矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自分が作り出したガンやウイルスと闘うのも、自分が作った敵と戦争するのも同じ意識

2009年03月14日 | Weblog
すべてはひとつの原因体から生まれた宇宙万物の全てに意識があります。
その意識を見える形にしたのが意識体・姿形ですが、そのすべての意識を「一神にして多神、多神にして一神」で言い表していますが・・・それをパソコンに例えれば・・・人間である個の意識がメインになって自由に働ける一方で、全意識・全体システムの端末の役目役割も果たしているのです。
すなわち、個・意識のパソコンが数え切れない膨大な個数で実在していて、その全てが意識でネットワークされていて一つにまとまっている状態を言います。
そのネットワークが宇宙であれば、人間は宇宙の中の端末の役割になります、
だから万物全てがメインであり端末だから皆が同じで差はまったく無くて全員がオールワンになります。
すなわち宇宙に特別はいっさい無いのです。
だから、宇宙の一員として端末の個性役割を果たしていればそれだけでいいのです。
しかも、誰一人として同じ個性役割を持ってはいません。
それを勘違いしてオンリーワンと思う人がいたり、ずば抜けた力を持っている人がナンバーワンに思うことがあるのです。 
その「思う」は私・個だけの思いだから、それが個人意識だと言われているのです。

その思う意識がネットワークに流れて必然・巡り合わせ・ご縁が起きています。
それを昔から「赤い糸」「絆」で言い表しています。
だからこの世に偶然はいっさいありません。

その意識が原因ですから、金儲けを意識していれば金儲けに走りますし、仕事を意識していれば仕事に集中しますが、金儲けや仕事中に遊びのことを意識すればその分だけ金儲けや仕事がおろそかになります。
また、完全真理を意識していれば学び知ることが出来るし、同じ仲間も集まります。
すなわち、意識したことが原因となってその結果が出ているだけです。
そして結果ばかり見ているが、その原因である意識を意識しないのが現代人です。

しかも、宇宙万物すべては意識を持った意識体ですから、あの有名な大腸菌もエイズやインフルエンザウイルスや癌細胞にも意識・命があります。
だから、菌やウイルスや癌細胞を殺し破壊して姿形が消えても、その意識・命は見えないところで実在することになります。 だから転移再発・感染されるのです。
※原因を研究追求するほど謎が広がり深まり、今では医学会でも言われ始めました。
だから、体内にガン細胞が見つかって殺すより、正常だった細胞を癌細胞に変異させた原因が「自分の意識」にあると自覚反省して、自分が作り出したガンを素直に認めて闘わなければ癌細胞も安心して悪さ(拡大進行)をしなくなります。
尚、インフルエンザやエイズなどのウイルスも意識体ですから、人間の集合意識が原因でウイルス菌が変異したものです。 すなわち人間自らが作った人為によるものです。
同じく、戦争になる原因も相手を悪者に思って闘うことから始まっています。
その悪者・敵国を作ったのは自分・自国が作ったのです。
すなわち、自分が作った悪者と戦う戦争も、自分が作ったガンやウイルスと戦うのと同じであり、戦えば戦うほど被害が拡大するのです。
だから、相手を悪者に思わなければ戦わずに済むから被害が拡大することはありません。
そして、(相手を悪者に思う意識)ガンや戦争になる原因(比較競争差別意識)を持たなくすればいいのです。
それには、良い悪いで比較差別判断しない完全真理を学び知り、その完全意識になる事を実践意識して日々のあたり前の生活をしていればいいのです。

その完全意識に至らない未熟な不完全な意識が僅か1㌫であっても、または99㌫不完全であっても、その不完全であることは同じです。 すなわち、パーセントの数字に違いがあっても差はないのです。 皆が不完全な意識を持っていることに変わりはありません。
また、完全意識に到達しない限り不完全は不完全ですから、幾らパーセント数字が高くても不動のものではありませんから、有事などで一夜にして変動することもあります。

それを勝手に勘違いして、じゃ努力しないままに1㌫でもあるがままでいいじゃないかと思っている人もいるかも知れませんが、99と1とは違いがあるように、当然ながら理解力・意識力・自力に違いがあり、その分だけ生活にも影響してきます。
だから、同じ様な悩みや不安や怒ることであっても、それらの質や量的な受け止め方に個々の意識の違いが正直に出てきます。
すなわち、真坂の有事で動揺することが違ってきますから、常日頃の不平不満・うっぷん・苛立ちや焦り、不安心配や怒りなどにも質的量的に違いが出てきて当然です。
ゆえに、喜怒哀楽や生老病死が主体になるのか、それとも神や愛を意識した生活が主体になるかの違いがあるのです。

