巷の冠婚葬祭の風習や神社仏閣&神仏霊魂の世界や信仰宗教に違和感があって60歳近くまで精神世界をまともに意識したことがありません。
その違和感が神社仏閣や信仰宗教に係わる人たち&集団のための精神世界(人集め金集め物売り勢力権威権力のため)に思えていたからです。
だから盆暮れ正月や冠婚葬祭の神社仏閣の参拝や仏壇やお墓参りやの法要やまた古今東西の信仰宗教の説教形式風習に違和感があって、それが「何で」になって潜在意識に積み重なっていました。
ところが興味本意から知った無限エネルギー&宇宙エネルギーの実在が人為的な念力霊力や神懸り奇跡の超能力にもつながり、そして完全真理のお陰ですべてがつながり、それら全てが私の中で「ひとつ」になりました。
それらをブログに書いているうちにいつの間にやら私の中の精神世界では「楽に生きる」ことが実践真理の本命になりました。
ちなみに「何で」の違和感だらけの(矛盾だらけの)信仰宗教の説教や形式&実践形態では信者だけの実践になることからして誰もが自由公平に実践できない弱点欠点があります。
また山田耕栄さんが説く完全真理を学び知った頃にも、その実践となると絶対的な無理があると感じていたのがその通りでした。
そして不完全意識ながらも無理執着の無い素朴な精神&意識になる、その自己縮小の実践が言われるようになったことからして、何だか私の出番が来たような感じでブログを書き続けています。
そして今では「気を楽にして」心身ともに<楽に生きる>ことを書いています。
すなわち不完全意識ながらも「楽に生きれば」その不完全意識&不平不満が出てこなくなるのです。
すなわち不完全意識の原因&源である不平不満が出なければ何事も無く平穏に生きていけます。
すなわち「苦」も無いが「楽」もない(特別が無い)(喜怒哀楽が無い)(当たり前&普通の)生き方になるのです。
それに神仏霊魂を信じなくても、偉大なる神様&教祖様を崇め奉らなくても、神懸り奇跡の超能力も霊力念力も必要ないし、まして布教宣伝&人集め金集めや人助けの慈善奉仕活動をしなくても、また自らも余計な出費も無駄な時間の浪費も無く、また何ら無理する必要もありません。
何たって「楽に生きる」実践ですから。
しかも幼い子供からお年寄りまでの誰もが実践出来ます。
また貧乏人であれ財産家であれ、肩書きが有っても無くても、何処で住んでいても、その実践をする人を選びません。
だから死に掛けている人でも実践出来ます。
しかも実践しなければ絶対に味わえません。
ちなみにその実践か否かは自由であり、実践した結果は皆に公平です。
そこで皆が実践すればいいのですが、人それぞれに異なる意識をもっていますから、残る問題は人間関係です。
しかしそれも実践する人だけのことですから(自己責任ですから)その人自らが自力と自信でもって無理も無く楽チンにして係わっていくしか他に道はありません。
すなわち当たり前の自力で成すことであって他力が絡まないだけに尚更に味わい深くなるのです。
ゆえにそれが自力と自信にもなり、それが先行きの安心安全にもなるのです。
しかも楽に生きることですから、親が子に教えるが如くに簡単明解ですから此れまでのような複雑難解な精神世界を学ばなくて済みますから、信仰宗教に入信したり仏門に下ったり冥想したり修行したりする必要もありません。
だから私に言わせれば(誰もが実践できる)(信じるか否かもない)(指導教育の授受関係の無い)(金銭物質や時間を浪費しない&心身ともに無理も無駄も無く余計な事にならない)極めつけの実践真理になります。
しかし世間では精神世界を特別仕立てにしている趣がありますから、何だか当たり前すぎて「ありがた味」(貴重品・高品質)(高貴・気品・気高さ)(価値観)がありません。
