矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

精神世界も必然ご縁の限られた人との係わりだけの方が互いに真剣になれます。

2012年10月31日 | Weblog
天地創造・地球人類を創造したのが神であれば、その創造に係わったすべての万物人類も神になります。
だからどれ一つとっても神になりますから何処にも差はありません。
だからどれ一つとっても特別なものはありません。

ところが精神世界を語る者にその差をつけて特別扱いする者が多いことからして精神世界がややっこしいことにもなっているのです。

そこで伊勢白山道が言う太陽は良いが月は悪いと言う風になれば不自然・不完全になりますから、その伊勢白山道は事実ではない己の思いを出して皆に教えている邪を持つ者となり語っていることがまやかしになります。

またそれを信じる者がいれば、それは伊勢白山道の信者になります。
しかしお金を徴収していませんから実質的な損害被害はありません。

しかしそれよりも重要なのは、事実とは違うことを信じているその意識が此れから先に何かと問題になっていく可能性は否定できません。

私が思うに伊勢白山道が言う「生かされていてありがとう御座います」の感謝の心を語るだけのシンプルさで十分だと思っていますから、信じるか否かの不完全を多く語る必要はないと思っています。

また宗教・超能力者・霊能者が人様からお金を出せていることを否定反発しているようですが、お金を出してもそれを必然とする者がお金を払っているのですから、巷の商取引やの手数料と同じく何ら問題はありません。

ちなみに否定反発することは自分の思いを(自分の無料相談を自尊する)正当化するためになります。

だから超能力エネルギー・念力・手かざし等のエネルギーで人様を癒し助けることも、それを求めている者がいるその必然からしてある形ですから、巷の整体士が患者さんを整えるのと同じく料金を頂くことは正当な報酬になります。


そこで私が思うに、超能力エネルギーを必然とする者や相談ごとを持ち込んできた者にたいして、それが有料であれ無料であれ、求められたことを手助けできるその能力を出す事が役割であれば問題はありませんが、伊勢白山道が言うようにリピート客を作る結果になると精神世界を食い物にする邪な者と言われても仕方がありません。

だから人様が困っている事を手助けしてから後に精神世界を説いて聞かせるのが役割・本命かもしれません。

またそのリピート客を作らないためにも、人間意識(己の意識)が原因で表れている結果であることの真実事実をしっかり語り続ける必要があります。

すなわち不平不満や不安心配はその人の中にあることですから、外部の者が係わりお節介手出しすることではなくして、先ずは自らの意識を変えない限り絶対に解決することもなく何度も同じことが繰り返されるというその事実真実を(対面しあって)しっかりと教える、その絶対的必然性があります。

だから超能力者自身が役割を果たすと同時に自らが自惚れることがないように自粛するその自己縮小も絶対的に必要と思っています。

私はそれがその超能力者に課せられた役割と使命だと思います。
またそれを実践していたのが過去にご縁があった霊能者でした。


だからサイババ等のように大勢の人を広場に集めておきながらごく少数の者にサンプル的に施すのは信者・リピート客を大勢作ることになりますから私は不適切・邪道になると思います。

そして何よりも指導者自らの意識が不完全であることの自覚からして、その教え語る中に自分の不適切な一方通行の思い込みが紛れ込むことがありますから、やはり完全な真実事実を繰り返し語るにこしたことはないとおもいます。

また必然ご縁のあった限られた人との係わりだけの方が互いに真剣になれます。

そこで見せ掛けではない自由・平等とその調和の真実、それには特別が一切ないこと、またお陰さまとお互いさまの関係であること、生かされていることの感謝、だから欲張らない無理しないこと、それが自己縮小につながること。

そして不完全なこの世の形や人間関係の矛盾・裏表をしっかり味わって、その矛盾のない生き方の中に生きているその真価があることを親切丁寧に説明する事になればいいと思っています。
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釈迦やイエスが味わったことのない真の普通・本物・調和が味わえるかも知れません。

2012年10月30日 | Weblog
私の違和感の中に、

何で釈迦やイエスに奥さんやその家族(話題)がいないの? 
何で一生独身だったの? 色恋沙汰は無かったの?

何でイエスを生むのに処女でなければならなかったの?
何だか聖イエスと聖母マリアの奉られ方が違うようですが?

何で女性禁止の高い塀囲いや霊山があるの?
何で男女一緒に修行できないの? 何で女僧が丸坊主になるの?

なんか女性蔑視の気がしますが、
なんか男性の側に女性がいると邪魔なようだが、その反対もあるようだが、
だから釈迦が邪な女性意識体の誘惑と(瞑想の中で)闘ったのかな、

なのに精神世界を学ぶ講演会の場に男女が一緒に参加していますが、
なのに何でか夫婦一緒の事例が殆ど無いのも変ですね、
 

と言う私も妻や家族と離れて孤独・自由に暮らしています。
それも私には必然だったようですが、

となるとやはり精神世界は孤独と自由が無ければ無理なのですかね、

それでは完全真理にご縁があった皆さんはどうしますか?
しかも(どうやら)独自独歩に進むしかないようですが?

しかし色恋沙汰も無ければ面白くもないし、同じ学びあう仲間が身近にいなければそれだけ寂しいし、そして実践の自信をなくして心も揺らぐようですが、

それだけに趣味嗜好娯楽に興じることも無ければなお寂しいし、
それだけに人が大勢いるところで居たいし、
今の居心地のいい快適便利も手放したくないし、
尚更に甘えつつ持たれつつの家族と離れて生活するなんて、

それなのに「何で」精神世界に関心を持つのでしょうか?

