孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

私のお役として仕組まれた精神世界の「お伝え」文書制作も此れで終わりとなるでしょう。

2014年05月25日 | Weblog
このブログを書き続けながらにして辿り着いたのが、
然るに良い悪いで判断してその良いとこ取りしたがるその欲からしてこの世人間関係がヘンテコになっているその事実を書き続けることになり、
そこで矛盾に満ちた「どうしようもない」この世人間関係、然るに人が集る所に欲が渦巻いているその事実からして言えば、
然るに皆して赤信号を渡るその集合意識から離れて、然るに己が独りの自由意識&独自独歩でもって自己縮小&素朴な生き方を味わうしか他に道は無いとして、
そこで「欲張らずにして楽に生きる」ことが精神世界の根幹だと極めつけるに至りましたが、
しかしこれ等の内容は「私の中にある」ことですから、当然ながら他の人には納得に至らない点&違和感や信じるか否かや否定反発があると思います。

ちなみに「信じるか否か」の神仏霊魂の世界&信仰宗教に係わることになるのも何らかの欲があってのことですから、然るに幾ら熱心に信じて頼って祈願しても結果的には裏切られるその事実を書き込んでいます。

また信仰宗教とは異なる真理&精神世界の根幹は 人様のためでは無くして 己が学び知り気付き実践するためのものです。

だから己の中にある心精神の有り様を人様に説いて聞かせても、(それが開祖教祖指導者であっても)「ぬかに釘」&「絵に書いた餅」同然になったり、また知識の積み重ねや上塗りになるだけでして、然るに結果的には実践無くして無駄に終わるはずです。

ところが精神世界や真理で説かれていることに納得確信できた人ならば、然るにその教えを聞く以前から 既に 己が自力で学び知り気付き 自分の心精神の中に持っていたからと思われます。

ちなみにそれが私の場合であれば、巷の神仏霊魂&精神世界を深く学び知る以前から 既に自己縮小が仕組まれ実践していたことからして、然るに「水を得た魚」の如くにしての現在があります。

また(若い時からして)巷の神仏霊魂の信仰宗教や冠婚葬祭や伝統風習等に当たり前の如くに大勢の人が集まることに違和感を持っていたことが間違いではなかったと(完全真理でもって)納得できただけに、それら形式の不完全さを自信確信でもって書くことにもなりました。

だから学び知った学識知識だけでは無くして 私の中の心意識精神&納得確信&実感からして(お手本が如くに)多くを書いています。

ところが此れまで根掘り葉掘り[書き尽くした]ことからして今はネタ切れになっています。

然るに新たな仕組みが起きたり また新たな気付きが起きることもどうやら無さそうですから、然るに私のお役として仕組まれた精神世界の「お伝え」文書制作も此れで終わりとなるでしょう。

しかしそれでもこのブログの(精神世界の真理を矛盾無く説く)内容を超える形が古今東西にあるはずが無いとして確信していますから、もし何処彼処に似通ったものやこれを超える形のものがあればそれを書き込んで下されば、それが完全か否かの見極め、不完全さ矛盾を見極めて返答します。

「想像の世界&矛盾の世界」「喜怒哀楽&波乱万丈」「立身出世一攫千金」vs「事実&価値&納得」で生きる

2014年05月15日 | Weblog
私達は「立身出世」の為に生きているのではありません。
然るに「私利私欲」や「一攫千金」を狙って生きることではありません。

また「趣味嗜好娯楽」に興じる為に生きているのではありません。
ゆえにその道の達人名人巨匠&専門家芸術家になったり、またそれらの者に魅せられ慕い憧れ敬うことでもありません。

また良い悪いで判断して、その「良いとこ取り」をして都合の悪いことを排除することではありません。
然るにその「価値観」で生きることでは無くして、そのまま・このまま・あるがままの事実にしてその<真価&価値>を味わう事にあります。

そして自他共に責める事無く「お互い様」意識でもって生きて、然るに「お陰様」の優しさ思いやり感謝で共に生きることにあります。

然るに「一心同体」「和気藹々」「一家団欒」「意気投合」「以心伝心」「相思相愛」「夫唱婦随」「二人三脚」にして生きることになりますが、しかし不完全意識の私達だけに「言うだけ」にしての偽善や「理想目的」になります。

