孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

真理と感謝の「キャッチボール」を楽しむ

2008年12月31日 | Weblog
家族と離れて県外の過疎地で生活するようになったことで・・・
あらゆる「しがらみ」から解き放たれました。
すなわち、形作られた世間的常識・規律・風習・伝統に従う行事や儀礼、例えば冠婚葬祭やお見舞いにお祝い事、地域の風習、それらの見栄や世間体を気にする、我が子の仕事振りや生活態度を気にする、家族親戚や地域の差し出口を気にする・・・など等、真理で言うところの「差」のある不完全な形や、思い考えるだけの非実在に「こだわり」執着することから離れ解放されました。

しかし「しがらみ」から離れない人が殆んどでしょう・・・
その原因が「守り」にあります。 その大部分が見栄や世間体を守ることであり、世間に恥をかきたくない、だから我が子の行動も気にする、そして家族や親戚や地域にも目を光らせるが、反対に自分にも人の目が差し向けられている矛盾がある。
そんな不安不信・ストレスを抱えていても、自分のことが大事だから守るのです。
しかも、その守り続けることで更に不安不信・ストレスがどんどん拡大していることに気付かないで、ただ不安不信を募らせる一方なのです。

私自身が世間体や見栄から離れたことで、人のことが気にならなくなっています。
それだけに余計なことに目や耳を向けることがなくなりました。
すなわち、キョロキョロよそ見をしない、聞き耳を立てない、だから表現行為行動をあまり気にしない、だから礼儀作法を気にしない、とにかく相対する用件・用事の本題にしか意識が向かないのです。

そして訪ねた家の中が整理されていなければ、それはそれでその方が人の目や見栄や世間体を気にしていない証しだから、私自身もありのままをさらけ出して居れます。
それが反対に立派な玄関と家具調度品に囲まれ、チリも落ちていない清潔感と整然と整理整頓された部屋構えの家には足が向きません。 世間で言うところの立派な家や一角の人には縁が無いのです。 

過去に雛飾りや武者飾りや鯉のぼりを贈られるとそれなりに喜びもありますが、それが相手の見栄や世間体や儀礼的な思いがあっても、その思いを素直に受け取る気持ちがあってのことで、その質や量に関係はありませんでしたから、今でも差し出されるものはありがたく受け取ることが出来ています。
それがたとえ今の私に全く無用のものや有り余っているものでも、それらの品々を他の人に譲り渡すことが出来るものであれば、遠慮しないで快く(気持ちを)受け取ります。
それがたとえ見た目に劣る野菜や季節の品々でも、それを喜んでいただける相手に受け取って頂いています。
そんな方々とご縁があるのも、無駄にしないで済む「ありがたい」ことになるのです。

有り余った物を出しだすのだから過ぎた欲得の損得勘定や思惑がないのに、何かと理由をつけて断ることを優先したり、感謝以前に気兼ねすることが先になったり、直ぐに儀礼のお返しを考える人は、人と素直に接し触れ合うお互い様の喜びや分かち合う喜び感謝の気持ちが失われています。 
すなわち心・絆をつなぐ為のキャッチボールが下手な人になります。
そのキャッチボールが出来ない隔たりや差のある人に限って、自分に都合がいい事だけを喜んで受け取る「良いとこ取り」の差別意識を持っています。 だから心の感謝ではなくて儀礼に捉えます。

すなわち、人の目を気にしたり、見た目の外見・形ばかりを気にして暮らすことよりもっと大事なことがあるのです。 それも多くはありません。 たったのひとつの愛、優しさ思いやり感謝の愛を大切にすることです。
ひとつの愛ですから、世間で言われる偽善の愛、他の愛には関わらなくてもすむのです。
すなわち世間の常識で形作られた伝統や風習や道徳から出る「形」は愛ではありません。

真心から出る愛に形はありませんが、良い悪いで判断している人間が作った形には良いと悪いの裏と表の矛盾とその差が必ずあります。
だから形にするのは「私」を出して、良いところの己を主張顕示して他との差を示したのです。 だから、その差のある人間が形作ったあらゆる形には愛はありません。 
それが恋愛でも結婚でも家族や親戚であっても、表し示す形には愛はありません。
その心から出るひとつの愛、優しさ思いやり感謝の愛が無ければ、それは他と差を付け合う比較競争関係や束縛制限支配する関係や思惑を裏切る関係しかありません。