私が思うに(多分ながら)念のために知識で学ぶだけ、そして知ればそれを言うだけや思うだけで満足し、それでも不安が出てくれば時々は信じることにして、その神仏・先祖やそれを説く指導者に頼り願うことにして、尚且つ自分に都合がいい事が時々起こり、それでもなお不足不安なことはそれ以上の神がかり奇跡が起こることを思惑でもって期待しながら待つことになりそうですね。

それも人生です。
自分が思うままに選択したその結果の人生が続くだけですから少々不足不満があっても、それも世間一般的な当たり前のことですから、大したことではありませんしそれも仕方がありません。

そこで辛抱我慢するなり少々小言を言うなりしても、それが原因からして屋台骨が崩壊するわけでもありませんから多分大丈夫です。


ところがです、

此れまで通りの繰り返しと、世間に見えているような形が(将来のお手本のようにして)(あなたの先々を予言したが如くに)(目の前に映し出されているその形が)いつしかそのままそっくりに我が身に及ぶことになりますが、

それでもいいのでしょうか?

もしその人生で終わりたくないのであれば、その幕を下ろして第二幕や第三幕の人生を歩むしかありませんが、

それが此れまでの自己拡大の幕を下ろして第二幕は自己縮小になれば、一度の人生でこの世の矛盾裏表を味わうことになって、それが意識変わりにつながって、その表でも裏でもない、特別も差別もない、その喜怒哀楽のない、釈迦やイエスや諸々の先祖代々が味わったことのないような(第三幕の)真の普通・本物・調和が味わえることになるかもしれません。

しかも第三幕がそれで終わるわけではありませんで、まだまだ続きの幕開けとその終わりが(始まり終わることが)続くようですから、今の第一幕ですべてが終わる人生とでは、まさしく太古に「水から陸に上がれなかった生物のように」その大きな違いが歴然として史実・事実にあります。

すなわち地球人類創造以来絶対的に繰り返されている、その「宇宙の進化」「人類の進化」が一緒にセットされている事実からして、私の中では信じるか否かを通り越した真実・事実になっています。
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名高い宗教家・霊能者・超能力者の力が及ばないのも精神世界のようです。

2012年10月29日 | Weblog
精神世界を意識している方なら前世を引き継いで現世・この世に生まれ、その前世で学び切れなかったことや学び足りなかったことを成すためにこの世で生きていることを概ねながら学び知っていると思われます。

そういう私が前世のことを知ったのは以前にご縁があった霊能者から聞いて知ったことですが、その当時はまだ駆け出しでしたから真に迫る思いはありませんでした。

その私の前世の中に牧師や学者があったようですから、それらを学び知ったことが私の意識の中に潜在していても不思議がありませんから、それならば現在の私にも匹敵できるものがあります。

またそれより以前の前世が宇宙人のようね、と言われたのもありますが、多分ながら(学者が集まると言われる)金星人の意識体かもしれません。
そう指摘する霊能者の前世がムー大陸のお姫様だったようですが、それも宇宙船に乗って降り立ったのだから宇宙人になります。

そしてその霊能者と摩訶不思議の仕組みでご縁必然があったことからして言えば私もムー大陸の前世もあることになるし、自己拡大の派手な太陽信仰よりもどちらかと言うと冷静沈着の静かな意識からして言えば(水面下で静かにお役を果たしている)霊能者と同じくムー大陸の月信仰に当てはまります。

それともう一つの宇宙人の場合も金星人とは少し違って、地球人類を見学に来た部類になるのか、なんとて目新しいことが大好きで、熱中集中するが深刻にならず、また感情が高ぶらないし情けが薄いし、客観的にも楽天的にもこの世や人様を見聞しているし、そんな自分の内面もしっかり見ているところがあります。

そのムー大陸・月信仰の霊能者から離れて現在は完全真理にご縁があるわけですが、それを言うならば前世(月信仰)で学びきれなかったことを(その霊能者から離れ)(また耕栄さんからも離れて)今は独自独歩で学んでいる途中にあたります。


だから皆さんにもそれぞれの前世を幾つも積み重ねてきているわけですから、その前世の中に霊感・霊能・超能力があったり、それ以前には太古の魔術師的存在だったかもしれません。

ところが精神世界とは離れたところの前世を持つ人の中には、その意識力からして医学や科学や文学芸術芸能の専門分野を繰り返し積み重ねているその途中の人もいるでしょうし、前世でも現世でも新発見・新発明・新技術を見い出すもその先をも目指している人もいるでしょうし、同じく匠の技を極め続けている人もいるでしょうし、そこまでいかないままに途中卒業して別なことに取り組んでいる人も多いことでしょう。

そんな特殊分野でなくても一般的職業に専念している人や地産地消に取り組んだり健康環境資源介護関係を意識している人やインターネット関連などの諸々の生活関連からも、またフリーターやホームレスのことからしても、過去世を含めて潜在的に精神世界につながる学びを幾つも積み重ねているはずだと思います。

すなわち人それぞれの個性を出しながらもいつの間にやら精神世界につながる学びをしているのです。
そして何かのきっかけからして精神世界に入り、それまでの過去世を含めてすべての経験見聞が役立つ事になるのです。


