関係を作らない限り結果的には無駄で余計なことで無理をしたことになるだけです。

ところが如何なる宗教真理をもってしても皆が一緒に満足できるこの世を創造することは不可能です。

然るにして(言い換えれば)如何に精神世界と言えども大勢の人が目的理想やその期待をもってして集る事ではなかったのです。
然るに目立てば味方も作るが敵対する者も同時に作るのです。

ところが先に書いた私のように、
自分の自力と自信の独自独歩の精神でもってして自分だけが何とか満足できるのに、ところが余計な人様が絡むことで否な思いをするのならば、やはり得手勝手な人様と係わらない人里離れた過疎地で単身暮らすのが利に適っているようですね。

然るに呑気気楽にして「楽に生きる」も、然るにそれが得手勝手な怠け者や横着ではなくして宇宙&神&愛の真実を学び知ったことからしての、然るに此れしかないとまでの自信の生き様であれば何の問題もありません。

また人間嫌いでもなくして、然るに自由平等調和の人間関係の必然を心意識からして悟りを開いているわけですから尚更に問題はありません。

しかし「楽に生きる」ことに同調した者が一堂に大勢集まると、それが気に入らない輩からしてみれば、
然るに伊勢白山道なる者のようにエネルギーを出している太陽が良くてエネルギーを吸収している月は悪だとしていますが、然るにそうなると大勢が集まり賑やかな(太陽崇拝意識)者は良いが、反対に孤独静寂を好む(月崇拝意識)者は邪だとして弾圧するかもしれません。

また怠け者の集りだとしてそれを排除したがる(太陽崇拝)者が、然るにイエスやモーゼ如くの超能力でもってして(楽に生きる者をサタンと称し)地の底や海の藻屑として闇に葬られるかもしれません。

ちなみに静かに楽に生きていればそれをとがめる者が現れてくるし、賑やか派手に生きている者をとがめる者が現れてくるのも矛盾意識の人間界なのです。
然るに(良くても悪くても)「出る釘は打たれる」のが常ですから、それが善良なる精神世界と言えども世間に目立たない独自独歩が必然になるのです。

然るにそれを世の為人の為として(釈迦に説法&嘘も方便として)人を集めたがるのも人間の欲からです。

然るに欲があってもその欲が出てこない、然るに楽に生きることを実践していれば気付くことも多くなり、然るに見えていなかった真実が次第に見えてきてそれが自分のものになります。

「やりたいがやれない」「やめたいがやめられない」事情から、然るに「仕方なく生きている」のでしょうか

2013年07月29日 | Weblog
どなた様も「やりたがやれない」然るに「やめたいがやめられない」その事情が大有りですね。
幼い子供の頃から比較競争社会でもってして学業成績からして生き残りをかけていますし、経済社会でも成長を続けていなければ生き残っていけない事情もあるし、それが組織化&巨大化や価格破壊につながり、然るに零細事業が破綻倒産閉店され続けています。

然るに私も親の家業を継いだ米屋も時代の流れで自由化になり廃業同然になり、その時代に乗って牛乳販売を開業するもその紙パック牛乳の販売促進が裏目に出て自分の首を絞めることになりましたし、時代の最先端のビデオが軌道に乗っても過剰投資の繰り返しからして首を絞めることになると気付き諦めました。

然るに自分の首を自分で絞めている有り様、然るに自らが泥沼に入らなければ得ることが出来ない有り様、然るにやり続けるしかない有り様、然るにやめたくてもやめられない事情があるようです。

然るに皆さんも「やめたいけれどもやめられない」そんな事情を幾つか抱えているのではありませんか。
それが就職難の折からして職場を辞めたいが辞められない、顧客が減る一方だがやめるにやめられない、あの人から離れたいが離れられない、
然るに中には色恋沙汰がやめられない、パチンコや勝負事がやめられない、医者通いや薬がやめられない、酒やタバコ、携帯メールやインターネット、中には万引きや痴漢行為もあります。

然るに「どうしようもない」「どうすることもできない」「思うようにならない」その苛立ち&精神的感情的ストレスからして「破壊」意識になるときがあります。

然るに腹たち紛れにお茶碗を投げたり机や食卓の上にある物を引っ掻き回したりするのも、然るにパチンコ台を叩くのもストレスから来る破壊行為なのです。
然るに積もりに積もった小さな苛立ちが一瞬にして噴出し、その感情が爆発し破壊に至るその危険性が誰にもあります。

