孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不平不満・私は正しいの自己主張と自己拡大、小さな喜び・満足の自己縮小の愛の真実・愛の真理

2009年09月30日 | Weblog
不平不満・私は正しいの自己主張と自己拡大、小さな喜び・満足の自己縮小の愛の真実・愛の真理

喧嘩も戦争も「不平不満」が原因で始まっています。
・・・すなわち不平不満が無ければ喧嘩も戦争も始まりません。
その不平不満を自己主張・自己顕示・誇示しなければ大きな問題にはなりません。

その自己主張・自己顕示・誇示の原因は「私は正しい」から始まっています。
・・・すなわち私は正しいが無ければ喧嘩も戦争にもなりません。

その「不平不満」も「私は正しい」も良い悪い(善悪・優劣・損得)の判断から始まっています。
・・・それ以外に原因は有りません。

そして「私」を出して自己主張・顕示・誇示することからすべての問題が起きています。
その「私」を主張するのも、自分さえ良ければの「良いとこ取り」をしたいからです。
・・・自分に都合が悪いことを排除したがり、自分に都合が良い事をしたがるからです。
・・・その主張顕示誇示した問題が更に拡大するのも「私は正しい」が拡大したものです。
その「私は正しい」が自己拡大につながり、問題拡大にもつながっています。

そして「私が正しい」と思っているからこそ、自らが<行動・表現>することが出来ています。
・・・間違ったこと(悪いこと)はしたくないはずですから・・・
また、あれはダメこれはダメと評価判断したり、それを人に指図したり押し付けるのも自分は「正しい」と自信があるからです。
・・・すなわち「私は正しい」が裏づけになっているから、自己拡大で心強く生きています。
・・・街頭や演壇や現場で己の形を主張・布教・宣伝するのも、私は正しいを強く持っているからです。
そして「己の意」に沿わない結果が出たり形があると不平不満に思ったり否定反発・拒否拒絶したがります。

だから・・・思想主義や派閥系統宗派を固守したり、抗争・闘争になったり、侵略・戦争や報復制裁やテロ・自爆テロになるのも、必ず「私は正しい」の思い・主張顕示誇示が原因にあります。

そして・・・小さな結果より大きな結果を望むのも、小さな喜びより大きな喜びを得たがるのも、それが<欲>です。
その欲も・・・元は小さな欲から始まって・・・次々と(歴史と共に)拡大してきました。
すなわち・・・必然で与えられたものに「満足」できなかったこと(特別を求めすぎた)
また・・・与えられるまで「待て」なかった(急ぎ慌てすぎた)
その不平不満と欲が「原因」でもあり「結果」でもあります。

その・・・不平不満・欲が拡大して行くのが自己拡大であり
その・・・自己拡大した私は正しい・・・が比例して大きな問題に拡大している原因でもあります。
だから・・・この世のすべての問題・・・例えば不自由・不平等・格差・差別・戦争・テロ・報復・制裁や搾取・策略や裏切り・使い捨て・切捨て人間関係などで、良いとこ取りする加害者になったり良いとこ取りされて被害者側にもなっていることから、お互い様の関係/騙し合い・裏切り合う関係であるのに、その片側の被害者の立場に思えるときは大いにその被害者側を主張したがるのも「私が正しい」と言う強い思いがあるからです。

だから<自己縮小の実践>が言われているのです。
その自己縮小が「良い悪い」を持たないという(この世で初の)完全真理なのです。

★「私は正しい」は良い悪いの判断から出ることですが、善悪の判断・裏表の無い「真実・事実」は<愛>です。
・・・すなわち、良い悪いで判断しなければ・・・すべての結果・事実が愛になり
・・・お陰様の感謝の愛や互いに認め合い許し合う愛の「お陰様」や「お互い様」の<愛>になります。

結果を気にする人生、困難な山や谷のある人生、自己拡大と自己満足の人生を歩む個人意識の原因と結果

2009年09月27日 | Weblog
この世は・・・「原因」が無ければ絶対に「結果」は出ません。
すなわち結果が出ると言うことは・・・その結果の見えない裏側に原因が実在していることになります。
そうすると、見えない「原因が実在」するものになりますから、当然ながら結果はその原因の産物・副産物になりますから、その原因が変わらない限り結果・産物を変えることは出来ません。

★その<原因>が・・・宇宙・万物がもっている・・・神や愛とも言われる「意識」であり「命」と言われるものであり、その意識・命には生命力・エネルギーがあります。 それを全知全能の愛や神の意識エネルギー・常温核融合エネルギー・宇宙エネルギーとも言いますが、概ね「意識エネルギー」と表しています。

