矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

一言真理 「過去」に執着しない

2009年01月25日 | Weblog
一言真理「過去」に執着しない
頭の中の記憶にある過去の出来事は「思い考え」の想像ですから、誰も直接見ることも触ることも出来ませんから「非実在」になります。

良い悪いで思い考えて、人を責めたり自分を責めたりして不平不満に思うと同時に(一秒後には)、その不平不満は既に「過去」の出来事になります。
その過去の不平不満をいつまでも持って引きずり執着すると、それが不安心配や悩みや迷いを持つことになり、更に執着すると怒りや恐怖や嫉妬や逆切れの仕返し復習になり、最後には破壊意識になり破壊行為や戦争行為に至ります。

その過去の不平不満に執着して持ち続けていると、それが過去とは思えずに、今も現実に実在しているかのように思えるのが人間です。
それが不平不満に限らず、肩書き名誉や権威権力も過去の執着になります。
そして思い考える非実在の過去に愛は実在できませんから、愛の無い生き方をしている人間になります。
すなわち、全ての結果は過去のことだから、それを良い悪いで比較判断評価・執着せずに、「今」と言う実在するひとつの愛の中で生きる事が求められているのです。

とにかく、何が非実在で何が不完全かを知らなければ生きている価値が見失われます。
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万物の中で不完全で非実在に生きているのは人間だけ

2009年01月20日 | Weblog
万物すべてに役割があります。
神(一神)は神の役割を果たしているだけであり、その神が神の愛・全知全能で創造した万物(人間・動物植物鉱物・微生物・液体・気体)も、それぞれの役割・使命を果たしている神(多神)になります。
その役割を特別にすると(特別に思うと)差・差別をつけたことになります。
だから神を特別にすれば他と差別したことになり、差別する事を教えている形になります。
その差別する意識がいろんな問題になっているのは誰もが知るところです。
すなわち、差別された特別な神・神意識は問題を作り出す偽善になり、その神を意識するものは「差」を持ちたがる差別意識や特別意識・救世主意識を持った偽善者になります。
だから神を特別に拝み奉る形は、自分の思い思惑を思い通りにしたい欲です。

多神である人間も、人それぞれの個性役割を果たせば、それが神の愛になります。
しかし他と差をつけたがるのは差別意識であり、それには己の欲があります。
その差・欲を持っていると愛・エネルギーは出ていません。
すなわち多神である人間が神とは言えない人間、すなわち自分さえ良ければの個人意識の人間、すなわち愛の行使・個性役割を果たしていない人間、我神なり我愛なりを見失った人間、個性役割で生きていない人間、良い悪いの差を持っている不完全な人間になり、そして過去や未来を思い考え想像する非実在のなかで生きていることになります。
すなわち、不完全で非実在の中で生きているのが今の人間です。

多神の人間以外の万物、その他の多神も役割で生きています。
生きているからには必ず命・意識があります。 
人間に見える形は単なる表現体であり、その表現体に力・エネルギーはありません。
意識が命であり、その命があるから形・表現体を持つことができるし、意識した事を表現体で使って行為行動表現することが出来ます。
そして、意識・命は永遠に存在・実在できます。 
また、形ある万物表現体がお互い様の関係でエネルギー呼吸・交換しているから、その共存と調和によって、その形ある表現体が生きていけるのです。

万物すべての意識には力・エネルギーが有り、そのエネルギーを出すことが役割使命です。
その見えないエネルギーが愛であり神と言われているのです。
しかもそれらすべてがひとつにつながっていて差が無いから完全なのです。
ゆえに、完全だから完全なものが創造できるのです。
それが一神にして多神であり、愛であり、全知全能と言えるのです。

見えない意識・命に愛があって、見える形や思う形には愛はありません。
それを知らないで、形や思いに愛があると思っているから(錯覚勘違い)、愛を形や思いで表そうとするのです。
そして、見える形自体や思いにはエネルギー・愛が無いのに、それが有ると思っていることから迷い混乱したり、思い悩んだり、思惑で惑わしたり惑わされたりするのです。