然るに人を傷つける暴力や自傷行為も、然るに殺人&他者破壊や自殺&自己破壊も、然るに集団破壊の抗争戦争も、
然るにその仕返し報復意識にもなります。

然るに不平不満から不安心配や苛立ち精神負荷になりそれが精神破壊&精神疾患にもなります。

然るに世直し人救いの筈の神仏霊魂の世界&宗教真理&精神世界さえもお粗末な有り様ですから此れから皆さんどうします。
然るに悪を懲らしめて桃太郎のようになるとか、善を施して浦島太郎のようになるとか、それとも枯れ木に花を咲かせるような超能力者に期待しますか、それとも時空を超えてくる宇宙人に期待しますか、
それではお伽話ですね。

然るに不平不満を我慢していてもいつか爆発するときがきますから、然るに出しっ放しのほうがいいのでしょうか、それも考えものですね。
然るに執着しないように心掛けていてもしっかり執着しています、ただ執着していることに気付かないだけです。

然るに欲張っていないつもりでいてもしっかり欲張っています、それが見栄や世間体やのプライドに出ています。

然るに私は正しいとして己を精一杯守っています。
だから手放せません、手放せば損するからです。
然るに「やめたくてもやめられない」のです。

然るにやめたいがやめられない事からして仕方なく続ける、然るに「仕方なく生き続けている」のが正直なところでしょうか、
そこで趣味嗜好娯楽に興じてうっぷんを晴らすも、しかしながらその苦楽も味わい続けてストレスを溜め込むことになります。

然るに多重債務からして自己破産するように、
然るに精神的多重負荷からして自己破壊に至ることになるのか、しかも他者を巻き込み巻き添えにすることもあります、
しかしそこまでに至らなくてもこの先に一般的な有事や真坂の有事や天変地異が待ち構えていますが、

然るに一寸先は闇の中に光を灯す術は有るのでしょうか、
自問自答する価値は十分ありますね。

創作にして創作にあらず、前もっての筋書きなしの成り行きの結果を多く書いています。

2013年07月28日 | Weblog
このブログの中に書いていることは先人先生がたの言葉を借りて真似ている事になりますが、その中味は私自身の生き様からして学び知り気付き悟るに至った私の中にある事実&真理を多く書いています。
すなわち私の生き様&実践&道理からして書いています。

然るに創作にして創作にあらずです。
然るに前もっての筋書きなしの成り行きからしての結果を書いています。

然るに使う言葉が同じでも神懸り超能力や霊力からしての真理でもなく、また賢者の思い考えた理論でもありません。

それを自己流に評価すれば(未熟にして不完全意識ながらも)成るようになる宇宙の仕組みのその成り行き任せの必然ご縁のお仕組みの流れからしてこの世の矛盾に気付き悟りに至っただけに、この世の裏と表の事実&道理&真理を実感でもって書き示しています。

然るに特別は無く、食って寝て糞をしながらにして生きていることが本命であり、然るに思い考え理想を持つことも期待することもなく、然るに欲張り無理することではなくして、また不完全意識の人間関係に束縛制限支配&否定反発されることのない自由と孤独にして、然るに不完全な他力を信じて頼ることもまた神仏に祈願&依存することも無く、然るに言うだけ聞くだけにあらずして、自らの自力と自信の精神力でもってしての気付きながらの独自独歩に歩むことを書いています。

然るに人が集るところに欲ありで、その欲絡みからして大勢の人が集る所には安心安全は無く、然るに思い込み&すり込み現象や自己洗脳や自己陶酔やその期待感からして邪な輩に人心を操られておかしな方向に誘導される危険性があるとしています。

然るに不完全意識の人間からは同じ不完全な結果しか出ない事実を自らの経験を通して書いていますから、然るに無理しないで余計な事に手出ししないで、然るに「楽に生きる」ことからして無駄にならないその(省エネ生活)事実を書くことにもなりました。