日々穏やかな笑顔を浮かべているか、不機嫌な顔でいるのか、その違いも出てきます。
自分に感謝されることを望んでいるのか、自分が感謝出来る感謝の心を持とうとしているのか、その違いも出てきます。
ゆえに、愛を受けっぱなしで自己満足しているのか、愛を出している存在になっているかの違いも出てきますから、同じ不完全であっても日々の生活内容の質や量に違いがあって当然です。
そして皆が自分さえよければの個人意識を持っていますから(不完全意識)、食って寝て糞をしているあたり前の生活以外は、私・個の見栄や自惚れの自己満足であり、私は正しいの自己主張や、他との差を示す自己顕示で生きていることになります。
ゆえに「生活優先」よりも、良い悪いを持たない(敵を作らない)「心の安定」を優先する実践・生き方のほうが人間本来の愛の生き方になります。
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生活が先ではなく、神や愛を学ぶのが先でなければ生きている価値は無い

2009年03月13日 | Weblog
宇宙・万物すべてに意識があり、その意識が形・体を成していますから、人間も意識で生きている意識体になります。
すなわち、意識が主で肉体・姿形は表現体になり、意識に力があっても形には力はありません。 すなわち、姿形は意識した事を表現している単なる道具でしかありません。
すなわち、意識したことが先(原因)であり、体の行為行動・表現は後(結果)になります。

人間の体が動くのも意識した結果です。 だからエネルギーを使って体を動かしているのは意識なのです。 だから意識を集中すれば自分に成せることが成るようになるのです。
つまり、その意識が先で結果が後の「原因と結果」は離れていない事を知ることが重要になります。

その意識体である人間が地球に生まれたのは(原因は)神の愛を学ぶ我神なり我愛なりを自覚するためであって、生きて生活する(結果の)ために生まれたのではありません。
結果(生活)が先ではなくて原因(意識)が先ですから、その勘違いを無くさない限り人間で生きていることにまったく意味がありません。
つまり、生活(結果)の行き着くところである「死」のために生きている形になりますから、生きていながら死ぬのを待っているという「死んだも同然」の生き方になるのです。
そして、良いことや悪いこともある喜怒哀楽や生老病死を意識して生きるのがあたり前の常識人間になったのです。

その生老病死や喜怒哀楽で生きている限り、喜びや楽しみの反対である悩みや苦しみや不安も味わいますから、常に心が乱れていますから安心して生きていけません。
そして良いところである喜びや楽しみばかり追い求めて「良いとこ取り」をするが、悪いところである悩み苦しみ不安は裏に隠し、しかも平然としている装いをするために見栄や世間体を気にしたり、いろんな趣味嗜好娯楽に身を置いて幸せな振りをして見せることで自己満足しているが、それらは自分を偽る自己欺まんでもあるのに、それが裏返されて自惚れや虚栄心にもなり、自己主張や自己顕示欲を持つことにもなり、それが原因で更に特別な人間になるのが正しいと思い込むようになり、名誉名声の肩書きや権威権力や財を持ちたがる特別人間にもなりました。

元はといえば、神の愛を学ぶために生まれ生きているのに、いつの間にやら生きるための行為行動が先になり、それ以外の時間に神や愛を学ぶというように原因と結果の順序が逆になり、それが大元である神や愛を裏切っていることになり、それは結果的に自分をも裏切っていることになります。

そして意識が原因で病気と言う結果が出ている事を昔の人は「病は気から」と知っていましたが、意識という原因を見ないで、科学的医学的な結果の証明ばかりを優先する現代科学や医学に意識が染まり洗脳されてしまい、当然の如く結果を良くする方法が良策になり、良いとこを取って悪いことは排除するのがあたり前の常識になり、その間違った常識を更に極めることが重要視されているから世の中が変になっているのです。

そこで意識が原因であるという事例を医学的に照らし合わせれば、エイズウイルスやインフルエンザウイルスやガン細胞という形を成しているのも意識体です。 多分人間の意識が影響した人為や突然変異と言う形で出てきたと思うが・・・人間と同じ様に意識が主で体は形でしかありません。
だからウイルスやガンの形を殺してもその意識は永遠に生きていますから、必然でまた形を持って生まれることが出来ます。
だから、いくら形を排除したり殺しても再発・転移・感染することになります。
それで疑問に思った専門研究家が最近言い始めたのが・・・ウイルスや癌細胞をいくら完全に殺しても、また生き返り現れているのではないのか・・・と言う事です。

