孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

来世をしっかり見極めながらにして現世を生きていくのが精神世界だと思います。

2013年09月30日 | Weblog
世間や身近な人とのしがらみから離れて過疎地で暮らすようになって13年ほど経ちますが、それ以前の過去のしがらみ絡みの冠婚葬祭に参加列席したことはありません。
またこれまで過疎地で親交のあった隣人の死去やまたパート先のオーナーの身内の葬式が二回ありましたが、そのお悔やみも葬儀にも行きませんでしたし、後日その喪主と出会ってもその儀の挨拶もしていません。
然るにそれでも親交は以前と何ら変わりません。

それだからして苦手な慶弔の挨拶をすることも無く、また面倒臭い正装礼服を着る事無く、然るに普段着の普段どおりの生活がずーっと続いています。
また旅行行楽や映画お食事処に出掛けたことも無いから然るに普段着の生活と、また年末年始やお喜びごとやお見舞いなどの定番の挨拶もしていませんからそれも普段のままです。

然るに此れまで何ら「特別」が無くて普段のままに暮らせる呑気気楽さを味わっているだけに、私としては世間や人間関係から離れたその真価価値を十分に味わえていますので、然るに巷の趣味嗜好娯楽の必然性&価値観&依存心が薄れています。

また性格的にも不確かなことに関心が無いタイプでしたから、然るに抽選宝くじやお御籤やウン試しやジャンケン勝負の勝ち残りやまた早い者勝ちで我先に並ぶこともありませんでした。

またニュースや天気予報さえも気にならず、時として年月日や曜日や時間さえも気にならずに、また財布を持っているのか否かやその金額さえも気にならない、
また両親が死去した年齢やその年度も記憶に無く、然るに仏壇お墓や命日に無関心で、また家族や孫たちの記念日や年齢学年さえも記憶に無く、
然るに自分の年齢から住所番地や郵便番号を記憶する必要性も無く、また私が留守の家に私が電話するはずも無いからその自宅の電話番号さえも忘れていたりする、
そんな無関心&無頓着&呑気な生活をずーっと味わっています。

また自己拡大していたときはあらゆる家庭常備薬を使っていましたが、現在は虫刺されの痒み止め程度です。
然るに切り傷すり傷や打撲の痛みや疲労痛や下痢や便秘や胸焼けもほっといて気にしませんで、そのまま何事かをやっているうちにいつの間にやら自然治癒回復していますから、然るに手足は傷跡だらけです。

そんな我がまま勝手と思える世間離れした生活を平然としている私のブログだけに巷の神仏霊魂の世界や世間的な精神観&概念に反するようですが、
それも皆が不完全意識がゆえにどうすることもできないその人間関係や世間ごとに無関心だから、
然るに独り身で孤独だから、然るにその自由があるから、また頑張り欲張り見栄張りしないから、
また我が身のことさえも成り行き任せで気にしないから、然るに身近な人間関係のしがらみを気にしないから、
然るに世間離れしたような私の生き様が可能になっているのです。

しかも来世を見極め見つめながら現世を生きていることになります。

ところが私のような生き様を実際に味わい知らないのに、それを知ったかぶりして、そんなのでは面白く楽しくもないとか哀れ気の毒や寂しい生き様に判断してそれが正しいとする得手勝手な意識になっていれば、
然るにその思いが己に跳ね返り反映された如くになって、然るに自らが年老いていくごとに面白くも楽しくも無くなり、然るに虚しくも寂しくもなり、然るに置いてきぼりにされた感覚&疎外感&孤独感を味わうことになるでしょう。

しかしそれでも空元気&頑張り欲張り見栄張りしながら幾多の趣味嗜好娯楽でもってして気を紛らしながら生き続けることになれば、
然るに此れまでの「良いとこ取り」のしっぺ返しからして、それが医療薬漬け依存症になったりまた病気療養介護や老人介護や痴呆症介護などの他力依存&お世話を受けることになったりして、然るにベットで寝たきりの要介護を長く味わうことになるでしょう。