然るに欲張らないから楽になるし、楽に生きることを味わうからこそ欲張ることも無くなり、然るに前もって良い悪いで判断する必要性すら無くなるとして書いています。

然るに自然体の成り行き任せが板に付くのです。
そして現われ出たその結果だけ&事実だけを味わうことになるのです。
然るに執着しないでいられるのです。

ちなみに巷の実践が無理な精神世界ではなくして、然るに(不完全意識ながらも)やる気になれば誰でもが実践できる真理を書いています。

そして自分さえ良ければの人間関係の中での物理的&実質的な問題よりも精神的な負担ストレスが多いことにも気付きますから、然るにその人間関係&しがらみを気にしないで生きる術からしてその気楽さを十分に味わえます。

ちなみに欲を出さなくても生きていることを十分に味わえるその必然の仕組み&必然とするものを得ることができる仕組みがこの世にあることを知ります。
然るにそれが精神世界&想念の世界&意識の世界と言われる中にあるのです。
だから巷でそれらが必然からして説かれているのです。

筋書きの無いドラマにして必然の結果が出る「お仕組み」は全知全能の愛&奇跡&宇宙の法則です。

2013年07月27日 | Weblog
ニワトリが先でも卵が先でもなくして、然るに宇宙が先でも神が先でもなくして、大元から有って実在する<全知全能の仕組み>(宇宙の法則&自然の法則)を宇宙&神&愛と称し、然るに蘇生&回帰の無限エネルギーを持つと称するならば、
然るにその全知全能の仕組みから生まれたすべての「意識&命」も宇宙&神&愛であり、無限に続くエネルギー体であり、然るにそれが姿形を持っている生命体&意識体になります。

然るに大元が神ならばこの世の<すべてが神>であり、然るに完全であり、然るに完全な姿形を持つ人間も(不完全意識ながらも元は)神なのです。

そして全知全能の仕組みの中で(宇宙の流れの中で)万物すべてが「ひとつ」となって共に絡み合い、然るにすべてが蘇生&回帰(始まり終わる繰り返し)をしながらにして共に進化発展しているということです。

前置きが長くなりましたが、
然るに過去の釈迦もイエスもサイババもその「仕組み」からして生まれ出てそして死に至ったことであり、然るに山田耕栄さんも霊能者Kさんも伊勢白山道なるものも然るに皆さんも私も同じように何かと仕組まれながらにして今を生きているのです。

その仕組みも意識が原因にしての必然とご縁の関係でその結果が出ているわけですから、この先も意識が原因の結果が仕組まれ出てきます。

然るに耕栄さんは大病が元で超能力が備わったと言われていますが、それも仕組まれたことであり、そして自らの個性でもって役割を果たす中でファバラに係わるスタッフに裏切られて脱税容疑で逮捕されたのも、然るに意識が原因の仕組みからしてのその結果です。

然るに凡人の私には特別な神懸り奇跡の超能力や霊力はまったくありません。
しかし成り行きながらも必然のご縁で(宇宙の流れに沿って)仕組まれ続けている事実はあります。

然るに宇宙エネルギー&蘇生回帰エネルギーが縁で同類を呼びそして霊能者とのご縁があり、その縁からしてまったく無関心だった私が神仏霊魂の世界&想念の世界を学び知ることになりました。

然るに過疎地暮らしになったのも、それとは全く関係のないビジネス的な腐れ縁が如きその縁からして次々とご縁がご縁を呼ぶその仕組みの連続からでした。

然るにそれらの中の一つでも縁が無ければ今の私とは違っていたことでしょう。

また娘が縁からして耕栄さんの完全真理にご縁があったのですが、その時の娘は耕栄さん信者如きでしたが、脱税以来伊勢白山道に心変わりし、その伊勢白山道にも熱が冷めているようです。

然るに田舎暮らしを望んでいた娘が縁からして私のほうが過疎地暮らしになり、これまた耕栄さん信者だった娘が縁からして完全真理が私の本命になっているのですから、然るに娘が私の道先案内人が如くに仕組まれるとは予想だにしなかったことになります。

ちなみに娘が本命としていた事が(田舎暮らし&完全真理が)(取って代わったように)私の本命になるという、その「仕組み」は一体何処から来ることなのでしょう。

しかもいつの間にやら始まった過疎地暮らしが原因からしていつの間にやら完全真理主体のブログが呑気気楽な楽チン生活のブログに変わり、然るに今はそれが精神世界の本命が如きに書いているのですから、まさに全知全能の摩訶不思議な仕組みの流れに乗っているようです。

然るに年末の一ヶ月余りの水不足が仕組まれたことからして思いもよらない温泉三昧になったのですが、その温泉が仕事場の行き帰りの道添えに隣接しているのも完全なほどまでの「仕組まれ」になります。

