矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

<読む気>にもならないような小さな内容の中に人間本来の真実が隠れています。

2015年04月30日 | Weblog
私が過疎地に移住する手続きをしている中で届いた郵便物を転送する手はずがあると聞いたが、わざわざ過疎地に配達してもらうのが気の毒なことからして、その手続きをしませんでした。
それが裏目に出て前回に書いた米納入更新手続きのミスが起きたとも言えるのです。
然るに郵便が届くのは地元の役場関係だけです。
そして玄関先に届ける無駄を省くために自宅付近の町道脇に郵便箱を置いています。
また便利なネットショッピングを何度も使うために、その宅配業者のために地元の営業所止まりやコンビに扱いにしているのもあります。

然るに自分のことばかり優先しない(見えない相手を思いやる)昔人間・昔気質を持っています。

ところがご苦労なことにわざわざ来訪してくる人が時たまいますが、それは宗教の布教宣伝に来る人たちです。

また牛舎のオーナーの後片付けがお粗末なのでその翌日はその後片付けからはじまりますから、私はその給餌が終わればその後片付けをしっかりしてから勤務を終えます。
また翌日の給餌がオーナーの担当日であれば、その飼料を運ぶ台車を満タンにしてから勤務を終えます。
また田植え前の草刈を二箇所ほど毎年頼まれていたので、最近では頼まれる以前に自主的に始めるようにしました。
またスーパーでレジ清算するときには小銭の金額を確かめて手の平に握ったままに順番を待っています。
また私の後ろに一品二品手に持って来る人がいればその清算する順番を譲ります。
また移住以来暇つぶしに付近の草刈を始めだしてから到る所にワラビやフキが増えだしたので、そのワラビやフキを(自然の恵みとして・見つけた早い者勝ちにして)採っている人を見かけるようになりました。

そんな些細なことに気を使うのも快いものでその満足感を味わえます。

また人の知らないことを私が知っていることも満足感になります。
また人が見たことも無いことを私は見ているからそれが満足感にもなります。
また人が出来ないようなことを私がしていればそれも満足感になります。

然るに銭金を出して味わっている苦楽の伴う自己満足とは異なります。
然るにそれが自力であり自信であり精神力だと思っています。
だから孤独であっても孤独感には至らないのです。

そして欲張らない自己縮小の実践中ですから、
それが未熟だった釈迦やイエスやまた霊能者や耕栄さんの実践力を超えたものとしてその満足感を味わっています。

しかし私の自力を出してその結果を出す=その実力・実績たるや=ごく当たり前の=普通=です。

然るに誰もが持っている自力と同じであり=誰にでも出来る普通なことばかりです。
なのにそれらを特別のように根堀り葉堀り書いているのは何故でしょう、

それはこの世で事を成す諸々の「偉業」には偽善・矛盾があるが、しかし小さな当たり前の普通の中に隠れた真実があるからです。

だから読む気にもならないような些細な事柄の中に真実が隠れていたりするのです。
なのにこの世で事を成すこと=偉業を成すことに忙しくて、些細なことに気遣っていられないのです。

然るに大=自己拡大を成す人にはその大が重要になるのです。
だから世間に目立つことにもなるのです。
しかし小=自己縮小を成す人にはその小が重要になるのです。
だから世間には目立たないのです。
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巷の精神世界は=暇な人同士が好む=趣味嗜好娯楽的な形になっているのでは…

2015年04月29日 | Weblog
昔ほど(苦労せずに)楽に生きることを強く望み願っていました。

ところが時代が進化して楽に生きることが現実になると今度は楽しく生きることを望み求めるようになりました。
然るに趣味嗜好娯楽・変化刺激・快感快楽が生き甲斐が如くになりました。

だから暇で退屈したときに身近な映画・テレビ・小説などから変化刺激を求めてそれを味わうご時勢にもなりました。

然るに精神世界のブログの中にも、暇な書き手が話題性を踏まえて意図的に書いた形、また変化刺激に富んだ山あり谷ありの矛盾の人生物や人情愛情物などの形に、同じ暇な読み手が集まっているような感じがします。

それが意図的に創作したものであれ、それが矛盾に揺れ動く己の中の事実にせよ、人が集まるように仕向け美化したことに変わりはありません。

然るに人のことが気になる人に(私生活を意図的にのぞき見させるように)=見せることの出来ない=己の内なる思いを=おおやけに広げて見せびらかすことで=多くの人の関心を引き寄せたがる=その目論見が隠れています。

