孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

持つ、守る、戦う、この連鎖を無くする

2008年06月29日 | Weblog
自己中心の個人意識は皆が持っていますから、平気で裏切ることができます。
例えば離婚は夫婦の裏切りになりますが、その離婚の増加や熟年離婚が多く表面化しているけれど、昔も今も裏切り関係はぜんぜん変わっていません。 ただ昔は離婚せずに互いが我慢していたから離婚率が低かっただけです。
特に女性側にとっては一昔前までは離婚したくても経済的理由やしがらみ世間体から離婚し難い流がありましたが、経済発展などで次第に離婚率も高くなって世間ではそう珍しくなくなっているし、国の生活支援策もあることから、あまり抵抗や障害も無くなり、わりと簡単に離婚できる時代になったからです。

結婚にいたる前の恋愛も既に裏切り関係にあります。
自分をカッコよく見せ掛けるのも、恋敵と競い合い奪い合うのも、何とかして自分のものにしたがる欲、すなわち相手を束縛制限支配したがる偽善であり既に裏切っているのです。

束縛支配したがる。自分のものとして「持ち」たがる・自分のものとして所有したがる。
夫や妻は自分のもの、家庭も子供も自分のもの、そして自分のものだから自分の思い通りにできる錯覚勘違い。 しかしそれほど簡単に束縛制限支配できない。 そこで家庭内暴力やいじめや虐待になるのです。 それは今も昔も同じです、現在は少し形を変えて表面化しているだけです。 原因は皆同じです。 だから現れる形や方法が違っていても皆同じような裏切りの結果が表に出ているのです。

自らが裏切る結果となる偽善を持っていながら、それでもって子供を守り家庭を守ろうとするのも儀善になるから、その守り意識が過ぎると「手放せない欲」となり、何とかして見せると自分と戦ったり敵と思えるものと戦ったりしながら試行錯誤・自己拡大を繰り返し、それでも思い通りにならないから更に迷い苦悩することになり、それが過ぎてノイローゼやうつ症状が出たり自殺願望が出るようになるのです。
戦わなければ持たなくなり、持たなければ「ある」だけになります。
「ある」のを執着して「持つ」ことになるから、守り戦うことになるのです。 

持つ、守る、戦う、この連鎖を避けるには手放す・離れるのが一番です。
持ち過ぎる自己拡大に偽善愛・裏切りがあっても、真実の愛はありません。
外面的にも内面的にも持ち過ぎたものを手放して普通になる、それが自己縮小です。

そのためには何より先に原因である「良い悪い」善悪優劣損得の判断(裏表を比較して、自分に都合が悪い裏を自分から切り離そうとするから裏切りになる)をしないで現れた表だけの事実を「あるがまま」に見て、その裏表のない真実の愛に気付き学んでいけるようになればいいのです。



皆が偽善者たる訳は

2008年06月26日 | Weblog
皆が個人意識・裏表のある偽善者である訳とは

優しさ思いやりの中にも自己満足・自己主張・自己顕示が隠れているのです。
例えば奉仕活動や寄付行為や教育・説法・伝授の中に隠れています。

個人的な感情が伴う愛情もそうです。本当の愛と愛情とは違うのです。
だから深い愛情で結ばれていても簡単に裏切りがあるのです。
自己評価で、優しいから好きと言う条件付の好きも同じです。
同じ自己評価で優しさを感じることが出来なくなれば嫌いになるように
「あばた」も「えくぼ」だったのに、「あばた」が醜くく見えるように

悲劇の人に同情する、哀れに思う、気の毒に思う裏に差別意識がある。
可愛いと思う、死を哀れむ、
勝って喜ぶ、負けて悲しむ、
喜怒哀楽の感情に差別意識が隠れている。

人の喜びを自分の喜びに思う中に嫉妬・ジェラシーが裏に隠れている。
人の悲しみを自分の悲しみに思う中に他人事に思う裏がある。
個人意識の偽善者は上手に「裏表」を使い分けることが出来るのです。

相手のことを先に思いやる優しさの前に自分のことが先に気になっている、
例えば人の目を気にしている、人にどう思われるかが気になる、見た目・はた目・思われ方まで思い考える個人意識が先にあると偽善になります。