何たって温泉風呂と言えば数十キロ往来するのが当たり前のご時勢ですから、私の意識からしてそこまで執着することは絶対にありません。
然るに年間パスとなれば5万円ですから私から乗り気になることは先ず有りません、然るに温泉入浴を言い出したオーナーからして半額負担するからと勧められる縁が無ければ実現しなかったことにもなります。

更に温泉風呂に行きだしてすぐに山の水が再び来るようになったのも摩訶不思議の仕組みになります。
然るに温泉風呂に行きだして爽快な気分を味わっていることからして仕事帰りにパチンコに行くことがどんどん減っています。

更にその牛舎のオーナーと私がご縁があったのも私が捜し求めたことではなくして、それ以前の人とのご縁ともう一つ以前のご縁の縁のつながりがあったその成り行きからして実現したことですから、然るに予期せぬ事が起こる「お仕組み」になるわけです。

然るにお仕組みは思わぬ出来事が起こることであり、然るに結果ストーリがあるのに前もっての筋書きが無いのですから(成り行きだから)、まさに摩訶不思議な奇跡に遭遇したのと同然なのです。

然るに意図的&人為的&他力的&欲絡みの神懸り超能力&霊力からしてなる奇跡現象よりもごく自然的で必然で役立ちしかも安心安全なのです。

然るに神仏霊魂&宗教真理の精神世界を実践できないままに、然るにその欲絡みの思惑期待は理想のままに(不完全なままに)終わるけれど、
そこで(自然界の如くにして)欲張らないで成り行き任せに呑気気楽に生きているなかで、然るに筋書きの無いドラマ仕立てにして(仕組まれながらにして)必然が起こり、求めていなかったのに得られる事実然るに愛があるのです。

ゆえに他力の神懸り奇跡に頼らなくても、また自らが欲し捜し求めなくても、然るに欲張らなくても己の意識からして必然ご縁の仕組みが起き、その「必然とする形」を奇跡が如くにして呼び込むことも出来るのです。

然るに来るものは拒まず去るものは追わずの成り行き任せや否定反発&束縛制限の無い自由のお手本を書き示しているのもこのブログです。

神仏霊魂の世界&信仰宗教&完全真理&精神世界が「言うだけ聞くだけ」で終わるなら、

2013年07月26日 | Weblog
巷の神仏霊魂の世界&信仰宗教&完全真理などの精神世界を説く形の内なる実践ができなくて「言うだけ聞くだけ」で終わるなら、元々からして精神世界を説く形が無くても差し支えないわけです。

然るに宇宙&神&愛を説く形も不完全意識の人間が想像創作したものですから、その宇宙&神&愛に全く関係ない的外れを人間が勝手に説いているだけかもしれません。
ちなみに親の思い理想を子供に教え従わせようとしているのと同じかもしれません。

となるとそれらすべての精神世界の教えに従うことも無く、今の個人意識丸出しのままにして、然るに自らの意識に似合った思うがままの生き方を続けて、然るに自らの意識が原因のその結果である喜怒哀楽の矛盾を味わいながら死に至るその繰り返しをしていればいいのかもしれません。

だから波乱万丈であれ、金持ちであれ貧乏になろうが、名誉名声権威権力を得ようが失せようが、自己満足と不平不満の喜怒哀楽の感情を出しながらにして、此れまで通りの生き様を続けていればいいのかもしれません。

だから趣味嗜好娯楽の変化刺激や快感快楽を捜し求めようが勝手ですし、若い時に頑張り年老いてから楽に暮らすもよし、生涯頑張り続けるも楽に生き続けるも勝手ですから、誰に気兼ねなく自分の思うがままにやってみればいいのです。

然るに人それぞれに個性役割がありますから、成ることは成るが、成らないことは成らない、ただそれだけのことです。
然るに無理するも勝手です、余計な事に口出し手出しするのも勝手です、
とにかく今まで通りにやっていれば、然るに気付くことも見逃すことも無駄にすることもあります。

それでもってして何とかなるのが(それなりの結果が出るのが)この世です。
それを天国&幸せに思うも地獄&不幸に思うも貴方の勝手です。
しかもその思いがコロコロと変わるのも貴方の意識が原因です。