ところがこの世はどうでしょう・・・結果がすべての結果主義の世界になっていますから(良い悪いで判断しているから)、今現れている結果を原因にして、その結果を更に変化させるためにその結果原因を探り見て判断し善処・対処したがります。
だから時代が幾度と無く進化しても大元の原因・意識はまったく変わらないから・・・昔さながらの不自由・不平等の差別や戦争が同じように繰り返されて今も絶えないのです。

世間体や見栄を気にするのも結果を気にしているからです。
衣食住や名誉名声・権威権力を持ちたがるのも、その結果を重視しているからです。
成績・業績の結果を出して残したがるのも、その結果を重視しているからです。
また趣味嗜好娯楽も結果を求めていると比較競争・差別することになります。
すなわち喜怒哀楽や生老病死の結果を気にする生き方になります。

その「結果」を気にしない生き方が自己縮小につながりますが、反対に結果を気にしていれば・・・その結果に関係なく・・・良いとこ取りの自己拡大で生きている事になります。
すなわち「良い悪い」で判断して、自分に都合が悪いことを排除したがり、自分に都合が良いことだけの「良いとこ取り」をしている生き方を自己拡大と言います。

そして自己拡大で生きていると実在の「価値」ではなくて己の価値観で判断していますから、差が出てきて一律一定ではなくなり、多い少ない・大きい小さい・上下・左右などと良い悪いの裏表・矛盾のある判断・価値観によって、山や谷のある喜怒哀楽・波乱万丈・生老病死の結果を選んだ生き方になりますから、絶対に心が安らぎ落ち着いた生活になる筈もありません。
だから「今」に満足することも無く、先ほどのような「結果」を気にした生き方で得られる単なる自己満足の結果を自慢して(私は正しい結果を出したと)主張・顕示することを支えにしなければ・・・「生きて」いくことさえもままなりません。

しかも、怪我したり病気になるのも意識が原因だと思わないから、その病気や怪我を自力の意識力・生命力で治すことより、医者や薬の他力のお陰で治したがりますから、いつまでたっても元の原因・意識に気付き反省することは出来ません。
さらに、その他力で思うような結果が出なければ不平不満になったり、もっと早く大きな結果が出るものを捜し求めることにもなります。

そして結果に拘り未練・執着していると自縛・束縛制限支配された生き方になります。
だから生きていても、今を生きている気がしないのです。
だから心から満足できないままに一時の自己満足を次々と欲しがる繰り返しや、今よりも大きい満足を欲しがる欲望・野望の生き方になり、更に困難な山や谷のある人生・自己拡大と自己満足の人生を歩むことにもなっているのです。


結果を予測・期待しない、求めない、気にしない、「あるがまま」に生きる自己縮小

2009年09月25日 | Weblog
この世は・・・「原因」が無ければ絶対に「結果」は出ません。
すなわち結果が出ると言うことは・・・その結果の見えない裏側に原因が実在していることになります。
そうすると、見えない「原因が実在」するものになり、当然ながら結果はその原因の産物・副産物ですから、その原因が変わらない限り結果・産物を変えることは出来ません。

★その<原因>が・・・宇宙・万物がもっている・・・神や愛とも言われる「意識」であり「命」と言われるものであり、その意識・命には生命力・エネルギーが出ています。 それを全知全能の愛や神の意識エネルギー・常温核融合エネルギー・宇宙エネルギーとも言いますが、概ね「意識エネルギー」と表しています。

ところがこの世はどうでしょう・・・結果がすべての結果主義の世界になっていますから(良い悪いで判断しているから)、今現れている結果を原因にして(現れた結果を原因にして探り見て)判断し善処・対処したがります。
だから時代が幾度と無く進化しても大元の原因・意識はまったく変わらないから・・・昔と形は変わっても不自由・不平等の差別や戦争が同じように繰り返されて絶えないのです。

世間体や見栄を気にするのも結果を気にしているからです。
衣食住や名誉名声・権威権力を持ちたがるのも、その結果を重視しているからです。
成績・業績の結果を出して残したがるのも、その結果を重視しているからです。
また趣味嗜好娯楽も結果を求めていると比較競争・差別することになります。
すなわち喜怒哀楽や生老病死の(矛盾や差のある)結果を気にする生き方になります。

その「結果」を気にしない生き方が自己縮小につながりますが、反対に結果を気にしていれば・・・その結果が良かれ悪しかれ・・・良いとこ取りの自己拡大で生きている事になります。
すなわち「良い悪い」で判断して、自分に都合が悪いことを排除したがり、自分に都合が良いことだけの「良いとこ取り」をしている生き方を自己拡大と言えます。