それをハッキリ言えば、生活時間に余裕がある暇人が書いたブログを同じ暇人が趣味嗜好娯楽が如くに読んで(のぞき見ることで)満足し合っているとも言えるのです。

然るにこのブログも同類ですが、
しかしドラマが如くの(矛盾する)義理人情や温情愛情を題材にしているのではなくして、
誰も見ることの出来ない神仏霊魂・精神世界の不完全さ矛盾を明らかにし、その新たな事実・真実も矛盾無く詳細に書いています。

またこの世人間界の矛盾を精一杯味わってきたその事実からして、その裏も表も明らかにして(私の思いを)書いています。

そしてまた時代に逆行するが如くの(昔人間が望み求めていた)少しでも「楽ラク」に生きることの実践でもって、その事実とその真実を根堀り葉堀り書いているのです。

然るに暇人が求めている趣味嗜好娯楽的な精神世界でもなく、また実践が伴っていない理想目的を掲げているのでもなく、また己の思いを装飾美化しているものでもなく、

真実の精神世界を学び知りたがる人=真っ当な生き方を模索している人=「真人間」になる人=に役立つブログになっているのです。

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精神力の弱い=<他力>VS<自力>=成り行き任せの自信とその精神力

2015年04月28日 | Weblog
自力は内=原因=なるのも、そして実力はその=結果=だと思っています。

然るに私の過疎地暮らしは結果ですから、然るに大した実力ではありません。

しかし自力と自信=精神力=でもって生きています。
しかし内なるものですから、誰も見ることは出来ません。

ところで超能力・霊力・念力の類は自力でしょうか、実力でしょうか、
何れにしろその自力を出して見せれば実力になり、それが実績にもなりますから、それだけ世間に目立ちます。


ところで今日のことですが、パート帰りの買い物に行く途中の信号待ちで停車しているときに後ろから軽く追突されました。
しかしナンバープレートが奥に引っ込んだ程度だったのと一車線で後続の停車中の車がいたのと、面倒なことが嫌いなだけに、そこで一言の文句も言わずにそのままスタートしました。

ところで前回に書いたことですが、留守を預かる妻がファックスのインクリボン切れに長期間気付かなかったことや重要郵便物をチェックしなかったことで提出期限切れになったことは、妻と私と担当方の三人に仕組まれたことですが、
その納入停止の結果が出た後(祭りの後)のことですから、今更どうすることもできませんから、然るに妻を責めることも無く、また相手方に問い合わせると蒸し返すことにもなることからして(余計なことに相手を巻き込む心配りからして)そのまま成り行きに任せていました。

ところが三日前に施設の事務方から再契約の話が持ち上がりましたので(捨てる神あれば拾う神ありが如くに)一旦切れた縁が戻るのであればそれも必然のご縁として(来る者は拒まずにして)再契約の書類を提出してきました。

その納入停止の事例を精神世界に当てはめて紹介したのが前回ですが、
今回は仮に私が納入業者に対応する「担当方」に置き換えたなら、その私がどう対応するかの事例を書いてみました。

ちなみに米の納入日に米業者がミスって納入されなくても在庫は充分余裕があるから納入ストップ&業者を切り捨てることはしません。
然るに納入ミスによって給食が出来ずに多くの人が困ったわけでもないし、またインチキ・偽装されたわけでもなく、ただ担当の私一人がヤキモキしただけですから、その私一人が少し我慢すれば問題なく一件落着します。

それを私はいつも仕事を真面目・真剣にやっているから、相対する納入業者も商売だから手抜かり無く真剣にやるべきだとして相手を責める事になれば、然るに私は正しいの主張・潔癖・完璧・正義感であり、それが原因からして己が苛立ち腹立ち不愉快になるだけです。

然るに相手側を責めて自分が得をしたわけでもなく、反対に執着した自分が余計に損をしているのです。
そしてその腹いせ・仕返し・制裁・報復に至ること(納入停止・切捨て)にもなるのです。

だから相手を簡単に許すほうが相手側も自分も共に執着しないですむからお互いに気分は楽チンなのです。
またその対応を相手側がどう受止めようが知る由もありません、私がそれで納得すればいいことなのです。