然るに(自然体にして)楽にして穏やかに生きて、然るに楽にして穏やかに死するわけではありません。

また生き方&生き様が中途半端で踏ん切りケジメがついていないから、然るにやり残しの遺恨を抱いたままにあの世へ旅立ち、然るに中途半端な意識のままが永遠に続きます。
正確に言えば「真の成仏」「ステップアップ」「意識の進化」に至れない落ちこぼれの意識体になります。

食って寝て糞をするだけのような生き様であっても私の中に劣等感や孤独感や差別感は出てきません。

2013年09月27日 | Weblog
人それぞれに指紋が違うように、然るに性格個性もそれぞれに違いがあります。
その性格個性の長所が短所にも短所が長所にもなります。

また命意識&身体は一つだけに、然るに同時に幾つもの動きは出来ません。
然るに食う事と寝る事と糞する事を同時に出来ません。

また田畑を耕しながら同時に漁獲が出来ないように、営業マンが同時に職人にはなれません。
だから社長業務をしながら同時に便所掃除は出来ません。

然るにすべての人が必然にして実在していますから、然るに誰一人として余計な人や無駄な人やまた特別な人もいません。
またその人間関係はお互い様とお陰様の関係であり、然るに精神&意識の世界を共に学び合う関係でもあります。

そして生きていくためには必然ご縁の他力を必要とします。
然るに欲張る人ほど他力を多く必要としますが、
然るに素朴な人ほど自力を多く使います。

ところで私は勉強よりも遊ぶのが大好きでしたから然るに学識教養は劣りますがその分だけ自力を多く身に付けているその自信があります。
ゆえに自信があっても劣等感はありません。

然るに様々な人が大勢集まるところへ必然ご縁で出向くと自分の劣るところがよく判りますが、然るにそれが劣等感にはなりません。
ゆえに其処で居辛くなって一人孤独にはなるが、然るに必然ご縁でそこに居るだけに学び気付くことにもなりますから孤独感にはなりませんし、そして私の自力が少なからず役立つときがあります。

然るに食って寝て糞をするだけのような生き様であっても、それでも生きていくための自力と自信でもってして自分に出来ることを様々にやっていますから、然るに私の中に劣等感や孤独感や差別感&価値観は出てきません。

余談になりますが、私が社長を辞めて今は過疎地で単身暮らしていますから、然るに家事全般は勿論のこと、ポリバケツに溜まったウンコは自分で運んで空き地に穴を掘って埋めてそのポリバケツをブラシで水洗い処理しています。
然るに臭くて汚くて粉塵が舞いあがりハエが飛び交いクモの巣だらけの牛舎やその牛のウンコやシッコも気にならずにして私の役割を果たしています。

然るに私は人様のために生きているのではありません。
何はともあれ自分のために生きていますから、然るに自力で出来ることは何でもやることが出来るのです。

然るにそんな私のことを人様がどう思うが勝手であって、然るに私自身がどんな思いでいるのか、その己の意識の有り様を重要にしています。

然るに自由と孤独からして様々な学びが出来てそれが自分のもの、すなわち自力と自信の精神力にもなっています。
そして結論的には言えば、然るに頑張り欲張り見栄張りで生きるよりも私は楽にして生きて楽にして死ねることを意識して生きています。

長く書き続けてきたこのブログも「欲張らない」ことで結論になりました。

2013年09月24日 | Weblog
自分さえ良ければの欲でもってして生きているからにはどんな完全真理を説く者が現れ出てもそれが実践できないだけに、然るに言うだけ聞くだけの精神世界になって、然るにそれが無理なことで無駄で余計な事で終わります。

然るに欲があってもその欲を出さない実践が無ければ如何なる信仰宗教や巷の精神世界を学び知っても、然るにそれは無理なことであって、然るに無駄になり余計なことをするその結果になります。