だから精神世界が宗教家霊能者やその信者だけのことではなくて、普通に暮らしている皆が学び知り気付いていることが多くあるはずです。
(精神世界にまったく関心がなかった私が精神世界を書くことになるように)

その宗教家・霊能者・超能力者が(自惚れ)(私が正しい)(自分が思う一方通行のままで)まだ目覚め悟っていないことがあれば、それをフリーターやホームレスを含めた私たちが先に目覚めることも(過去世からして)現実に起こりえることなのです。

何も専門分野でなくしても(知識能力がなくても)目の前で見えている普通の当たり前の中の「何で」からしてこの世のすべての矛盾・裏表の事実真実が見えてくるようになるのです。

そして、そこで、じゃどうすればいいの、となれば、それも自ずと判ってくるはずです。
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釈迦やイエスを含めた超能力者も一般人もその役割を果たしながらの「学びの途中」です。

2012年10月28日 | Weblog
私は若いときから多くの違和感がありました。

その中にアンデスの岩山で親族の遺体を岩で粉々に砕いてコンドルに食べさせる風習やガンジス川のほとりで遺体を焼きその灰を川に流すが、その近くで聖なる川として水浴する人が大勢来ているその有様・風習が違和感に残っていました。

ところで古今東西の過去も現在も多くの(成るようにしてなった)無縁死・孤独死・無縁墓もあることからして、若い時から私の屍や死後のことに(四国遍路の地で生まれ育ったからか)執着は無く「どうでもいい」ことになっています。

なのに先祖代々から供養法要を大事として守り引き継がれていますが、私自身の思いは、それら不完全な宗教家が言うその不確かなことを必然とする者がいて、その不確かと知りつつもその常識的必然性からして成すことの自己満足でやっていると思えます。


そんな私は若い時から両親の死も友人の死も感情に出ずじまいでしたし、その葬儀供養お墓仏壇などの風習には違和感を持っていて、儀礼的に従うことでさえ素直さがありませんでした。

それだけに、そんな面倒くさいことよりも無縁死・孤独死・無縁仏のほうが簡単シンプルだと思っているし、それだけに私の死に対する意識に執着もなく、死ぬ時が来たら死ぬだけと平然としておれるのです。


そんなことだから私の老後や介護の面倒を見れないで昔の「姨捨山」同然になっても、それも私が私の自己責任をまっとうすれば(味わえば)それが学びにもなるのです。

だから前もって色々と用意準備万端整えておく必要はありません。

だから成り行き任せに生きてきたともいえます。


ところが世間では(何でか)昔から親に孝行や先祖供養が言われていたりします。
そして伊勢白山道にご縁があった人が、今まで疎かにしていたその先祖供養に熱心になる人が増えていたりします。

ところが前項のように、その親孝行や死後の供養は一切必要としないと家族に伝えている私なんかもいます。
また何やらそんな人も増えているようにも思えますが、
いったい何ででしょう?


釈迦のように領主の王子が乞食のように修行して仏教で名を馳せたり、家畜小屋で生まれたイエスが世界を風靡する伝説の人になるも裏切られたり、また金ぴかの法衣に身を包み防弾ガラスの車に乗って民衆に手を振る法王がいたり、勝てば官軍で負ければ賊軍となった人が大勢いたり、マスコミでもてはやされるもそれが終われば忘れ去られることにもなり、冒険探検危険に身をさらし続ける人やスポーツや勝負に人生を賭ける人がいたりと、書けば切がありませんが、

どうやら完全真理が説くところの、(輪廻転生を繰り返しながら)この世の表と裏(矛盾)を味わい尽くすのが人間の役割だということは確かなようです。

だから王様や乞食を、天使と悪魔、天女と魔女、天国と地獄、幸せと不幸、自由と不自由・平等と差別、天才と無知、先生と生徒、師匠と弟子、危険と安全、不安恐怖と安心安堵、先駆けと伝統、親孝行と親不孝、一生懸命とぐうたら、病気と健康、生と死、山と谷、上り道と下り道、飴と鞭、信頼と裏切り、自己満足と不平不満、等と書けば切がありませんが、

とにかく、釈迦やイエスもサイババも耕栄さんもユリ・ゲラーも伊勢白山道も(過去世からして)今も様々な学びの途中であることは間違いないようです。


だから摩訶不思議・超能力が必要と思っていたのを自らが成して、その意味の無い・真価のないその結果を味わう自己満足だけで終わっているはずです。

そしてこの世は「どうしようもない」ことを自らの心意識に学んだはずです。
またはその学びの途中だと私は思っています。


前頭に書いた「何でなの」の違和感となる、その根拠と思える事にあるのが、
例えば私とご縁があった摩訶不思議を成す人やまた霊能者や耕栄さんやまたその他にサイババや伊勢白山道を見聞する事で多くを学んでいるように、
どうやら、他の人の様々な学びの途中をこれまた様々な人が身近に見聞することからして、その見聞が自らの学び同然にもなっているようです。

だからしてそれが神がかり霊感や超能力に限らずとも、その超能力と匹敵する匠技術・神の手といわれる人術や医科学の新発見や新発明や文学芸術や芸能スポーツに取り組み続けて有名になった人たちのその特別な生き様(拘り執着)がありますが、優れていると思う反面「何でそこまでやるの?」という(必然性に)違和感がありました。