ちなみに前もっての(前付け)思惑がらみの優しさ思いやりには裏心がありますが、必然のご縁で仕組まれて出た(後付け)結果に対する=優しさ思いやり=には裏心がありません。
ちなみに現れ出た結果に腹立ち苛立てば自分が損するだけですし、それが人に対する優しさ思いやりのはずもありません。

そして内なる(精神的)自力よりも、外向けの(学識知識教養・特殊能力や技術などの)自力をつけて、その実力を世間に見せたがる人が多いことです。

然るに精神世界に関わるからには(神に委ねるが如くの自然体)成り行き任せに生きられる自信と、あまり他力に頼らない、然るに欲張らないでいられる自力の、その精神力が必要だと思っているから、その実践意識を持ちながらにして、私一人の自由気ままな苦楽の無い楽チンでもって生きているのです。


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「孤独感」を消すには、

2015年04月27日 | Weblog
一般世間から離れ、家族親戚から離れ、単身過疎地暮らしを始め、そして真の精神世界を学び知り気付き悟る事からして言えるのですが、人間は「赤の他人」同士の集まりの中で生きていることです。
然るに「孤独」が当たり前なのです。

ところで貴方が見知らぬ赤の他人に道を尋ねられたら気軽親切に応じることが出来ますか、また夫や妻から何事かを頼まれるとどんな対応をしますか、それが貴方の子供だったら、それが近所の人だったら、それが友人知人だったら、貴方はどうしますか、

またすべての人に同じ対応が出来ますか、
それが出来るようになるための試金石が人間関係だと思いませんか、

何はともあれ、その時々の事情で対応が異なることでしょうが、元来自分の思いが先立ち優先されるのが人間の本性&個人意識です。

然るに夫や妻や我が子であれ「他人事は面倒くさい」のが本音です。

しかし本音をさらけ出すと人間性・品格を問われますから、そこで善人に見せかけた対応になるのです。

それが特別な関係の人となれば、なお更に善人・お人よし・善玉を演じたがります。
然るにそれがf不完全な優しさ思いやり・親切気遣い・愛情なのです。

だからその恋愛や婚姻関係や家族親戚関係が破局になれば赤の他人と同じになります。

然るに何事も善悪・損得・優劣で判断したその結果で人間関係が上下左右に揺れ動いているのです。

ところが赤の他人ではないとして人間関係を美化したがりますから、然るにその偽善・矛盾を味わっているのです。
また赤の他人ではないと美化するから=気にするから=その裏が出て、それら多くの人が孤独・孤独感を抱え込むのです。

だったら赤の他人の結び付きを美化しないで=元からして赤の他人同士に思い=その赤の他人が親切に対応してくれれば有難いことになり、それが不親切でもそれが赤の他人だから当たり前になります。

そして赤の他人であってもそれが身近な関係だと同じようなことが何度も起こります。

そしてその赤の他人関係から受けた有難い思いは当然ながら記憶に残りますが、しかしその反対の不親切は(赤の他人だから)当たり前のことになります、だからそんなに根深く記憶に残りません。

然るに親切にしてくれた事ばかりが残り、不親切だったことは忘れていきます。
だから円満な関係が続きます。

ところが赤の他人同士の関係を美化すると(他人ではなくなり)「してくれた事が」=当たり前=になり、反対に「してくれなかった事が」=不平不満=になりやすいのです。
すなわち赤の他人がしてくれた時のような「アリガタイ」気持ちが消えうせて当たり前になっているのです。

だから不平不満になるような人とは一緒に居たくないのが私の本性です。
そして感謝になる人と接していれば私も嬉しいから、そこで何かと親切に対応していたのも事実です。

また私が放任主義で育てられたことも関係ありますが、
私が妻や子の自主性に任せていたのも、感覚的には身近な赤の他人に思えていたからです。
だから未だに妻だから、我が子だから、孫だから、また友人知人だから、ご近所だから、また亡くなった両親・先祖だからと、特別に思えなくて身近な赤の他人と似たような感覚で接しています。

それだけに尚のこと「成り行き任せ」「来る者は拒まず、去るものは追わず」にもなるのです。
然るに「執着」することにもならなかったのです。

そして自分に出来る普通のことを(必然ご縁で)要請されたら(私が欲張って無理していなければ余暇時間がありますから)その都度なんとか対応できます。
それに増して「私が必要とされている」ことが嬉しくも楽しくもなるのです。
だから快く応じることも出来るのです。