しかしそれが自然体&あるがままで特別が無く、嘘偽りのない真実&本物の証だと思いますが、皆さんはどう思いますか、
その違和感が神社仏閣や信仰宗教に係わる人たち&集団のための精神世界(人集め金集め物売り勢力権威権力のため)に思えていたからです。
だから盆暮れ正月や冠婚葬祭の神社仏閣の参拝や仏壇やお墓参りやの法要やまた古今東西の信仰宗教の説教形式風習に違和感があって、それが「何で」になって潜在意識に積み重なっていました。
ところが興味本意から知った無限エネルギー&宇宙エネルギーの実在が人為的な念力霊力や神懸り奇跡の超能力にもつながり、そして完全真理のお陰ですべてがつながり、それら全てが私の中で「ひとつ」になりました。
それらをブログに書いているうちにいつの間にやら私の中の精神世界では「楽に生きる」ことが実践真理の本命になりました。
ちなみに「何で」の違和感だらけの(矛盾だらけの)信仰宗教の説教や形式&実践形態では信者だけの実践になることからして誰もが自由公平に実践できない弱点欠点があります。
また山田耕栄さんが説く完全真理を学び知った頃にも、その実践となると絶対的な無理があると感じていたのがその通りでした。
そして不完全意識ながらも無理執着の無い素朴な精神&意識になる、その自己縮小の実践が言われるようになったことからして、何だか私の出番が来たような感じでブログを書き続けています。
そして今では「気を楽にして」心身ともに<楽に生きる>ことを書いています。
すなわち不完全意識ながらも「楽に生きれば」その不完全意識&不平不満が出てこなくなるのです。
すなわち不完全意識の原因&源である不平不満が出なければ何事も無く平穏に生きていけます。
すなわち「苦」も無いが「楽」もない(特別が無い)(喜怒哀楽が無い)(当たり前&普通の)生き方になるのです。
それに神仏霊魂を信じなくても、偉大なる神様&教祖様を崇め奉らなくても、神懸り奇跡の超能力も霊力念力も必要ないし、まして布教宣伝&人集め金集めや人助けの慈善奉仕活動をしなくても、また自らも余計な出費も無駄な時間の浪費も無く、また何ら無理する必要もありません。
何たって「楽に生きる」実践ですから。
しかも幼い子供からお年寄りまでの誰もが実践出来ます。
また貧乏人であれ財産家であれ、肩書きが有っても無くても、何処で住んでいても、その実践をする人を選びません。
だから死に掛けている人でも実践出来ます。
しかも実践しなければ絶対に味わえません。
ちなみにその実践か否かは自由であり、実践した結果は皆に公平です。
そこで皆が実践すればいいのですが、人それぞれに異なる意識をもっていますから、残る問題は人間関係です。
しかしそれも実践する人だけのことですから(自己責任ですから)その人自らが自力と自信でもって無理も無く楽チンにして係わっていくしか他に道はありません。
すなわち当たり前の自力で成すことであって他力が絡まないだけに尚更に味わい深くなるのです。
ゆえにそれが自力と自信にもなり、それが先行きの安心安全にもなるのです。
しかも楽に生きることですから、親が子に教えるが如くに簡単明解ですから此れまでのような複雑難解な精神世界を学ばなくて済みますから、信仰宗教に入信したり仏門に下ったり冥想したり修行したりする必要もありません。
だから私に言わせれば(誰もが実践できる)(信じるか否かもない)(指導教育の授受関係の無い)(金銭物質や時間を浪費しない&心身ともに無理も無駄も無く余計な事にならない)極めつけの実践真理になります。
しかし世間では精神世界を特別仕立てにしている趣がありますから、何だか当たり前すぎて「ありがた味」(貴重品・高品質)(高貴・気品・気高さ)(価値観)がありません。
しかしそれが自然体&あるがままで特別が無く、嘘偽りのない真実&本物の証だと思いますが、皆さんはどう思いますか、