愛の無いところ(非実在)で、愛の無い(不完全な)行為行動を表現しているから愛の無い世の中になり、嘘偽りの愛を言う偽善者や差を持つ特別意識の人や権威権力を持った救世主意識などの主導者たちが牛耳ることができる世の中になったのです。

愛は意識ですから、愛を形で表すことは出来ないのです。 
その愛を形にすればそこに差・裏表が出て不完全な愛になるのです。
愛していると思うのは、己が思う思惑・欲であって真の愛ではないのです。
結論として、良いと悪いで判断している分離意識があるかぎり愛は無いのです。
そして、この世に実在するものは完全な愛であり神であり、万物すべての意識・命が愛であり神なのです。
だから「我神なり」「我愛なり」を自覚することになる、良い悪いを持たない完全真理を学び知る必要があるのです。
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幸せに思える条件

2009年01月17日 | Weblog
浮世離れしたかのような過疎地に単身で移り住み、そして良い悪いを持たない完全真理を学び知り、そしてテレビで流れる歴史物語や、ドキュメンタリーで紹介される海外の少数民族の明るい暮らしぶりを見て、幸せに思える価値観が大きく違ってきました。 

湯水の如くに天然資源を使い続け、その生産力による大量生産と使い捨て文化、そして競争主義で差別格差が広がり、勝ち残らなければ使い捨てにされる社会、そんな中で金さえあれば何でも出来るような先進国・経済国家になりましたが、そんな暮らしぶりが決して幸せとはいえません。

幸せに思える条件にあるのが、差の無い平等と束縛支配されない自由が無ければなりません。 ところが皆と同じでは幸せに思えないようになって、他と差をつける比較競争をして見栄や世間体を張ったり、人とは違う特別な肩書き名称や名声名誉や権威権力を欲しがったのがそもそも間違っていたのです。
差があるところに幸せは絶対にありません、それなのに差を持つことで幸せになれると思い考えるから、それが矛盾して思い悩み考え迷うことになるのです。

他の人と差を持ったことで幸せに思っている人は、自分の心を嘘で偽っていることなのか、単なる自己満足や錯覚勘違いや自己欺まんの幸せでしかありません。
もしも、他との差を付けたことが自分の幸せに思えているのなら、欲張ることばかり熱中し過ぎて、何処にでもあるような小さな幸せを自覚した事がないからです。

欲で得た差を持って一度握り締めればそれを守らなければなりません。
差を手離せば差が差ではなくなるから、必ず守りに入ります・・・差を守っているから差を持ておれるのです。
そして良い悪いの裏表の世界ですから、表の守り意識の裏に攻撃意識があります。 すなわち、守るためには先んじて攻めることが必要になってくるのが道理なのです。
だから、そんな攻守のある差・矛盾を持っていて幸せといえば嘘八百になります。

差が無くて皆が同じであれば、どんなに貧しい生活であっても共に支えあって協調しながら楽しく生きていく事が出来ます。 
差が無ければ、皆が寄り集まって助け合ったり、大勢で共同作業するところに互いの喜び感謝を分かち合えます。
差が無ければ、年齢や男女の違いや能力や性格の違いがあっても、その多様性と調和を皆で楽しむ事が出来ます。

とは言っても残念なことに現代社会ではなかなか通用しません。
また、差を無くする事が大切だと理解できたところで、自分から進んで差を無くしていく自己縮小の実践が出来る人は何人いるでしょうか・・・ 
また、確かに自分の中の差別意識が無くなれば自分が幸せになれると自覚できても、その実践はなかなか出来ません。 すなわち手離せないで守る事柄が多いからです。
世間の常識やその伝統風習や道徳やしがらみと言った形に意識が縛られてなかなか抜け出せないのです。 差のある形の世間の目や身近な人の目が気になるのです。
そこで、有るものは有って当然なのだから気にしなければいいのです。 過ぎた執着さえしなければ何とかなっていきます。 他に巻き込まれないで、急ぎ慌てないで、諦めないで、ゆっくりでもいいから意識だけ確り持っていれば何とかなっていきます。