とは言っても今の人間に本質の愛(役割個性)を持っています。
ただそれを素直に出せないで居る限り不完全な愛であり、言うだけや聞くだけの愛、思い考えた非実在の愛で生きていることにもなりますから、実在する万物の愛・人の愛に直接接し触れ合うことが出来ないだけに、この世に生まれ育ち死ぬまで孤独な生涯となるのです。
だから、世間的な不完全な夫婦や家族・親戚・地域などの差のある偽善の絆に頼ることなく、今の自分に出来るあるがままの自力・役割を通して、一人でも多く人と愛の絆で接し触れ合うことが出来るように実践していかなければならないと確信しています。

しかしそう簡単ではありませんから、せめて嘘偽りの無い自然界に身を置いて孤独を楽しみながら、時々と続いている感謝し合えるご縁の人を大切にして、また共に未熟ながらもご縁あっての真理を学ぶ仲間と共に接し学び合える事を生きる糧にして、あとは食って寝て糞をするだけのような生活を続けながらも、それらのご縁の絆が愛の絆になる事を待ち続けながらもそのキャッチボールを楽しみ続け、それでも急ぎ慌てず、過ぎた思惑・欲を出さないように、その自己縮小の実践を躊躇わずにして、ただただ生きていくことを意識しているところです。

ど根性魂、何糞魂は差を付けたがる差別意識

2008年12月29日 | Weblog
自分さえ良ければの個人意識には「私」があり、私があれば不平不満を持つようになり(点が線になる)、不平不満が「私が正しい」になり、私が正しいが「思い通り」にしたいになり、思い通りにしたいのが「野心」になります。
すなわち「私」には愛が無いのです。
その「愛」が無いのに、嘘の愛で愛していると言っていると自分を偽っていることになり、それが自己不信につながっていきます。
その自己不信が原因で「劣等感」を持つようになり、その劣等感があるから自尊心・プライド・優越感を持つようになります。

そして「私」には表と裏の差と矛盾を持っていますから、その矛盾が原因で思い考え混乱し葛藤することになったり、表の未来を憂いたり裏の過去を後悔することに執着したりして、表裏の無い「今」という実在で「今を生きる」事が出来なくなっています。

この「私」という点が伸びて線になるという自己拡大をやめて、反対に自己縮小することで特別意識の野心が消え、思惑が消え、私が正しいが消え、不平不満が消え、そして「私」が無くなり、我愛なり、我神なりを自覚できるようになっていきます。

自分が良くなりたいという思惑をしょっちゅう持って生きていますから、思い通りになって自己満足・慢心したり、反対の結果になれば不機嫌になったりと、非実在の喜怒哀楽の思いで生きることになります。
この思惑が叶わないことで失意のどん底に落ちたり、自信喪失になったり、自己嫌悪になったりしますが、その反動で「何糞魂」になって過ぎた努力を重ねることが美に思われていますが、人より差を大きく開けて自分が特別になりたい欲が出ただけです。
だから、ど根性魂や何糞魂は美でも愛でもありません、自己保身・自己拡大の野心が美化されているだけです。
ど根性魂や何糞魂で人と差をつけることが(結果がどうであれ)善しと思う不完全な意識があるから差別が無くならないのです。
その差別があるから自由が感じられないのです。 すなわち平等・自由が無いのです。
すなわち結果は良く見えても、原因に「自分」さえ良かったら他はどうでもいいの偽善の結果なのです。 それが指導者・リーダーであり、ヒーロー・主人公であり、勇者・英雄と言われ褒め称えられている形です。

そんな差を付けたがっている人々が差別・格差社会を築いているのに、それらの人が差の無い自由平等を言うことに矛盾があるのに、それが「正しい」ことに思われています。
すなわち「自由平等」は言うだけ、聞かせるだけ、思わせるだけの実現性のない理想目的の絵に書いた餅になり、真面目真剣に取り組んではいないのです。
だから「他力」に文句を思うより先に、自らが差をなくしていかない限りその非実在の差に己が迷い惑わされ悩み苦しむことになるだけです。

だから、差を付けたがる思惑を持たないためにも自己縮小が必要になるのです。
その自己縮小に欠かせないのがお蔭様の「感謝」の心です。
そのお蔭様が空気や水や万物であり、お互い様の我々人間です。
すべてのお蔭様とお互い様で生かされ生きていることを忘れてしまっているのです。
「雨やんで傘を忘れる」ように、「純粋」な恩や義理や人情を忘れたためにアリガタイ感謝の心が出なくなったのです。
「純粋」=個人意識の思惑から出る「感謝」恩や義理や人情とは違います。 