然るに何よりも先に「欲張らない」実践から始めなければなりません。

ところがしかし欲張っているのにアレコレと精神世界に係わりその見聞を広める事に精出しているのが事実ではないでしょうか。

そして困った時の神頼み、然るに他力依存にして問題解決を願ったりまた悩む心が癒されることを目論み期待し、然るにその結果が出ると喜んで、然るにまたその結果が出ることを望み続ける、そんなリピート意識&信者意識のままの精神世界が続くことでしょう。

またそれら類とは違った欲絡みからして精神世界に係わり、然るに仲間内のリーダシップを取りたがる輩がいたり、また己の能力を活かしてお助けマンが如くに人様を誘導したがる輩がいたりしますから、然るに人様の人気を得たがる輩や名誉名声を望む輩や権威権力まで望む邪な輩が精神世界を操り牛耳ることが出来るのです。

然るにそれが可能なのも同じ欲絡みで集るからです。
然るに精神世界が邪な輩が集る形にもなっているのです。
然るにその邪な者が集るその精神世界の形からして然るにおかしげな世の中になっているその事実が現在です。

だから精神世界に身を置いて生きていくためには先ず欲張ることを無くしていくその実践が先決重要なわけです。
それがどうしても無理ならば、然るに巷の信仰宗教や精神世界に係わらないほうが己の身のためにもなり、また人様を巻き込まないですみます。
然るに欲絡みでもって精神世界に係わるのは赤信号を皆で渡るようなものです。

然るに欲張る者には同じ欲張る者が集るのです。

だから欲張ることを無くしていく実践のために精神世界を学び知り、然るに自分に似合った独自独歩の実践行動でもってして気付きながら歩んでいくしかありません。
然るに人生は修行と例えられるわけですが、しかし艱難辛苦の修行ではありませんで、如何にして欲張らずに生きていくかその精神力が問われるわけです。

だから先ずは自らの意識からして「楽にして生きる」実践でもってその真価価値を味わない限り(釈迦の如くに)欲望の誘惑に惑わされ続ける事になります。

然るに私は「気楽にして楽に生きる」ことからして欲張るほどのことも無く、然るに不満も不安も怒りも出てこないのですが、そこを探し出し書けば、
然るに今困っていることと言えばダニに嚙まれて痒いことです。
そして呑気だった牛舎での役割が次第に増えて気忙しくなったのがあります。

それとこのブログでは「欲張らない」のが結論となったのでその書く範囲ネタが少ないことです。
だから何かあれば書き込んで下さい。

邪な意識の者が他の邪な意識の者を否定反発排除するから精神世界が信じるか否かになる。

2013年09月22日 | Weblog
精神世界に身を置いて生きるにしても、元からして良い悪いで判断する不完全意識をもっていますから、その生き様&方向性を誤ることがあります。

だから不信感&敵対心を持てば然るに私が正しいの正義感も出てきます。
然るにモーゼの海割れ現象でもってして追っての兵士が溺れる様を描いた壁画を誇らしげに飾るのも邪な正義感からです。

然るに自らの命を危険にさらしてまでも溺れる者を救う者がいればそれが正しいと褒め称えますが、然るにモーゼの一行が溺れる兵士を見殺しにしたことはサタン的意識になります。

然るにイエスや釈迦も邪な意識の者を敵対して「去れ」「出て行け」とばかりに排除したようですが、その邪な者と決め付けたのもイエスや釈迦の中にある私が正しいの邪な意識が原因です。
然るに太陽を崇拝し月を悪と排他的に決め付けている伊勢白山道も同類です。
然るにそれが「私は正しい」の不完全意識から出た教えになるのです。

然るに「すべてはひとつ」「すべては愛」を説くに相応しくない邪な意識の者になります。
然るにその邪な意識の者が他の邪な意識の者を否定反発排除束縛制限したがるその正義感がこの世の災いの元にもなっているのです。

ちなみに無理して頑張り欲張り見栄張りして生きることよりも「楽にして生きて楽にして死する」ことを望むのも不完全意識から出たことです。
然るにそれを否定反発する者からすれば、然るにそれは邪な意識の者が言っていることになります。
そして不届き者や異端者呼ばわりしたりまた弾圧拷問したりまたサタンが如くに言って成敗されるかもしれません。