地球の万物は人間が神や愛を学ぶために用意された意識体ですから、人間がエイズやガンになるのも愛を学ぶために必然で起きたことですから、神や愛を学び知るチャンスでもあるからアリガタイことになり、それらのアリガタイ存在・役割を認めてそれらと闘わなければ愛の意識になりますから、エイズやガンも必然で消えていきます。 
既に事例が出ていますから、決して不治の病ではありません。
原因である意識次第で結果はどうにでも変わるのです。
それを証明して見せることができるのが・・・良い悪いの無い完全真理であり、その完全な愛のエネルギー「ファバラ」なのです。

そして、エイズやガンを治癒するのがファバラの目的ではありません。
エイズやガンや戦争を無くする意識改革が完全真理やファバラの役割です。
その意識改革を意識して実践するのが先であって、生活そのものが先にあっては意識改革の実践も後回しになるだけです。
それでも個人意識の人間には変わりはないから、楽しむ時は大いに楽しみ、泣きたい時は泣き、怒り時は怒り、その時だけで終わらせて未練執着後悔しなければ何とかなっていくようですが、くれぐれも原因が意識にあってのことですから、その意識を確かにする真剣な実践意識が先に有ることが重要なのです。

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名誉名声・権威権力・財が良いこととは限らない事実

2009年03月09日 | Weblog
自分が良いと思う事と、反対に悪いと思う事の「良い悪い・善悪優劣損得」がある表裏一体の世の中ですから、良いことばかりが続くわけでもないし、悪いと思うことばかりが続くわけでもないし、良いがあれば悪いもあり、悪いことも良いことがあります。

例えば、財産が有ることが良いと思っている人は、財産が減ることが悪いことになります。
だからその財産を守ろうとすると必ず敵対意識を持ちますから、この世の様々な形やその人間関係に強い不信感を持つことになり人間不信に陥ります。
だから(今は見える結果が出ていないから)まだ見えない多くの仮想の敵を相手にしていたり、現実に接している人たちからも騙されたりしないかと思っていますから、いつも不安心配で内心は脅えていますから、枕を高くしては寝られません。
だから必ずしも財産家が良いばかりではないのです。

その「良いと悪い」の思いは自分だけのものです。 だから個人意識と言います。
その個人意識の「良い結果」も自分だけのものですから自己満足になります。
反対の「悪い結果」も自分だけのものですが、それが原因で人を責めたり自分を責めることになり、その自分だけが悩み苦しむことになって精神的な損をしているし、もっと大損となる不安心配や怒り嫉妬や自己破壊になったりしています。
すなわち、自分が「損する」ことを自分が勝手に抱え込んで引きずっているのです。
また、自分だけが損していることに気付いていない人も多く、反対に人を責めることで私が正しいと主張できるし、自分を責めて自分を悔やむことが(必ず表と裏があるから)裏では私は正しいことをしていると思っているから、その「私が正しい」の自己満足や主張することで自分が得をしていると勘違いしている人もいます。

そして個人意識の人に「良いと悪い」がある以上は、自分に都合がよい「良い方」をとりたがります(良いとこ取り)。 しかし良いと悪いがある世の中ですから、「自分さえ良ければ」で良い方をとれば、必ず悪い方を誰かが取らなければ良いと悪いの表裏が成り立たないで、そのバランスが崩れることになります。
しかし誰も悪い方は取りたくないから悪い方は宙に浮いた形になります。 その誰も取らなかった悪い方が地球や地球に生きている「弱者」に無理やり押し付け背負わせていたので、なんとか良いと悪いのバランスがとれていたのですが、近代国家になってその情報量の多さから、何で自分だけが!?の思いになり、その弱者さえも良いとこ取りをするようになったから、残った大量の悪い方は排気ガスのように宙に浮いたままになり、その残り全部を地球が背負っていて、限界ギリギリの状態で今は持ち堪えています。
だから正味期限切れの地球になっていると書いているのです。 