だからして、皆がこの世の矛盾の多種雑多全部を己が一つ一つ味わっていかなくても、その見聞・見識・史実からして多くを学び知り自覚納得することにもなっているのです。


だから否定反発するよりも「何でなの」と自分に問いかければ、前世を含めた此れまでの学びから自ずと判ることもあるし、それが中途半端で学び足りなかった場合、来世で学び直しで再度学ぶことにもなっているようでもあります。
(それが事実でなくしても)とにかく人様を見てまた己を見ることで一度の人間人生で何十倍も学んだ事に等しいことになるのは事実です。

しかし学力成績の学識知識を暗記したのでは役に立ちません。
それが「何で?」からしての必然から始まったことであればそれが書物であっても学びにもなりますが、過去・前世で自らが味わっていなければ納得確信悟りには届かないで学識知識で終わりますから、それをいつしか実際に味わうときもくるでしょう。

だから親孝行や先祖供養を必然とする人が今その実践による学びの途中であったり、また今が超能力を行使しいている学びの途中だったり、また教祖と弟子や信者の立場だったり、匠と弟子、社長と従業員、また被害者や加害者、警官と泥棒の立場であったり、偉そうにして得意満面の人がいたり、それを見て違和感を持つものがいたりするのだと思います。

だからこの世のすべてが学びの場なのです。

そして自らの意識・役割個性を出しながらも皆して学びあいの途中なのです。

そして人それぞれの意識が原因の一般的有事や真坂の有事によって様々な学びができるし、またその人様の有事を見聞することでも多くが学べます。

だからお互いさまで、お陰さまで、皆が同じで、特別が一切ないのです。

ところが特別は無いと知識で知りつつ、また思いつつも、どこか潜在的・裏心で特別に思うときがありますから、その特別を欲しがることにも、また憧れることにもなったり、また自分が持っている特別能力を(必然以上に)見せ示したがること(特別意識)にもなるのですが、それもいつしか自己反省の学びになっているはずです。


と言うことからして、
この世の矛盾をより多く味わい知るほどにこの世は(裏表があって)「どうしようもなく」「どうすることも出来ない」と悟ることになり、ならばただ一つ「自らが変わるしかない」と自覚した実践でもって、これから先を生きることになると思うのですが、皆さんは如何でしょうか。

此れまで多くの文書を書いてきましたが、すべてが思いつくままであり、また書きながらも気付きがあって、その思いつくまま・気付くままにいつも書いているのですが、このブログを書いているうちに何やらすべての違和感・疑問が一点に集まり完結したような感じです。

すなわち特別があり矛盾がある限りにおいては「どうしようもない」こと。
だからこの世を創造したその宇宙・神・愛の仕組み(法則)の必然とご縁に任すしかないこと。

だから猫も杓子も奉られている先祖も釈迦もイエスも神様仏様の類も奇跡を成す人も「皆同じ」にして(自由・平等にして)、その矛盾裏表を自らが大いに味わい気付き自覚納得確信悟りとなって、そこで改めて多くの矛盾を味わないで済む素朴・シンプルな自己縮小の実践意識で生きることになり、そしてより自然体で生きる意識になることで(特別・差別の無い)次元上昇の来世にもつながるようです。
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実践ができるはずも無いのに、なんでその実践をする人が現われ出てくるでしょうか、

2012年10月27日 | Weblog
このブログに来られている方の多くは良い悪いで判断する不完全意識を持っているものの概ね心身ともに健全・健康と思われます。

何故なら、心身で大きな問題・有事を抱えている人がここへ来ても有り難いクスリにも飴にもならないから、一度来ても二度三度とは来ないでしょう。

そして何処かの信仰宗教や超能力者・霊能者・神がかり奇跡を成す人を信じて頼りその有り難い良いとこ取りに憧れて足しげく通っているはずです。


ちなみに私が過去に健康食品・特殊機能栄養食品に取り組んでいたことがありますが、そのご縁があった人の多くは概ね健康体でして胃弱肩こり睡眠不足やストレス疲れがある程度でした。

何たって病人が真っ先に頼るのは医者やクスリですから、健康食品なんかでは不足なのが当たり前です。

それと同じく、困った時の神頼みと言うように、困っていることを解決してもらうのは、自力で成す完全真理の実践するよりも、特別に優れた有能な他力人術を信頼して任せるほうが賢いことであり、それよりももっとご利益のある名高い神様仏様に祈願したり、そんな宗教よりも優れた神がかり奇跡を成す人を探し出して癒してもらうほうが得策と思っているから、

だから、その良いとこ取りがまったく無い、薬にも毒にもならない、アメもムチも無い、信じるか否かも無い、その真実・事実を説くだけの完全真理に関心を示すことができるのは(健康食品同様に)普段からあまり困っていない(精神的に余裕のある)人たちが多いと言うことです。


だから健康維持や用心のために健食・サプリを愛用するように、我が身の精神保全・精神安定補助剤が如くに、一応色々な精神世界に係わり知りたいだけで、そんなに深い意味あいが無いはずです。

だから実践するほどに(絶対的に)完全真理を必然としていないはずです。

だから否定反発することも無く静かに読んでいるだけと推察しています。

だから(困っていないから)自己縮小の実践には至っていないはずです。

だからこの先に何らかの有事で真に困ったときには、やはり良いとこ取りの他力・人術・医科学や神仏祈願や奇跡を成す超能力者に頼る事になると私は思っています。


それを健食・サプリに例えれば、健康のためにも愛用したいと思ってはいるがその実践がなくして、ところが重病人になってからは時に遅しで後悔するが、それでも手っ取り早く確実性のある医者やクスリを信じて頼る事になるでしょうね。