然るに誰の性でもなく、すべては己の意識に原因があるのです。
だからそれを学び知るために完全真理があるのです。

とにかく生きているからには色々とやっていれば色々と気付き、その気付きからして成るようになっていくのは間違い有りません。
然るに貴方の今の現状状況が成るようになったその結果ですが、然るにまだ途中の結果に過ぎません。

然るに今までと同じことを繰返すだけではその価値&価値観のままですから、この世に用意されている様々な形の価値を見出すことは出来ないようです。

然るに今の結果を変えたければ然るに今の生き方を変えるのが手っ取り早いのです。
そこで人間関係の気苦労が多い生き方を改めてそれを「気にしない」ようにするだけでも人生観が大きく変わります。

然るに自らが自由意識になれば、然るに自他共に自由に任せて「ほっとく」ことになり、然るに気になりません。

その「ほっとける」意識になる妙薬があります。
それは不完全からして不完全しか生まれないこと、然るに何を成しても無駄なこと、然るに何事も気にせずにほっとくことになり、然るに気楽に生きる事になります。

その「ほっとく」=「ほっとける」ことが=「仏に」任す=すなわち全知全能に任す=然るに神の愛に任す=すなわち<愛>なのです。
然るに自由が愛であり、然るに自由が無ければ何を成しても不完全ですから無駄になります。
然るに結果を出すために一生懸命頑張り続けながら無駄にしているのです。

然るに「楽チン」にして生きてみればそれが実感となり悟りを開いてその事実が見えてきます。

貧乏なのにお金の心配が無く、空腹や飢餓の心配も無く、安全に食し安心に寝ることができます。

2013年07月25日 | Weblog
私の娘夫婦が田舎暮らしの物件を探していることからして私が同伴することが多くなり、それがきっかけからして私も関心が高まりましたが、手ごろな物件が見つかったときには既に娘夫婦は田舎暮らしを諦めていましたので、然るに私が別荘感覚で購入しその廃屋を手直ししながら仮住まいになり、それが本格的に移住する決心をしたときになって妻を誘いました。

その移住する決心の中に、仕事をせずに月5万円の国民年金だけで楽チン生活が出来るか、その試し的感覚がありました。
と言うのも此れまで仕事や収入と言った実質的なことで苦慮することよりも、自分さえ良ければの自己中心で得手勝手を無理に通そうとするその人間関係に巻き込まれて実質的にも精神的にも苦慮することが多かっただけに、その仕事関係や世間的なしがらみから離れてみたかったのもあります。

然るに誘った妻は楽チンを味わうよりも街中で楽しさを味わいたかったことからして別居する事になったのです。

そこで私は食って寝て糞をするだけのような過疎地での単身生活が始まり、然るにそのままに推移して現在があります。
そしてブログの内容も初期の頃とは違って今ではその楽チン生活こそが精神世界の本質だと書くまでになりました。

すなわち呑気気ままな自由と楽チン生活を味わっているうちに、ただ生きているだけのような生き方の中にも何がしの価値真価があることに気付き目覚め、然るにテストケースや別荘感覚から始まったのに今や13年続いていますし、然るに二度と過去の生き方には戻りたくはありません。

その何がしの価値真価は暇で退屈しているから気付くことができたのです。
然るに変化刺激&快感快楽に浸っているときには気付かなかった、然るにそれが平穏静寂や守る心配の無い安心安全の心持や自然界の摩訶不思議や様々な変化やその刺激であったり、また孤独がゆえの自由気ままであり、人間関係を気にしないで済む気楽さでした。

また変化刺激の楽しさを追い求める事から離れたことからして内なる中から静かに出てくる言葉では書き表せないような自分だけの味わい感覚もあります。

また貧乏なのにお金の心配が無いし、然るに買い物に行けば欲しい物が手に入るし、然るに空腹や飢餓や宿無しやエネルギー不足の心配もせず、然るに世間のことや家族親戚のことは気にならないから目障り雑音も入らず、
然るに今の時代の安全にして食べられるし安心にして寝られることは素晴らしいことなのです。

それだけに孤独が孤独感にならず、また不信感や不安心配恐れにもならず、また欲しいのだが欲しがることにならず、然るに足らないのだがそれが気にならず、然るに面倒くさいことはしたがらないが然るにそれがいつでも出来る余裕がある、然るに空腹になれば食するし眠たいときに寝ますからその時刻には関係ありません。