良い悪い・善悪優劣損得で判断している限り裏と表の差があります。
その差があると(良いと悪いで)比較競争するようになります。
例えば自分の好きな趣味嗜好娯楽で良い評価を受ければ気分が良くなります。 
しかし良いが有れば悪いが無ければなりませんから、必ず気分の悪い人が出てきて・・・あいつだけうまい事やりやがって・・・と、逆恨み妬み嫉妬や憎しみを持つ人が必ず出てきます。
しかし、気分の悪い人が(被害者意識になっているから)そのまま黙ってはいられませんから、その腹いせで誰か(弱者の場合が多いが)を困らせることで自分の腹の虫をおさめようとするのです。 

「良いと悪い」がある以上、名誉名声・肩書きを持った特別な人ほど優越感を味わったり損得の得をしたりして良い事も大きいが、その分だけ悪い事も大きくなります。
例えば私が痴漢行為をしても始末書を書くだけで済みますが、特別な人のスキャンダルは特別になりますから、世間やマスコミが特別に扱ってくれます。
そして有名になって注目されれば胸を張っていられる反面、その分だけ言動に注意が必要になり、また人目に付くことが都合悪くなったりして、目立たないお忍びで動くと精神的には肩身が狭くもあり、そのギャップが苦痛になります。

世間で言う出来の良い息子や娘を持つと親のメンツも良いし羨ましがられることで優越感自己満足も味わえるが、それだけに小さなミスでも気になるから家族全員が品行を良くし外観も良くする見せ掛けの世間体を良くするために気疲れをして損をします。 しかもプライドが高ければ小さなことでもプライドが傷つくので心が痛い目に遭います。

太くて高い木に登ったら自慢できるが、ミスって落ちれば痛い目に遭います。
細くて低い木を登るのは容易いので自慢になりませんが、しかし落ちても大したことになりません、すなわち原因だけの結果がでるのです。

(以前の私は)その特別な大きな木を努力しながら登ることが良いと思っていましたが、その特別を目指すことは他と「差」を付けたがっている差別意識であり、その行為行動の成果を自己満足自惚れ慢心だけで終わらずに、他の人に言いふらす自己主張や自己顕示したがる欲があるとわかったのです。

その比較競争する差別意識で差を付ける「高い山」を作るには平地を掘って谷を作らなければ山は出来ないのです。
だから、良いとこ取りばかりしていると誰かが苦しんでいるのです。
それで平気でいられるのか、その意識を変えよとするのか、その選択は自由です。
しかし、皆が同じであれば地獄も天国も無いのです。
皆が同じように暮らしていれば何も問題は起きないのです。
その同じとは、意識のことであって形の違いや差ではありません。
その意識に「良い悪い」が無くなれば自由平等の平和な意識の世界になるのです。
そして正味期限切れの地球とこのまま己の意識を共にするのか、それとも新たな(次元)地球行きの舟(ノアの箱舟)に乗れるだけの意識になるのか、その白黒の選択が迫っている事実を書いているのです。 
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「心の共」は、心のよりどころや癒し系とは違う

2009年03月08日 | Weblog
安心して心を委ねられるのが「心の友」ですから、自分さえ良かったらの個人意識の人に心の友は実在していません。
その心の友と違った「心のよりどころ」がありますが、それも自分だけの自己満足であり、
それを「心の友」と思っているのは勝手な勘違いになります。

そして、人は良いと悪いの矛盾した不完全な意識で生きていますが、それも生きている限り持っている意識も変わってきます。
だから、その変化した意識によって様々な方向性・良いと悪いの選択も違ってきて、その違った意識や方向性によって行為行動もとうぜん変化するから、今までは心の友と思っている「心のよりどころ」も同じ様に変化して違ってきます。 
その意識している「心のよりどころ」の変化の結果が、世間で言う縁の切れ目・絶縁・離縁・離婚・家族崩壊・・・裏切りなどに見られます。

その「心のよりどころ」に宗教の祈りの集まりや説教・講演会などがあります。 
その宗教や講演会等に集まり合う仲間や友を「心の友」とも言えなくはないが、実際は個人意識から出た他力の「心のよりどころ」だから、いつ見限り見捨て裏切ることになるかもしれないので不安定なのです。
しかも宗教そののもが心のよりどころになっている他力の人も大勢いますが、その他力をあてにしていると必ず心変わりや裏切りがありますから、いつまでも心のよりどころではいられなくなり、また別な他の宗教や神を心のよりどころに求めていくようになります。