「愛している」の言葉は嘘偽りの愛になる

2008年12月28日 | Weblog
映画やドラマの純愛物や恋愛物で愛がよく使われますが、愛していると「言う」のも、「聞く」のも、それは嘘偽りの愛の言葉になります。

真の愛は「与える」ものでも、「求め得る」ものではありません。
真の愛は「出す」ものではなく、ただ「出る」ものですから、「そのまま、このまま、あるがまま」が愛になります。 それ以外の愛は思惑期待が隠れている偽善の愛であり、特別仕立てにした差のある偽善愛になります。

だから、「愛している」と言うのは、言って聞かせることで自分が何らかの得をしたい思い思惑があっての愛の言葉ですから、誰よりも自分が得をしたいという思惑を隠した言葉になり、誰よりも自分を愛しているという裏返しの言葉になります。

私を「愛している」のと聞くのは、相手を信じていません。 すなわち相手を信じていないから聞き正したいのです。
人の愛を確認したいのは人の愛を感じていないからです。 愛を感じていたなら確認する必要はどこにもありません。 すなわち愛は言ったり聞いたりするのではなくて「感じる」ものなのです。 
愛を感じられないから、愛の言葉を聞いて確認して自分が「安心」していたのです。 
すなわち相手を信じていない不信感と、自信喪失の自己不信があるのです。

プレゼントを欲しがるのは、愛を感じられなかいから形で確認納得しておきたいのです。
プレゼントを差し出すのは、愛が出て無いから形で誤魔化しておきたいのです。
だから、人に差し出すプレゼントを裏返せば相手のことを思ってではなくて、先ずは自分の為・自己保身に差し出していることになります。
※ プレゼントすることを教えている(洗脳)CMの影響もあります。

見えない形の無い愛を形にすれば「守り」になります。 守りには守るべき「差」があります。 差があることは他と違う特別になりますから、人より違った差を付けて威張りたがる特別人間・差別・救世主意識の人になります。
だから愛・神を形にしている偶像に愛があると思わせている形があります。 
あらゆる形・言葉に洗脳が隠れています・・・ 見える形・言葉に「力・エネルギー」が無いから、その「力・エネルギー」が有るように思わせるのが「洗脳」なのです。
企画演出装飾された純愛や恋愛や義理や人情の中にも嘘の愛を教える形があります。 そして知らず知らずの内に思い込み信じてその真似をして踊らされているのです。
だからいつまでも実在する愛を知らない無知が続くのです。

※ 実在するエネルギーは万物の意識にエネルギーが有りますが、外側の見える形にはなくて、見えないところの意識にエネルギーがあります。 すなわちガラスコップにエネルギーが有るのではなくて、形を成すに至った原因のガラス(粒子)に力エネルギーが実在していると言うことになります。

人が愛を欲しがるのは寂しいからです。 その孤独感から欲しがって得た愛は自己愛の愛ですから、その偽の愛で誤魔化して裏切り続けているから、自分も裏切られることにもなります。

人が求める愛は宇宙そのもの、あるがままのすべてが愛です。
私達は「ひとつ」の愛の中に居るのですから、求め探さなくても、有るものをただ感じればいいだけです。 その為に自己縮小が言われているのです。

あるがままの空気・水・氷のように気体・液体・固体だったりする万物(多神)が愛なのです。 愛以外は実在できない仕組みが「ひとつ」の宇宙(一神)にあるのです。 
それを「完全」と言い表していますが、この事を丸呑みの鵜呑みにしても弊害副作用はまったくありません。 それは完全だからです。


感謝される人、感謝する人、ありがとう、ありがたい、の違い

2008年12月27日 | Weblog
真理を深く知ることも大切ですが、実践しなければ何の意味もなくなってしまいます。
その実践意識の中に「雨やんで傘を忘れない」「感謝」が出来る人になれば愛の人に相応しい意識を持ったことになります。

有り難うございますと感謝されて悪く思う人はいません。 何度感謝されても嬉しいものです。 それだから「感謝される立場」になろうとしている人も多いと思います。 それが慈善事業や奉仕活動や救済援護・擁護活動などの名目で現れています。
しかし、感謝される立場に立てばそれが自己満足にもなり、しかも「私は正しい」ことをしていると自惚れ慢心になりやすいのです。
その自惚れ慢心や自己主張になれば、己の名誉名声を望んだり、自分の実行力の肩書き名刺を得るなどの思惑とその期待の欲になり、それは偽善となります。