だから余程のことが無ければ精神世界も趣味嗜好娯楽の如くになっているのではないでしょうか、


しかしながら「必然ご縁」があった完全真理を活かしたいのならば、真に困る前から、既に自己縮小をしながらのその自力・自信でもって有事を難なく終わらせるだけの意識力・精神力・実践力でもって、現われ出たその事実を見るだけで動揺しないで、その事実を素直に味わえる心意気の、その成り行き任せの穏やかな自然体、すなわち有事が有事と思えないでそれを気楽に味わうだけの、その意識改革が進んでいる必要があるのです。

何故なら先程の健食と同じように有事が起きてからでは実践意識になることは先ず無理なのです。

何たってその有事に意識が支配されたままの状況からしてその困った思いを連発するばかりが続き、そこで少しでも早く困ったことを終わらせたい一心・執着心になっているはずだからです。

だから己の意識改革が進んでいなければ絵に描いた餅と同然となり、その有事を抱えたままの意識で人間を終える事になり、その完全真理が意味を成さない無用の長物のままになり(役立たずに)、その意識が原因のその結果の世界に自らが選んで辿り着くことになります。


と言うように何度も何度も同じことを書き続けていますが、
此れまで築き上げてきた諸々をわざわざ捨てるような真似・実践ができるはずも無いのに、なんでその実践をする人が現われ出てくるでしょうか、と思いながらもまた書き続けています。

それもこの先に必ず起こる何らかの有事のときにこのブログの内容が少しくらいは役立つかもしれないと思いつつも書いていますが、
薬のような効き目が無く、超能力奇跡の即効性が望めるわけでもなく、しかも仏門に下るが如くの自己縮小の実践が無ければ自分のもの・本物にならいのですから、せめても精神世界の学びの肥やしになればいいほうかもしれません。
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先ずは「やり始めます」か! それとも「運を天に任せ」他力に期待しますか?

2012年10月26日 | Weblog
不平不満が多くなる原因に他力依存があります。

例えば主人が仕事を終えて帰宅すると妻が食事やお風呂の用意をして待っていてくれるものとして、その妻を信じて頼って(信頼して)いたのに、その妻の不都合で未だその用意が出来ていなければ、そこで主人に不服な思いが出て当たり前かもしれませんが、しかしその妻の責任と言うよりも、妻に頼った主人の意識に問題原因があるのです。

何たって主人が妻に頼らなければ何事も無くそのままになるからです。


また親友から儲け話が持ち込まれてそれを信じていたが、その結果は大損になったとしても、しかしその儲け話を信じないで金を出していなけば損することも絶対に無かったはずです。


両親に感謝したり先祖供養しなかったことが原因からして死後の三途の川を渡ることができないと言われればあなた方はどうしますか、

そこで心を改め両親やの先祖供養に励んでみたものの基からして三途の川が無かったりしたりまた死して三途の川を渡れなければ悔しい思いをしますが、その責任は誰にありますか?

信仰宗教を信じていたのに死後の世界が地獄と思えるような居場所だったら、その責任は誰ですか?

不平不満・不安心配・怒り恐れ・やきもち嫉妬・仕返し成敗・破壊的衝動の思いに至ったのは誰が原因ですか?

またそれら結果を他人の性にするのと、または自らの意識が原因とする者の、その意識の違いは何処から出てきたのですか?

それを知ることが出来るのが完全真理です。


]そしてすべての結果が己の意識から出た結果であることを知れば、その原因意識を改めるのも自分の自力ですから、やらたと他力をあてにしなくなります。

そして自らの自力を身に付ける自己縮小に進み自らの意識を改革修正することに専念するはずです。

何たって不完全意識のこの世では他に目指すことが無くて当たり前に食って寝て糞をするだけのような自然体の生き方の実践になるのですから。

それ以外に何があるというのですか、


ところが此れまでの生き方と違うだけに馴染みもないし、何だか得をするようでもあり損をするようでもあり、自由でもあるが孤独にもなるし、お金をあまり必要としないかわりに自分が動かなければならないし、急ぎ慌てていると心に余裕が無くなるし、不足不安が無い代わりに満足感が薄いようだし、鞭で打たれないがご褒美をくれそうもないし、苦しい思いをしなくてもいいようだが助けてくれそうもないし、矛盾があるようで矛盾が無いし、真実事実のようだが不完全な人間が言うことだけに絶対が無いし、しかしそれでも信じるか否かは無いし、一体全体ではあるが独自独歩・個性役割が必要なようだし、簡単単純明快でもあるがその多くを知らなければ自信になりそうもないし、言うは安し行ない難し、一体全体どうすればいいのでしょう。


そこで下手な考え休むに至りですから、思うが侭にやってみるしかないようです。

それにも自由が無ければ始まりませんし、

そこで気疲れが無ければ苦労にもならないし、

そんなに楽しくなくても穏やかさがあればいいようだし、

感謝の心が無くても生きていることを十分に味わっていればいいようだし、


その真実・事実の本物を知るには自らがその本物に近づいていくしか他に道が無いようです。

だったら先ずは「やり始めます」か! 