また自分さえ良ければの「得手勝手」「我がまま」「我欲&エゴ」にして生きることではありません。

然るに苦と楽の「一喜一憂」「喜怒哀楽」で生きることではありません。
また「本末転倒」「栄枯盛衰」「紆余曲折」「悪戦苦闘」「百戦錬磨」「右往左往」「四苦八苦」「七転八倒」「波乱万丈」「海千山千」にして生きることではありません。

また「石橋を叩いて渡る」不信感を無くして「安心安全」「平穏無事」にして生きることにありますが「皆して赤信号を渡る」ことではありません。

その不信感が「守り意識」になり、然るに守る為に戦うことになるその矛盾があります。
そして「私が正しい」の自惚れ傲慢からして自己主張や正義感にもなります。

また人が集る所に「欲あり」です。
然るに欲が無ければ人は集りません。

また「一石二鳥」「一挙両得」は「二兎追うものは一兎も得ず」になりやすく、また「濡れ手に粟」の如くの楽にして欲張ることでもありません。

また「他力依存」「他力願望」にして生きることでは無くして「自力と自信」と創意工夫にして生きることに値打ち価値があります。

然るに「自由平等&調和」「自然体」にして、また心穏やかな「平々凡々」「悠々自適」にして、また何の気兼ねも無い「天真爛漫」にして生きることになればいいのですが、しかし不完全意識の人間関係だけに無理があります。

然るに「孤独の自由」「素朴」にして目立つこと無く静かに穏やかに平然と生きることになります。

また前もって思い考える(思惑期待する)「想像の世界」「矛盾の世界」でもって生きていることからして事実実体の無い「白昼夢」が如くの生き方になり、
然るに中途半端でもって「納得」出来ないままの「半死半生」の死んだが同然の生き方になっています。

またドングリの背比べからして「比較競争」になり、然るに「井の中の蛙」「同じ穴の狢」同然で「皆して赤信号を渡る」結果になり、然るに自らが「墓穴を掘る」「首を絞める」生き方になっています。

ちなみに「結果」形を見るのでは無くして「原因」意識を見ることにあります。
然るにこの世で「事を成す」ことでは無くして己の「精神意識」を学び知り気付き(玉ねぎの皮をむくが如くにして)あるがままの宇宙&神&愛の心に近づくことにあります。

然るに良い悪いで判断するその不完全意識を学び知り気付きその意識を修正改革することにあります。

然るに此れまで「少しでも良くなりたい」と欲張り続けて来たその自己拡大の生き方を改めて、そこで素朴に生きる「自己縮小」の生き方の実践になり、然るに欲張らない生き方を味わう事になり、然るに価値観では無くして「価値」で生きることになり、その価値を味わうことで矛盾のない<納得>に至り、然るに「己の身の丈」に似合う「無理」の無い「個性」溢れる生き方になり、
そこで「足るを知る」ことからして「欲張らない」生き方に変わります。

柵シガラミから離れた過疎地暮らしが奇跡的に「仕組まれて」いなければ現在の私はありません。

2014年05月14日 | Weblog
一般的な庶民であれば事の始まりかして大望&野心を持っているはずはありません。
然るに少しでも良くなりたいことからしてのそのドングリの背比べ程度で騒いでいるだけの、然るに魚で言えば雑魚です。

その雑魚の中で皆より目立つ存在の人の周りに同じ雑魚が欲からして集りだし、それがやがてリーダー的存在になったことからして、やがてそれが次第に名誉名声権威権力&勢力を拡大する事になっているだけでして、大元からして大望&大欲野心があったわけではありません。

然るにその大望も大欲も無く強欲でもないその他大勢の雑魚が、然るに小心者で競争にも弱い雑魚同士の中でもってして、他愛ないドングリの背比べをしているようなもので、然るに皆して頑張り合い欲張り合い見栄張り合って比較し合っているようなものです。

ちなみにその雑魚同然の庶民の私達が皆して少しでも良くなりたいと張り合うことからして害を成す災いとなって、その下に位置する国内外の生活弱者&貧困飢餓の者を更に苦しめ虐めることにもなっているし、また地球環境の悪化にも拍車をかけているのです。

然るに大した事をしている私達ではありませんから、其処で世間一般的な雑魚集団から抜け出して、然るに頑張るのも欲張るのも見栄張るのも止めにして、そこで素朴にして楽チンにして生きることに方向転換しても、此れまでの食って寝て糞をする為の衣食住&生活の基盤が大きく様変わりするわけでは有りません。