・・・それが感謝する側だと・・・ 
人様の行為のお蔭様に感謝して素直に「ありがとう」と言ったことで、相手もそれに応えたような喜びの笑顔が返ってきた時に、私の中にもその喜びが伝わって来て、なんとも言い表せないような爽快な気分になった時に気付きました。
感謝される立場ではなくて「感謝する側」の人になれば、人を幸せな思いにさせるだけではなくて自分も幸せな思いになれることを知ったのです。

それ以来しぜんと有り難うの言葉と喜びの笑顔が出るようになったのですが、それでもまだまだ未熟なところがあって、事前に何かを察知するとそれが思惑がらみになって、その思惑と違えば感謝する心に差が出て、ありがとうの思いはあってもアリガタイ感謝の心が出ていないのです。 すなわち自然体とは違う事前に思惑を持っていたからです。 それに気付いてからは思惑を持たないように心がけてはいますが、それが中々の曲者でして、その思惑を断ち切ることは至難の業のように思っています。

それをきっかけにして気付いたことが、事前に予測推測する「思惑」に左右されている自分の心・意識があることから、その思惑が外れて気落ちしたり、わびしい思いや孤独感が出ることもわかりました。 
すなわち、人それぞれが自分さえ良かったらの個人意識の思惑を持って動いていますから、自分の判断が必ず相手にとって的確とは限りません。
だから相手先の良い結果になるだろうと思惑を持って行うと、いらぬ口出しやお節介になる、お仕着せ強要になる、いらぬお世話を買って出たことになる、でしゃばった事・・・になるのです。 その原因は相手も先入観・予測推測・思惑を持って応えているから、それが行き違いやすれ違いで誤解・勘違いされたりするからです。

すなわち相手がいる場合は・・・必要とされてもいないのに「自分だけ」の判断や思いで簡単に行動に移すものではないこと、それがありがた迷惑になること、それが続くと嫌がられることにもなります。 
だから見掛けや先入観で余計な動きをせずに(動きたがらずに)余裕で待ち、求められ必要とされたときに即座に行動に移せるだけで十分なのです。
余計なことを思い考えないで、その場の成り行きから自然に出て気付いたりしたことを即座に隙間を挟まないで率直・素直に表現したときは必然になり相手に届きます。
それが欲の無い、自分に出来るあたり前のことであり、それが役割を果たしていることになります。 
その役割の質の違いは人それぞれに違いますが、量・回数の差はありません。

何かと親切心を出して感謝される立場になることを考え、自分勝手な判断や思惑を挟まないことです。 だから予測思惑から前もって買って出るものではなく、または偽善の優しさ思いやりの親切心や人の苦労を買うのではなくて、必要とされたときに自分に出来るあたり前の役割を果たせばそれが愛になります。
だから差をつけるような特別なことを思い考えるのではなく(目的や理想を持たずに)、今の自分に出来ることをあたり前にやっているだけで十分なのです。 

だから「あるがまま」の自然体で今を生きることが必要とされているのです。 

様々な価値観の違いが恋人・夫婦・家庭関係に影響している

2008年12月26日 | Weblog
我々人間は自分さえ良かったらの個人意識を持っています。
その個人意識の中には良い悪いで判断する差別意識があります。
そして自己保身の守り意識を持っています。

個人意識には良いと悪いの表裏を持っていますから、幸せがあれば不幸があります。
それでは「幸せ」とは何でしょう・・・ 不幸でなければ幸せでしょうか、そして幸せでなければ不幸でしょうか、幸不幸の境目線引きは何処にあるのでしょうか・・・ それは人それぞれの価値観の違いで決まる「己」の思い、己個人の意識にあります。
100円の価値は100円ですが、100円の価値観は10円だったり1000円だったりして、それぞれによって価値観が変わりますから不動ではありません、すなわち価値観は己の思いだから非実在で不完全なのです。 不完全であれば実在できませんから幸不幸は非実在で無いのです。 無いのに勝手に有るように思っている思い込みや思惑の中に有るものです。
すなわち自分だけの思い込み思惑で生きているのが個人意識の私たちですから、全ての人にそれぞれの思い込みや思惑が違ってあります。 すなわち価値観が違う者同士が寄り集まっている国家・社会・地域・家庭なのです。

人を好きになる恋愛も思い込み思惑で好きになっているだけだと、思い込みや思惑が違ってくると嫌いになっていきます。
そんな者同士がめでたく結婚しても互いの価値観の違いで擦り違い行き違いの摩擦や衝突が有って当たり前になります。 そして幸福に思ったり不幸に思ったりしながら互いの関係を保とうと努力します。 でもいくら努力しても互いの溝は埋まりません、何故なら自分さえ良かったらの個人意識とその価値観の違いがある限りどうしょうもありません。
それが私たち人間社会です。 その社会や家庭を幾ら闘い守っても互いに自己満足するか、不平不満に思うか、それとも裏切って切り捨てるか、だけです。