しかし・・・悩んだり迷ったりするのであれば・・・差を持っている証しです。
不平不満になったり、迷ったり悩んだりするのは、自分の判断に良い悪いの裏表の差を持っているからです。
そして、思惑・理想・目的意識は自分の都合から出た欲な思いですから、失敗失意で逆恨みにすることになったり、思い道理にならないで苛立ち迷い悩むことになるのです。
・・・もしも逆恨みで逆キレするようであれば余程の自己縮小が必要になります。

今の自分にあたり前に出来る事が、差の無い役割を果たしていることになります。 
その役割の質や量にそれぞれの違いがあっても、いっさいの差はありません。
それ以外は思い考え思考錯誤した結果である特別なことを目指す形になり、それは他と差を付けたがる特別意識や救世主意識になります。

荷車で遠くまで移動するような暮らしぶりであっても、テレビに明るい笑顔で映り、今の普通の生活が長く続く事が幸せだといった現地の人がいました。
皆が同じような格好で集まり、皆で喜びの唄を歌いながら収穫をしている様子がとても幸せそうに見えました。
最後の最後まで何一つ無駄にしない自給自足の山岳民族や、その日暮のジャングル民族や孤島の民族がいかにも幸せそうに暮らしているのが印象的でした。
そられ住民や民族には先進国ほどの格差差別はありません。 だから皆が同じ様な仲間であれば差が気にならないで皆が仲良く楽しく暮らしていけるのです。

衣食住や財・名を競い合う差別意識に幸せ・至福の時はありません。
喜怒哀楽や生老病死に執着すれば幸せ・至福の時は来ません。
世界各国の人々の環境や価値観の違いや持つものの質や量の違いが大きく違っていても、それぞれに与えられ恵まれ持っている中にある、その小さな喜び感謝の心の中に幸せが宿り、神や愛を自覚することになる原因があるようです。

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最初で最後となる完全真理と、世界初で無限のファバラエネルギー

2009年01月11日 | Weblog
世界で始めて、そして最後となる、良い悪いを持たない完全真理が言われ始めて10年以上になり、世界初の完全エネルギーである常温核融合のファバラ・エネルギー製品が新たに創造されています。
この世に今まで無かった完全真理が初登場したことによって、今まで信じられ信じてきた不完全な矛盾のある伝統風習道徳・真理・宗教が完全に消えることになり、新たな理念や価値が起立されます。

・・・その理由にあるのが・・・ 
完全を知ったものがこの世に現れたからには、今までの不完全を見破って覆すことは簡単に出来るようになったので、その不完全が存在し続けることが不可能になりましたので、自分の首を自分で絞めて自滅していくことになります。
それでなくても・・・不完全なものがどんなに言い訳正当化しても、どんな巧妙な手立てを企てようが、完全なる完全を覆すことは絶対に出来ないからです。 
すなわち、完全真理が出たからには「否応無しに完全な世の中」になっていくのです。
・・・この重要なことが理解できなければ・・・今の矛盾ある表と裏を行き来することになり、どっちでもない中途半端な生き方が続きます。

その必然で出てきた完全真理によってこの世から不完全が消えることになれば、結果的に残ったものが完全意識になっているのだから、その完全を自覚したものが二度と不完全意識に戻ることはありません。 
すなわち完全に完結するから今の完全真理が人間界で最後となる訳です。
そして、完全真理が完全だと自覚できて実践しているものは、この先に訪れる「新たな意識」の地上の天国を味わえることになると言われているのです。

その新たな意識・完全意識のものたちが地球で暮らすのに必要なのが、全知全能の完全エネルギーである常温核融合のファバラです。
ということは、今の良い悪いの表裏で分離判断している矛盾の世界、すなわち不完全な意識の世の中では絶対に創造することが出来なかった完全エネルギーがもう既に用意されているという、夢のようなまたとない素晴らしいチャンスに巡り会っているのです。
これを最初で最後のチャンスに思うのか、それとも不信に思うのか、その白か黒かを選んで歩んでいるのが今の私たちです。