然るに此れまでの自己拡大にしての、その彩り目立つ存在からしての、その価値観からしての生き方が変わって、
今度は自己縮小にしての、派手さが消えた静かな存在にしての、価値真価にして生きることに変わるくらいです。
然るにその分だけ他に害を及ぼすことが減ります。

然るに私とて自分さえ良ければの不完全意識丸出しにして、然るに穴が有れば其処へ逃げて隠れたいほどの愚かな精神でもってして生きています。
ただ人間関係&柵シガラミから離れた自由にしての孤独でもって生きていることからしてその愚かな精神が表に出てこないだけなのです。

ところがその愚かな精神が表に出てこないだけに気楽に生きていけるその事実を味わい知り気付いたのです。

その気楽にして生きていると(それを正味味わっていると満ち足りた思いになって)求め欲しがることも次第に減ってきたのです。

然るにそれも自己拡大当時の「どうしようもない」人間関係の違和感&矛盾からして納得できないままの生き様を長く味わっていた、その違和感尽くめの経緯経験の過去があるからです。

然るに必然ご縁の成り行きからしての(奇跡的な経緯からしての)過疎地暮らしが「仕組まれて」いなければ現在の私はありません。

だから本格的な過疎地暮らしが始まる以前にご縁があった神仏霊魂の世界の超霊能者や完全真理の山田耕栄さんとのご縁は(私に必要な)神仏霊魂精神世界の基礎知識習得の為に仕組まれたことになります。

然るに摩訶不思議な神仏霊魂や精神世界を知識で学び知ったことが過疎地暮らしの原因ではありません。

ちなみに欲張らないほうが楽チンにして人間らしく生きて行けることに気付き納得できたのも、それら前もっての学識知識のお陰では無くして、事実にして過疎地暮らしを実体験し続けているからです。

然るにこのブログも初期から少しずつ変化修正され続けています。
そして実体験だけに根掘り葉掘り詳細に書けるようにもなりました。

しかし柵シガラミから離れた孤独なだけに、然るに残る問題は調和の人間関係ですが、しかし此ればっかりは私独りでは「どうしようもない」厄介な問題だけに、やはり必然ご縁の宇宙の仕組みに任すしか他に道は無いようです。

「終わり良ければすべて良し」となれば、この世で人間として生きていたことが無駄では無くなるのです。

2014年05月13日 | Weblog
心から納得するには自らの自力でもって実際に味わい知るしかありません。
然るに知識で理解したことは本物の納得にはなりません。
例えば鳥が何故「空を飛べる」のかを理論知識で理解しているだけですから、然るに自らの体が鳥の如くに羽ばたいて空を飛ぶ事にならない限り本物の納得には至りません。

然るに自己縮小&欲張らない生き方を知識で理解しただけでは納得できるはずも有りません。

然るにそこで食って寝て糞をして生きているだけで十分に思い、それで納得することになればそれ以上&今以上の無理なことを望まなくなります。

ところで先日来私は消化不良の胸焼け症状に悩まされています。
然るに胸の辺りにゲップが詰まった感じで重苦しくなり、然るにいつもの元気さが失せています。
とは言っても死ぬほどに苦しいわけではありませんが、その症状が長く続くと(生きているがゆえの)辛さを味わうことになり、然るに日々健康体でいることのアリガタサを四十年ぶりに再認識&納得させられました。

そのことを大げさに言えば(生きていることが辛くてやけくそになり)「死にたく」なる人の気持ちが一応理解できた気もしますし、また安易に医者や薬剤に頼りたがる人やまた神懸り奇跡に頼りたがる人の他力的な心情も理解できました。

然るに己の身に起こることの何事も己の「精神の学び」になるのです。
然るにその精神を学ぶ為にこの世の形があるのです。

ちなみにあの世では怪我病気や衣食住や人間関係が無いだけに、それらをしかと味わい知ることの出来る学びがありません。

だから今の人間の時にしかと味わい知り学ぶことが絶対的に必要なのです。
しかもこの世の表裏&矛盾をしかと味わうことが重要なのです。

ちなみに前もって学識知識をしっかり溜め込むことではありません。
然るに記憶で覚えることよりも自力を使いながらにして馴染み慣れることにあります。

然るに何でも「知りたがる、やりたがる」その意欲や創意工夫することやまた自問自答&思考錯誤&葛藤することも必要になるのです。

そして良い悪いで判断してその良いとこ取りしたがる欲目や都合の悪いことを嫌がり排除したがるその矛盾意識を悔い改めることが出来れば、
然るにそれまでの途中結果がどうであれ「終わり良ければすべて良し」となって、この世で人間として生きていたことが無駄では無くなるのです。