同じ怒りであっても、自分の感情・愛情から怒るのと、先に相手の事を思って怒るのとはぜんぜん違うのです。

それらのことが深く理解できていても実践となると不完全で未熟だから個人意識が先に出ることが「ある」のです・・・だから私は偽善者なのです。
それでも理解できたことを実践意識でいるだけに、「ある」ものを「持たなく」なりはじめ(執着しなくなり)いつも気楽に過ごせるようになっていったのです。

「ある」ものを無くすることがなかなか無理でも、次第に「持たなく」なるのは誰にでも出来そうですから・・・先ずは真理の理解を進めることからですね・・・そしてそれを応援してくれるのが意識エネルギー・常温核融合から生まれた世界初の「ファバラ」と確信していますから、心身ともに健康である事を意識して今後とも愛用し続けます。


偽善の社会・家庭を守り維持する偽善者

2008年06月25日 | Weblog
私たち人間は意識体ですから、すべて意識で表現し行動しています、だから結果的には自分の思い通りに生きているのです。 そして自分の思い通りに生きるのが個性なのです。

自分にやれそうも無い事をやるのも、それを途中で諦めるのも自分ですから、自分の思い通りになっているのです。
立派な目標や理想を掲げて大いに意識していても、行為行動表現は自分に出来ることしかやれません。 すなわち、いくら目標や理想を掲げても、やっているのが本人だから、やれることはやれるが、やれないことはやれないのです。
だから目標や理想を持っていても持たなくても同じ結果になるのです。
だから目標や理想は必要なく、成るものはなる、ならないものは成らないのです。

自分が意識した通りに自分が動いているのですから、すべて自分の思い通りに生きているのになぜ不平不満が出るの? それは現れた結果を良い悪い・善悪損得優劣で分離判断しているからです。 そして人を責めたり自分を責めているから、それが不平不満の原因になるのです。
同じように、自分に出来ない事を専門家や身近な人に頼ることもあるが(夫婦・家庭関係でよくあるが)、人様に頼んでいながら結果的に自分の思い通りにならなければ不平不満を持つ場合があります。
自分に出来なかった事を頼んだことを忘れてしまって、そのお蔭様の成果・価値・結果を見て不平不満に思うのです。 自分に出来ない事を人様に期待した依存心と、結果を良い悪いで評価判断した意識に原因があるのです。

自分の思い通りにしたくて人様を巻き込むことがあります。
素晴らしい自分の能力や主義主張を公表して賛同者・協力者・仲間を自分のもとに集めたがります。 すなわち、自分に出来ない事を人様に応援してもらって成し遂げようとしているのです。
それ自体が間違っているとは思いませんが(必然だから)、ところが主催者である自分が主人公でいたがる特別意識を持つと、皆様のお蔭様の感謝がなくなり、自分の力で成したと錯覚勘違いして特別意識を持つことになる場合があります。
すなわち、お蔭様の意識が無ければ特別意識の偽善者になるのです。

お蔭様は人間関係だけではありません。
お蔭様として過去の神仏や先祖代々を尊ぶ伝統風習・宗教もありますが、本当のお蔭様は元々の宇宙であり地球であり自然界なのです。すなわち万物全てがお蔭様なのです、分け隔てることは出来ないのです、それを分け隔てるから特別意識の偽善になるのです。

私達は皆偽善者なのです。偽善者同士が裏切り裏切られたりしながら偽善の社会・家庭を守り維持しているのです。どうしようもない人間同士の集まりが現在です。
その原因が「意識」=良い悪いで判断する意識にあるのだから、その意識を改革・価値の転換をしなければ何をやっても矛盾妥協の中途半端な偽善にしかなりません。

そこで、現実に良い悪で判断する意識が人間に「ある」のだから仕方がないが、「ある」ものを「持」たなければ執着にならないのです。
持って執着すると、ああでもないこうでもないと試行錯誤・喜怒哀楽・迷い苦悩・後悔未練を持って、いつまでも過去の事を引きずり持ち続けることになりますが、執着が無ければ現れ出た結果である過去が意識から消えて「あるがまま」に生きることができるようになるのです。