そして自己拡大で生きていると実在・事実の「価値」(あるがまま)ではなくて己の価値観で判断していますから、そこに差が出てきて一律一定ではなくなり、多かったり少なかったり・大きかったり小さかったり・上下・左右などと良い悪いの裏表・矛盾のある判断・価値観によって、平坦ではない山や谷のある喜怒哀楽・生老病死・艱難辛苦・波乱万丈の結果を選んだ生き方になりますから、日々忙しく動き回り落ち着いた生活・安定した生活になる筈もありません。
だから「今」に満足することも無く、先ほどのような「結果」を気にした生き方で得られる単なる自己満足の結果を自慢して(私は正しい結果を出したと)主張・顕示することを生き甲斐・支えにしなければ・・・「生きて」いくことさえもままなりません。

しかも、怪我したり病気になるのも意識が原因だと思わないから、その病気や怪我を自力の意識力・生命力で治すことより、良いとこ取りした不完全な科学医学の他力で治したがりますから、いつまでたっても元の原因・意識に気付き反省することは出来ません。
さらに、他力で思うような結果が出なければ不平不満になったり、もっと早く大きな結果が出るものを捜し求めることにもなります。

また、事実として現れた結果であっても、それはもう過去のことですから、記憶・記録に残っていても非実在になります。
また、その結果に拘っていると未練執着になり非実在の過去や未来を背負った重苦しい生き方になりますが、非実在の結果・過去を気にしなくなれば見栄や世間体やしがらみ等が気にならなくなり、心軽やか・身軽な気分で気長・気楽に生きることが出来ます。

ところが比較競争・差別が原因の自己拡大で生きることが人間として「正しい」生き方と思っているから、不自由不平等の差別や人殺し戦争が絶えないばかりか、自らの生活が束縛制限されて重苦しく窮屈な形や不信感の裏切り関係や裏表の矛盾関係で生きることになりますから、喜怒哀楽・生老病死や裏切りの結果や矛盾に悩み迷う苦悩の生き方になって楽しいはずはありません。
せいぜい自己満足したり、それを主張や顕示するのが精一杯な不自由・不平等・差別の生き方になることでしょう・・・

「この世」は<結果>であり、大元の原因は<意識>にあることを知れば「意識改革」「自己縮小」が進みます

2009年09月20日 | Weblog
今の姿形で見える宇宙・地球、その万物・人間も自らの「意識」で動いている「意識体」ですから、意識が「原因」であってその姿形は表現された「結果」にしか過ぎません。
その原因の「意識」には永遠の「命」がありますから、その原因の結果である表現体の姿形が滅びてなくなっても、その「意識・命」は永遠に<実在>し続けることが出来ます。

すなわち、始まりなき終わりなき完全な宇宙の愛意識エネルギーから創造されたすべてのもの、宇宙や神と言われる全知全能の愛意識エネルギーから創造された宇宙・地球・人間・万物として実在するものにも、同じ愛「意識・命」を持っています。
ゆえに・・・宇宙万物すべてが愛であり、その愛(意識)から全知全能の生み出す力・エネルギーが出ています。
だから・・・今も宇宙万物が(愛の意識エネルギーによって)進化拡大し続けることが出来るのです。

そして人間の場合は・・・意識したことが(意識の力・エネルギーが)身体に伝わることから・・・その身体を使って行為表現することができます。 しかし何も意識しなければ肉体は働きませんから(死体同様になり)、そこに姿形の肉体が有っても無いのと同じだから<非実在>となるのです。
すなわち「意識・命」が本命の実在であり愛ですから、二番目の姿形は表現するための仮の姿・道具にしかすぎません。

その意識のことを分かりやすく説明すると・・・家族団らんでTVを見ている形があっても、TV画面に意識がいっている時に家族のことは意識にありませんから、家族が身近にいても(実在していても)非実在になります。
また恋人同士が接し触れ合っているときは愛・意識を感じますが、その格好・形が同じであっても意識が別なところに行っていれば、恋人と触れ合っている愛・意識はありませんから(接し触れ合って居ても意識・実感していないから)、直近に居るけれど居ないのと同じになり、実在しているけれど実在していない格好・形になります。