それともやはり「運を天に任せ」他力に期待しますか?
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皆さんが歩む道は身軽で気軽で安心安全の心持で楽チンな道ですか。

2012年10月25日 | Weblog
一人の人間には一つの意識しかありません。
その一つの意識が歩み進むその見えない道は、何だか平らなようであり登り道でもあるようでまた下り道でもあるような、何とも不思議な道だとします。

そしてその道先に己が望むものがあればその道を歩み進むことになりますが、人それぞれにも望む道がありますから、必ずしも同じ道を歩むことにはなりません。

そして気が付くと己の前に先を歩む人もいます。
そうなると己よりも能力的に長けた人にも思えますから、そこでその人を信頼してあとに続く事になるかもしれませんが、しかしそれが絶対とは限りませんから、やがてその後に従うことよりも我が道を見極めながら歩く事になれば、再び独自独歩に歩く事になります。

そしてまた気が付くと周りに横道や回り道を歩いている人を見かけることになり、そこで親切に注意してもそれに従うとは限りませんし反発されるかもしれませんし、もしかしたら己が横道回り道をしているのかもしれませんから、そこで注意することなくそのままにしておいて、わき目も振らずに我が道を歩く事に専念する事になります。

そして一緒に歩いていた身近な人が自分勝手に離れていたりもするし、
また己が先になって引っ張っていた家族やが遅れていると思ってしばし立ち止まって、それらが来るのを待つ事になるかもしれませんし、
またいつの間にやら己の家族を背負い込んでいて、その己自身が心労して疲れている事に気付くときが来るかもしれませんし、
また己よりも遅れているだろうと思っていた者がいつの間にやら先を歩いていたりすることもあります。

ところがそんな人の中で自らがなんだか居心地がいいので気が付くと、己が身近な人の背中に乗っかっていることに気付き、そこで気を改め自らが地面に降りて自力で歩む事になる人もいますが、大方の人は自力で歩むことよりも他力で歩む道を選びたがるようです。

そんな自力の道を歩む中にも登り道となっていることに気付かずに無理している人もいますし、そのままに平坦な道を歩む人もいますし、その人よりも身軽になって下り道が如くに軽やかに歩く人もいます。

ところがどっこい、その進む道が己が望む道だとするその絶対が見えないだけに、そこで迷いが出てくるかもしれません。

そこでまた先を歩いている人を捜し求める事になるかもしれませんが、肝心要の完全真理をしっかり自覚して自信があればそのままに我が道を進んで行きますから、それがまだまだ未熟で中途半端であって横道や回り道になっていてもその自己責任でもって後悔することなく、己が気付くままに歩き続ける事になります。

だからその結果がどうであれ、それで十分なのです。
何たって己が思うがままに(自由に)歩いたその結果だからです。

しかも無理して余計に苦労してそれを無駄にすることのない身軽で気軽でまた(不信感守り意識の無い)安心安全の心持と何たって気楽・楽チンだったのですからね、そうですよね。
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不完全意識の人間関係には完全真理が薄情にも思えます。

2012年10月24日 | Weblog
不完全意識の人間関係には完全真理が薄情にも思えます。

何たって不完全意識が原因のその不完全な結果しか出てきませんから、無理しても余計なことで無駄になるのですから、そのままに(あるがままに)ほっとくことになります。

ところで家族揃って皆が心行くまで楽しめたことが一度でもありますか、
私の場合は、本来なら楽しいはずなのに少しでも気に入らないことがあればその愚痴小言を聞かされてきました。

しかも家族揃って大掛かりな娯楽施設に出かけてたりまた気軽に温泉めぐりや食事処で味わっていてもそれが何度も続いているといつしかそれが定例の当たり前のようになり(その金銭出費や自由が犠牲になっているのに)何かしらその感謝があまりにも薄いし気に入らなければ即座に愚痴小言を聞かされることからして、しぜんと(成るようになって)行動を共にすることが減ってきました。

それだけに精神世界で言うところの「感謝の心」の大切さに気付き悟りました。


そんな趣味嗜好娯楽ではない摩訶不思議の世界・精神世界・霊魂の世界・完全真理となれば、尚更に家族で行動を共にすることになりませんから、妻や子供らもめいめいが自分の思うがままに別なことをしています。

だからそれが自由でもあるのです。

しかも同じ完全真理の仲間で先輩となる娘であっても、その完全真理の理解解釈や実践やの思いに食い違うところがあるのですから、互いが語り合うも何ともし難いところがあるわけです。


だからして、その完全真理はすべて万人のものですが、それを実践するのは己だけの独自独歩になります。

だから皆が完全真理を志していても、また身近な家族兄弟親戚と一緒に志していても、皆が同じ事をするのは個性役割が違うだけに絶対に無理があるのです。

だからそれぞれに任せてほっとくしかありません。

だから思い意識することがあっても、その人それぞれの成り行きに任せて「ほっとける」平常心が愛だと教えてくれたのが過去にご縁があった霊能者です。

そのほっとかないで何かと介入介在したがるのが愛情であってもそれが愛ではないからです。

だから身近な人たちを意識することがあっても、また気になることがあっても、必然ご縁が無い限り、求められない限り、私から先に出て行くことにはなりません。

だから私は愛情の薄い薄情者なのです。


と言うことからして、生まれた時からして別々であり、育ち成長する過程もまったく違うし、死する時も別々でありますから、あの世とやらへ逝っても別々だと思いますから、この世で一緒に暮らしていても、たとえあの世で一緒になることがあっても、それぞれの魂・霊魂は孤独でありまた自由なのです。