然るに精神世界は「信じるか否か」になりやすいのです。
だから真実事実を見極めながらにして生きるのが精神世界の基本になるのです。
然るに言われたことを丸呑み鵜呑みで信じて従うことでもありません。

ゆえに学び知ったことが真実事実なのか見極めるその実践が無ければ「言うだけ聞くだけ」の精神世界になります。

然るにこのブログは信じるか否かよりも真実事実が多く書かれています。
しかしそれが本当か嘘かを自らが見極め実感するにもその実践が無ければやはり言うだけ聞くだけの精神世界になり、然るに精神世界に身を置いた生き方をしていることにはなりません。

然るに他力絡み欲絡みでは無くして、自らの意識&自力自信&精神力でもって実践しながらその真実事実を見極め味わうことが本来の精神世界です。
然るに巷の信仰宗教や精神世界は他力絡み欲絡みだけに自らを危険にさらす道筋となる邪道の精神世界になります。

然るに他力絡み欲絡みから離れて(卒業してから)精神世界に係わるほうが本物の精神世界を身近に感じて生きていけます。

「幸せの青い鳥」を捜し歩くその精神世界はインチキになります。

2013年09月19日 | Weblog
人間は良い悪い&善悪損得優劣で判断してその「良いとこ取り」をするために生きているようなものです。
然るに「すべてはひとつ」「すべては愛」は完全真理ですが、しかし良い悪いで判断する人間には不釣合いで実践できません。

また欲張らなければ自由平等調和の人間関係になるのに、
然るに太古より欲張ってきました。
然るにいつの時代も欲張ってきました。

然るに今の時代も欲張ったその結果です。
然るに今の私たちも欲張ったその結果です。

然るにその欲張った結果が今だったら、その欲張った今に満足すればそれ以上に欲張る必要が無くなります。

だから「幸せの青い鳥」を捜し歩くことでも、またその幸せの青い鳥を見つけて掴まえ取ることでもありません。
然るに何か足りなくても生きている今に満足し欲張らなければ幸せの青い鳥が自分の心意識の中に入ってきます。

ところが今も欲張っているのにその幸せを思い願い期待するのは不可能なインチキ同然になります。
そのインチキを太古より繰り返し続けているのに何で幸せになれるでしょうか。

然るに今の時代もインチキのままに生きて死するのですか?
それでも「精神世界」に身を置いて生きていると言えますか?

然るに欲張ることが精神世界のインチキになると学び知り気付いたのなら、
然るにその欲張ることをやめる実践、
然るに今に満足する実践、

然るに欲張りとなる趣味嗜好娯楽や変化刺激&快感快楽を捜し求めることをやめて、
然るにその無理無駄余計なことが無いままの楽にして生きる実践、
そして自由にして生きる(否定反発&束縛制限支配しない)のが真実の精神世界ではないのでしょうか。

何はともあれ「欲張らない」「頑張らない」「見栄を張らない」
然るに張り合わない&張り詰めないままにして

然るにすべての人が実践できる精神世界となる「気楽」にして生きることが
自他共に<幸せ>な自由平等調和の人間関係になっていくと確信しています。

然るに先ずは己が楽に生きてそれを事実にして味わうその必要があります。

「地球の夜明け」「地球維新」「地球人類の進化」「宇宙の進化」「次元上昇」

2013年09月16日 | Weblog
いつの時代も善と悪がありました。
いつの時代も金持ちと貧乏人がいました。
いつの時代も人の上に立つ人とその下にいる人がいました。