また来るものは拒まず去るものは追わず、
また成り行きに任せることが出来る、
また持たないから失う恐れも無く、
然るに困ったことにはならない、
然るに自らの事は自らして解決する、
然るにそれが自信と自力の精神力になっています。

誰もが実践出来ないことからして「言うだけ聞くだけ」の精神世界&真理になっているのです。

2013年07月24日 | Weblog
自分さえ良ければの個人意識を持っている限り何処の誰が精神世界を説いても「言うだけ聞くだけ」でその実践は出来ません。

何故なら精神世界を説くその輩自身が自分さえ良ければの欲を持ってして事に当たっているのですから、その輩自ら真っ当な実践が出来るはずもありません。
だから精神世界の理想を掲げて論理的に言うだけになるのです。
然るに理想は実現不可能なことからしてそれが理想となっているのです。

その実現不可能な理想を言うだけでは(己の欲を満たすための)多くの人が集りませんから、その実現不可能なことを成せるだけの能力実力が如何にも備わっているかのように見せ掛ける為に役立っているのが神懸り的な超能力なのです。

然るにその理想が世直し人救いであってもそれは己の思いであり、その己の思いを叶えたいがためのその欲が理想になっているのです。
然るにその理想を叶えるためにも(己の欲を叶えるために)人集め金集めが必要になるのです。

然るに理想には手が届かなくてもその真似事&形を見せびらかすことで人を集め金を集めて事を次第に大きくしていきますから、然るに見える形の結果を見せ示す精神世界になるのです。
だから肝心要の内なる精神世界よりも然るに見える外向けの形を成すことで人目を引いているのです。
またその人目を引くことに魅せられた人が其処へ集りたがり群れたがるのです。

そんな「言うだけ聞くだけ」&「人目を引く」ための精神世界に係わるよりも然るに静かにして独自独歩で誰もが実践できる真理「楽に生きる」ことをここに書いているのです。

山あり谷ありの生き方の繰り返しを断ち切ることがなければその繰り返しがずーっと続きます。

2013年07月23日 | Weblog
この世に生まれた時に金持ちであって、その金持ちをずーっと味わいながら死に至ることもあれば、その金持ちから貧乏に陥ることもあり、またその貧乏から脱却するために上り坂を頑張り続けているうちに死に至ることになれば、その来世は上り坂を引き継ぐ事になります。

その上り坂を頑張っている途中でまた貧乏に陥る事になれば、そこで落胆失意のままが続くのか、また頑張ることを決意するのか、または上り詰めることの違和感&気付きからしてその貧乏を素直に味わうことにして、その平坦な道を穏やかに歩むその真価に目覚め然るにそれで悟りを開く事になれば、その来世も平坦な道を穏やかに歩む生き方になると思います。
然るに同じ繰り返しの人生が終わり新たな生き方人生が始まるのです。

また自分さえ良ければの良いとこ取りからしての得手勝手な生き方をしていますから、妻や夫が側にいることで都合が良い時と不都合な時がありますが、然るに寄り添ったりまた離れたりしながらの使い分け&得手勝手にしての苦楽で死に至れば、その来世も同じ得手勝手な使い分けにしての苦楽の人生を繰返すでしょう。

ところがその人間関係の苦楽に違和感を持ち、然るにその苦楽を味わない生き方を見い出しそれで悟りを開く事になれば、然るに来世もその苦楽のない人間関係を続ける事になるでしょう。
然るに此れまでの同じ繰り返しの人生が一旦終わり、然るに新たな道のりの生き方人生が始まるのです。

ちなみに過去の自己拡大の生き方とその逆の自己縮小の両方を味わい、然るに山あり谷ありの自己拡大で生きることよりも自己縮小で穏やかに生きるに真価を見い出しその悟りを開けば、然るに二度と自己拡大の生き方には戻りませんから、その来世もそのままが続きます。

そして前世から引き継いで残る他の学びを素直に味わいながらも、然るにそれも悟りを開きそれを自分のものとして確立し、二度と同じ繰り返しをしない自信と自力の精神力を磨き続けることになるでしょう。

しかしその長い道のりの中に他力依存やその期待感が絡めば(欲絡みだけに)それが横道脇道回り道になることは確かです。

然るに自分が主役の自分の精神のことですから、自らの自力によって一歩ずつ進むしかありませんから、然るに外側の神懸り超能力者の他力エネルギーによって一押しのきっかけがあっても決して一足飛びに進むことにはなりません。