ところがその孤独からして人が集まりたがり、その接し触れ合う愛情にすがる思いが出てくるようです。

だから信仰宗教や神仏や神がかり奇跡に頼りすがり付くのも、不完全ながらもその愛が欲しいのです。

すなわち自らに愛(自力・自信)(自心・自神)が無いからして孤独感にもなり、そして人が集まる所(それぞれの欲が渦巻くところ)へ出向くことにもなっていると私は思っています。


何の欲もなしに(何の思惑期待もなしに)人様のところへ出向く人はいません。

だから心ある人は用もない人様のところへわざわざ出向くはずもありません。

すなわち出向いて行けば、その分だけ相手の人に時間的犠牲を強いたり差し障りがあったりするし、また気遣いさせる迷惑にもなります。


ところで皆さんは自らの自由(役割個性)を犠牲にしてその犠牲愛をすべての人に分かち合い与え続けることができると思いますか?

だから過去の釈迦やイエスらが自らを犠牲にしてその愛の実践をしたと思いますか?

私は独りの個の力だけでは絶対に無理があると思っています。

それでなければ遠い昔に愛の地球人類になっていたはずです。

だから皆して成すしかないと思っています。

だから大勢の人を集めるためにも神がかり奇跡を行使したとも思います。

ところがしかし、集まる人たちが不完全意識だけにその愛を学ぶ課程にも様々な過ちがあっておかしな事になったと同時に、それを主導する自らも(孤独感からして)その不完全な愛を求め欲しがることになったと思います。

だからミイラ取りがミイラになった例えになるわけです。

だから自らが愛を無心に出していたのではなくて(自惚れ錯覚していただけで)自らが人を集めてまでもその愛に似た偽りの形(ヒーロー主人公として注目され敬い憧れられる形)を欲しがり求めていたとも思われます。

だから主導者となる者の己独りのその孤独を癒すために身近に人を集めていたとも言えますし、そしてそこに集まる者たちが(信じあって)互いの傷を癒しあう・なめ合うような、そんなおかしげな連帯感・信頼感や引っ付けあう手綱・絆が出来たことからして、その裏が出てそれが裏切り関係となったと思います。

しかしながらそれに気付いていないことからして、身近な人たちとの絆・信頼、すなわち他力同士のもたれ合いやその分かち合いの個人的な思いの愛情に互いがすがり付く形が未だに当たり前になっています。


ところで私の過去を思い起こせば、私の両親からは愛情でもって育てられていませんから(放任主義の)自由がありました。

また両親から頼られてもいませんでしたからそこでも自由でした。

すなわち「ほっとかれる」ことからしてそれが図らずも私には愛になったのです。

それだけに自力で成すことのその自信が身に付いたのです。

だから私も自由を尊重していますから、人のことを何かと意識することがあっても結果的にはほっとく事になっています。

だから自らの人生も成り行き任せなところが多くありますし、それだけに他も成り行きに任せていましたから概ね気楽で楽チンでしたが、それでも家族一緒にいると先程に書いたように何故か気になることが多くなるだけに、その気疲れを積み重ねている事を指摘してくれてそれに気付いたのも過去の霊能者のおかげです。

そんな(成り行き任せの)私だけに人様に愛情を出せないのに、何でその愛情を人様に求めることが出来るでしょうか。

また私は個人的に束縛制限される愛情よりも「ほっとかれる」ほうが都合がいいことからして、私も同様に人様のことを束縛制限しないでほっとくことになっているのです。

そして私が他力に依存する事になればそれは商取引の金銭的犠牲を払います。

だからその金銭が不足していればその他力を諦めればいいのです。

しかしその他力を諦めることができなければ執着欲張りになり金銭的な無理が伴いますから、その分だけ余計に苦労することにもなり、それがまた無駄な結果にもなることを実感でもって認識していますから、やはり私にはそんな愚かなことをすることよりも更なる自己縮小の実践を意識することになるわけです。
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孤独と自由の有る人間関係で共に暮らせばシンプルな生き方になります。

2012年10月23日 | Weblog
この世の人間意識が不完全なだけに「絶対」はありません。

だから過去の釈迦やイエスらが言った事でも絶対ではありません。
だから釈迦やイエスが言う神も絶対ではありません。

しかし絶対だと信じた人の頭の中にはその絶対が実在する事になり、それを信じて敬い尊び仰ぎたてていれば、その絶対ではないことを信じている信者になります。


また優しさ思いやりや義理や人情が絶対に必要とはいえません。
また親孝行や先祖供養が必要というのも絶対ではありません。

それでは何で必要というのでしょうか、
それは無ければ無くてもいいことなのにそれを欲しがる人(自分)がいるからです。

また善行をすれば良いことがあるが、悪行をすれば罰が下るのも絶対ではありません。
またその天国や地獄が絶対に有るともまた無いとも言えません。

それでは何で言うのでしょうか、
それはアメとムチの使い分けで人様を自分の思い通りにしたい(操りたい)裏があるからです。


しかし「絶対」と言えることにあるのが、人間には自由と平等が絶対に必要なことです。

そうなれば比較競争差別することもなければ否定反発することもありません。

だから何の問題もありません。

また何の問題も無ければほっといても大丈夫ですから、
優しさ思いやり義理や人情というその人に対するその思いをいちいち出すことやその善行を重ねる思いを持つことにもなりません。