いつの時代も生まれる人と死に逝く人がいました。

然るにいつの時代も生きることに精出していました。
然るにいつの時代も楽にして生きることを願っていました。

然るにいつの時代も楽にして生きる中に楽しさを求めました。
然るにいつの時代も幸福を求めていました。

然るにいつの時代も欲張っていました。
然るに良い悪いで判断してその良いとこ取りをしてきました。

ところが欲張らなければ良い悪いで判断することにはなりません。
然るに人殺し戦争にもなりません。
然るに自由平等調和の人間関係になります。

なのに何で欲張るのでしょう。
然るに自分さえ良ければいいのでしょう。
ところがしかし元からしての「内在神&我神なり」の良心の呵責からして後ろめたさを感じるのも人間です。
然るにそれも良い悪いで判断した結果になります。

だからこれまた欲張って「良かった」ことよりもそれが結果的には「悪かった」ことだったと「気付き」後悔反省すのが精神世界になります。

然るに人集め金集め欲絡みの神仏霊魂を説く信仰宗教や真理や精神世界を語る偽善者&形がなくても、元からして気付く時が来たら気付き、然るに気付く人は気付くことができます。

然るに気付きさえすれば独自独歩で精神世界に身を置くことができるのです。

然るに内在神&内なる神の心で気付けば(後悔反省からして)その精神力からして(自らして)自己拡大から自己縮小に移行していきます。
然るに欲張る他力依存から離れて然るに内なる神の心&自力と自信の精神力で生きていくことになります。

そして欲張れば肉体的にも感情的にも精神的にも(心身ともに)疲れていることに気付き目覚め自覚できるようになりますから、然るに賢い人は欲張ればそれだけ損する事になっていることにも気付き目覚め自覚できますから、然るに(良い悪い&損得計算で判断した結果からして)そこで無理して欲張ることにはなりません。ところがしかし賢い人が欲張るとその賢さを忘れ見失い消えるのです。

然るに欲張り無理することが無くなると、然るに良い悪いでいちいち判断することのその必要性が無くなります。

そして楽にして生きている中に楽しさがあることに気付けば心身ともに疲れる趣味嗜好娯楽&変化刺激を求めることも無くなります。
然るに人間関係に自由平等調和が必要なことにも気付きます。
しかしそれを人様に求めたり押し付けることは出来ません。

然るに独自独歩で生きながらにして「その時」が来るのを待つしかありません。
然るにそれが「地球の夜明け」「地球維新」「地球人類の進化」「宇宙の進化」「次元上昇」と言われることだと思っています。

「どうしようもない」他のことよりも「どうにかなる」己のために仕組まれるのが精神世界です。

2013年09月12日 | Weblog
私たちは「生きる」為に生きています。
然るに死ぬために生きているのではありません。
だから自らして「命を絶つ」とその自殺に至った原因意識、然るに怨念&執念&遺恨などを持ったまま幽界に止まります。
然るに輪廻転生がある霊界ではありません。

またこの世で金儲けするためや名誉名声を得るために生きているのではありませんから、然るに精神世界に身を置いてその精神力&自力と自信を付けるために生きることになります。

然るに生きていくために仕事をしますが、仕事をするために生きているのではありません。
然るに趣味嗜好娯楽を味わうために生きているのではありません。
また人間関係は自由にして人と接し触れ合い学び合うためであって、否定反発し合ったり束縛制限したり支配するためではありません。

然るに現われ出た結果を見て生きるのではなくしてその結果の原因となるその意識を見定めながらにして生きることになります。
然るに原因意識を知ることが出来るその精神世界&意識の世界に身を置いて生きるのが人間本来の生き方になります。
それを矛盾無く完全にして教えてくれているのが完全真理です。

その精神世界に身を置いて生きていても元からして不完全意識だけにどうしても自己満足と不平不満の苦楽&喜怒哀楽が伴った生き方になります。

然るにその苦楽を味あわずにして呑気気楽にして生きる実践をしていても何やら言葉で言い表せないような複雑な精神の乱れを感じることが時々あります。

然るに「やるせない感覚」やまた迷路とは違う「心のやり場や逃げ道の無い感覚」、然るにそれより高まれば「生きていることがどうもしんどい感覚」「生きているのが何か辛くなる感覚」と上昇し、然るに「生きていることが面倒臭い」「生きているのがイヤになる」「人間をやめたくなる」と上昇していくのではと思っています。