心が満ちてくるほどに邪心が消えること、然るに欲しがることが無くなっていくのです。

2014年05月11日 | Weblog
巷に「好きこそものの上手なり」の言葉があるように、何かを好きで始めると上手になり、然るにそれを極めることにもなります。

そこで例えば彫刻家の左甚五郎も最初は好きなことから始まったはずです。
然るにその左甚五郎が「天才」だったのか否かは知りませんし、芸術家気取りだったのか否かも知りませんし、立派な屋敷で暮らしていたのか否かもしりませんが、しかしその彫刻が世間一般的に必要としなかったのは事実です。

また「天才」と言われた人が古今東西の何処彼処にいますが、ちなみに過去の釈迦やイエスの類も天才の部類に入ります。

然るに絵画彫刻音楽等の創作芸術分野であれ、また医科学的分野であれ、その天才が(釈迦やイエスを含めた)世の中に大きく注目される必要性が果たして有ったのでしょうか?
然るに私は「百害有って一利無し」としています。

ちなみに素朴な絵画彫刻音楽は必然ですが、私利私欲絡みからしての天才や芸術家なる者やまたそれらを生業職業にしていることには大きな違和感があります。
然るに歌手や芸人も企画演出家や小説家なども同じです。

ちなみにシューベルトがピアノ音楽が好きならば、また左甚五郎が彫刻が好きならば、千利休が茶を点てるのが好きならば、美空ひばりが歌うのが好きならば、その他諸々趣味嗜好娯楽が好きならば、その好きなこと(己が必然とする事)を平然と続けているだけで十分だったはずです。

然るに(王様殿様皇族貴族&支配者権力者に召抱えられたり人前で華やかに披露するなど)私利私欲からして目立つ存在になる必要はなかったのです。

それでは医科学の分野はどうでしょうか、
然るに「良かれ」と思って始まったことが結果的には(裏が出て)悪いことになっています。
然るに史実&現在を見れば歴然としています。

そこで絶対的に必要なのは何でしょうか、
それが食って寝て糞をする為の(素朴な)「衣食住」です。
然るにそれ以上のことを望むのが欲であり価値観であり見栄や世間体のプライドからです。

ところで無料動画ギャオの「ホジュン 宮廷医官への道」の中で、医者の真心でもって患者を治すことが出来て、その患者が喜ぶことで心に満ちてくるものが有ればそれで十分なのが真の医者だとして、然るに己の私利私欲は悪よりも罪になるとして戒めるシーンがありました。

然るに(必然ご縁からして)良かれと思ってすることならば私利私欲を挟むなと言うことです。
そして相手が喜んでくれることが己の喜びになる、そんな愛のキャッチボールが出来る人間関係になることを私は望んでいます。

だから私利私欲からして目立つ生活になったり有名にならなくても、その素直な心のままに動いていればそれで十分納得できる&足るを知る生き方になるわけです。

そして心が満ちてくるほどに邪心が消えること、然るに欲しがることが無くなっていくのです。

宗教精神真理の世界で目立つ人が愛でられる矛盾&偽善。

2014年05月09日 | Weblog
人が集る所に欲が渦巻いていますから、然るに皆してドングリの背比べをしているようなものです。

然るに世間で目立つ存在になっている人ほど此れまで欲張ることが多かったはずですから、然るに大いに比較競争し合って生きてきたはずです。

それが政治経済組織団体の勢力権力権威であったり職業的な事柄に対する名誉名声肩書きであったりして、とにかく目立つ存在になっています。

ところが穏やかで心優しい人ほどドングリの背比べ&比較競争が苦手なはずですから、然るに欲張らずに世間の片隅で静かに暮らしているかもしれません。

また自己拡大で生きることに疲れた人が己の意識からして自己縮小に転じて、然るに欲張らずに静かにして世間の片隅でひっそりと暮らしている人が何処彼処にも居るはずです。

また(世間で目立っていた人が)何らかの有事に遭遇したことがきっかけにして己の身の丈に似合った生き方を心掛けている人もいることでしょう。

また優れた自力能力感性&技術技能または創作芸術的技能感性を持っていてしても、それを世間に見せびらかすこともせずにしていて、時折の必然ご縁からして行使活用したり、また己が楽しむ程度にしている人もいるはずです。