早くこのことに皆が気付く事を意識して書かせて頂いております。 



個人意識・偽善の裏切り関係

2008年06月23日 | Weblog
私達は皆、自分さえ良かったらの自己中心・個人意識、裏表(善悪・優劣・損得)の矛盾や妥協のある中途半端な偽善関係で自分の思い通りに生きていますから、これまでも裏切ったり、裏切られたりしながら、私たち自らが自滅の道へと突き進んでいます。
その裏切りが人間関係だけではありません。あるがままの愛だけを与えてくれている地球・自然界をも裏切ってきています。

だから世の為人のためといいながらも人殺しに使われる武器となるものや弊害や副作用が出る科学製品や化学物質や薬品・医学・医術を技術開発してきました。
その最大が核利用ですが、その原発事故や核爆弾の「核の恐怖」は未だに衰えていません。

現在の排ガス問題も相当以前から光化学スモック・オキシダント発生や酸性雨で言われていたのに、経済優先意識が邪魔をして根本的な解決をおろそかにしてきたので、もはや対策既に遅しの末期的症状がいろいろと出始めております。
しかも今流行のように言われているエコ問題にしても、企業イメージアップのためにエコ対策が言われているように、自分さえ良かったらの経済活動優先意識でしかありません。
その代表的なものとしては世界的食糧難時代のバイオ燃料があります。
さらに地球環境のためといいながら排ガスさえも経済活動・排出ガス取引制度にしてしまう意識ですから、本気のエコではなく、経済活動の一環でなければ何にも出来ないくらいの浅はかな意識しか持ち合わせていません。
そして主役である我々一般家庭の中のエコ意識にしても、経済活動中心・生活安定の中の小さなエコ、言い訳程度の自己満足・主張・顕示のエコですから今後もあまり期待できません。
経済優先・生活優先の意識があるかぎり悪化の一歩をたどる事は明白です。
しかも地球温暖化で気候・気流や海流も変化しているので、その影響でこれからどんな異変が起きるか計り知れません。

人間関係での裏切りはマスコミ・ニュースに現れている通りです。
事実どんな対策を用いても止まるどころかエスカレートしています。
それでも自分は大丈夫だと思っている人が大勢いると思いますが、裏切りの偽善を持っていることに変わりはありませんから、いつ何処で何が起きても当然・必然です。
良い悪いで分離判断する原因を持っている限り、その原因と結果は離れていないからです。
自分中心の尺度で計り、自分に都合がいい良い方を選んで悪いほうを排除する偽善者である限り、何をしても裏切りが繰り返されるだけです。
人類有史以来の出来事と同じことが拡大発展して繰り返しているだけです。

だから、私たち人間である意識をリセット・維新・改革しなければならない「時」は今しかありません。もう二度と人類史上にチャンスはありません。人間にとって最初で最後です。
有史以来<初>の「良い悪い」を持たない完全真理を説く人が事実に現れたことをおろそかにしていれば(否定反発していれば)、時の流れ(宇宙の流れ)に乗れないばかりか、三次元意識のままで辿り着く場所が人間失格の居場所になるやもしれません。

個人意識・偽善関係の経済・生活が先なのか? あるがままの愛、お蔭様の感謝の心・意識で生きていくのか! いずれにしろ「自分の思い通り」に生きられるのが私たち人間です。

「ある」ものを「持つ」のは執着になる

2008年06月19日 | Weblog
人は意識で生きていますから、意識のあり方次第でとらえ方・思いや行動が違ってきます。
<あるがまま>に「ある」は実在・事実を表しますが、「持つ」は自分のものという個人意識の執着になります。 だから、持って握り締める、持って抱え込む、から「守り」にもなります。
だから、自分のものや国のものを守る意識が比較競争や奪い合う戦争にもなります。