何千人の友達がいても、真の友達は一人もいません。
何千人の先生や先輩後輩がいても、誰一人本心から信頼していません。
自分と言う「私」が先にある限り、言うだけ聞くだけ思うだけの関係になります。
すなわち相手の性ではなく、自分の意識に問題があるのです。
だから孤独に生きることにもなっています。
その孤独を不平不満に思えば孤独感に変わります。
幾ら衣食住・財が有って、そこに大勢が寄り集まっていても、孤独感が出て来ます。
恋人や夫婦が肩を寄せ合っている中にも不信感があります。 その不信感が孤独感にもなります。 それは心が通じ合っていないからです。

互いの心に通じ合う、響き合う、心に届き満たし合える、真の心の友が一人でもいれば、その人を何よりも(衣食住・名・権・財よりも)大切に思う感謝に満ち溢れた絆で結ばれますが、それには先ず先に己が優しさ思いやり感謝の愛の人にならない限り、不完全が完全と絆を結ぶことは無理なのです。

だからせめて未熟同士でもいいから、(心が通じ合わなくても)一人でも多くの人と共に分かり合える仲間として接し触れ合うことにでもなれば、今を生きていることに花を添えられたような思いとそれが自信となって、今以上に自己縮小の実践が楽しくなっていくでしょう・・・と、・・・このような「思惑」を持つことが自己拡大にもつながることを知っていますから、今は思惑・期待を持たない「あるがまま」の実践を意識しているところですが、それこそなかなか思い通りには行きません・・・たぶん自力では無理でしょう・・・
それでも諦めずに実践意識を持ち続けることが大切なことを知っていますから、その点なら大丈夫でしょう・・・ これが自己満足であり主張顕示となります。 もうどうしょうもないですね・・・m(__)m だから・・・よい子は真似しないでね・・・


いつの時代も豊かさと差を求めていた過ちに気付く時

2008年12月26日 | Weblog
世間的な暮らしをしてきた私が過疎地に移り住み月5万円の年金生活を始めて9年目になりますが、日々食って寝て糞をするだけのような暮らしぶりが根に付きだしたころから、豊かな生活のことよりも心の豊かさをしみじみ感じ始め、過去の華やかでカッコよくて少しでも豊かな生活を追い求めていたことや、あらゆることにおいて比較競争して他との差をつけることばかり考えて一生懸命に頑張っていた頃のバカバカしさが思い起こされました。 それだけに山田耕栄さんの言われる完全真理が素直に理解できました。

今も尚多くの方々が経済優先の豊かな生活を目指しているのですが、今現在でなくとも、過去の人も皆同じでした。 
弥生時代であれ、平安時代であれ、徳川明治であれ、昭和平成であれ、時代が変わっても皆同じように豊かさを求め、差を求めてきました。
どんなに時代が変わっても、人が求めてきた本質は過去も現在も何ら変わりありません。
人間が歩いて移動していたのが馬や荷馬車になり、自転車・オートバイ・自動車・飛行機と進化拡大しただけです。 棍棒で闘っていたのが槍や鉄砲になり、機関銃や大砲になり、今や核爆弾の脅威にまで進化拡大してきただけです。
危険と隣りあわせで豊かさを求めていたのはいつの時代も同じだったのです。
だから今の平成が明治であっても人間の生き方・意識・本質は何ら変わっていないのです。
すなわち過去の積み重ねの繰り返しをしているだけです。
豊かになって差をつけることしか意識になかったのです。
自分さえ良ければ人を押し退けても平気でいられる時代が延々と続いてきたのです。

今の私は昭和40年頃の一般的な生活に相当する生活状態ですから(過疎地での年金暮らしに変わったが)、戦後の生活よりも豊かで恵まれた生活になります。
その年金暮らしを選ぶ以前まで続いていた生活の安定とより豊かさと差を求めてやっていたことが如何に無駄なことで、その止まることを知らない欲望の先にあるものが何かを見極め気付いただけに、もう二度と豊かな生活を求めることはありません。 それよりも完全真理を知った以上は、形の上での自己縮小だけでなく、自分さえよければの自分中心の個人意識を少しでも無くして「心の豊かな生活」に意識を向けて続けていくだけです。