いろんな人と接することで心のよりどころが生まれますが、それにも先入観が邪魔をすることがあったりしますから、人と接し触れ合う機会の繰り返しから他人が知人になり友人になり心を寄せ合うことにもなり、それが異性であれば恋愛になり結婚して家庭を持つことになるが、しかし意識変わりや意識のすれ違いが原因で心を寄せ合うのが次第に希薄になると、(その原因・しわよせで)子供には迷惑な子育てや押し付けのしつけ教育が心のよりどころになったり、それぞれの思い趣味嗜好娯楽で自己満足する心のよりどころを見つけたり、映画やテレビの恋愛ドラマのヒロインやアイドルに憧れ心を寄せて心のよりどころにすることもあり(韓国スターのおばちゃん達の追っ駆けが示すように)、その他にも英雄となった人や有能・特技・特殊・超能力の持ち主などに憧れたり、自分に無い経験体験や力量を兼ね備えている優れた人に憧れることで、自己満足の癒しや慰めになり「心のよりどころ」にはなるが、自力で得た「心の友」には決してなりません。

すなわち「心のよりどころ」は自分勝手な妄想・白昼夢・想像の中のことだから、その夢が覚めるように直ぐにでも心変わりするのです。
しかも「心のよりどころ」は自己満足ですから、幾らあっても心の満足がないから必ず不安と恐怖を持つことになり、その分いろんな心のよりどころを欲しが集めます。

それでも人との「心のよりどころ」が不足すると心の癒しを求めることになるが、それがペットの場合であれば、その飼い主の心変わり・意識変わりから壊れた玩具を平気で捨てるように、可愛がっていたペットを捨てる事例も多いようです。
また、高価なものを身の回りに置いたり身に付けたがるのは自己満足や自己主張・顕示でもあるが、そんなお気に入りをそろえて「心のよりどころ」にしているのです。
また、自然界に身を置くことで癒される人も多いと思いますが、その自然界に身を置いて意識することで、それらから永遠に出し続けられている意識エネルギー・愛を人間が生きるために必要なエネルギーとして受け取り吸収しているからです。
すなわち、宇宙万物すべては意識が元であり、その意識に力・エネルギーが有ってそれが出ているからです。 しかし人間が持つ個人意識のエネルギーは愛エネルギーとは相反するものだから、反対に害を及ぼすエネルギーとなります。 

そんな自然界の愛エネルギーを人間が一方通行で受け取るだけで殆んどが終わってきましたから、出し続けて与えている側の地球自身のエネルギーが減りすぎて今では限界ギリギリの破壊寸前です・・・それが地球の正味期限切れです。

そこで人間に急ぎ求められているのが心からの感謝です。
感謝は愛だから、ありがたい感謝の愛エネルギーを人間が出すことになれば、その人間の感謝の愛エネルギーを地球が吸収して今度は地球自身のエネルギーに変換融合しますから、地球も元気が戻ります。 
要するに、個人意識が強くなりすぎて自然界の需給と供給のバランス・調和が大きく崩れているのを元に戻すのです。 それが人に感謝、万物に感謝のありがたい感謝の心です。

その「ありがたい」感謝の心を持つことになれば、その感謝が「心の友」となり、その感謝の愛が心の友となれば、神や愛が心の友となり、神や愛が心の友になれば全てを分け隔て差別することもなくなり、宇宙万物「すべて」が心の友となり、自己満足の心のよりどころはぜんぜん必要なくなり、すべてが心の友になる至福の世界になります。 

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神探し自分探しの変形が修行や冒険や極める形

2009年03月05日 | Weblog
これまで神と人間を分け隔てているのがあたり前でしたから、その見えない神を多くの人が探し求めてきましたが、その元となる原因にあるのが自分の思い通りの神や自分に都合が良い神を探しているのだから見つかるはずも無く、どんなにやってみても探しきれなかったのはあたり前の話になるのです。
その知らない神を神として信仰するのが宗教になっていますから、それは本当の神では無くて、宗教家や教祖に都合が良いように勝手に創作想像して作った想像神になりますから、それらを幾ら学び信じても本物の神を知ることにはならなかったのです。
すなわち、自分の思い思惑に一致する神を探していたり、本物ではない想像神を祀っている宗教を信仰していたから本物に出会えなかったのです。