完全意識から生まれた完全エネルギーということは、今までのような不完全な弊害副作用の心配が無いというだけではなくて、完全意識エネルギーは全知全能ですから、完全なものが意識すれば、その意識されたものにエネルギーを与えることが出来るのです。
それが水や空気や大地や海であっても、月や太陽であっても同じです。
それらすべては「ひとつ」の意識の中に存在している一個の意識だからです。
それを「一神にして多神、多神にして一神」の関係で言い表しています。

しかしながら、元はひとつの万物の意識を見ないで、その表現体である固体・形ばかり見ている不完全な我々人間には、その意識エネルギーを自覚し難い面があります。
そこで形にして見せる必要も有ることから、食品の味を美味しく感じられるようにしたり、腐りにくくしたり、形の色や量や硬さが変化したり、エネルギー吸収によって怪我や病気の治癒回復が早まったり、物質エネルギーが衰えていたのに復元・充電されて元に戻ったりと、見えたり感じたりすることで意識エネルギーの実在を確認することが出来ます。

しかしそれらはあくまで見えたり感じたりする結果ですから、その結果には必ず原因があります。 原因が無ければ絶対に結果は出てきません。 
すなわち、非実在である表現体(姿形・肉体)に現れた結果を見るのではなくて、その表現体に実在するところの命である意識(神・愛意識)を見なさいと教えてくれているのが「完全真理」であり「ファバラ」なのです。 
この事を勘違いすると「良いとこ取り」のファバラ効果ばかりを期待して、我神なり、我愛なりを自覚する自己縮小がおろそかになり、この先に実在している地上の天国・至福の時には縁の無い意識体の人間で終わってしまいます。

まして、完全真理とファバラで世直し人助けの救世主になりなさいとか、名誉名声・権威権力を得て、その力を発揮しないさいと教えているものではありません。

だから、世の中時代がどうであれ、その時代の流れの中にいて、ただただ良い悪いで分離判断しないように自己縮小していくしかありません。
それが「ごめんなさい」を言える素直な心であり、「雨やんで傘を忘れない」感謝する心を持つための自己実践であり、それをありがたいお蔭様で支えてくれているのがファバラエネルギー製品なのです。

追記(2018-7-8)=宇宙意識に到達している山田耕栄さんだと言われていた当時の記事ですから=完全真理に何ら疑問がなくても…現在の耕栄さんの意識は不完全で矛盾偽善がありますから…当然ながらファバラエネルギーも同類になります。
ちなみに削除してもいいのですが…完全真理は本物だけに削除しないでいます。
だから詳しく知りたければ(最近の記事の中で)コメントを書き込んでください。
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本物の神や愛は感謝の心の中に実在する

2009年01月09日 | Weblog
いま見えている環境汚染問題を皆で意識することではなくて、環境を汚染している己の意識を見直すことです。
あちこちに木を植えにいく行動ではなくて、わざわざ木を植えに行かなくてすむ社会にするための意識改革をすることです。
だから木を植えに行くために車や電車や飛行機を使ってCO2を出すことより、CO2を出さずに済む生活を先ずは己から実践することです。
しかし、車や電車を使うことが悪いといっているのではありません、必要ならどんどん使えばいいのです、ただ使うエネルギーに感謝の意識が無いと無駄に浪費することになり、そのエネルギーの特性である裏側の排ガスCO2の影響を受けることになっているのです。
特に金儲けの手段(経済活動やその投資取引)に資源エネルギーを使っているためにCO2の影響が大きく出ています。

環境問題もそうですが、人間は退屈すると刺激が欲しくなりますから、その退屈することが多い人ほど感謝の心が少ないことになります。
だから感謝の心が無いために欲しがる刺激が原因であらゆる問題が起きています。
それが恋人や夫婦や家族や親戚などの不平不満や不安や怒りであり、それが集合して地域社会の問題や国家国際問題に拡大しているだけです。