ところが相手が「欲張る」と、そのことが面倒くさくなります。
更に何度も促されると「うざい」存在に思えるようにもなるのです。
だから他力依存の人とは「馬が=波長が=合わなく」なるのです。

とにかく他力に依存したがる人ほどそれだけ「欲深い」のです。
しかもそのことに本人が気付かないでいるから「どうしようもない」人間関係にもなるのです。

だから身近な人であっても、赤の他人にして「ほっとく」ことにもなるのです。

然るに人からほっとかれて・見放されて寂しくなるのは、それだけ欲張っていた自己責任があるのです。

然るに孤独感に悩んでいる人は(己の自力を超えたことを)欲張っているのです。
また欲張る者同士が集まっている人間関係だから尚更に孤独・孤独感になるのです。

だから他力に頼らずに己の<自力>に似合った生き方に戻れば、それが孤独であっても孤独感にはならないのです。
然るに特別なことを欲しがらずに=自力=でもって「食って寝て糞」をしながらにして、その当たり前の=普通=に生きていればいいのです。

ところが私の場合は、それが妻には不満になるから、致し方なく単身暮らしになっているだけのことです。
しかも妻からすれば、私が裏切ったことになるから、更に私に対する不平不満を募らせ=執着=しているのが現状です。

だから(赤の他人が如くに)「ほっとく」しかないのです。

すなわち人間関係を気にしない生き方=「孤独」にして生きることになるのが当たり前なのです。

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皆さんの意識しだいでこのブログの価値が決まります。

2015年04月26日 | Weblog
このブログで些細なことを根堀り葉堀り何度も繰り返しているのは完全真理・自己縮小・欲張らずに楽に生きることなどを少しでも早く納得できるようにと思いやって(心がけて)いるからです。
しかしそれが裏目に出れば、何度も読んでいるその先入観からして深く読まないで早読み・飛ばし読みしている人も多いことだと思っています。

またこのブログの中で人間同士の優しさ思いやり、義理人情・愛情などを否定しているのではありません。
然るに円満な人間関係には必要です、がしかし、その裏に隠れた裏心・偽善があることの事実を書いているだけです。

ちなみに今回も米納入に関わる担当者と妻と私の思いを入り交えて書きます。
その担当者は私とご縁があった霊能者も耕栄さんや田舎暮らしにも関心を寄せていた仲間・独身女性です。

然るにその女性は給食担当だけに潔癖性があり、米袋のごみ付着から製造日や小さな異物混入まで目を光らせていますし、また私は正しいの完璧性をもっていますから、その仕事と私的な関係を完璧なほどに使い分けることが出来ます。
だから(仕事だからとして)私方のミスを容赦なく指摘して己の思い(私は正しい)を述べます。

そんな(今時の若者)彼女を知っているだけに何とか気楽に仕事が出来ないかと(昔気質の商売人からの思いやりとして)何度か精神世界の誘い水を(その気付きが起こるようにと)出したのですが、しかし根付いた性格は治まりようが無いようです。
然るにそれを諦めて成り行きに任せることにしていたら、そのご縁が途絶える仕組みが起きたのが納入ミスなのです。
ところがまたご縁が再開されることになったのですが、はたしてどうなることやら先行きはわかりません。

また妻は私が裏切ったことになっていますから、私のことは(義理人情も愛情も消えうせて)まったく感知せずでして、それが収益となる仕事に関することでも面倒くさがります。
その面倒くさがることからして納入ミスと契約更新の重要書類を見極められなかったのです。
ちなみに施設への米納入(往復3時間の道中×3回×3ヶ月)で年間10万円ほどの収益があり、その収益が妻の居座る固定資産税に充当されていることなどは私の当然の義務だと思っています。
ちなみに妻の実家が空き家になっているから、その実家に妻が帰れば、その妻が居座る店舗兼住宅(3台の駐車場付き100坪)が空き家になるから、年間50万円の年金頼りにならずにすむ、その家賃収入を目論むことも出来たわけです。
しかし妻が望むように(思いやって)便利な街中で暮らし、また友達と交友しやすい居場所としたのです。

然るに「思いやっても」それが表面に形として結果が出なければ(相手が気付かなければ)相手に伝わらないのが人間関係なのです。
然るにいつか気付いてくれることを待っているのですが、それもどうやら無理なようです。
だからやっぱり気にせずに成り行きに任せてほっとくしかないのです。