それがどうやら次元エネルギーの高まりになかなか馴染めないでいるその影響かもしれませんし、加えて自分さえ良ければの不完全意識の集合意識エネルギー&破壊意識エネルギーによる影響なのかもしれません。

然るに人為的な被害や災害でも無く、また真坂の有事や天変地異によるショック状態では無くして、どうやら自らが造った墓穴に自らが入っていくことになる、それとも泥沼に入ることを自らが選ぶ、然るに自己破壊につながり、それを超えれば他者破壊や他者を道ずれにする無差別殺人に至る可能性もあります。

そして超能力者や霊能者が予言予知で言うのにあるのが、然るに核兵器を持つ国家のリーダーがやけくそ破壊意識になって核ボタンを押して核戦争が勃発することになるその可能性が大きいようです。

然るに国家社会や他者によるその有事や天変地異や自らの意識が原因の有事に遭遇する前に自らが精神世界に生きることを意識してその実践していなければ、然るに事が起きてからでは遅いと何度も書いています。

然るに宗教や真理を学ぶことがあってもそれを信じ祈り願い期待することでも無く、また超能力や霊力に頼ることでも無くして、
また他者の意識やその結果を気にして執着することでも無く、
然るに精神世界に身を置いて先ずは自らの生き様&意識に気付くことが先決なのです。

然るに精神世界は「どうしようもない」他者のためにあらずにして「どうにかなる」その自らの精神意識に気付くために仕組まれるのが本来の精神世界です。

自己満足と不平不満の繰り返しでは「楽にして生きながらにして楽に死ねる」ことにはなりません。

2013年09月11日 | Weblog
成り行きの必然のご縁からしての結果は必然の結果だけにそれで自己満足することにはなりません。
然るに前もって結果を予測&思惑期待したことを成せばそれは自己満足になりますから、然るに誰かに見せたがりまた自慢話をしたがります。

ところが成り行きの必然から成した結果を人に見せたがったりまた自慢したがるとそれは必然の結果では無くなりますから然るに自己満足に変わります。
その場合は必然の日常の当たり前では無くして然るに特別性のある愛情人情の善意善行奉仕などで「良いことをした」「事を成した」という思いを持つことからして自己満足になるのです。

とにかく「事を成した」と思えばそれを誰かに自慢したがるものです。
然るに人から頼まれたことや特別な思いがよぎったりすると当たり前のことでは無くなり然るに特別なことを「成した」その思いになりやすいのです。

然るに不完全意識の「良いとこ取り」を持っている私たちは何かと自己満足したがるのです。
然るに自己満足は一過性ですから自慢するために記憶に残ることがあっても心の中に行き届きその心を満たしてはくれません。

また自己満足には裏がありますから、その自己満足したことを人様が認めてくれなかったりするとそれが不平不満にもなります。
然るに無理苦労して成してそれが報われて喜んだりそれが反対に不満になることからしてその苦と楽&喜怒哀楽が付きまとうのです。
またその中に裏切り関係が潜んでいます。

然るに心を満たす満足は形にして成したことでは無くして、食って寝て糞をしながら当たり前に生きている中にあるものです。
然るに生きていることがアリガタイことでそれで十分に思えれば満足していることになるのです。
然るに不平不満が出てこないわけです。

ところがその不平不満が出てくること自体が、然るに心の中が満たされていないのが原因なのです。
だから仮初めの自己満足を捜し求めることにもなっているのです。

しかもその自己満足に飽きてくればそれが当たり前になって自己満足にもならずにして、然るにそれ以上の変化刺激で満たそうとすることからしてこの世の文化文明が進化発展してきたのです。

然るに食って寝て糞をしながらにして生きているだけで十分に思えるようになるには、然るにそれを実際に実践しない限りそれを味わえることにはなりません。
然るに「楽にして生きながらにして楽に死ねる」ことにはなりません。