刺激が無くて退屈になるということは、いま生きていることがアリガタイと感じる心の感謝を忘れているのです。
人同士の思い思惑の「言葉のキャッチボール」ばかりしていて、共に感じ合う「感謝のキャッチボール」が出来ていないのです。 
言葉の感謝があっても心からの感謝が無いのです。
心からの感謝であれば誰にでも判る明るい笑顔が出て心から爽快な気分になります。 だから、例え10年や50年来の恨みや憎しみを持っていても一瞬のうちに消えてなくなります。 すなわち実在する愛と直接触れ合ったのです。 
そして感謝の心を忘れていたことにやっと気付くことになるのです。 
すなわち「感謝」さえあれば・・・を自覚できた人になります。

言葉・名前は過去に記憶した頭の中にあるものですから、その言葉や名前は己の意思表示をする時に使われます。 
すなわち「私」の思いから出ていることは全て非実在になります。 
例えば、神や愛は何処にでも実在しているのだが、それをあえて言葉で出せば、それは「私」の知っている記憶から出たことだから、皆のものではなくて私だけのものになり非実在になるのです。
言い方を変えれば、実在で有るものをいちいち言葉で出していうことは、「私さえ良かったら」「私の思い通りにしたい」という「私」の欲な思い思惑を相手に主張していることになりますから、(私の知っている神や愛を出していることになり)特別意識や救世主意識の偽善の愛を出していることにもなります。
だから、頭で思って言葉に出して言う愛は本物の愛ではなく、美しく見せ掛けるために着飾った中身の無い非実在になります。

形や形その物の名前や言葉や名刺などは過去の記憶を即座に思い起こさせるための形・道具として使われている一種の洗脳意識から出たことであり、単なる頭の記憶が即座に蘇ったものですから実在にはなりません。
実在するものはただ「あるがまま」に実在しているだけですから、名前や言葉を出す必要は無いのです。 
だから、いま見えていないものを如何にも見えているように思わせる(己を主張する)ために有効に使うのが言葉や名前や肩書きなどの名刺です。

その実在している神や愛は見えない意識エネルギーですから、それを確かな実在で見る事は出来ませんから、誰も知りません。
誰も知らないものを私は知っているという人は、「私」の神や愛を知っていることですから、皆の神や愛を知っていることにはなりません。 だから形にした偶像は皆の神や愛であるように見せ掛けている非実在になります。

その「知らない」神や愛を「知る」には、アリガタイ感謝を自覚する実践を続けているうちにしぜんと気付くことになります。 すなわち神や愛はアリガタイと感じる感謝の心の中に実在しているのです。 
すなわち「我神なり」「我愛なり」を自覚することになります。


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「裏が無い」「差が無い」「矛盾が無い」完全を知って不完全を知る

2009年01月04日 | Weblog
完全真理を知ると不完全を知ることになり、その知った不完全な無駄な動き働きをしなくなりますから、その分だけ不満不安心配怒ることも無くなっていきます。
それでは完全とは、「表と裏」が無いこと、表と裏の差が無いこと、表と裏の矛盾が無いことを完全と言います。 すごく判りやすくて簡単でしょう。 
そんなに思い考え思考錯誤しなくて済みます。 そして無駄な動きでエネルギーを浪費しなくてすむので、今流行の省エネ「エコ」になるだけではなく、汚染意識を垂れ流して皆に害を及ぼすこともありません。

「裏が無い」「差が無い」「矛盾が無い」このような真理を言った人は今までに誰も居なかったでしょう。 だから古い過去を大事に守っている宗教思想哲学者や科学医学者は「新たな」真理とその証しであるファバラエネルギーに事実を覆される事を恐怖に思っているから、己の過去の実績経験成果を守るべく否定反発拒否しています。