相変わらず世界情勢は混沌としており、地球温暖化の影響がどんどん進行しているし、平成の恐慌が吹き荒れているこの頃ですから、この先いつ困窮した生活を余儀なくされるかわかりません。 それでも尚豊かな生活を求め続け差をつける方向を選択したまま生きるのか、今から「心・意識」の世界を選択した生き方に意識が向くのか、この選択には大きな違いがあります。 その選択を誤ったことに気付いても後の祭になり、もう二度と選択をやり直すことは出来ません。 
それをやがて我が身で知ることになります。
人間の本質が意識・体であったこと・・・ 自分が意識しているところに自分がいること・・・ その行った行き先で我意識体が気付くことになります・・・ 生活の豊かさではない心の豊かさ・・・ 我神なり、我愛なりを自覚することだと・・・


今を生きている実在の世界と思い考える非実在の世界を往来している人間

2008年12月25日 | Weblog
こうして「今」を生きているのは愛であり実在になります。
ところが、頭で過去や未来を思い考え想像しながら生きている非実在の世界があります。
すなわち、実在する世界と思い考えている非実在の世界を行ったり来たりしています。
すなわち実在の表側と非実在の裏側を無理やり結び付けて往来しているのが私たち個人意識の人間です。

思い考える非実在の世界が単なる想像空想の夢物語だけであれば問題なかったのに、実在する今の生活で満足できない人の個人的な思惑・欲から、単なる空想夢物語を夢ではない現実に無理やり橋渡しをして、この世に如何にも実在するかのように見せ掛けたことから、非実在の無いものを実際に有るように錯覚勘違いしてしまったのが私たち人間です。

今を生きているだけで満足していれば、思い思いに自分の夢を描いても、それを実際に手に取り握り締めることが出来ない非実在のものを欲しがることはありませんでした。
しかしながら、今を生きているだけでは物足りないと思ってしまった個人意識の人は、実際に接し触れて実感できないもの(心に届かないもの)を、如何にも握り締めて実感しているように思い込むことで、確かに実在しているかのように思いたがっているのです。
すなわち「思い込む」「思いたがる」という自己暗示・他者暗示に掛かってしまっているから、「今」ではない記憶の過去や想像の未来を往来しながら生きているのと同じになります。 まさに現実ではない夢幻の世界でさ迷っているのと同じ生き方なのです。
・・・だから借り物の衣装である生身の肉体が滅びた時も、実在する命・意識までが世間で言うところの霊界でもさ迷い続け、本当の成仏ができない為に何度も人間に生まれ変わって輪廻転生を繰り返してきたとも言われるのです・・・

生身同士の人間が直接触れ合って実感することで皆が自由平等で楽しく生きていけるのに、何で非実在の世界に命・意識を向けているのでしょうか・・・ その原因は、人と違う「差」を付けて見せびらかしたい思惑や自己満足をしたい欲と、せっかく苦労して手にした差を「守り」続けていたい自己保身があるからです。

その「差」が何かと言うと、「ひとつ」のものを分離して「良い悪い」善悪・優劣・損得で比較競争して差を得たと思っている、思いの中での差、想像した差です。
思い想像した差ですから、それを実在で見せることは絶対に出来ないのに、自分さえ良かったらの個人意識の人が皆で寄り集まって互いに思い考え想像することで如何にも実在する形格好になって、その皆が持っている差を互いに見せびらかして自慢する形になり、それが我も我もと拡大(自己拡大)しながら今も尚続いているのです。
しかし、その良い悪いの差の為に「人を責めたり、自分を責めたり」して、それが不平不満になったり、それに執着するあまり苛立ち不安心配になり、そして怒りや恐怖になり、更に憎しみ嫉妬・仕返し報復復讐になり、それがやけくその破壊行為や自滅行為にもなっています。

良い悪いで比較競争して手にした名誉肩書きの権威権力は非実在です。 実在するところの意識の世界では無用の長物で、行くところに行けない邪魔な荷物になるだけです。
しかも、人間が生きていくために必要な衣食住・財までが比較競争差別されていますから、それら差を守るために他と諍い争い戦うことも、更に多くの差を欲しがることも正しいことに変貌し、それが私は正しいの正義感になり、自分を守るためなら人と人が殺し合っても仕方が無いという戦争までもが正当化されている時代が延々と繰り返し続いてきました。

もうこの辺でいい加減に終わりにしなければ地球・人類が滅び去るところまで来ています。
その事に早くから気付いている人も多いと思いますので、人類が滅びてしまう前に一人でも多くの人が我神なり、我愛なりに覚醒・目覚め自覚すること(即身成仏)を宇宙・神・愛の一神が(多神の人間を)ギリギリまで待っていてくれているようです・・・