だからこの世に何の足跡を残さずに静かに去っていた人の中には(目立たないだけに)無縁死&孤独死もあったと思われます。

然るに世間に目立たないから「話題にもならないから」何がしの有能な人が何処彼処で実在していても私達はそれをキャッチ察知できないだけです。

然るに世間に目立つ人ほど(仙人よりも釈迦やイエスが)、その世間でもてはやされることになるのです。

然るに過去の釈迦やイエスの類よりも優れた能力感性&精神意識を持っていてしても、しかし世間にその名も知れないままに、その存在さえも知れないままに、仙人が如くに生きてこの世から消えていった人が過去にいたはずです。

だから世間に目立つことを望む者ほど(強欲からして)世間に目立つわけですから、然るにそんな人が宗教精神真理の世界で愛でられるのは矛盾&偽善なわけです。

然るにそれが原因からして百害あって一利無しの結果になり、然るにこの世人間関係がヘンテコになったその史実事実を書いていますが、然るに納得できたでしょうか、

然るに古今東西の何処彼処でもってして、己の身の丈に見合った(足るを知る)生き方にして、過ぎた欲を持たずにして、世間に目立たずにして、飛び立つ鳥後を濁さずが如くに、足跡を残さないままに、成り行きの自然体のままにして、この世を去ったその意識命&生命体であれば、然るに来世で新たに進化した人間意識でもってしてこの世に生まれ出るものと思っています。

納得できないで駄々をこね合う人間関係が改善されなければ生きていても面白くも無くまた疲れるのです。

2014年05月07日 | Weblog
「納得」と言う言葉が度々出ていますが、然るに皆さんが矛盾&裏表も無く真に納得できている事に何があるでしょうか、
然るに殆どが裏表矛盾のある偽りの納得で(言い訳正当化して)誤魔化しているはずです。

巷に「泣く子には勝てぬ」言葉があるように、親に駄々をこねているその幼子に親の言葉説明でもって心から納得させることが出来るでしょうか、
然るに殆ど無理ですね。

だから無理やり我慢させるとか、強引に諦めさせるとか、他の(趣味嗜好娯楽の類)関心ごとに気をそらして誤魔化すとか、代替に何か(変化刺激快感快楽)を与えて切り抜けていることでしょう。

然るに学識教養を身に付けた人でも不満や不安不信&怒りからして幼子のように駄々をこねている場合がありますが、果たして心から納得させることが出来るでしょうか、
ちなみに人様を心から納得させることは(相当なエネルギーでもって対処するも)不可能に近いはずです。

だから無理で無駄で余計な事だとなるのです。
然るに「どうしようもない」となるわけです。

然るに巷の精神世界でもってしても同じはずです。
然るに過去の私も違和感からして諸々の精神世界に納得できずにいましたが、しかし矛盾の無い完全真理によって納得した事柄を書くまでになりましたが、ところがしかしそれも現実&絶対に成せることでは無いと明確になり、そこで不完全ながらも(苦肉の策として)自己縮小の実践が説かれだしたわけです。

然るにその自己縮小の実践を既にしていた私からすれば(経験&納得済みからしても)「水を得た魚」同然となり、然るに今日に至っています。

そして今では人の集る所に欲が渦巻いていることからして、然るに諸々の精神世界の形に係わっても「百害あって一利無し」とまで書くようになりました。

然るにその原因が欲絡みに有るとして誰でもが納得できるように根掘り葉掘り確り書き続けています。

ところで「欲張らない」真理を説いて、然るに事実にしてその実践が成されている精神世界の組織団体が何処に有るでしょうか、
然るに釈迦やイエスやその流れを引き継いでいる形も、またサイババや完全真理の言いだいっぺの山田耕栄さんにしても、また伊勢白山道なる輩も欲絡みですから、然るに世間に目立っています。