その結果、(過去性を含めて)世界中の信仰宗教を信じてみたり、それらの神仏の偶像を崇拝してみたり、または己が艱難辛苦の修行をしてみたり、誰もが真似できないような波乱万丈の人生を選んだり、または世界各国の聖地や神社仏閣巡りをしたり、または色んな山や川や海を巡っては滝に打たれたり、聖なる川の流れや海で身を清めたりして、神を知る手立てや神に近づく方法としているのではないでしょうか・・・

思い考えていろんなことをやっては見るが、それでも自分が探し求めている神には巡り会えませんから、今までやってきたこと以外の中に神を知る手立や神に近づける方法があるかもしれないと、いろいろとやっているうちに確立されたのが、過去の遺物である世界中の聖書経典や思想哲学を読みあさり、その知識で知った過去を自分流に工夫して教えたり、それらしく物真似をして見せたりするような、思想哲学者や宗教家や聖職者と言われるような形や職業までがあります。
他にもセラピスト・カウンセラー・ヒーリング等の形があります。
その他にも、宇宙科学・自然科学・人間科学・生物化学や古代遺跡などの探求追及を専門としている学者先生もいますが、それらは意識の中の神探しが変形したものと思われます。

その意識の中の神探し(過去性を含めて)が変形したものと思われるのに、南海の孤島・熱帯ジャングル・山岳民族・極限の地で暮らすことになったり、冒険探検や危険との隣り合わせを選んだ生き方をしているのも当てはまると思いますし、修行のような忍耐と努力の結果の技を競う競技・スポーツや知能能力の限界を競う形などから、いわゆる神の手足を持ったと評価される形ができて、それが世間で言う「神の手」をもつ医者や技術職人であったり、スポーツの神様や囲碁将棋の神様などがあり、それら○○の神といわれる形があるのも、元は意識の中の神探しが変形したものではないでしょうか・・・
すなわち、神探しが自分探しや自分を極めることになり、その自分を極めることが神探しの代替にもなるので、潜在的・本能的に神を探しているのかもしれません。

それでは実在する神とは・・・・ すべてが神です。
すべてが神の、一神にして多神、多神にして一神の関係にあります。
だから、神以外に実在で存在できるものはいっさいありません。

そして神は完全だから、完全なものしか生まれません。
すなわちこの世にいっさいの不完全はありません。
だから、この世に不完全は実在できないのです。
ゆえに完全で生まれた私たちは完全な神なのです。
だから、完全な神以外は実在できないのです。
しかし、私たち人間の意識は不完全なのです。
その不完全な意識になった原因が、人間の頭の中で「良い悪い」で判断することにあり、その良いの表と悪いの裏の表裏の矛盾を持ったから、その矛盾する不完全な意識の人間になったのです。

その不完全な人間が神を見たり神を知ることにはなりません。
それが原因で神探しになるのだが、神である人間が別な神を探すことは矛盾するのです。
その矛盾した神を持つと、それが自分にとって特別な神や、自分にもっとも都合がよい神となり、嘘偽りの偽善の神となり、皆に公平平等なすべての神ではなくなります。
だから神探しではなくて、我神なり、我愛なりを完全真理によって学ぶしかありません。
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必然の巡り合わせは意識にあり、それで意識も変わる。

2009年03月03日 | Weblog
人間は意識したところに自分が居ます。
だから二つ同時に見たり聴いたり意識することは出来ません。
・・・それを私の事例に例えてみると・・・
私は好奇心旺盛で熱しやすく冷めやすいタイプですから飽き性でもあります。
だから新物食いですから、自分がやっていることより優れたことが見つかるとそれまでやっていたことを減らしていき、その分だけ新たなことに集中してきました。
それが、仕事であれ、趣味嗜好娯楽であれ、人付き合いにまで影響してきました。
その繰り返しですから、得たものも多いが、無くしていったのもその分だけ多いです。
(誰でも)意識することやる事が変われば必然でそうなっていきます。 そして意識変わりしていますから、必然で仕事や人間関係や家族関係までの意識が変わります。

私の好きな言葉に「二兎追うものは一兎も得ず」「来るものは拒まず、去るものは追わず」があります。 
そうしなければあれこれと意識することが多くなって集中できないからです。
また、実際にやってみなければ答えは出ないという実践型ですから、一応は意識を集中させてはいるが、やり始める前から獲らぬ狸の皮算用を余計にして投資額や動力をいきなり増やしたりしませんし、意気込みや決心も強いのだが、実際に思い通りの結果が出ている確認をしながら動いていますから、過去になりつつあるものと現在のものとのバランスがとれていたから、大きな無理も無駄もしませんでした。
そして、努力して得て持っているものを自分から手離したのは「損」にはなりません、「楽」になったから次の動きが出来るのです。