と言うことからしてこのブログは私が実践するその精神世界ともなっているのです。
然るに嘘はったれはありません。
ちなみに書いている中味と実際の生き方との差や矛盾は無いと思っています。
然るにあとは皆さんの意識しだいでこのブログの価値が決まるのです。

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釈迦やイエスの類が成せなかった=偉業=を成すことができるブログです。

2015年04月25日 | Weblog
私は勉強が苦手からして過去の有名な人のことは高校時代からの創作装飾企画演出された映画・特に洋画(当時は総天然色映画と言われていた)で知ったのが殆どです。
だからノア・モーゼ・釈迦・イエスなどの映画を見て、今で言うかっこいい程度に見ていて、そのストーリーが真の事実・真実には思えていなかったのは確かです。
そして巷の精神世界・神仏霊魂の世界・信仰宗教に関わるようになって、それらが事実として伝わっていることを知ったのです。

それらの事をいま思えば、ノア・モーゼ・イエスなどは己の偉業を成しながらも神の凄さを伝え、その神に従うのか否かの選択があり、従えば良いことになるが、従わなければひどいことになる、それをハッキリいえば神は恐ろしいものというイメージを洗脳させることになっていると思います。

そして釈迦の場合も同じように己が偉業を成しながらもその釈迦の思いを民心に伝えたかったものと思います。
ところが釈迦の思い・善玉・理想を伝えながらも修行を積み重ね、そして己の中の悪玉・欲を無くすること・打ち勝つことは絶対に無理だと悟ったようです。
然るに善悪をあまり出さずにして、釈迦の思いである神の慈悲・慈愛を伝えることになったと思われます。

だから神仏霊魂・信仰宗教のみならず、霊力霊感・念力の類を使って己が成すことのできる(偉業?)ヒーリング・チャネリング・予見・占いなどを含めた「ブログの世界」でも同じでして、己が学び知り気付いたことの中にある<己の思い>を伝えるために神仏霊魂・精神世界を語っているのです。

そして注目されるために脚色企画演出された部分や嘘も方便で正当化したことを強調=特別に美化する必要があるのだと思います。

ところがそれも頭で考えた理想目的・希望願望の思いが大部分で己が真に実践していることは言訳程度だと私は思っています。
然るに私とご縁があった霊能者も山田耕栄さんも、己が学び知り気付いたことの中にある思いを(偉業を成しながらも)優しく親切に語ることは出来ても、その思いを実現させるその実践ができなかったようです。

そんなことを偉そうに書いている私も矛盾意識・不完全意識のすべてを持っていますから、その不平不満の原因である「欲」もしっかり持っています。

それでも柵シガラミから離れた過疎地・単身にしての呑気気ままの自由にして暮らしているお陰で、時々欲が出ても執着しないから=欲張らないから=すぐに忘れることが出来ています。

そんな私の思いを伝えているのがこのブログです。
だから私の偉業?は「欲張らないで楽に生きている」ことだけです。

然るに誰にも公平に実践出来ることですから、皆さんも実践すれば偉業?を成していることになります。
それを美化すれば=釈迦やイエスの類が成せなっかた=偉業=を成すことができるわけです。
しかし映画で見るような凄い偉業ではないのは確かです。

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世間で目立つ邪な輩に惑わされない精神力・自力自信を付ける、その手始めが自己縮小の実践です。

2015年04月24日 | Weblog
人間は肉体を持った動物ですが、その肉体が滅び死ねば、人間に元からある「命・意識」だけになり、然るに衣食住のいらないあの世とやらの元の居場所・霊界に戻り、昼夜の時間も季節もない宇宙の時を過ごすことになります。

然るにその人間の肉体は物質で出来ていますから、その肉体を生かすために物質が必要になります。

然るに生きるために「食って寝て糞をする」ことが最も重要になります。
だからこの世で人間として生きるために衣食住が必要になっているのです。

然るにそれ以外は無くても「何とか生きていける」から、あまり必要としない余計なことになるのです。

ところが少しでも良い生活を望んだことからしての結果が現在のこの世です。
然るに物質的に豊かな人間界となっているのです。

とこるが食って寝て糞をするためにこの世人間界に生まれ出たわけではありません。
また視覚・聴覚・味覚・知識・技能を高め極めることでもありません。
然るに学識教養や儀式儀礼、古典芸術や創作芸術、音楽・絵画・娯楽・スポーツ・冒険探検などの趣味嗜好娯楽を高め極めることでもありません。