良いことが悪いことになる矛盾がある

2008年12月24日 | Weblog
「守り」意識の中には善と悪があります・・・だから善を守っている「私は正しい」があり、相反する悪が存在していなければ善なる「私」が存在できなくなります。
「守り」意識が戦争になる・・・守るためには誰かを悪に設定して戦う必要がある、それが比較・競争や差別・戦争になっている。
「守り」意識には愛が無い・・・不安や恐れから守ることは、他を信用していない「不信感」があるから、すなわち優しさ思いやり感謝の愛が無い。

「損」をしたくないから常に比較競争し・・・見掛けの上っ面ばかり見て中味を見ないで・・・勝った、負けたの薄っぺらな人生を急ぎ慌て駆け抜けていくことになる。
「損」をしたくないから「得」をすることを常に意識している・・・だから我先に得をすることばかり考えている・・・すなわち自分さえ良ければ人のことはどうなってもかまわない。
「損」をすると自分が劣る立場になるから・・・得をしている相手を羨み憎み嫉妬する・・・だから「人の不幸が自分の幸せ」に思える。

「劣る」立場になりたくないから・・・自分の優れたところを思い考え想像して探し出し・・・そして他を劣る立場にしたがる・・・それがプライド・虚栄心。
「劣る」と思うことは・・・優れたものを得られなかった反動・・・すなわち相反するプライドを欲しがっていたのです・・・しかも自己暗示で自分にはプライドはないと思っていても・・・潜在意識では確り持っており、それがばれないように隠していたことになります。

「良い」ことがあれば、必ず「悪い」こともある・・・
買い物をして生活が良くなっても、お金が減って悪いことになる。
買い物をして生活が良くなっても、自然環境が悪くなる。
買い物をして生活が良くなっても、直ぐに飽きて満足できない悪いことになる。

生命が生まれても、それが病や死に至る。 喜びのあとに不安・恐れが出てくる。
健康を思えば、病気を苦に思うことになる。
飽食を知れば、貧食が耐えられなくなる。
富を得れば、貧することが怖くなる。
名誉名声・権威権力を持てば、失い汚されることを心配する。
安心安全を守れば、それを失うことを恐れる。
善で悪を罰すれば、もう善ではなく悪に変わる

万物お蔭様の感謝・お蔭様のエネルギーの実在を知れば、それが万物の命・意識であることを知る。
お蔭様の「感謝」を知れば、すべてが愛になる。
お蔭様の「感謝」を知れば、すべてが差の無い「あるがまま」になる。
お蔭様の「感謝」を知れば、我神なり、我愛なりを自覚することになる。
それ以外は思い考え想像する非実在の世界だと気付くことになる。 
過去の記憶・知識体験経験が必ずしも正しいとは限らないことを知る。 
すなわち全てが矛盾するものであり、中途半端で不完全な形・結果だと知ることになる。

完全なる実在するものは命であり、それが意識であり、それが神や愛と言われるものであり、実在するものには完全なエネルギー・全知全能があることを知る。
それを教えてくれているのが「完全真理」であり「ファバラ」エネルギーです。

思い込み決め込みがあれば本物には巡り会えません

2008年12月23日 | Weblog
個人意識の人には先入観や思い込みを持っていますから、あれは良いこれは悪いと思い込んでいることに自信さえ持っています。
例えば、真理を語るものは清廉潔白でなければならないと思い込んでしまっていると、汚いと思い込んでいる排便ウンコの話や、下品に思っている下ネタや、心が汚れると思っている金儲けの話は違和感を持って嫌がります。
だから真理の講演会で一律定額の参加費を集めていることは金儲けにしているから正しくないと思っていて、人それぞれのお心任せにするのが正しいと思い込んでいる人もいます。
また人救いの奇蹟が起こるような商品を売るのではなくて、人助けに成ることなら善意で寄付したり困っている人に無料配布して大勢の人に喜ばれることをしなければ真理を語るに相応しくないと思い込んでいたりする人がいます。
何かと良いと悪いで分離判断して、その善なる「良いとこ取り」をして、それが正しいと勝手に思い込み、それ以外はインチキ詐欺・カルト・偽善に決め込んでいる人もいます。

だから、立派な教会があれば善と思う人や反対に教会を持っているのは儀善だと決め込んでいる人もいます。 また、それらしい格好をしているのが善で、似つかわしくない格好で来るのは儀善だと決め込んでいる人もいます。
また、会場が騒がしいのが気になる人、静寂で威厳を感じられるのが良いと思う人、立派で華やかに企画演出された会場を素晴らしいと思う人、質素な会場でなければインチキ臭いと思う人など人様々ですから、その様々な形があります。