そして人間は・・・実在で生きている今が過去や未来とつながっていれば・・・過去と未来は今の実在・意識とは違って頭の中の「記憶」「思い」ですから、その過去や未来に執着していれば非実在で生きている事になります。
だから、過去未来ではない今の時間を生きていることが「今を実在で生きる」「愛に生きる」ことになりますが、過去の事に未練執着したり未来の事に執着していれば、それは頭の中の思いですから非実在(空想・想像の世界)で生きている事になります。
すなわち、意識したことを実際に行為表現するする事で実在・愛の事実になりますが、単に頭で「思う」だけでは行為表現が無いから非実在になります。

また先ほどの人間と同様に・・・「この世」と言われる人間界も、元々の「原因」である意識・命が仮の姿形となって表現されている「結果の世界」になりますから、この世は「原因が結果」となって表れている結果にしかすぎません。

ところで、その原因となる意識・命の居場所としての見えない「あの世」と言われる次元世界があることを世界中の様々な宗教で言われていて、実際にそれを信じて信仰している人や生活慣習や伝統風習にしている人が大勢居ますが・・・ ところがそれとは裏腹の「あの世」では必要ないはずの衣食住や財・名誉名声・権威権力にとらわれて、それらを得たい欲得の思い思惑・目的理想(非実在)で生きようとしています。
たぶん・・・非実在の結果の「この世」にある非実在の形・敬称である肩書・名声を持つと「あの世」でも身分階級が高いところで居れると思う間違った宗教観念・概念を教えられて信じている人が居るかもしれませんが、それは競争・差別意識ですから到底ながら「あの世」「愛意識の世界」で受け入れられ歓迎されるはずもありません。
また・・・神仏を信じ、お祈りを重ね、人が喜ぶ善行を重ねたりすれば、やがて神や仏の世界に行けるという「先々の結果」を予測期待したりする思い思惑・目的・理想でやっていることであれば・・・それは有りもしない非実在で生きていることであり、勘違いした神仏を信じている偽善であり、自分さえ良ければの欲で非実在を求めているのですから、到底ながら今を生きる実在・愛で生きていることにはなりません。
だから現実に「あの世」へ行ったときに・・・あれだけ頑張ったのに・・・まさか何で私が・・・と後悔する事になります。

「この世」は表現され形作られたた結果ですから、結果・形は実在ではなくて、その結果形の原因となる「意識」「命」「愛」が実在するものですから・・・原因の意識から出て現れた結果を「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断さえしなければ・・・すべてが愛になります。
だから・・・そのまま、このままの「あるがまま」が愛・意識なのです。
だから・・・判断せずに「当たり前」「必然」でやっていることが愛になります。
しかし・・・自分の思いを込めた愛の思いは愛情になり、実在の愛とは違った(非実在の)形の表現になりやすく、その形で表現されたものには必ず束縛制限支配したがる思い思惑・期待が込められています。
だから・・・恋人や家族などの愛情関係は互いを束縛制限支配しあう不自由・不平等の関係ですから、互いの思い思惑期待を裏切る「裏切り関係」で成り立っていることになります。

だから、己の思いのこもった愛情を与え求めることよりも・・・あるがままの愛、当たり前の愛、小さな喜び・愛に気付き、心から満足し感謝できる生き方に意識改革・自己縮小する必要があるのです。
★そして「この世」は<結果>であり、大元の原因は<意識>にあることを知れば「意識改革」「自己縮小」が進みます。

人間にもっとも必要な小さな喜び・満足を損なっているのが「欲」です

2009年09月15日 | Weblog
「欲」を持っていると色んな問題に巻き込まれやすくなります。
例えば、嘘話しに騙されて苦痛・苦汁を味わうのも、金銭物質の詐欺で損をするのも、何らかの欲な心が原因にあります。
だから特別な秘宝・埋蔵・宝探しで騙されるのも、儲け話の融資や投資で騙されるのも、自分が得をしたい欲があったからです。
また、お金に困っている人を助ける思いから低金利や無金利で金を貸して結果的に損をすることになるのも・・・善行・良いことをすれば何かの形で見返りがあると欲張り期待していたり、人助け・救世主に思いたがる欲や善人ぶって己の野心・野望を叶えたい欲が潜んでいたりするからです。
また、医者や薬で何らかの被害に遭うのも、苦痛を和らげて欲しい欲や早く治してもらいたい欲が絡んでのことです。
また、信仰や宗教や神頼みで騙され損をするのも、何らかの思惑・望み・野望の欲を持っていたからです。