まさしくシンプルな人間関係で自由があります。


その孤独と自由の有る人間関係で共に暮らせばややっこしいことにはなりません。

そして食うことが出来て寝るところがあって糞をすることが出来れば人間生きていけますから、その人間として生きていることを十分に味わうことが出来ていれば、その心意気が(不足不満にならないことが)すべてに感謝の心にあたえすると私は思います。

そして十分となればそれ以上の形を捜し求めることになりません。

すなわち自然体の成り行き任せに生きていく事になります。

だから精神世界も実生活も単純・シンプル・素朴になり、やがてその中の真実・本物を見い出すことになります。

だから不完全意識を持っていても何ら問題になりませんし、何かあったとしてもそれに執着することにはなりませんから、まさしくシンプル・素朴な生活が続きます。
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私が必然ご縁の成り行き任せで十分生きていけるわけ。

2012年10月22日 | Weblog
私は出来る限りにおいて「否定反発」しないように意識し心がけています。
そしてブログに書くからには「事実・真実」となることを書いているつもりですし、それも言うだけ思うだけ信じているだけのことではなくして自らが実践していることや体験経験・見聞したことの事例を理解しやすくするために詳細に書いていますし、入口・出始め・事例を違えてから、同じ真理の説明を繰り返し書くことにもなっています。

だから私には「信じるか否か」はありません。
だから不信感も出にくくなっています。
その代わり「違和感」で残ります。

そしてその違和感が事実となったり、また反対に偽善・嘘や言い訳と判った事だけを詳細に書くように心がけていますから、中途半端な信じるか否か・不信感・違和感などで終わることはないと確信さえあります。

そして人様の言葉を丸写し模写することがあれば、その人様の名前を書いてからにしています。


ところで私の違和感を「何で」と書くときがありますが、そのときは概ね真実事実が自分の中では判っている場合が多いです。

また私が否定反発しないで済む(その根拠となる)のは、この世にある「すべてが必然」と認識しているからです。

すなわち必要とする者が居るから、その必要な形が実在としてこの世に存在していわけだから、自分が気に入らないからとあえて否定反発する必要も無いのです。

ましてこの世に必要としないものがあればその存在価値がまったく無いわけですから、その無用なものを必要とする人が何処にもいるはずがありません。

だから神仏が必要な人にその神仏が実在する事になります。
だから宗教が必要な人にその宗教が実在する事になりまた存在し続ける事になりますが、その宗教を必要としない人には有っても無用の長物になります。

そして宗教が必然で実在しているというその事実だけで十分なわけです。

しかしそこで何で宗教があるのと思う事になれば、その「何で」が違和感なのです。
その事例で言えば、何で見えないはずの神仏霊魂が見えるの、何でそれらを奉る神社仏閣教会やその偶像装飾絵画があるの、何でサイババに立派な御殿があるの、何でユリ・ゲラーが豪邸に住んでいるの、何で金ぴかの衣装をまとうの、何で神がかり奇跡を敬い尊び憧れるの、占い師や予言予知を言う人に何であんなに人気があるの、何で精神世界・摩訶不思議の世界の著書が多いの、何で高額商品のファバラが売れるの、何であんなに人が集まるの、何であんなに困るの、何でそんなに悲しむの、何でそんなに怒るの、何で冠婚葬祭があるの、何でお墓や仏壇が必要なの、何で形式ばったり礼装するの、何で普通のままの普段着ではいけないの、何で新年や赤ちゃん誕生や入学卒業就職結婚がめでたいの(めでたいの正確な意味も知りませんが)。

何で生け贄や人柱があったの、神に仕える人が何で人を殺したがるの、何で宗教同士が戦ったり侵略したり布教したがるの、何で人集め金集めしたがるの、何で独りしてそんなに欲張るの、自分に出来ることをやらないでおいて何でそれを人に押し付けたがるの、何でやたらと嫌うの、何でそんなに執着するの、

その「何で」も必然だからしてその何でといわれる形がこの世にあるのです。
だからそれらを否定反発・主張誇示したがることのその無駄よりも、それらのその真実事実を自分が知る事に意識を使うわけです。

そして真実事実を知るには自らがそれを実際に味わうしかないのです。
言うだけ、思うだけ、信じるだけでは絶対に本物にめぐり合えないし、自らが本物を語ることにもなりません。

だからそんな私に必要としない信仰宗教や聖書経典やそれらの書物や摩訶不思議の書物やその講演会やには(必然のご縁が無い限り)無縁になるのです。

また「めでたい」ことの祝賀行事や冠婚葬祭・お墓仏壇法要の類から先祖供養も親孝行も私には必要としないから、それらにも無縁になっていくわけです。

また自力・自信を身に付けるためにも必然ご縁が無い限り他力(奇跡・医科学・人術・物質金銭)に依存しません。

もしそれで不足・不自由するようならばそこで必然となるわけですし、それが私に無理ならば諦めれば済むことです。
だから私がいつ必然と成るかもしれないのに(むやみに)否定反発することでもありません。

また不足するだろう、不自由するだろうと前もって準備万端抜かりなく用意することも、またその予備知識・学識教養を積み重ねる勉学もありません。

だから当然成り行き任せになりますし、また自分の意識が原因からしてその結果が出るわけですから、なることは成るが成らないことはならないのです。


だからその無駄(無用の長物)がありませんから余計なロスもありません。
だからその分だけ無理なく熱中集中することが出来ます。
だから食って寝て糞をしながら生きていて、その時々の必然ご縁の成り行き任せで十分生きていけるわけです。
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