その新物食いの熱中型の私が、今以上のもの、それ以上のそれ以上を必然でやり続けて結果を出し続けているうちに、いつの間にやら今の結果である過疎地での年金暮らしとなったのです。 言い訳正当化ではない、それが私のあたり前の個性的な生き方なのです。

その過去に学び知り経験体験してきた「見えない世界」の宇宙エネルギーや精神・想念・霊魂の世界と言われることを意識に持って過疎地での年金暮らしが始まったのですが、それとほぼ同時に(必然の巡り合わせで)過去のものを総括してそれらを越える質と量がある、山田耕栄さんの完全真理とファバラを意識するようになったのです。

そうした此れまでの一連の道のりはすべて必然の巡り合わせですから、一本道のレールにただ乗っかってきただけですから、大して悩み不安や混乱・矛盾葛藤することも無かったし、無理も無駄も少なく、多くを望み多くを欲する思惑も無く、ただ知ったことを自分でやって確かめたかっただけの意識から始まり、それ以上の新たなことが見つかれば手始めにとりあえずやってみてきただけの、その繰り返しの結果が今なのです。

だから、いつの間にやら過疎地で暮らしいるし、いつの間にやら完全真理とファバラに接し触れるようになり、それでも飽き性の私だから「追求」するのは当然のことであり、知れば知ったでもっと知りたくなる私ですから止まることはありません。
そして私の理解度を超えた難点や疑問があればあったでそれが理解できるまで簡単には諦めませんから、矛盾や妥協が無い限り必ず確かな答えが出てきましたから、それが私の自信にもなっています。

・・・その結果・・・
完全真理だからこそ矛盾も妥協もない完全であり、ファバラが本物だからこそ本物だと自覚確信できるのです。
だからこれ以上のものは無い、最初で最後となる完全な本物だと深く理解できたのです。
すべてはひとつであり、すべてが意識であり、すべてが神・愛・命であることが理解できました。 すべてだから、違いはあっても「差」は無いのです。 その「差」を付けたがるのが個人意識の人間であり、名・権・財を欲しがる特別意識や偽善の救世主意識の人であり、地球と言う舟を壊して沈没させるのも我々人間であり、その共犯者の一人が自分さえ良ければの個人意識を持った私でもあるのです。

その持って生まれた個人意識を無くすることは無理でも、持っているのに忘れていた感謝の心となる、すべてはひとつのお互い様やお蔭様の関係を知ることで感謝する心が出てきます。 
だから、此れまでの感謝される側になることを意識するのではなくて、自分が感謝できる意識になることが大切になってきたのです。
その「ありがたい」感謝の心、「雨やんで傘を忘れない」心があれば、この先のあらゆる有事を何とか乗り越えられる可能性が見えてきました。

このことを真面目・真剣に取り組むことを意識し続けていれば、(必然が起きて)それが自分のものになるのが人間の持っている意識力です。 意識にはエネルギー・力があって出ているのです。 だから必然の巡り合わせが起こるのです。 だから一つしかない意識で何を意識するかが大切になるのです。

そして感謝の心は愛ですから、(愛さえあれば)自分さえ良ければの個人意識は次第に消えていくことになるでしょう。
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個人意識が背負う「苦」を「楽」にする意識改革

2009年03月01日 | Weblog
人は生まれる前から持っていたという(世間で言う前世)、自分さえ良ければの自己中心の自分勝手な個人意識を持って人間にうまれてきましたから、自分に都合が良いか悪いかの表と裏で判断しますから、その表が出ているうちはうまく行くが、裏の都合が悪くなると裏切るという小さな裏切りや大きな裏切り関係で誰もが生きています。
だから親が子の思い思惑期待を裏切り、子は親の思い思惑期待を裏切り、親も子も互いに裏切りあって生きています。 それが自分中心に考え行動する個人意識です。

その個人意識と言う原因がある限り結果も個人意識の結果(裏切り・切捨て・使い捨て関係)しか出てきません。 すなわち感謝の「ありがたい」や素直に謝る「ごめんなさい」と言う素直な真心が失せているのです。
此れが真実事実であり、決して嘘偽りではありません。 私はそんなことは無いと思っている人は、自他共に言い訳正当化して誤魔化している偽善者や自己欺まんの人になります。