然るに不平不満と自己満足の裏表の生き方、然るに結果を出したがる生き方、然るに結果を気にして執着する生き方、然るにその苦と楽、然るに喜怒哀楽の生き方が続きます。

然るに「それで宜しゅう御座いますか」となります。

無理して頑張る欲張る見栄を張ると、然るに心意識を張り詰めることになります。

2013年09月10日 | Weblog
いつの時代も生きていくだけで精一杯だったのに戦後の高度成長で豊かな生活が出来るようになりましたが、
然るに自然界が破壊され、また有害物質で汚染されたことからしてホタルやトンボが飛び交う小川が消え魚取りする大人や子供の姿も消えていきました。
そして今や地球温暖化の影響で自然界がおかしな事になっていますし、また原子力&放射能の問題が大きな影を落としています。

また世界的にも混沌とした状況が続いていますから、
然るに個人独りではそれら状況をどうすることも出来ないし、また多くの有能な人が集ってもどうすることも出来ない状況になっているのは現実事実です。

然るにどうしようもない環境状況結果に至った元はその人間意識に問題があったわけですから、今更どうしようもないその結果&終末的状況を見定めて、
然るに「結果じゃないよ心意識だよ」として、
生きている限りにおいて&精神世界に身を置いて(来世のためにも)自らの意識を変化修正改革していくしかありません。

=信じるか否かになりますが=
ちなみに霊能者kさんが言うには、私の大元は宇宙から来た意識体で然るに私の前世の中に学者のときや宗教家のときもあったようです。
然るにそのkさんも宇宙から来ており、然るに月信仰&縄文時代のムー大陸のその月意識のお姫様の前世が引き継がれているようです。
ちなみに伊勢白山道なるものは太陽崇拝信仰意識であり、然るに月意識体は邪なものとして忌み嫌っています。

説明が途中で横道にそれましたが、
然るに現れ出ているその結果を見ることを卒業して、その原因である人間意識を見定める事にならなければ、死ぬまで生きていても、真の精神世界に身を置くことにはなりません。

然るに私は欲張り無理する自己拡大から卒業して自己縮小した形になりましたが、然るにその精神世界に身を置いて「楽にして生きて」多くを学び知り気付き悟り、然るにその意識が原因からして「楽にして死ぬ」ことができれば上出来だと思っています。

然るに「楽にして死ぬ」とは、何の気苦労&苦悩を持たずにして安らかに死ぬことであり、然るに未練執着も無く心穏やかにして、また肉体的苦痛を伴わないで死ねる自然死のことです。

しかも家族らに老後や介護の迷惑&負担&世話を掛ける事無く、騒がず慌てず静かにして、然るに飛び立つ鳥水を濁さずが如くにあの世に旅立つことであり、然るに孤独死&無縁死の覚悟が出来ていますし、然るに葬儀法要&仏壇お墓はいっさい不要と伝えております。
また穏やかな自然死のためにも内臓の手術やがん治療も受けない覚悟があります。
然るに此れまでに健康診断を50代に一度だけですから約20年間以上受診していません。

また「楽にして生きる」中に牛舎の給餌作業のパートが含まれますが、
然るに臭い汚いのは気にならないし、相手が牛だけに気疲れしませんし、午前と午後の二回で、四日目に一日休み、その始まり終わるその時間的制限制約が殆ど無くて、またオーナーとの相性も良好でなに気兼ねなく、まさに肉体的にも感情的にも精神的にも楽チンで、給与も7万円前後ありますから経済的にも楽しています。

また人間関係で苦楽を味わうことにはなりませんし、また孤独感を味わうことも無く、また自然界の暑さ寒さや雨風も雷や地震や有害鳥獣や有毒な蛇やムカデや毛虫は気になりませんが、しかし今はノミや蚊やアブやブヨやハチなどの虫刺されに悩んでいますから、然るにその時間は痛さ痒さに執着していて心穏やかさが失われています。

また成り行き任せながらも(日々のパート以外に)一年に二度三度ほど必然ご縁からして先行きの大事な予定が決まることがありますが、その予定が大事なだけに気になってそれがストレスになるときがあります。