その巷の精神世界に係わること自体が欲絡みですから世間に目立って当然なのですが、然るにその世間に目立ちたいが為が「本心」でもあるのです。

だから世間に目立つような特別な格式形式格好や文言名文を好んで取り入れ、また特別な超能力や霊力&感性を目玉看板にしたり、また世間に目立つ善行奉仕&慈善奉仕救済活動や布教活動を掲げたりするわけです。

ちなみにその欲張らない実践が成されていれば、当然ながら人目に付かない仙人が如くの生き方に納得出来ているはずです。

然るに「足るを知る」ことからして欲張ることも無くなりそれが心の納得につながるのです。
然るに自分の生き様に(矛盾無く正味)納得することができれば欲張ることも無くなっていくのです。

然るに人様を納得させるも、また己が納得するにも、何らかの欲が絡んでいる限り全身全霊&精魂を込めてそのエネルギーを使い果たそうともそれが無理無駄で余計な結果失敗で終わるわけです。

然るに駄々をこね合う人間関係が改善されなければ生きていても面白くも無くまた精神的にも疲れるのです。

然るに孤独と自由の独自独歩でもって心身ともに楽チンにして生きるしか他に道が無いわけでもあります。

自己拡大(価値観)で生きるのと自己縮小(価値)にして生きる、その裏表を味わうのが人間の役割です。

2014年05月04日 | Weblog
私達人間は自分さえ良ければの自己中心的な個人意識を持っています。

然るに良い悪い&善悪優劣損得で判断してその「良いとこ取り」をするが、反対の都合の悪いことは否定反発し排除したがります。

然るにその良いとこ取りが<欲>なのです。

だから「少しでも良くなりたい」その欲からして動いています。
然るに人が集る所には欲が渦巻いているわけです。

ちなみに欲が無ければ人は(無理に無駄に余計に)動きません。

然るに親が子のことを思えばそれが欲につながっているくらいに欲まみれの人間関係になっています。

然るにその少しでも良くなりたい思い(不平不満)からして動いてそれだけ苦労するが、その苦労が報われて満足することの、その不平不満と自己満足の苦と楽&喜怒哀楽からして人間生きているようなものです。

然るに世の為人の為に説く精神世界&神仏霊魂の世界も欲絡みで動いています。
だから良い事は取るが悪い事は排除したがります。

そんなことからして「百害有って一利無し」の結果が出続けているその事実史実を書いています。

然るに昔から言われていた「過ぎた欲は身を滅ぼす」ことが事実なのです。

然るに食って寝て糞をするだけで良しとすれば「足るを知る」ことになりそれ以上のことを望むことも無くなっていくのです。

然るに何事かに思い悩むのも困るのも過ぎた欲からしてです。

その思い悩まない生き方を事実にして味わえば人間「此れで良し」となりますが、それも過去に幾多の思い悩んできたその事実からして気付くことが出来たわけです。

然るに此れまで(欲張り)自己拡大してきたのならば(思い価値観で生きていたのなら)その反対の自己縮小を味わうことになれば、その人間人生の裏表の両面を味わう事になって、その欲張らない(足るを知る)ことからして今を生きているその「価値」を味わい知る事になり、それで人間人生を納得確信して終わることが出来るのです。

然るに此れまでの生き様人生がどうであれ、また如何なる精神世界に惑わされいたとしても、その自己縮小の欲張らない生き方を味わえるようになったことからして、然るに「終わり良ければ」からしてすべてが無駄では無くなるのです。

そして欲張ることからして人間関係がヘンテコになっている(百害有って一利無し)その事実を知ることからして意識が変革改革され、然るに皆して欲張らない生き方の中での自由平等調和の必要性を自覚認識納得できるわけです。

然るに私が成り行きながらも必然のご縁で自己縮小が仕組まれたことからしてそのヘンテコな人間関係から離れた孤独と自由にしてその欲張らない生き方の真価価値を味わえ納得しただけに、
然るに「良い悪い」で判断してその良いとこ取りをする欲張り意識と悪いことを排除したがるその意識が修正改革されただけに、
然るに今度は(宇宙の仕組みからして)(新たな次元意識の人間界で)欲張らない人間の集りの中で(孤独とは違う皆一緒にして)自由平等調和=至福&地上の天国の生き様が味わえるようになると、
その完全なる宇宙意識の仕組み&宇宙の進化拡大の仕組みからして私は確信しています。