ところで(一般的に言えば)、年老いた親であれ、中年の親であれ、子育て中の親であれ、自分の老後のことを考えれば我が息子・娘が「親孝行な子供」であることを思い思惑期待しているかもしれませんが、私の場合は「息子・娘孝行な父親」でありたいと望んでいます。
だから、息子・娘と血がつながる親子関係であっても、息子は息子の娘は娘の自分が選択した個人意識が原因の生き方人生を送っているわけだから、その個人意識がゆえの足かせ邪魔になるような「息子・娘不孝行な親」になりたくない思いがあります。
また、私と同じ老後を迎えている別居の妻にも、今の(妻側から見れば)「妻不孝行な夫」ですが、(私としては)妻にあまり迷惑をかけないように配慮した老後を送る「妻孝行な夫」になり続け、更に私の死後の前後にしても、健康体の元気なままに死ねるようにと思い、病院や医者にあまり頼らないで死んでいく覚悟も出来ているし、死後の世間的な常識や伝統風習を必要としない葬儀法要となる献体登録をしているし、いま住んでいる場所に散骨することを望んでいることを家族親戚に伝えております。

これらが自分の思い通りになるか否かは先のことですが、今の時点での心意気覚悟であり、その自信の元になっている事実実例の人を身近に見て接し触れることが出来ています。
しかもそのご老体のご婦人は片足片手が麻痺して不自由なのに、他県に住む息子・娘の誘いを断り自らが独り暮らしをしているのだから、私にとっては最高のお手本になっています。
それも、私がまだ過疎地暮らしも老後設計も定まっていなかった時に(身近に見せてくれて)、私が孝行親になれる決心をするきっかけを与えてくれたことは「必然」であり、私がそのご婦人の手足となってたまに役立つことができるのも必然の結びつきになります。

私のように過疎地で自分の思い通りの身勝手な生き方をするのも、また個人意識の集団・雑多の中で暮らす人も、自己中心の個人意識で生きていることには変わりありません。
そして何処で暮らしてどの様な暮らしぶりをしていようが自由ですが、その生きて暮らしていることにアリガタイ感謝の心が無ければ本当に生きている価値はありません。

だからこのまま個人意識でずーっと無駄に生きていくのか、その個人意識を終わらす実践をして生きていくのか、その選択も夫婦親子に関係ないところの個人の自由選択ですが・・・ (私の場合は)無理にくっ付き引っ付きして互いに介入し合ったり、また互いの思惑を裏切りあうことで個々が勝手に思い悩み葛藤したり、その不安や苛立ちに耐えたりしながら、まして腹立つ怒りや嫉妬憎しみを隠し抑える生き方で無駄に意識エネルギーを浪費すよりも、(結果的には意識エネルギーが高まることになった)他力・しがらみがあまり影響しないところで単独独自の自力で思うがままに生きてみるのも面白いものだと気付き自覚しているところでもあります。
そして孤独を楽しめば孤独感にならないことも自覚できましたし、暇で退屈だからゆえに過去で見逃し見落としていたことを始めて気付き知ることにもなり、その新たに知ることが喜びや感動になり、アリガタイ感謝を学ぶことにもなります。 
その結果、すぎた「苦」が減って無理をしない普通の「楽」が増えました。

※人間は意識で生きていますから、その意識エネルギーを無駄に多く浪費する事の結果はマスコミ・ニュースや身近な家族親族を見れば一目同然ですので省略しますが、その意識エネルギーを使いすぎた期限切れの命・意識の行き着く先は何も見えない無の暗闇の世界ですから、生身の人間以上の数倍の恐怖を闇の中で永遠に味わうことになります。
しかも人間の時は自殺などで恐怖から逃避することもできましたが、人間の形を終えた「死人」が二度も三度も死を選ぶこと絶対に無理です。 
このことは意識の世界を解く完全真理を深く理解したものだけに知ることが出来ます。

ところで、今の原因の結果がこの先に必ず現れるわけですが、それがどう転んでも(思わぬ真坂の有事で何が起きようとも)、余分なものを捨てている今の私の状況や境遇からすれば大した未練も後悔も執着も無いから、たぶん状況や境遇が変わってもあまり気にせずに呑気に生きていくことでしょうが、その有事を平常心で受け入れるだけの「傘を忘れない」感謝の心を確りと持つ実践はまだまだ私に必要です。

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