そして欲を持っていると、騙される心配から「不信感」を持つことにもなります。
しかも自分の知らない「見えない世界」のことになると更に不信感が強くなりますから、実在する神やその真理の話はもとより、UFO目撃や異次元現象・奇跡現象などの話を反発否定したがる人がいます。
自分が知らないだけなのかもしれないのだから(反発否定することでもないのに)、ところが常日頃から人に騙される心配をしていることからか(親子家族・友人知人の話であっても)自分が知らないことは不信感を持ったり反発否定したがるのです。
・・・自分の知らないことを認めたら・・・知っている相手が優位に思われ、知らない自分が劣る立場に思い、自分のプライドを損って損をするかのように思うのかもしれませんが・・・

完全真理で言われる良い悪いで判断して自分に都合が良い「良いとこ取り」をする<欲>が少なくなるほど・・・鵜呑み丸呑みの自己暗示他者暗示や洗脳などで惑わされることもなくなり、また自らが人を惑わすことも無く、信頼・安心安全の安定した生き方が出来るようになります。
言い換えれば・・・欲が多いから不安心配・怒り・苦悩・苦汁を味わう生き方が続くのです。
それを損得で言い換えれば・・・欲を出して得をしているのではなくて、(欲に目がくらみ)「損」をしていることにまったく気付かないでいて、その事実をまったく知らないでいるのです。

また、欲が大きいほど喜びも大きくなければ気に入りません。
そればかりではありません、当たり前の中の小さな喜びが喜びでは無くなり、特別な差のある大きな喜びを探し追い求めることにもなり、それが叶わないと不平不満の原因にもなります。

反対に欲張ることも無く、常日頃の小さな喜びを確かに味わっていればそれで十分満足していますから、それ以上の大きな喜びを無理してまで欲しがり捜し求め・欲張らなくなりますから、その分だけ無理の無い気軽な生き方で十分満足した生活になります。
だから無駄の無い質素倹約なエコ生活を強調したり特別に目指さなくても元からその生活が当たり前に実践されていますし、比較競争して「隣の芝生」をうらやむことも無く、また威張ることも蔑むことも無く、浮き沈みも無く、平々凡々と安らかに暮らしていけます。
それを損得で言えば・・・楽をして得(喜び満足)をしていることになるのですが・・・それを否定的に捉えているのは「事実・真実」を知らないからです。

そして、喜び・満足に大きい小さいはありません。 喜びは喜びであり満足は満足にかわりはありません。
ところが大きな喜び満足に思えるのは自分の思い・価値観が入っているからです。
例えば難関を切り抜けよく頑張ったとか、艱難辛苦に耐えたとか、人並み以上のことをしたという自惚れ慢心が価値観を高めて大きな値打ち評価にして差を付けているのであって、それは特別な自惚れの喜び満足であり、他と差を付けたがる差別意識から出ていることにもなり、その価値観や差を自己主張・自己顕示・誇示することにもなりますから、心穏やかな喜びや安らぎの満足にはならずして、常に欲張り続け苦労し続けることにもなります。

しかも世間では苦労をしているからこそ大きな喜びがあると言われているから、(その苦労を買ってでも)大きな苦労をして得る特別な差のある価値観の高い喜び満足を得ようと無理していますから・・・どうしても日常生活の中にある当たり前の小さな喜び満足に気付けないでいるのです。
★その結果★ たとえ名誉名声権威権力や財を持ったとしても(この世で名を残しても)・・・人間の肉体が滅びて「永遠の命・意識」が実在する(あの世と言われる)意識の世界・意識次元へ行ったときに・・・人間としての優しさ思いやり感謝の愛の心を学んでいなければ・・・私が真坂こんなことになるとは、何で私が・・・と、しきりに後悔することになりますが、もう手遅れですからどうしょうもありませんことを付け加えておきます。

また生活に必要な収入を得る仕事も価値観・差は無く自由平等ですから、高度な仕事であれ単純な仕事であれ、違いはあっても仕事(役割)は仕事なのですから、自分に与えられた仕事・役割を果たしていればそれで十分なのです。
ところが、その仕事に(欲から出た)価値観や差を付けることから仕事に差が表れ、その仕事の喜び満足にも差が表れ出て(自己拡大に進み)、それが比較競争の差別(不自由・不平等)不平不満の原因にもなっているのです。

だから、自分に似合った仕事・役割であってもなくても、また誰にでも出来そうな単純な作業の繰り返しであってもなくても、その仕事の価値観や差を持たなければ何も無理することも無くなり、自分の今の役割・仕事をすることで生活に必要な「収入が得られる喜び」を味わえるのです。 そして自分の収入に見合った生活ぶりを心から喜び楽しんでいれば欲(思惑・理想)が無くなり(自己縮小され)、優しさ思いやり感謝の愛の意識に目覚める時が来ると思います。