じゃその古い過去の宗教や真理や科学や医学は今まで「何」だったの?・・・
それは過去に言われていたことや過去に発見したり体験経験で知った「結果」を原因にして、それをまた別な人が出てきて、ああでもないこうでもないと思い考えていろいろやってきた結果を示していただけですから、結果を原因にして別な結果をただ積み重ねてきただけなのです。 だから今回のノーベル化学賞も過去の積み重ねを確証している成果が評価されただけです。 
すなわち、三角形の結果をこね回して四角な形に変化させた結果だけで、過去の形そのものは、何十年何百年何千年と引き継ぎ持ち続けているのです。
すなわち過去の第一原因は何ら変わりは無いのです。

じゃ「差」とは何でしょう・・・
人それぞれの思い・価値観に差が無ければ差別が無いことになります。
例えば、金貨や紙幣や新品や古臭くても形が悪くても一万円は一万円の価値があります。
しかし、一万円では少ないと思う人も居れば、一万円がありがたいと思う人もいます。
そこで同じ一万円なのに、人の思い意識・価値観に「差」が出てきました。

肌の色が黒い人も茶色い人も白い人もいますが、皆同じ人間ですから「差」はありません。
しかし茶色い方がいいとか白い方がいいと思えば、それが差別になっています。

差別を無くする為に、皆を同じ場所にして、同じ格好・形にして、同じ色にして、同じだけの物質と量を与え持たせ、同じ学歴学力知識教養を持たせ、男女が同じ仕事をするようにすれば「差」は無くなるのでしょうか? 違いますね、皆と同じでは面白くないから差を付けたがっているのでしょう・・・ すなわち原因は別なところにあったのです。

「差」が人それぞれの「意識」(価値観・分離判断)の中にあるのに、今までその原因となる人の意識を「新たに」変えようと真剣に取り組む人が現れなかったのです。
それどころか、今まで積み重ねてきた古い結果の経験体験・常識・伝統風習・道徳観念や概念を大事に守ろうとしてきたから差別も無くならなかったのです。
まして「守る」ことは、「差」を持ち続けていたい「欲」だと気付いていないから、守ることは「正しい」ことになっているのです。 
だから、持っているものを守っている限り不平等差別は無くならないのです。
その無くならない形を、如何にも無くする努力をしているように見せ掛けておいて、自分の持っている差(衣食住や財、肩書き権威権力)を必死に守ろうとしているのです。

救世主や聖職者気取りで真理や神がどうのこうのと偉そうに言って聞かせている人には差別を無くする実際の実践が無かったのです。 差を無くする本気の実践をしていないから、今まで積み重ねて伝えられてきたものが嘘偽りとは知らずに平気で皆に言えるのです。 そして私は正しい事を言っていると胸を張っていられるのです。 

自分が今まで体験経験していなかったことや今まで全く知らなかったことを信用するそれ以前に、その宗教家の語る経験体験・波乱万丈や苦行難行やその肩書きや見せ掛けを素晴らしいと思い込み・決め込み・盲信してしまった為に、あの人はすごく偉くて立派な人だと自己評価することになるのです。 
すなわち、中味より外見を先に見て信じているのです。 
しかも言うだけや聞くだけや信じて祈るだけで良かったから、真理の中味内容は中途半端でも何とか通用しているのです。 
しかしそこで真面目熱心素直に学び知る人ほど、やがて矛盾に気付くことになります。 
しかしその矛盾を追求すればするほど迷い混乱葛藤するばかりで完全な答えが絶対に出てきません。 それでも、これまでの自分が努力して手にした形・実績成果を無駄にしたくないという自己保身が働き、その為の言い訳正当化をしながらも自分を偽り、人をも欺きながらやっているうちに、それが当然の如くに思われるようになり、やがて意識的に麻痺してしまって偽善がどうのこうのと思わなくなり、どうでもいいような惰性の慣れっこでやっているのが今の宗教に見られます。

差が無ければ皆が平等になり、皆に自由があるのです。 
何か一つでも差があれば自由も平等もありません。
その「差」は「良い悪い」の善悪・優劣・損得に分離判断して自分に都合がいいようにしたがる個人意識・思惑・価値観に原因があったのです。
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完全真理の本質を深く知るために必要なこと