それらこの世の形あるものを幾ら高め極めても、人間死んで元の居場所・霊界&あの世に戻ればそれら形はありません。
だから無理し頑張り欲張り見栄張りして(結果を出しても)(人間に生まれ変わって同じことを何度繰り返しても)余計なことをしただけで無駄になります。

ところがそれら形や己の思いに裏表・矛盾があることに気付き、その原因が人間の意識にありと気付き、その矛盾する不完全な意識を悔い改め修正する実践に取り組むことになれば、それらこの世の諸々に関わってきたことが無駄ではなくなります。

詳しくは何度も書いていますから省略しますが、
とにかく此れまでの自己拡大の生き方から自己縮小の生き方にして、良い悪いで判断してその良いとこ取りをするのをやめにして、また悪いと判断したことを否定反発排除することが無くなれば、この世の苦楽・喜怒哀楽を味わうことがなくなり、

然るに欲張らずに食って寝て糞をしながらにして生き続ければ、その苦楽を味わうことが無くなり、それが楽チンな生き方になるばかりか、矛盾のあるこの世に人間として生まれ出たその役割使命を果たすことになるのです。

なのに欲を出し見栄を出して無理し頑張ることを「生き甲斐」とか「理想目的を持ちなさい」「苦労は買ってでもしなさい」とかで美化され(この世を支配する者たち)(目立ちたがる者たちに)誤魔化され、それが良いこと・正しいことのように思い込み洗脳されていたのです。

ちなみに見えない精神世界・神仏霊魂の世界を知ったかぶりしている者たち、超能力や霊力・念力、手かざし・ヒーリング・チャネリング・セラピーなる形で施しなしている者たちも、己の矛盾する意識を棚にあげて世間で目立ちたがっているのです。

だからそれら諸々の他力に惑わされたりしないだけの見極め・精神力を高めることが重要なのです。
またそれら他力に頼ったり依存したりすることがないように己の自力とその自信の精神力を養うことも必要なのです。

その手始めが「自己縮小」の実践なのです。
だからこのブログで十分なのです。

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子供を優しく育てますか、厳しくしますか、また親の満足と不満で子育てしていませんか、

2015年04月23日 | Weblog
この世人間関係は「どうすることも」できない矛盾・不完全意識の集まりですから、良いことが悪いことになったり逆に悪いことが良いことになったりしてコロコロと変化することが事実にあります。

だから優しさ思いやりで子供を育てることが必ずしも良い結果になるとは限りません。
ちなみに子供が録画したテレビを見ながらにして母親に何か欲しいものを持ってくる様に頼んでいるのを親が親切に応じることがあります。

ところが私は放任で育っていますから、自分のことは自分でする癖みたいなのが身に付いていますから、私が出来ることを妻や家族に頼んだことはありません。
然るに妻の帰りが遅くなって空腹なときは自分で台所に行き卵と鰹節の「猫まんま」チャーハンを作ったり、また何でも混ぜるチャンポン焼き飯、卵かけならぬ牛乳かけご飯などと自己流で作って食べていました。
そして空腹こそが(美味しくいただける)最高の贅沢にもなるのです。

また子供は厳しく育てるのが良いと思う親もいますが、その厳しさが必ずしも良い結果になるとは限りません。
概ねながら親に対する反発心が根強く残ります。
またそれが良くもなれば悪くもなります。

然るに私は上でも下でも右でも左でもない真ん中の「どっちでもない」普通が性に合っていますから、結果的にその人任せで「ほっとく」ことになりました。

また子供の学業成績が良ければ親は一応安心しますが、しかしその成績が落ちることを親や子は心配しますから、然るに成績が良いことで満足するも常に不安心配が付きまといます。
しかも事実にしてその成績が落ちればいったいどうなることでしょうか?