自分が「持つ」という意識ではなくて、皆に必要だから「ある」ものとして意識すれば、こだわり執着せずに、あるものだからいつでも使えるし、いつでも手放せます。
衣食住もそうです、元々は皆のためにある地球にあるものから作られたものだから、自分のものでもあるが皆のものでもあるのです。だから手放すことも出来るのです。
お金もそうですから、お金を持つ意識になればお金に執着しますが、手元にお金があるという意識であれば、必要なだけいつでも使えるし、必要とあればいつでも手放せます。 

不平不満の思いを「持つ」のも執着ですから、それが原因で愚痴や小言から怒りや不安・嫉妬復讐心から戦争やテロにもなりますが、不平不満の心が「ある」のも人間だからと認めてしまえばこだわり執着しなくなりますから、不平不満に思っても直ぐに忘れることが出来ます。すなわち不平不満を持って握り締め抱え込む執着がなくなります。

同じく、優劣に思う劣等感や優越感を持てば執着になります。
人が優劣に思うこともあるが、そこでプライド(優越感・劣等感)を持ってしまえばなかなか抜けられません。 そして劣等感のある人も優越感のある人も共に言い訳正当化することが多くなり、自己満足や自己主張して自己顕示することが多くなります。
すなわち表裏一体ですから、劣等感を持つ(執着する)とプライドが出てきます。だから自己主張・自己顕示する人は劣等感も強いしプライドの高い人でもあります。 すなわち劣等感と優越感の両方を抱え込んで見栄や世間体を気にしすぎて生きているのです。

人を責め自分を責め、愚痴や小言、言い訳、正当化、自己満足、自己主張、自己顕示、優越感や劣等感、不信感、不安心配恐怖、怒り、ジェラシーや復讐心、こだわり執着未練から、奪い合う競争心や戦争意識などを持つに至るのも、あらゆる事故や事件の被害者・加害者も、病で倒れるのも、自殺をするのも、これらのあらゆる肉体的・精神的・感情的に現れている現象の原因が、不平不満が原因ではじまっていることなのです。 これらを別々なものと分離して捉え思い勘違いしている人が多いが、原因と結果が離れていないように「すべて」は離れていないのです。
そして不平不満の原因が「良い悪い」善悪優劣損得で分離判断する自分中心の個人意識にあるのです。
すなわち、原因である「良い悪い」で分離判断しなくなれば自由平等平和になれるのです。
「あるがまま」にある宇宙・自然界と同じ愛意識になるのです。
「すべてはひとつ」の宇宙意識・神意識になれるのです。

守り意識に自由平等平和はない

2008年06月18日 | Weblog
皆が自己中心の個人意識の偽善者ですから、国家社会や宗教であれ、職場や世間であれ、夫婦や親子であっても、自分の都合次第でいつでも裏切ることができる偽善者集団が今の私たちですから、その不信感・不安が最高に達しているのが現在です。

その私達が良い悪いで分離判断しなくなれば、善悪優劣損得で判断して不平不満を持つ原因も無くなり、原因が無ければ結果も無くなりますから、善悪優劣損得で腹を立てて怒ったり、善悪優劣損得で不安になることありません。 そして不安(不信感・恐れ)が無ければ「守る」ことも必要なくなり、自由平等平和な生活になっていくのです。

不安があって守ろうとするから自由平等平和にならないのです。
守ろうとするから、戦うのです。
守ろうとするから、束縛制限・規制が必要になるのです。
守ろうとするから、分け隔てる差別が必要になるのです。

その不安があるから不信感を持つのです。
その不安・不信感を持っているから心安らかになれないのです。
だから不安から一時的に逃れるために趣味嗜好娯楽・刺激や満足感が必要になるのです。
ところがその趣味嗜好娯楽・刺激が原因で更に不平不満や怒り不安が拡大して欲求不満になり、更にそれ以上の刺激や満足感を追い求めすぎて自己拡大していくことになります。
だからあれもこれもと欲張ってやっている人ほど刺激や満足を欲しがっているのかもしれません。