然るに皆さんは先行きの予定にいつも束縛制限されていませんか、然るに潜在的なストレスになっていませんか。

然るに予定無しからして突如始まるその行き成りのブッツケ本番で対処する方がその事だけで終わりますから、然るに前もってのストレスまで抱え込むことにはなりません。
然るにそれが今を生きることであり、その成り行き任せが気楽楽チンなのです。

然るに成り行き任せだと私に出来ることしか人様から必然とされませんから、然るに私に無理なご縁がくることは概ねにしてありません。
しかしそこで欲張る意識があればその無理なご縁を自分のものにしようとして頑張る事になります。

然るに無理して頑張る欲張る見栄を張ると、然るに心意識を張りっぱなしになり、心穏やかではありません。

=結果を見ずに=「気にしない&執着しない」、然るに=原因を見る=真の精神世界の中で生きる。

2013年09月09日 | Weblog
欲張って無理をしないこと、そして見栄を張らないで「楽に生きること」を書いている私の過去は然るに成り行き任せながらも必然ご縁からして50代後半まで自己拡大していました。

然るに次男ならがも親の跡目をついで米屋(当時は統制下で米穀配給所の名称)をしながらにしてご縁あって牛乳販売所の看板を掲げていましたし、またご縁あってチェーン展開中の教育塾(妻が責任者で長くは続かなかったが)の看板を掲げたこともあり、その最中に流行り始めのビデオ撮影を先駆けていましたから、然るに一人三役の仕事をしていた時期があります。

また趣味でも第一次の釣りブームを先駆け、第一次のボーリングブームも先駆け、第一次のパソコンブームも先駆け、また初期のクストーのアクアラング潜水も手がけ、然るに本職にもなった初期のビデオ撮影も手がけていました。

然るに米屋の看板が牛乳屋の看板になりその傍らで塾の看板になりそれがビデオの看板に変わり、然るに親の精米所を壊して小さな貸しビルを立て、その親が建てた母屋をつぶして新築にして、然るにその貸しビルも母屋も壊して現在は娘夫婦家族と妻の完全独立型の二世帯住居が新築されたばかりです。

そんなことからしてまさか私が「欲張らない」「見栄を張らない」「楽に生きる」なんて精神世界を書くはずも無かったと思うに、然るに現在は家族と離れて過疎地で独り暮らしと牛舎の給餌のパートをしながらにしてこのブログを書いています。

然るに精神世界を知らなくても、また欲張って見栄を張っていても、然るに結果が先立っていても、何かのきっかけ&必然のご縁からしてその結果が変わればやがてその意識も変わる時が来るかもしれません。

然るにその結果が変わるのが真坂の有事が原因よりも、また望み願い思惑期待して事を成したことが原因よりも、
然るに欲張り執着せずにほっといて、その成り行き任せながらの何かのきっかけ&必然ご縁の巡り合わせからして生き様が変化するほうが(欲張り執着した結果ではないから)無難に上手い具合に行きます。

然るに欲張り執着&無理をせずに、然るに見栄プライドを守らなければ、然るに基本を心掛けていたら、然るに必然ご縁で仕組まれながらにして成るようになって、然るにいつの間にやら過去の生き様と違った結果になっていることになるのです。

然るにそれが欲張り続けその見栄で生きていることが続いていれば、然るに良いこともあれば悪いこともある、その裏が出て世間一般的な有事や人為的な災害被害や真坂の有事や天変地異に巻き込まれて苦労苦悩する事になるのです。

然るにそれら有事に巻き込まれてそれに執着するようでは、然るに結果を気にして執着するようでは、然るに精神世界を意識して生きていることにはなりません。
ゆえに何か事を成しての結果を自己満足してそれが生き甲斐になることでもありません。

然るに=結果を見ずに=「気にしない」、然るに気になっても「執着しない」、然るに「ほっとける」、然るに「気楽に生きる」ことになります。
そしてそれが=原因を見る=真の精神世界の中で生きることになります。