ところが私は遊ぶことに忙しかったから学業成績はビリ?だったと思いますが(何たって成績順位なんか気にしていなかったから)その記憶はありません。

それでも高度で精密な電子機器・映像機器を使うビデオ撮影制作を先駆けることが出来ました。
そして説明書などの活字嫌いの私が精密な電子機器を使うことで悟ったのが「覚えるよりも慣れろ」でした。

ちなみに先々のことをあれこれ思い浮かべ予測したり計画を立てたりすることよりも「何とかなるだろう=当たって砕けろ」如くの成り行き任せが性に合っているということです。

ところで不平不満の多い人は=人が「してくれた」こと言わずにして=自分に「してくれなかった」ことの不満を言う人が多いことです。

と言うことは自我が強いことからして、自分に都合が良い人には己を気に入ってもらいたいがために(精一杯)優しく親切で心配りも十分に出来ます。
ところが自分に都合が悪くなると(必要ではなくなれば)(好きからイヤになると)あれだけ優しくて親切で心配りをしていた人がそっぽを向いたり反旗さえもひるがえします。

然るに人の優しさ思いやり親切には必ず裏があるのです。

と言うことからして不完全で矛盾のある人間関係の中で生きていくからには、上下左右の無い中心点の真ん中の「普通意識=自然体」でいることが重要になるのです。

然るに優しくもないが厳しくもない、親切でもないが不親切でもない、信頼しているようでもないが不信をもっているようでもない、守っているようだがほったらかしている、利口でもないが無知でもない、決めているようで決めていない、熱中集中しているが無理がない、
然るに良くもないが悪くもない、然るに矛盾する結果にならない、然るに拘りも未練も執着にもならない、然るに満足でもないが不満でもない、然るに成るようになったその結果を味わうだけで一旦終わる、

そして必然ご縁があれば(仕組まれば)素直に従ってみる、また先に結果を求めるのではなくして成るようになったその=後付け結果=既に終わっているから&後戻りできないから=そこで己の意識が原因で「仕組まれた」ことに気付けば=その結果に拘り未練執着することにもならずに(自己満足・不平不満にもならずに)一旦終わります。

然るに拘り・未練・執着もなく、否定反発も束縛制限もない、その自由にして、己の中の苦楽・喜怒哀楽の矛盾からも開放されます。

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「浦島太郎の玉手箱」「パンドラの箱」VS「地球維新」「次元上昇」の<仕組み>

2015年04月22日 | Weblog
巷には先人が残した言葉・諺コトワザ・教訓じみた言葉などが数多くあります。
然るにこのブログでよく登場するのが、言うは易く行なうは難し、ピラミッドは一日にして成らず、勝てば官軍負ければ賊軍、触らぬ神に祟りタタリなし、捨てる神あれば拾う神あり、二兎追う者は一兎も得ず、取らぬ狸の皮算用、ドングリの背比べ、井の中の蛙、同じ穴の狢、自らが墓穴を掘る、ミイラ取りがミイラになる、皆して赤信号を渡る、自分の首を自分で絞める、堪忍袋の緒が切れる、
石橋を叩いて渡る、自分の尻は自分で拭く、他の褌で相撲を取る、
偶然は無く必然、嘘も方便、喜怒哀楽、根堀り葉堀り、言うだけ聞くだけ、成り行きに任す、仏に任す=ほっとけ、成ることはなるが成らないことはならない、あるがまま、自然体、

また浦島太郎の玉手箱、パンドラの箱、地球維新、次元上昇、

別件では、食って寝て糞をする、空腹こそが最高の贅沢となる、価値観ではなくして価値で生きる=事実にして生きる=今を生きる、
死ぬ時が来たら素直に死ぬだけ、それまで何とか生きてさえいれば(仕組まれるから)それだけでいい、

最近では、孤独にして生きる、人様のしてくれた事を思わずにして反対のしてくれなかった事ばかりを思う(自我=人間の癖)

ちなみに私たちはドングリ山でそれぞれが評価判断して、然るに背が高い低い、大きい小さい、かっこいい・かっこ悪い等と皆して「ドングリの背比べ」をしていますが、ひょんな事・有事からしてそのドングリの集団からコロコロと転がって孤独になったときは(池の中で一人になれば)、然るに己一人で生き続けなければなりません。

その真坂の出来事になった時に自力自信の精神力が無ければ生き辛くなるし、不安心配になるし、寂しくて孤独感にもなります。

ところが自力自信の精神力があれば孤独も何のその、その孤独とその自由を十分に味わうことが出来ます。
そして孤独を経験するからこそ皆と(水が如くに)融合して協力しあう事、お互い様とお陰様の関係で成り立っていること、そして自由と平等の調和の大切さを学び知り気付くことにもなります。