巷の神仏霊魂の世界や摩訶不思議の類をもってしても「言うだけ聞くだけ」の形になります。

2013年07月22日 | Weblog
巷の信仰宗教&神仏霊魂&精神世界を説く形の中に矛盾する不完全さがありますから真実の神&愛を知ることも出来ないし、然るに教えに従うにも無理があり無駄があり余計な事になっている事実があります。

そこで完全な神&愛を説く完全真理が登場してきましたが、然るに良い悪いで判断する不完全意識を無くすることは無理です。

となると信仰宗教や真理でもってして神や愛の精神世界を学ぶことが出来てもその学びの実践が無理ならば然るに「言うだけ聞くだけ」になります。

然るにその言うだけ聞くだけの精神世界に人が集りしかも不確かな矛盾する神々を崇拝祈願したり、然るに仲間集めの布教活動まですることになり、然るに神や愛を説く精神世界に名誉名声や勢力や権力までが絡むことになりました。

ところが私が思うに神や愛の精神世界を学び知ってもそれが実践できないのは元からして無理があるからです。

ちなみに「覚えるよりも慣れろ」の言葉があるように、幼子が自転車に乗れるようになるには、教える教師の言うことを聞いただけでは無理ですから、そこで自転車に触れて次第に慣れることが必要です。

ところが精神世界の説教を聞いてもその内なる実践となると形がありませんから真似することさえ無理があります。
そこで巷で見られるような(信じる教祖指導者先生の言うなりに)外観的な行為行動表現をすることで精神世界に係わっていると思い込みそれで満足することになっているようです。

また(信じるか否かの無い)完全な神や愛を説く完全真理に係わることになって、そこで不完全意識ながらも自己縮小して素朴に生きる(形で見える)実践が言われても、しかしそれも無理があります。

ちなみに日々忙しく自家用車に乗っている人に此れからは歩きなさいと説明しているようなものだからです。
然るにスイッチポンの生活から自力を多く使う生活に変えることを説明しているようなものだからです。

ちなみにその事例形を精神面に置き換えれば、日々忙しく動き回っていることや他力依存が当たり前になっているその不完全な意識を自らの素朴な生き様の実践でもってして実感し悟る必要性が言われているのですが、しかしそれも元からして無理があると書いているのです。

そこで今の私の生き様が登場してくるのですが、
然るに人様に言われたことが原因ではなくして自らの意識が原因からして今の生き様があるのです。
ちなみに完全真理の自己縮小を知る以前からして、然るに「覚える前に慣れ親しんで」いたことなのです。
然るに人様から言われて(精神世界を学び知って)直ぐにも出来ることではないのです。

然るに誰でもが簡単に出来る「楽に生きる」ための実践さえも無理があるのですから、何もかもが土台からして無理尽くめになります。
然るに「言うだけ聞くだけ」の精神世界になります。

それでも自らが自己縮小の実践をする気構えがあるのなら、然るに無理無駄余計なことをしないままの楽チンでもって生きる実践が手っ取り早いと書いているのです。
しかも己の内心には「楽になりたい」思いがあるのですから、然るに願ったり叶ったりの真理になります。

しかしそれでも無理ならば「言うだけ聞くだけ」で満足するしかありません。

然るに何がしか特別に思えていた精神世界が次第に色あせてお粗末さが伺えますが、所詮それが巷の精神世界なのです。
何たって元からして人間には実現できない理想目的の類を説いておいて然るにこれ見よがしに期待感を持たすことになるのも然るに不完全意識の人間が思い考え創作した精神世界だからです。

然るに私の場合は此れまでの見えない世界全般&神仏霊魂や想念の世界&完全真理を学び知りながらもそれら指導者先生に染まる事無く、然るに独自独歩と自問自答の気付きからして少しずつ進んでいますが、然るにそれが「覚える」ことよりも実感でもって気付きながらにして(違和感なく)<慣れる>ことになり、
然るに味わい続けるその慣れからして次第に自信に変わり、その自信からして更に気付き続けることになり、それで少しずつながらも意識が変化修正されていることはこのブログの内容からしても事実だと確信さえ持っています。

だからこのブログの内容に違和感や異論反論があれば私の為に書き込んでくださいとお願いしている次第です。