不安が少ないほど満足が多いから必要以上に求めません。
不安が多いほど満足が少ないから欲求不満になります。
その欲求不満を自己満足で補うことになり、その自分が主人公になることで自己満足し自己主張・自己顕示することにもなります。 すなわち頭の中にある不安から逃避するためには、その頭の中に何か別な意識(趣味嗜好娯楽・刺激・問題意識)を抱え込んで頭の中の恐怖・不安を覆い隠す必要があり、さもなければ不安恐怖で生きた心地がしないのです。
だから恐怖・不安を打ち消してくれそうな形に生き甲斐を「求めて」いるのです。

いま与えられているものに満足していれば不平不満・不安恐怖・怒り嫉妬を持たなくて済むのです。 心安らかになれるのです。
自分に出来ることなら苦労もしないが、大した事をするほど苦労がついて回ります。 俗に言う波乱万丈も修行も「己の欲」が原因の結果です。 原因と結果は離れていません。
だから苦労して得たものは欲の儀善だから本物ではありません。 本物は元々から持っているものです。その持っている本物に気付き、ただそれを自然に出せばいいのです。 それが個性です。
良い悪いで判断しないで、持っている個性で生きることが神・愛であり、人間という三次元の形を持った意識体に課せられた役割使命です。 

自殺(自殺願望)と、命(意識)の真理

2008年06月09日 | Weblog
自殺(自殺願望)と、命(意識)の真理
自殺願望・意識は、自分勝手な思いに理由・言い訳・正当化をして、早く人間を終えたいと思って自殺をする「人間放棄」を選んだ意識ですから、不完全・未熟な意識で終えたのとは違い二度と人間の意識を持った「命」に生まれ変わることはありません。

人間は意識体であり、その意識を表現する手段に肉体という表現体を持っているのです。
だから表現体である肉体の死があっても意識体は永遠に生き続けます。
だから自殺によって肉体が死んでも意識体は死にません、肉体から離れるだけです。
だから自殺によって肉体の痛い痒い疲れが消えても自殺に至る意識は消えません。
だから自殺に至る意識はしっかりと持ったまま三次元界で漂います。
俗に言う4次元以上の霊界にいけないのです。
俗に言う成仏できないのです。成仏できなければ輪廻転生はありません。

自殺した当時の意識を持ったままに、命・魂・心といわれる「意識体」で永遠に存在し続けなければなりません。
すなわち、自殺して死んでも、自殺に至る原因である意識は消えないのです。
自殺に至った意識・原因をしっかりと持って、ただ肉体から離れるだけです。

昔の人がいう「死んで楽になる」というのは、生きるための衣食住が不要になるからです。貧困の生活から開放される事を言っていたのかな? しかも成仏と言っても、自分の肉体が終わった事を知る程度で、心・魂・意識の開放・救いを言っていることではありません。 

自殺しても、自殺でなくても、持っている意識は救われないのです。
死ぬときに、自分に都合がいいように他力本願の神仏に願っても、自分の意識はいっさい変わりません。 誰も自殺に至る原因である意識を解消してくれません。 楽になるのは重たい肉体を捨てて物理的に楽になるだけです。 意識は楽になりません。
だから自殺をしても、意識・命が救われ助かることも救い助けてくれることもありません。

自らが自殺に至る意識を変えていかなければ、人間で生きていても、死んでいても、大差ありません。
しかし自殺を思いとどまり、意識が元の原因が解消されないままに生き長らえている方が、いつか救われ助かるチャンスはあります。
だから死ねば「もと糞も無い」といわれます。 
しかし自殺となれば、有る様で無い闇の中でさ迷い続け・・・どうしたのだろう? 何でだろう? どうなったの? さっぱりわからない?・・・何にもわからないままの(判断できない)意識体で生き続けることになるでしょう・・・

自殺でなくても、病的な死も、事故などの死も、大方の原因は意識が原因で結果が肉体の死です。 死んだも同然のうつ病・精神病で意識がさ迷うのも、原因は意識にあり結果が症状です。 すべての結果は原因である意識が表現されたことです。 原因と結果は離れていません。