ところが調和の大切さを悟ってもドングリ山の集団の中に戻ればその比較競争に馴染めなくなりますから、結果的には孤独が続くことになります。

だったら今の孤独のままを十分に味わい続けるほうが己の心身のためにも良いことにもなるし、また他力に頼らないで自力を多く使って生きることになるし、周りに誰もいなければ見栄世間体を気にする事も無く、また頑張り無理し余計なことをする必要性も無くなり、然るに見栄張り・頑張り・欲張りらずにして「楽ラク」に生きていけます。

然るに(精神世界に関係なく)この世の仕組み中の元からして人間が孤独になるのは当然のことなのです。

すなわち皆が孤独にして生きる術・自力自信の精神力を高めるための仕組みが元からして用意されていたのです。

然るに昔ほど生きるために多くの自力を使っていたのです。
そして自力が足りないところに皆が集まって助け合い協力し合っていたのです。

ところが近年になって(医科学が進化発展して)自力の足りないところを便利な道具や機器や迅速な機械を使うことになって次第に自力を多く使う必要が次第に減ってきたのです。

然るに人間として進む道筋を間違ってきたのです。

だから孤独にして生きることの意味を認識しなければ今の他力依存からは抜け出せないのです。

然るに他力依存のその不信感からして「石橋を叩いて渡る」も、「皆して赤信号を渡る」「井の中の蛙」「同じ穴の狢」「墓穴を掘る」「自分の首を自分で絞める」ことにもなるのです。

そしてその先では「浦島太郎の玉手箱」「パンドラの箱」VS「地球維新」「次元上昇」が如き摩訶不思議な宇宙の仕組みが用意されているとも言われているのです。

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孔子の言葉を真似て、私は「男は60にして立つ」ことをお伝えします。

2015年04月22日 | Weblog
男のチンポコは未成年にして立ちますが、自力と自信の精神力を磨き上げるには(我が身を振り返れば)「60にして立つ」のが順当に思えています。

然るにそれより早すぎても「若気の至り」が伴うことになって失敗したり、「出る釘は打たれる」ことからして理解の無い世間にいじめられたりして片隅に追いやられたり、またそれが気に入らない邪な輩から否定反発・排除され「潰される」ことになるかもしれません。

また「私は正しい」と己の思いだけを主張したり、また不確かなことを事実が如くに錯覚勘違いして主張し続けて・執着して世間を惑わしながらも自らが「泥沼にはまる」ことになったりもします。

特に血気盛んな「若気の至り」からして熱中しすぎて、自惚れ慢心・思い込み錯覚勘違い・自己洗脳に至る人が(ブログの世界の中に)多くいるようです。

とにかく人間には良いと判断する善玉と悪いと判断する悪玉が共に表に出たり裏に出たりで、その矛盾の苦楽・苦悩が伴いますから、己自身も納得確信することができません。

然るに自信を持てないのです。

然るに揺れ動く心意識とその不信感をもっているので己の心精神を確立自立できないのです。

だからそんな中途半端なものを美化して世間に出すことも無いのです。

だから若い人ほど(余計なことで無駄とも言える)矛盾する見聞知識や体験経験を積み重ねる必要もあるのです。
然るにその積み重ねの甲斐あって、己が居るべきお似合いの場所・位置などの見極めが出来るようになってから立ち上がり動いても遅くは無いということです。

その場所・位置が良いも悪いも無い、然るに上下左右を判断する必要もない位置=中心=当たり前の=普通=が似合う心精神になっていたら上出来なのです。

然るにそれが見栄張らない・欲張らない・頑張らないで普通に生きる、然るに「楽ラク」に生きることを見極められるようになる、
その実践を60にして始めても遅くは無いということです。

ところがその実践をするには自力と自信の精神力が伴わなければなりませんから、然るに借り物の他力に頼ることから既に卒業していなければなりません。
(何度も書いていますから詳細を省きます)

然るに孤独とその自由にして、己の自力と自信の精神力でもって(それを美化すれば=誇りを持って)独自独歩に歩いていくしか他に道はありません。

然るに年代が若いほどその実践が難しいのは事実にあります。

だから孤独の虚しさ孤独感やまた世間や家族から見放されだした頃合の60代が適していると書いているのです。

また60代の元気な内に始めなければ(ピラミッドは一日にして成らずですから)どうしても他力に依存することが多くなり、結局は納得確信悟りに至る前の途中で元の木阿弥に戻るかもしれません。

ちなみに年代に関わらず有事に遭遇することになればその時が自己縮小のチャンスになることを付け加えておきます。

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