2009年01月01日 | Weblog
完全真理やファバラの記述を読まれるときに気を付けることは・・・
読んでいる時に、自分の判断や考えを「途中」で挟まないことです。
もしも読んでいる最中に異論反論や違和感を持っていると、読んでいるという意識よりも思い考えている方に意識が行ったり来たりして、途中に隙間が出来て結果的には飛び飛びに読んだことになります。
そして、その飛び飛びに読んだことだけを結び付けて連結しますから、それは自分に都合がいい事や理解できたことだけを選りすぐった「良いとこ取り」の不完全になります。
その結果、思い違い錯覚勘違いをしたまま「知った」ことになり、自分に都合がいいように記憶していることになり、完全真理が完全ではなくなるのです。

だから、完全が完全とならないのであれば、中途半端に納得しないで追求する必要があります。 また、理解不足でいい加減にほって置くのも、せっかくのチャンスを見逃した「勿体無い」ことになります。

だから先ず最初に完全真理の原点となる「良い悪い」の矛盾・裏表が無くなれば「完全意識」の愛の人になると言う・・・その「完全」の原点を深く知ることです。
その為に思考錯誤するなり自己分析するのもかまわないが、それで矛盾や迷い混乱があって納得できなければ、自分なりに納得できるまで終わりにしないことです。
すなわち途中で逃げ出したり放り出さないことです。

そして、自分では中途半端に納得していないと思っていても、実践意識で取り組んでいると次から次と見逃してきた内容が多くあり、結果的には知った振りをしているだけで確かな自覚まで行っていないこともあります。(私の経験から言えることです)

完全真理を深く理解していく道中に、今まで知らなかった事を知っていくという喜び感動があるのです。 知ったらやめられないで、知れば知ったで、まだ知らなかったことがあるのではないかと、飽きずにずーっと意識しておれるのが完全真理です。
まさに無限ともいえる広がりと奥行きが実在しています。

だから完全真理を意識しながら自己縮小の実践をしていれば自ずと気付くことも多くなりますが、わりと大きな原因や結果に気付くことが多くても、もっと細かい小さな原因を見逃しています・・・その方が自分には都合がいいようだから・・・かな?
例えば「守り意識」の奥の底まで知ると、その実践は今の自分にとって不都合なことになり、現実感が損なわれて困ったことになるはずです。

その現実は現実で捉えて意識を改革するだけでいいのに・・・すなわち良い悪いで判断せずに現実を実在で生きることですから・・・ いま持っている形を先に無くしていくことを思い考えると実践が無理難題になっていきます。

私達は元々から不完全で未熟なのだから(それに甘えずに実践意識で居て)、完全を知った意識が先にありさえすれば、他のどうでもよい不完全で非実在の形・結果や真坂の有事に意識を奪われ捉われ執着しなくなるから、それだけでも実践した成果になるのです。
完全真理は原因である各々の「意識」の改革が先にあり、時代や生活の「形」を改革することになるのは、後々の結果です。
だから結果を先に気にするのではなくて、原因を深く見つめ直し実践していけば、結果は人それぞれに成るようになっていくのです。
今の結果もその先の結果も、その時々の結果は誰の責任でも誰の性でもありません、その人が選んだ原因が結果となって正直正確に鏡に映し出されるだけです。

愛を勘違いした愛情、両親や肉親家族を特別に思う愛情、それを裏返せば束縛支配され(思惑通りにならない)不平不満や不安不信や怒り、憎しみや嫉妬にも変わっている現実を見逃している、その不確かな矛盾した意識を言い訳正当化してまで、私は正しいと思っている人も多いと思います。
それは何が完全で、何が不完全で、何が実在で、何が非実在なのか知らないままに、自分の常識や思い考えは正しいと、思い込み思い違いしているだけです。
それを確かに知ることが出来るのが「完全真理」なのです。
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