だから、自分の都合(善悪・優劣・損得の判断)で不平不満に思う意識を無くしていかない限り、不平不満・不安心配・怒り・嫉妬・報復復讐の心・意識は解消・解決できません。
だから肉体で生きていても、肉体が死んでいても、意識は同じようなものです。
だから、人間が意識体であり、その意識を表現するのが肉体である事を知らなければ、肉体・表現体の死を恐れたり軽軽しく思ったり、死を尊んだり蔑んだり、死を善悪優劣損得で判断する意識から離れることは出来ません。

意識が命であり、その意識が原因で、ありとあらゆる問題意識や症例・症状・状況・環境・居場所が見える結果としで現れているのです。
そして表れた結果・事実を見て原因を見極めるだけの意識になり、すべてを意識の面で見るのです。いくら結果をこね回してもダメな事を「知る」のです。
だから、この世で初の最後となる山田耕栄さんの完全真理を知ることなのです。



人間は意識体ですから、意識がすべてです。

2008年06月03日 | Weblog
人間は意識体です。意識が人間と言う衣を着て表現しているのが人間界です。
人間は意識で生きているのです。人間という衣・形は意識の表現体です。
人間に限らず万物はすべて意識体です。すなわち意識体が表現体・形を持っているのです。

だから意識が大切なのです。すべては意識なのです。見える形ではないのです。
人間と言う形・肉体・表現体が死んでも意識・命は実在し続けます。万物も同じです。
そして学びきれなかった愛を学びに再び輪廻転生してくることができるのです。
地球で愛を学ぶのが人間の使命なのです。三次元の形ある衣食住や名・権・財や趣味嗜好娯楽の為に人間として生まれているのではありません。万物のお蔭様の力・エネルギーを借りながら、人間同士がお互い様となって、万物共に愛を学んで意識・次元を高めるのが命・意識体の役割使命です。それが一体となったのが地球の役割使命であったり、原因である宇宙の役割使命であったりすのかも・・・

人間と言う表現体を大事に思ったり、生きていくための物理的な形や組織的な形のことを大事に思うのは、意識と言う原因を見ないで現れた結果を見ているのです。
戦争やテロ、地球温暖化、犯罪や事故などからテレビゲームの依存症やメール依存症や携帯電話の悪質サイトにしても、それらの問題の原因が全部意識にあるのです。
食糧問題、貧困問題、差別・格差問題、フリーターやワーキングプア、いじめやストーカー・セクハラにしても意識に原因があって、その意識が形に表現されているだけです。
だから、数々の問題を取り上げて対策を議論することではなくて、大元の意識のあり方・真理を学ぶ方が解決しやすいのです。 それが形になったのが宗教・経典であったり思想哲学などの学問であったりしますが、言うだけで実践が乏しく、しかも自分に都合がいいように良い悪いで分離判断する個人意識が元ですから矛盾が多く、その白黒の決着を付けるのが競争であり戦いであり戦争であり、賛否両論を中途半端に妥協するというと言う形です。

良い悪いの裏表の矛盾から表現されたあらゆる形・問題を解決するための施策や方法論に、これまた良い悪いで分離判断する個人意識を使っても何ら解決しないのです。
自分が中心の個人意識で自己主張・自己顕示してさらにややこしくなり、競争闘争紛争が激化することになるだけです。
だから良い悪いで分離判断している個人意識を捨てていかなければならないのです。

根本的な解決に至らない問題を云々言うよりも、問題を問題視することよりも、あるがままに事実を見て(不平不満を持たないで)、その原因である意識・個人意識を捨てていく努力がなければなりません。 
意識が原因で表れ出た結果を問題に思い、その問題を指摘して他の力を求めることや、起きてしまった問題・過去の出来事を云々言うよりも、先ずは自分が先になって良い悪いの分離意識を捨てる自己縮小の実践をやるのです。やれば必ず判ってくるのです。やらないから判らないのです。
だからいつも良い悪いで判断した矛盾のある中途半端ないい加減な学問知識や見聞体験を表に出して来て、私は正しい事を言っている、私は正しい事をしていると自惚れ、自己満足・自己主張・自己顕示することになるのです。
現れ出た結果やその先々の予測される形(非実在)のことを云々ではないのです、先に意識が元でなければ一歩も進むことは出来ません。同じ事を繰り返す議論や輪廻が続くだけで進歩はありません。