ところが、中身を知る前に見掛けで判断しているのであれば決して本物には巡り会えません。 あちらこちらと探し求めて見学見聞するばかりで無駄になります。 
もしも見た目や姿形で本物が見極められているのなら、本物はひとつですからこの世に雑多の如く乱立しているはずはありません。
すなわち見掛けで判断しているから本物に巡り会えないのです。
または本物ではないのに本物だと思い込んでいる洗脳が隠れていることもあります。

私達は上っ面の形を見て判断することばかりして、なかなか中味を見ようとはしません。
また、一度思い込み決め込んだ(私は正しい)からなかなか離れられません。 しかもそれが植え付けられた洗脳の一種だとは気付いていません。
だから、聞き慣れない新たなことや自分が知らなかったことを信じようとはしません。
それが自己保身の「守り」になり、その守りには必ず不信感を持っていますから、自分しか信じていない「私は正しい」の主張顕示になっているのです。

真の本物は表にも裏にも存在していません。
表と裏の差の中には本物は実在できません。 すなわち、本物は完全なところにしか実在できません。 裏表の矛盾や中途半端な妥協の不完全なところに完全が実在できるはずもありません。
完全が思い考え想像する頭の記憶の中に実在できるはずもありません。
言うだけ、聞くだけ、見せるだけの世界に完全が出てくるはずもありません。
優しさ思いやりの愛・感謝が無い人に完全を自覚することが出来るはずもありません。

その優しさ思いやり感謝の愛が完全なのです。 
完全な愛は一神にして多神、多神にして一神の「ひとつ」しかありませんから、それ以外は不完全になります。
すなわち、「ひとつ」の神であり愛である万物の中の人間(多神)が本物の実在する愛を持っているからこそ、この世に実在できているのです。
だから、人間は愛の人なのです。 
そのことを人間が忘れていても愛の人にはかわりはありません。
だから、忘れていた我神なり、我愛なりを自覚すればいいのです。
それ以外のことを幾ら何度繰り返しても無駄骨になります。
だから先ず最初に完全真理を学び知ることから始めることが大切になるのです。

思想主義国家の「切捨て」「使い捨て」人間

2008年12月23日 | Weblog
正しい事を教えているのが教育ですが、国語や算数などの基礎学習以外は必ずしも正しいとこを教えているとは限りません。
例えば、過去の社会歴史が本当だと証明できる確かなものは有りませんから、各方面の専門家の間でも諸説が飛び交っています。 だから何を教えてもどれが本物でどれが偽物かわかりません、すなわち完全ではない不完全な事を「正しい」と前提した教えになっていますから、完全ではない嘘偽りを教えているとは全く気付いていません。

忠実に再現できない不確かな過去に拘ってまでなぜ教えようとするのか? それは定かではない事を正しいと主張顕示してその不確かな事を「正しい」ことに装っていたい何らかの思惑・欲が隠されているのです。 その事例は過去にたくさんあります。
だから他の科目も一定の基準を「正しい」ことのように教えて皆の意識を統一しておきたい思惑・欲が見とれます。
すなわち皆の意識を支配しておきたいから詰め込み洗脳教育で思い込ませているのです。
それが証拠に世界国家で様々な思想教育が成されているから、その思惑通りの思想主義主張の国家が起立されている事実があります。 そして違反するものを処罰して排除するための規制制限制約罰則規定が必ずあります。 だからいずれの国にも自由も平等平和もありません・・・と言うよりも・・・「私が正しい」と言い訳正当化して皆が我先に競い合い奪い合っているのだからどうしようもありません。
その皆が皆して競い合い奪い合っているのを巧く利用して、もう一つ高い位置から皆のものを奪っているのが一握りの支配者やそのリーダー格に位置する人なのです。
すなわち、一部の人に牛耳られている世界国家があり、それをまた牛耳っている国家社会があるということです。 そして我々は「切捨て」「使い捨て」人間なのです。

しかしそれら国家社会を個人の力で改革することは出来ません。 また大勢の人が集まって改革を実行しても、過去のように三角が四角に変わるくらいで大した変化は望めません。 
だからそんな国家社会に頼らずに自らの力で自らの意識を変革改革していかなければ、結果的には自らの首を自分で絞めていく自滅の道を選択したことになります。

そうならない為に「完全真理」を学び知り、その実践をやり続ける事が出来る人が少しでも増えていけばいいと思っています。